[高野]
共に逝くはずだったのにリツだけを失ったという現実は、俺にひどい後悔と悲しみをもたらすことはなかったが、嵐のように行為を責められる続ける中で、唯一俺のことを心配して泣く祖母にだけは申し訳ない気持がしてリツのあとを追うこともできなかった。
「人様に顔向けできないことをしでかしたのだから、きちんと生を全うすることが償いだ。」
信心深い祖母は繰り返し俺にそう言った。
それは俺がリツに言っていた数多くの気休めの言葉に近いと感じなくもなかったけど、それでも俺が風になった時に健康な人間だったら当たり前にできたいろいろなことを、リツへの土産話にできるかもしれないと思いなおして、俺は死ぬまでは生きよう。リツに話をして聞かせるためにせめて真っ当に生きようと思ったのだった・・・。
あのあと、結局俺はスキャンダルを恐れた学校と騒ぎをこれ以上大きくしたくない両親とで、もともと知り合った原因が校外学習にあった点をもとに今回の事を不問にする代わりに俺はもとの学校には戻らないことになっていた。
退学や放校という厳しい措置ではなく、あくまでも任意の転校という形を取る事になったのだ。
その結果、祖母のいる県の単位制高校に数か月在籍し、その学校の進路指導の教師に勧められるままに東京の大学を受験した。
祖母はそのまま地元の学校に進学をすることを望んだが、人の口に戸は立てられないとばかりに噂が噂を呼び、俺は東京で殺人を犯して逃げているとまで言われた。
それは決して間違いではない。俺はリツをこの手で殺めたのだ。
おめおめと一人生き残ってリツの骨を拾うこともせず今生きている。お互いに二度と交差しないことを両親同士は誓約したのだと言っていた。
だから俺はその噂を否定することも肯定することもなく、ただ息を吸って吐いて一日が終わるのを待つような毎日を送った。事実はそうではないと知っている教師は見かねて遠い学校を受験するように勧め、俺は祖母をこれ以上苦しめたくなくて結局元の巣の近くに戻ることになったのだった。
人であふれる東京の大学では俺ごときに注目するようなやつもなく、当たり前の大学生のように生活して、当たり前の大人になった。
そして今、俺は丸川書店の少女漫画エメラルド編集部で編集長という仕事をしている。
夢見るような恋愛をした俺が夢見る乙女のための雑誌を作っているということが必然にも思えた。
どんなに否定されようともあれは俺の初恋だった。
螺旋階段で風に吹かれて笑うリツ・・・。
俺の恋心はあの日リツにささげたのだから。
▽
そのサイトを見つけたのは本当に偶然だった。
前にいた会社で、作家が参考資料として美しい海の画像を探していて、俺も当時サブ担当だったので手伝いに駆り出され、ネット上を探していてたどりついたサイトだった。
小さい写真と詩のような短い文章が書かれているそのブログはひっそりとしていて、多くの人に見てもらいたいというより自分の日記に近いものだと感じた。
鮮やかな色の景色は南国を思わせる。
蕾のままの花にとまる天道虫。
波間に遊ぶ小さい蟹。
くちばしに巣材を咥える小鳥
その写真すべてに必ず「
誰かへの手紙のような文章はいつだって少し寂し気で俺の心に染みた・・・。
しばらくはロムのみで過ごしていたが、そのうちにコメントを書きたくなってそのために会員登録をしてブログの読者になった。
俺のハンドルネームは「
それは花をそっと吹き開かせ、柳の芽を割きそよぐ春の風の意を持った言葉だった。
そのブログの「
なので俺もハンドルネームも自然にちなんだものにしようと思ったのだ。
俺は読者としてたまにコメントを付けていた。
その人物「
今回は断崖絶壁の写真だ。
落ちたら怖いな。よくこんなに覗き込んで写真が撮れるもんだ。
仕事の合間にサイトを閲覧すると4日ぶりに更新がされていた。
何年も見てきたサイトだ。
以前は泣きたくなるような雰囲気が伝わって来たが最近は少し明るくなったような気がする。
と言っても、もともと数行しかない文章だ。単なる思い込みかもしれないけど。
「
春とは名ばかりのまだ寒さが行ったり来たりする季節は、ウキウキとがっかりを繰り返すような錯覚を持つ。
どうやら「
都会にいると何もかもが鈍感になる。
「
帰宅後、俺は久しぶりに「
自分ではあまりミルクなど飲まない。いつも苦いコーヒーばかりの毎日だ。
これはリツのために入れたミルク。
自分のためにコーヒーを入れ、同時にミルクを沸かしてカップに入れた。
俺の部屋にはリツとの思い出の写真一枚さえもない。周りの人々は俺からリツの想いを引きはがすように思い出の品さえも強制的に別離をさせた。
今にして思えばそれは俺がりつを追わないようにという配慮だったのだろうと解る。
しかし当時は周りのすべてを恨めしく思ったものだった。
だから俺はリツからもらったミサンガだけを思い出の品として誰にも言わずに持っていた。
そして今チェストの上にクリスタルの天塩にのせて置いてある。
時々『リツ』と語り掛けながらミルクをいつもそっと置く・・・。
リツは心臓が悪かったからコーヒーなどのカフェインの多いものは飲まなかっただろう。
なぜかこのブログを見るとリツのことを思い出す。
実際に一緒に居たのは数か月、しかもリツは病気だったからお互いのことはほとんど知らずに過ごした時間だった。
でも何かあるとこうやってリツのことを思い浮かべてリツだったらと思うことが癖になってしまっている自分がいる。
いつまでたっても女々しいままの、そんな自分がここに一人いるのだ・・・。
しばらくして「
飲んだんだね。
ちょっと笑った。
「
「
「
「
寂しそうなブログにも楽しそうなブログにも一度も返信らしきものはない・・・。
「
入り江の美しい砂浜と白いハンカチの上にのせられたトゲトゲの貝と爪のような桜貝の写真があって、人の指先も一緒に映っていた。
「
「
「
画像は縞のある白身の魚とエビや貝の入ったブイヤベースが白と青の深い皿によそわれていた。それは暖かくて上品な魚貝のダシのしっかり出たスープを連想させる。
「
そして俺は残念な今夜の食事、シーフードのカップヌ ードルの写真を撮って添えた。
「
「
短い文章に部屋の窓から見える空の写真がついていた。
少し風に揺れる白いレース のカーテンの向こうには白い雲も見える。
締麗な写真なのになんでこんなに悲しい気持ちになるんだろう・・・。
「
短い文章は不調だとは言ってはいないのに、なぜか俺は疑うこともせず、見舞いのつもりでなでしこの花の画像を添えた。
「
と言って透明の切り子の グラスと小さい錠剤が写った写真が送られて来た。
小さいタブレット状のその薬にドキリとする。
未だに俺は糖衣を含めてタブレット状のクスリを見ると背中がゾクリとして全身に鳥肌が立つのを止められない。
忘れたふりをしていてもいつだってあっという間に俺がりつを死なせてしまったという罪悪感に浸って震えてしまうのだった・・・。
▽
ブログでのやり取りは大体が一往復半になる。
「
俺のサイトではないので俺に向けたような書き込みも中にはあったが、直接名指しされなければそちらの対応は「
多くを語れないのはwebサイトのルールなので、俺が何者で「
個人情報など書きようもない。
始まった時からほとんど変わらない俺と「
お互いに相手がどこに住んでいるのかさえ知らないのだ。
▽
「高野さん、ご相談が。」
副編集長の羽鳥が俺の横に立ってちょっとだけいつもより神妙な顔をしていった。
普段もきちんとしているが今日はさらに丁寧ということはよほどの何かかといぶかしく思っていると、
「実は吉川先生がモデルにしたいという人がいまして、そちらに連絡を取りたいんですが。」
と言った。
「漫画にするってこと?」
パソコン画面から目を上げてそう問うと
「許可が出ればですが、吉川先生はかなりイメージが出来上がっているので、できれば多少強めでも許可していただけるように話を持っていきたいんです。」
と言った。
「どんなものなの?何か難しいことがあるってこと?」
「いえ、絵本を書いてらっしゃる方なのですが私的なところはオールNGで、絵本以外では話題になるのを好まないんです。」
「絵本を使いたいならそっちから申し出するしかないんじゃない?丸川ならルートあるだろ?」
「いえ・・・。絵本の事ではなくて吉川先生が描きたいと言っているのはその方のブログでして・・・。」
羽鳥があまりにも困ったように遠回しに言うので「俺にどうしてもらいたいの?」と聞くと「何とかアポイントメントを井坂さんにお願いできないかと思っています。」と言った。
▽
その人の絵本は丸川から出版されているのだそうだ。
井坂さんの知人の息子さんで、学者の父親の出版関係の手伝いをしながら趣味で絵本を描いていたところを井坂さんにその絵本を出版しろと勧められて今に至っているという。
まだ発行された冊数は少ないものの、すでにその方面ではかなりの注目を集めているらしい。
その人のブログ?オフィシャルとかじゃないのか?
そんな風に思ったもののとりあえずとそのブログを羽鳥に聞くと、なんとそれは俺がたまにコメントを書くあの「
「先生はこれになんのシンパシーを感じたわけ?」
動揺を悟られないようにそう聞くと
「読んでいただければわかると思いますがこれは
と言う。
「
ブログの中ではたまに「
しかし「
しかし、確かにそう言われてみればいなくなった恋人に向けて語っているという解釈はしっくりする。
「
何より何年も何年も架空の想い人に語り続けるその姿は、そうでなければありえないと思えるほどに悲しげだったのだ。
「っで、吉川先生はその二人を描きたいのか?」
「
そう思うとなんとも複雑な気持ちだった。
リツを想って見ていたブログだけに・・・。
「いえ、最近コメントでやり取りをしている人との関係が素敵だなって言ってました。」
「コメントでやり取りしている人?」
「ほら、この人ですよ。」
少ない読者だがコメントをするのは俺だけではない。しかし羽鳥が指さしたのは俺のコメント欄だった。
「なんで?」
この話題はまずい。とにかく動揺しまくりだ。なのになんで俺はさっさと話しを終えないんだろうか。井坂さん預かりにしてしまえばいいものを。
「最近「
「文通?」
「顔も見えないのに短い文字だけでやり取りしているのが素敵だと。このブログは知る人ぞ知るという感じではありますけど、作家のモノだと知って遠巻きにしている方は多いんです。だから吉川先生もめったにコメントは書かず見守っているっていう感じです。」
そうだったのかと今回は知ることが多かった。
ひっそりとしたブログだと思っていたけど実はそれなりに閲覧者はいたということなのだろう。
「わかった。井坂さんに話をしてみる。」
俺はそう言って話を閉めた。
このブログの主「
そう思うと気持ちが揺れるのを最後まで止めることができなかった。
▽
「カゼハナに会いたい?」
会議の隙間で時間をもらい井坂さんにそう言うと井坂さんは眉間に深く皺を寄せた。
「井坂さんのお知り合いで絵本を描いていると伺いました。吉川先生が何やらブログからシンパシーを受けたらしくて作品にしたいそうです。」
そう簡潔に言うとさらに眉間の皺が深くなる。
「絵本ならいざ知らず私生活となるとおそらく絶対にダメだな。」
ケンモホロロ、井坂さんは顔の前で手をまるでハエのを追っ払うようにフルフルと振って俺にそう言った。
あの井坂さんがそう言うからにはそれなりの理由があるのだろう。それでもはいそうですかと簡単には引けない。一応うちの売れっ子作家のご要望なのだ。
「吉川先生はかなりのイメージが出来上がっていて、細かい所などを聞きたいらしいです。」
俺の言葉に井坂さんは少し考えて「とりあえずアポだけは取ってやるからあとは好きにしな。俺もこのままじゃだめだろうとは思ってたから。でも無茶するなよ。」と言った。
「いきなり吉川先生連れてくとか無しな、あの先生暴走しそうだし。」
一応クギを刺された俺は、とりあえず羽鳥と二人で指定された場所に指定の日時に向かうことにした。
▽
都心から新幹線に乗って30分。それからローカルな電車に乗って着いたのは海沿いの入り江のある小さな町だった。
「この辺りは別荘とかが多いそうですね。」
羽鳥があらかじめ用意していた観光用のマップを手にしてそう言った。
入口の町は観光地でもここまで奥まるとここもまた知る人ぞ知るという感じになるだろう。
ブログの写真を見てもどこか皆目見当もつかなかったのはそういうこともあったのかもしれない。
白い壁の家が多いのはこの辺り独特なのだそうだ。
指定された家は少しだけ南国を漂わせるようなシュロの木があったものの、想い人の名前「
確か生垣はオリーブとリンゴ・・・。アップルパイを作ってもらったとか書いてあったことがあったと思い出す。
リンゴの白い花は見事でそれを写真にのせていたこともあったな。
そんなことを回想しながら呼び鈴を押すけど返事がない。
羽鳥と二人、お互いとぼけた顔を見合わすけどやっぱり返事がない。
「約束の時間は間違えてないですよね?」
「うん・・・。井坂さんからはそう聞いているけど。」
困ったなと玄関の向こうに広がる入り江を見下ろすと、白い服の人がバケツを抱えて砂浜を背を向けてトボトボとおぼつかない足取りで歩いていた。
あれ?あのバケツはムール貝の写真の時に写っていたものか?
そうわかるとその人物がカゼハナだと直感して、腕にかけていた上着を羽鳥に押し付けてそのまま壁になっている海との境目を駆け下りた。
『また漁師さんに魚をもらったのか?』
足元の砂がさらさらと綺麗で、いつかのブログにあったように桜貝が散っているのが見て取れる。
ああ、初夏に近い今だけど浜は桜吹雪の真っ最中だ。
そう思いながら後ろから声もかけずにバケツに手を触れるとその人物がびっくりしたように振り向いた。
あの頃と変わらない白い肌。茶色いサラサラの髪、緑にも見える瞳・・・。
馬鹿な。そんな・・・。
あの頃と変わったのは紫ではない桜貝と同じ色の唇。少しラインは長くシャープになり、ふっくらとした頬。血色のよさそうな色の指先。
「り・・・、つ・・・。」
塩水に浮かんだ魚がバケツごと転げて足元にバシャリとこぼれたのがわかった。
目の前のリツは俺の襟をその手でグイッとつかんで顔を間近に引き寄せて、声も出さずに顔を見つめた。
その目からは真珠のような涙がコロコロと零れ落ちていた。
「うそ・・・。」
頬を摩るとリツが小さくそうつぶやく。
「温かい。本当のリツ?」
「サガ?」
「今は高野だ。」
「高野?」
ギュッと抱きしめあい、砂浜に座り込んで、訳のわからない展開に恐る恐るかけてきた羽鳥の声で我に返るまで、
二人はしばらくそのままで夢で見た世界を浮かんでいたのだった。
[リツ]
はじめに睡眠薬をサガと二人で2個ずつ飲んだ。
あなたが眠っている間にすべてが終わるように、そう思っていた。
サガが飲んだ薬の多くは風邪薬だった。
サガが俺の手のひらに出していく薬の中で血圧が低下する薬は本当に少量で、俺がほとんどを拾って飲んだつもりだった。
一緒にと言ってくれたことがうれしくて道連れにするみたいに巻き込んでしまった。
ごめんね一人では寂しすぎて・・・。
サガの優しさに甘えてしまった。
なのになんで・・・。
なんで・・・。
俺は今ここに居るんだろう。
今も昔もずっと問い続けている。
▽
あのあと、俺を助ける準備をしていた母は死にかけている俺をそのまま移送し、計画のままに延命のための処置を実行したのだそうだ。
うとうとと夢の世界を漂う俺は、その夢の中で長い時間空に浮かび、風のように自由に飛びまわった。
サガの背にじゃれて乗り、引き寄せあって頬をすり合わせ、いつまでもいつまでも笑っていられた。
確かにあの時俺は、もう苦しいことも辛いこともない楽しいだけの世界に二人でいたのだ。
しかし目覚めた世界は冷たかった。
自覚のないままにすべてのことは終わっていて枷が外れた身体はありえないほど軽く、一定のルールさえ守ればある程度普通の生活ができると言われた。
生まれてから一度も苦しくない時など無かった俺にはこれこそが夢ではと思えるほどだった。
そして、今までの闘病を思えば俺が絶望するのは理解すると前置きをされながらも、現在生き延びているのは他人の力によって救われた命なのだ。
あなたが自らを殺すのはその命を分けてくれた人に対する冒涜だと母は俺の胸の傷を指さして強く言う。
頼んだわけじゃない・・・。
言いたい言葉が喉の奥で止まる。
そして母は俺が道連れにしようとしたサガがもうこの世界のどこにも居ないことも冷たく告げた。
知らなかったんだ。
風邪薬の中成分に、多く服用すると死に至るものが含まれているなんて。
生まれたときから病院しか知らない俺はそこで聞きかじったことがすべてだった。
だからその中途半端な知識のままにサガを引きずり込んでしまったのだ。
血圧の低下する薬と風邪薬の中のとある成分、睡眠剤の成分、それが混じって、薬に耐性のあった俺よりサガはひどい症状を起こしたそうだ。
自分を無くしていた時間は長い長い夢のようだった。
なのに現実の世界にはサガがいない・・・。
俺は厳しい監視下でサガの後を追うこともできず今ここに居る。
サガは俺を恨んでいるだろうか・・・。
いや、恨んでもいい。憎んで殺したいと思ってくれていい。
だから俺のところに来て・・・。
連れて行って・・・。
▽
「
初めて会った時、俺に柔らかく笑ってくれたあなたの顔はその時に咲き乱れる桜の妖精そのものでした。まぶしくて綺麗で欲しくてたまらない憧れでした。
「
今日は海が荒れています。
怒ってますか?怒ってていいから会いに来てください。
「
帆船が遠くを通りました。
海鳥が飛んでいるのも見えます。帆船のマストに二人で摑まって遊んだのを覚えていますか?
夢の中で。
「
また桜の季節がやってきました。
でも私は花に近づくことができません。
それが私への罰なのでしょう。
夢でもいいから
逢いたい。