「リツ君、嵯峨君が来てくれたけど?」
師長さんがそう言って静かにそこに置かれているベッドの近くに寄って告げるとリツが目だけ俺の方を向けた。
そこに居たのはやはりリツだった。
その視線があまりにも弱々しくて喉がつまって吸った息を吐けない。
「ごめんなさい。来てもらって。」
リツの口元には透明の酸素吸入器がついていて、いつもにも増して悪い顔色で、俺の方に顔を向けるだけでも苦しそうだった。
ハッとして急ぎベッドサイドに駆け寄り手をぎゅっと握るとリツの指先が少しだけ震えていて、そして初めて触れたあの日より冷たく感じた。
「ごめん。びっくりさせた?」
その姿が痛々しすぎてそう言うとリツはいつものように笑おうとしているのがわかった。
でもその表情は口角をきゅっと締めただけでいつもとは違って笑えてなくて息苦しさだけが伝わる。
師長さんが俺たちを見て安心したのか「少しだけね。」と言って部屋から出て行った。 俺は後ろ姿を視線で追って見送っていると 「いつばい嘘つきました。」 とリツが弱々しい声で言う。
嘘・・・、どれが嘘でどこからが本当だったんだろう。
リツとは多くを語り合っていない。リツの嘘はむしろ俺にではなく自分自身に対してだったのではないのだろうか。
「俺があの嵯峨だっていつから知ってた?」
そう聞くと「かなり始めの方で。」とリツは仰向けのま小さくため息を吐きながら眉間に皺を寄せて言った。
「別にいいんだ、それは。でもびっくりしたから。病気だなんて・・・。」
いつもやわらかく笑っていたから、妖精のようにフワフワとした足取りだったからそんなことは夢にも思わなかった。
「サガ・・・、さんの前ではふつうの子みたいにしたかった・・・。」
リツがわざわざ『さん』を付けるのでどきりとした。そんな改まった言い方をするなんて距離が出来たみたいでイヤだ。
「さんなんて付けなくてもいい。いつものリツがいい。」
苦しくなって、少し強めにそう言うとリツは少しだけうれしそうに今度こそ本当に笑った。
「螺旋階段···。」 気になったことを言い出そうと唐突に話を始めるとリツがパチパチと瞬きをした。
俺が普段何も考えずにしている単なる会話、それさえも今の律には負担なのだと解る。リツは俺の言葉の続きを待っている。
筆談でも言葉は途切れ途切れだったけど律の瞳はいつも雄弁に語ってくれていた。だから俺たちは直接会ってさえも言葉を交わさずに時間をすごせたのだ。
そして、今の律の表情はいつものリツと変わりがなくて少しだけホッとした。
「蝶旋階段を下りたりして大丈夫だった?」
そう聞くと、とたんにリツの表情が曇って泣きそうな顔になる。俺はあの日からリツの姿が見えなくなったことが気になっていたんだ。
「降りるのは・・・、でも上るのは無理だった・・・。」
口元を覆っている透明の柔らかいカバーのような酸素を補助する器具を外したから少しだけ声が聞こえやすくなった。
しかし表情は懺悔するようで、眉間に皺を寄せていた。
「あそこから、あのあと動けなくて・・・、もうこれでやっと・・・、終われるかなって・・・、思った・・・。」
途切れ途切れだったけどリツが自力では上に戻れなかったことがそこから分かった。
独りよがりにリツを誘って俺がそのまま放置して帰ったあの時、薄暗い螺旋階段で俺が下りていく姿を見ながらリツはきっといろいろなことを考えていたのだろう。
生きることと死ぬこと、誰かに重荷を背負わせないような居なくなり方・・・。
何だか苦しい。なんで俺は蝶旋階段にリツを誘ったんだろう。
きっとそんな風に俺が思うことがリツへのプレッシャーになるのだろう。
リツが息をするのも辛そうだったからもうあまりしやべらないほうがいいのだろうと思って「明日も来ていい?」と聞くとリツは柔らかい笑顔で「きてくれるの?」と言う。
時々見せるこのやわらかい笑顔は『期待をしない』笑顔なんだな・・・。
拒絶ではなく受容。
何もしなくても、されなくても自分は大丈夫という無償の思いだ。
「来るよ。決まっているだろ。リツの事好きだから。一緒に居たい。」友達だもんと言おうとして言葉を止めた。だって俺はリツと友達のつもりじやないから・・・。
この想いの名前を俺はまだ知らない。知らなくてもいい。そう思ってリツにただ好きだからと、そう告げた。
▽
職場体験の三日の間、リツと散歩をしたかったけど座るというのは案外体力を使うようで、名残の枝垂れ桜を見たいなと思ったけどだめだった。
リツの熱は指先を温めなかったけど身体からは引かず。、不整脈がひどくて些細な刺激も良くないと言われた。
仕方がないので俺は手伝いが終了してからの夕刻、毎日リツを見舞った。
お年寄りの車椅子を押しての散歩で見つけた花や葉を携帯で写真に撮って来て見せたり、綺麗な画像の本を持ち込んだりした。
リツは青い海の写真が気に入ったようで、俺はそれをリツにプレゼントした。
何度も何度もそのツルツルの紙を撫でて、いつか本物を見たいとリツが目をキラキラと輝かせたけど、その些細な夢が切なくて俺は泣きたくなった。
俺が力ある大人だったらリツをそこに連れて行ってあげられるのに。
大人と子供の間の二人は夢しか語れない。
そしてリツにはその語る夢こそが本当にうたかたのような儚い想いなんだ・・・。
俺のリツへの想いとは裏腹に、俺とリツとの距離は相変わらずで、ポツリポツリとしかお互いのことを話せなかった。
リツの世界はあまりにも狭く、俺の世界は無機質だったから。
リツの祖父は学者で父も同じ。母親は俺の父親と同様に心臓血管外科の医師だったにも関わらずリツは心疾患を抱えて生まれて来てしまった。
その時の最良の医療を施されたけど、結局もう現在の医療ではできることのほとんどをやりつくしてしまった。現在は最後の治療のために準備を進めているという。
「最後の?」
「移植・・・。」
「心臓?」
「そうかな・・・。」
リツの表情からはそれを喜んでいるとは思えず不思議な気持ちをしていると
誰かが死んで俺が助かるって、治療をしたいって望むことって人の死を願ってるみたいでいやなんだと、りつがポツポツと言った。
「わざと人を殺めて奪うわけじゃないんだから、その人もリツの中で生きるって思えば。」
きっとみんながリツにそう言ったであろうことを俺はリツに言う。
だって、そう言うしかない。リツに生きて欲しいから。
「そうだね。それにドナーが現れるまで身体が持つかもわからないし・・・。」
りつが笑う。
なんでそんなに簡単にあきらめてしまうようなことを言うのかと思ったら少し腹が立った。
居なくならないで欲しいってみんな思ってるって言いたい。
でもきっと毎日俺にはわからないくらい痛かったり辛かったり苦しかったりするんだろう。
だから言えなかった。
このところ比較的安定していたので海外のその方面に持化した病院で治療を行ったほうがいいと言われていたこと。
リツの親はそのためにあちらとこちらをいったり来たりしていること。
海外に行ってしまったら治るまで日本には戻れず、それ故に安定していた今自宅に週末だけ帰宅することが赦されていたことなども話をしてくれた。
今が良いと言われていても自分の容態がその治療に耐えることなく終わる可能性の方が高いことをリツは知っていた。
このまま生まれてきた意味も見つけられないまま消えていく自分って何だろう?
リツはだからいつも妖精のように儚げだったのだろう・・・。
「学校に行くって嘘をついたのはサガと一緒に学校に行きたかったから。ごめんなさい。」
リツがつつつと涙を流す。
その横顔があまりにも綺麗で俺は思い切り抱きしめてしまった。
きっと行けるとか、必ず良くなるなんて気休めは言えない。誰よりもリツがそれを知っていたから言えない。
『今はここに居るだろ?』って感じてもらうことだけが俺にできる精いっぱいだと思いながら・・・。
「学校に行こうか。」
俺はまた壮大な計画を立てて実行することをリツに伝えた。
風がなくて雨ももちろん降ってない日がいい。
リツの体調がもう少し良くなったほうがいい。
そして俺が散歩の手伝いをすると申し出なければならない。
学校までは徒歩でも15分ぐらいだ。きっと1時間あれば少しなら見て回ることも出来るはず。
このやわらかい季節の今でなければそれはきっと出来ない・・・。
▽
その日は、あれから2週間ほど過ぎた連休前の穏やかな日だった。
学校の授業が短い火曜と木曜日、土曜と日曜は俺がリツを見舞える日だった。
そんな日曜日、いくつかの注意点をぎっちりと叩きこまれて俺はリツと散歩に出かけた。
リツの専用の車椅子は少しもたれかかれるように深くなっていて、呼吸を補助する器具もつけられていた。院内の遊歩道をぐるりと回るだけだと告げていたのにそれを俺たちは破るのだ。
でも不思議と疚しさはなくむしろ冒険にドキドキしていた。
学校や病院のある大通りは騒々しくて車の往来も激しい。
少し前まで締麗だった桜の街路樹は今は青々とした葉を広げていて、ハナミズキに主役の座を譲っている。
程なくしてすぐのところにある俺の通う学校に着き、門の横の小さい入り口から中に入った。
校舎、グランド、体育館、球戯場、比較的締麗な私立の学校にリツは目をきらきらと輝かせる。
リツは中学までは院内教室で勉強していたそうだけど年齢が高校生の年に達し、今はインターネットを使った通信制の勉強をしているのだそうだ。
しかし学校とは勉強を学ぶだけのものではない。友人とたわいない話に興じたり運動を楽しんだり・・・、しかしリツにはそのどちらも経験をすることは叶わなかった。
まあ、その環境に置かれている俺とて、その状況を享受できているわけではないのだけど、やれるのにやらないのと、やるやらないの選択肢がそもそも与えられていないのは別問題だろう。
リツの憧れはやはりささやか過ぎて胸が痛んだのだ。
リツがひどくはしやいでいる。
激しく身体を動かしたり大声をあげたりは体調の関係でできないけど身体から出る気が喜びで溢れていたようだ。
良かった。
リツがこんなにうれしそうにしているなんて、本当に良かった。
俺は満足感でいっばいで、病室に戻ったあとも冒険の余韻に浸った。
そしてリツがそれから少し変わってしまった。
▽
冒険を思い出す度に嬉しそうにはじけるような笑顔を見せてくれるのに、少しするとひどく苦しそうに沈んだ表情を見せるようになった。
今まで手に入れることの無かった憧れを目の当たりに見せられて、はっきりと自分がどんな位置にいるのかを知ってしまった。
今まで自分がいるこの場所しか知らなかったりつが自分に絶望するのはあっという間で必然だったのだ。
「ねえ、サガ・・・、青い海を見たい。」
りつがぽつりとそうつぶやいた。
夏が近いある日のことだった。
「母さんが準備が整ったら別の病院に俺を移すと言ってる。」
「準備?」
「ドナーを待つ・・・。」
それはリツの嫌っていた人の死を望む行為の具現化だった。
「もうサガと会えなくなる。」
俺が考えないようにしていることをリツが口にした。
「げ、元気になればいくらでも会えるよ。」
気休めだと、今まで言わなかったことを口にするとリツが目を伏せた。
「もう辛いのも痛いのも嫌だ・・・。どうせ手に入らないのに・・・。離れたくない・・・。」
リツが弱音を吐くのを初めて聞いた。
不整脈に、梗塞に苦しんで自分の唇を噛み切ることがあってもそんなことは言わなかった。
だからこれが本当にリツの本音だと分かった。
「死にたくなったら言ってって、前に言ったよね・・・。」
それはあの螺旋階段で初めて触れ合った日のことだ。
俺はそれを片時も忘れてはいなかった。
いつかリツがそれを口にするとどこかで感じていたから・・・。
「死にたい?」
「わからない。」
「ずっと思ってたことだけどあえて言わせてもらうと、リツが死ぬなら俺も行くよ、一緒に・・・。」
妙に気持ちの落ち着いていた俺は淡々とリツにそう告げた。
そして俺の言葉にリツは少しも驚く風でもなく「そう言ってくれると思ってた。」と久しぶりに晴れやかに笑ったのだった。
リツが私物を入れてあるポーチをベッドの横の引き出しから取り出し、中から小さい巾着を取り出して中身を見せる。
そこにはジャラジャラとしたタブレット錠剤が銀色のプラスティックの入れ物に整然と並んでいた。
「血圧を下げる薬なんだ・・・。」
「血圧?」
「前にね、認知症のおばあさんが毎日捨てるのをこっそり拾って溜めておいた。」
それはリツがずっとずっと前からそう思って計画をしていたことなのだろうか?
「消費期限とかあるのかもしれないけど沢山飲めば多少効きが悪くてもいいかもって・・・。」
「睡眠薬とかじゃないんだ?」
「管理が厳しいから。それに今のは死ぬには向かないって。」
「じゃあ行く?」
そう聞くとリツがこくりとうなづいた。
俺はリツの身体を抱き上げていつもの車いすに座らせて静かに病室を出た。
海が見たいと言ったリツを病院の裏手にある小さな神社の雑木の奥の池に行く。
「海とは程遠いな。」
「風になったら海に連れてって。」
「どれくらい飲んだらいいの?」
「残しても仕方がないから半分こ。」
神社のベンチで恋人たちのように寄り添いながら、パツパツとタブレット状の薬を手の平の上に押し出してあげると、ラムネ菓子でも食べるように一粒二粒と少し微笑みながらリツが口に入れる。
途中で買ったペットボトルの水で流し込むとラムネほど甘酸っぱくないタブレット錠剤が少し抵抗しながら喉の奥に流れて行った。
「巻き込んでごめんね。」
りつがそう言ったような気がした。
「巻き込んだのは俺の方かもしれない。」
俺はそう返したような気がした。
海に行ったら何をしようか?とか話をしていたような気がするけどだんだんと身体が冷えて目がかすんでくる・・・。
きっと丈夫な俺より先にリツの方が逝くのだろう。
ならリツはもう腕の中の不完全だった器から解放されたのだろうか?
苦しいとか辛いとか、そういうことから解き放たれ、出会った日のイメージのまま地球の重力からも解放され、その細い足で地面を蹴って浮かんでるのだろうか・・・。
やがて俺は深淵に引きずり込まれるように意識を手放して、境界の無くなったリツとの逢瀬ために夢の世界に旅立ったのだった。
ずっとどこかでは騒ぎ声が聞こえたり身体を思い切り苦しい何かをされたりしていたような気がしたけど、その波が去るとふわふわと浮かんだ俺の魂は、リツと海の上をカモメのように飛んで帆船の先端にとまったり、南の島のヤシをつついたりして過ごし、リツはゲラゲラと元気に声を出して笑って俺の背に乗ったり頬にキスをしたりしてはしゃいでいた。
天堂の楽園?
やっとリツとこんな風にできたんだ。そう思ってしばし俺はその蜜月に浮かれて過ごしていたのに、急に嵐が来たように強い何かにつかまれて、地面にたたき落され重力から解放されていた俺の身体はずしっと思いものに押しつぶされて・・・。
驚きに目を開くと・・・、
そこはかつてリツがいた白い部屋によく似た場所だった。
身体中張り巡らされている戒めは、それがバイタルを図る機械から伸びているのだと瞬時に悟った。
俺たちは、いや俺は?
慌てて身を起こすけどなぜか身体に力が入らない。
邪魔をする線を引きはがすと計測するものを無くした機械は悲鳴のような音が激しく響かせた。
人のほとんどいない夕刻のベンチのはずだったのに、そこには運悪く(運よく)池を管理する業者が翌日からの洗浄の段取りのために訪れたのだそうだ。
恋人同士の逢瀬かとしばらくは気にもしなかったのに俺の腕に居たリツがぐらりとベンチの下に落ち、追うように俺の身体もリツの上に倒れ込んだのだそうだ。
その異様な光景に初めて業者は異変に気付き俺たちは再び病院に戻された。
ただし俺も今度は治療される側として・・・。
目覚めたのはあれから一か月も経ったあとだった。
病院の医師の息子のしでかした不祥事に、薬が患者の隠し持っていたものであることを考慮しても騒ぎの範囲は計り知れず、激しく糾弾されたそうだがリツの両親が俺たちを責めることをしなかったそうだ。
むしろあの時リツの言っていた言葉と同じ「巻き込んで申し訳ない」だった。
俺自身、目覚める保証もない不安定な状況だったため父親が辞職をし、不仲だった両親はそれを機に離婚。
俺は設備の整った遠い町の病院に移されていたのだった。
リツは?と聞けば、付き添ってくれていた祖母は「残念ながらお亡くなりになったそうだ。」と俺に告げた。
俺はそれを聞いても悲しいとは思えなかった。
あの昏睡の間に見た夢は、きっとリツのいる世界で、リツはそこで幸せに暮らしているのだろうと思ったからだ。
苦しいことのない世界。
やがて俺も行く世界。
リツはきっとそこで俺を待っていてくれる。
そして俺は大事な何かを全てリツに持っていかれたような気持になっていた。
祖母が俺の横で泣くのでリツのあとを追うこともできず、やがて月日だけが流れて行った・・・。