ひそひそと、囁く声が聞こえる。三人寄れば姦しいとはよく言われるが、それが二組も三組も作られれば、真夏に鳴く油蝉にもまさる騒々しさだ。言葉の中身は恐怖だろうか、嘲笑だろうか。この場にある明らかな異物に困惑していることだけは確かだ。誰もが目を離せないままでいる。
少女が一人歩いている。翡翠色のロングヘアーを靡かせて、凛とした顔つきで迷いなく歩いている。何人もとすれ違い、視線を交わしているのだが、言葉は無い。通りの良い耳を雑音で塞いで、眉間にしわを寄せた顔で廊下を進んでいく。
やがて、大きなドアの前に着いた。息を一つ吐いて、左手でノックをする。
「入って良いよ」
部屋の主から許可を得ると、少女はノックをした左手でドアノブを捻った。外開きのドアがぎりぎりと軋んだ嫌な音で喚く。立て付けが悪いのだろう、見た目よりも少し重かった。
部屋では、一人で扱うには大きすぎる机いっぱいに資料を広げて、男が立っていた。青年と言うには少し歳を取りすぎてしまっている。三十代半ば、壮年にはまだ早いかもしれないが、若さゆえの勢いというものは感じられない。
男は持っていたペンの頭で胸元を叩くと、視線を少女に向けた。
「初めまして。君が補充要員ということでいいのかな。
「ええ、そうよ。重巡洋艦鈴谷、着任しました」
少女は、片腕しかない手を眼帯の上に持って来て、敬礼してみせた。
*
「ようこそアーセナルへ。激戦のブルネイからの異動だってね」
男は応接用のテーブルで鈴谷をもてなした。質は良いが使い古されたソファに彼女が腰掛けると、男も向かいに座る。
「間宮はいるかな?」
「どちらかと言えば伊良湖派ね」
「じゃあそうしよう」
キッチンボードから最中と漆器の皿を取り出した。袋を割いて最中を盛り付けると鈴谷の前に置く。冷蔵庫からはペットボトルのコーヒーを取り出して、男は自分の分のマグカップだけに注ぐ。
「あっちでは第一艦隊に居たわ」
一日に千人を殺し、千百人を産む。神話に例えるのは少々大袈裟かもしれないが、最前線と言われるブルネイへの、内地からの評価はそのようなものだった。一部の怪物達だけが生き残り、それ以外は出撃の度に海へ沈む。噂では沈んだ船の油で魚が通らないとまで言われているらしい。
そのブルネイで第一艦隊に所属していた。つまり、目の前の見るも痛々しい少女がその
そのくらいの情報は前もって知らされている。男はマグカップに口をつけた。砂糖もミルクもシロップも入れていない、ブラックが彼の好みだった。
「その堅苦しい口調はあちらで直されたのか」
「普通の鈴谷だったら、もっと礼儀知らずな喋り方なんでしょうけど。提督はそっちの方が好みかしら?」
「どちらでも」
鈴谷は最中を齧りながら目を細める。からかうような口調に男は肩を竦めた。出会って早々の部下に欲情するほど下半身で生きてはいない。
「それと、提督と呼ぶのはやめてくれ。俺は提督じゃない」
「ああ、そうだったわね。じゃあなんて呼べは良いかしら。あまり名前では呼びたくないのだけれど」
そうでないと死んだ時に面倒だから、と彼女は言った。最前線では泊地に居座る提督でさえ安全とは言い難い、男が風の噂で聞いただけでも三人は殉職している。それがあるから、彼女は名前を聞きたがらないのだろう。
ブルネイと比べれば天国のように安全なのだが、と男は笑いそうになったが、失礼に当たると踏みとどまって、代わりにコーヒーを飲み干す。
「そうだな、それなら
「先生、ね。お似合いだわ」
先生と称した男は空になったマグカップにコーヒーを注ぎ足した。鈴谷も最中を食べ終えたところだ。
「お代わりが欲しかったら言ってくれ」
「いえ結構」
口元についた残り滓を指で拭き取って鈴谷は答えた。艦娘には空腹も無いのだから、腹八分目も無い。
「
「さあ。意味があるかもしれないし、俺の個人的な興味かもしれない」
「過去のことなんてアテにならないわ。特にあっちでは」
日々変わる戦況を、既に数日は離れている鈴谷が完全に把握できている訳も無い。分かるのは、陥落してはいないこと、そして殲滅してはいないこと。それだけだ。
「それもそうだ。過去より未来を語る方がお互いにとって建設的だろう」
ここからが本音の話。これからの話。
「君はこの場所についてどれだけ知っている」
先生は単刀直入に聞いた。提督ではないと彼が自称する通り、ここは鎮守府ではない。書類の上では鎮守府に当たるらしいが、彼は艦隊を持たないし、何処かへ出撃することもない。まさかとは思うが、一から説明するのは骨が折れる。
「書類に書かれていることはだいたい」
「残念なことに俺はその書類のチェックには参加していなくてね。何処の新聞記者が書いたんだろうか」
「日の丸背負ったジャーナリストに決まってるじゃない」
「多過ぎて見当がつかないな」
「それはご愁傷様」
やっぱり最中のお代わりを頂けるかしら、と鈴谷が言ったので素直に新しいものを出してやる。再びそれを齧りながら、彼女は自分の持っている知識を当てはめるように呟いていく。
「他の鎮守府から戦力外とされた艦娘を集めて戦力として鍛え直す場所。教導官は貴方一人で、ここで訓練を積んだ艦娘は主に新たに設立された鎮守府へ着任する。掻い摘んで言うとこんな所かしら」
通称、
「有り難いことに書き手は無能ではなかったようだ。それだけ分かっていれば十分だろうが、補足の説明が必要だったりするかな」
「お願いするわ。文字のニュアンスだけだとどうしてもズレるから」
「了解した」
先生は二杯目のコーヒーを飲み切ると、三杯目を注いだ。ペットボトルの中身も空になりかけていて、マグカップの半分くらいの所でぽたん、ぽたんと水滴だけが落ちる。軽く振った後、教官はペットボトルの蓋を閉めるとそこらに放り投げた。カランとプラスチックの軽い音がした。
「書類上ではもっともらしく書いてあるがね、要するに此処は艦娘異動のプールだよ。艦娘の育成というのはそのオマケだ」
「異動、は基本的には禁じられているのよね」
「ああ、そうだ」
鈴谷の言葉に教官は頷いた。
原則として、その鎮守府で建造された艦娘はその鎮守府から離れることができない。戦力として、提督のステータスになる艦娘が気軽に異動できるとなると、金持ちや良家のボンクラ息子が権力に物を言わせて優秀な娘を買い漁ることになる。それは海軍にとっても由々しき事態であった。
たとえば、内地勤務の提督が戦力欲しさにブルネイの怪物を根こそぎ連れてきたとしよう。三日と経たずブルネイは崩壊し、収拾に一ヶ月も掛けようものなら三十年前の暗黒時代に逆戻りだ。海軍としても前線戦力を欠きたくはないからこそ、艦娘の異動は禁じられている。
しかし、禁止されれば裏をかこうとするのが人情というもの。幾度か、この場所と同じ名目で艦娘のプールを作ろうと試みた軍人が居る。つまりは一度解体されかけた艦娘を拾い上げるという名目で交換や売買を図ったのだ。鈴谷も書類上は同じ流れに乗っている。
「俺の知る限り、三回はそれぞれ別の人間がやろうとしたみたいだね。その前に憲兵に勘付かれておしゃかになったらしいけれど」
「あら、それならなんで此処は堂々とやっているの」
「考えるまでも無いだろう」
口煩い憲兵が口を噤むのは、理由は二つしかない。一つは憲兵隊ですら迂闊に手を出せない重鎮が腰を上げた場合。もう一つは、
「憲兵がグルってことかしら」
「飲み込みが早くて助かるよ」
間髪入れずに答えを出した鈴谷に彼はわざとらしく手を叩いた。
「考えるまでも無いと言ったのは貴方でしょう」
「それもそうだな。とにかく、そういう訳で此処は三つの特性を持っているんだ。優秀な艦娘を憲兵に流すお仕事と、
「貴方の目的はあくまでも最後なのね」
「まあね」
コーヒーは空になり、最中も形を消していた。疲れたろう、と言って彼は立ち上がる。ポケットから鍵を一つと折り畳んだ地図を取り出すと机の上に置いた。
「今は寝床くらいしか置いてないけれど、一応君の部屋はこちらの本棟に作らせてもらったよ。地図を見れば分かると思うけれど、もし迷うようだったら案内しよう」
「随分と親切じゃない」
「同僚から嫌われながら仕事はしたくないんでね」
投げ飛ばしたペットボトルを拾い上げる。キッチンボードの棚に置いて、くるりと振り返った。
「ただ、無礼を承知で一つだけ聞かせてもらっても良いかな」
「どんな質問か聞くまでもないわね」
鈴谷は笑いながら片方しかない手で眼帯を撫でた。天龍や木曾など普段から眼帯で塞いでいる娘も少なくない筈だというのに、彼女がやると酷く歪に見えた。
「
そうか、とだけ彼は言った。