「さて、皆にお披露目となる訳だけれど」
先生がソファで資料をめくっている鈴谷に言う。
「何かやりたい事はあるかい」
「そうね」
この場所に居る艦娘達のデータを恐ろしい速度で頭に入れながら、鈴谷は顎に手を当てた。彼女の仕事は彼のサポートだ。最初は小規模に経営されていたアーセナルも、今ではそれなりに多くの艦娘を抱えている。現在は七十人程度、教官一人で目を見張らせるには多すぎる人数だ。鈴谷は実質的に第二の教官と呼んでも良い。
「鼻っ柱を圧し折っておきたいわね」
「そう言うと思ったよ」
教官である以上、生徒よりも優秀でなければならない。彼のような人間ならば提督の延長線だと我慢もできようが、同じ艦娘が、それも片腕と片目を失った重巡洋艦の言うことを素直に聞くほど彼女達はお利口ではない。何しろ、そういう問題児も混ざっているのだから。
「貴方の選んだ艦隊と私で演習でもして踏み潰せば、楽になるわ」
「それなら、相手してもらいたい娘が居る」
「そうなの」
「確か最初の方にまとめてあった筈だ」
彼が鈴谷の後ろに周り、肩越しからペーパーを戻していく。女性に近付けば普通は香水の匂いもするだろうに、鈴谷からは何もしない。艦娘でも、身だしなみに気を使う娘は少なくないのだが、彼女の居たブルネイではそういう習慣は無かったらしい。
一歩間違えれば変質者のような事を考えながら、彼は顔色一つ変えず目当てのページを探す。それが一番早かっただけで、別に匂いを嗅ぐために後ろに回った訳ではないのだから、薄ぼんやりと思っただけだ。やがて前から六番目に目当ての写真を見つけて手が止まる。
「この娘だ」
「重巡洋艦、足柄。成績は確かに優秀ね。頭一つ抜けていると言っても良いけれど」
「性格に難あり、と備考欄に書いてあるだろう。少々自信過剰なきらいがあってね。何度か見に来たものも居るけれど流れ続けてるんだ」
「なるほど、分かりやすいわね。他は?」
「いや、彼女だけで良い」
鈴谷が眉をひそめる。確かに成績は優秀だが、あくまで相対評価の中で飛び抜けているだけに過ぎない。データだけならば鈴谷の相手にもならないだろう。たとえこの足柄が六人揃ったとしても、鈴谷が満身創痍だとしても、天秤は動かない。
「理由を聞かせてもらえる」
「一つは確実に勝ってもらわないと困るから。ビッグマウスは結構だけれど、俺は君の実力を知らないからね。足柄一人で目的は十分達成できるんだ。無駄に難易度を上げる必要は無い」
「なるほどね」
まさか負けるとは微塵とも思わないが、彼の言葉には筋が通っていた。クリアすれば十分のゲームに縛りプレイする必要はないということだ。
「もう一つは」
一つは、と言ったからには他にも理由はある筈だ。鈴谷は首を傾げて視線を彼に向けた。目と目が合う。息の掛かりそうなほど近いのに、お互いに恥ずかしさも驚きも無い。淡々としていた。
「足柄一人じゃないと、本人が納得しない可能性があるから」
「……『私以外が足を引っ張った』?」
「そういうこと」
やはり飲み込みが早いとやりやすい、と彼は満足げに頷く。
「要領が悪いのも育てがいがあるけれど」
「私は育てる側よ」
「そうだな。まっ、君の言う通りさ」
彼は鈴谷からは離れて自分の席に座ると、集会の段取りを確かめ始める。訓練の欄の最初の部分を塗りつぶして、その下に演習と書き加えた。
「それじゃあそろそろ向かおうか」
*
「か……はっ……」
鳩尾を膝で突き上げた。海面に屈した足柄の髪を掴み上げる。
端正な顔立ちは腫れ上がった青アザで歪んでいた。他の提督が見たところで足柄だと分からないかもしれない。漫画みたいな表現では生易しい。見ていて痛々しく、耐性のない観客の何人かは吐き気を催している。
涙がこぼれ落ちる。えずいた喉元に鈴谷はつま先を突き刺した。足柄の体が水切り石のように跳ね、油混じりの嘔吐物で海を汚す。起き上がる気力は残されていない。何より、起き上がれば続行の意志有りと見なされる。
誰もが戦慄していた。鈴谷の圧倒的な強さもそうだが、その容赦の無さに立つことすら出来なくなっていた。腕を折り、足を折り、助骨を折る。艦娘でなければとうに死んでいる。演習という名のリンチはかれこれ一時間も続いていた。
「これで負けを認めるかしら」
鈴谷が尋ねた。彼女は全くの無傷だった。主砲すら構えていない。黙々と、理不尽に暴力を振るい続けるだけ。
「……も」
「も?」
「もうやめて……」
何度も咳き込みながら、やっとのことで足柄は降参を口にする。鈴谷は先生の方へ振り返ると、どうしようかと目で聞いた。彼も引き攣った顔で三回頷く。足柄は地獄の中に仏を見たような顔で彼を見る。自分の体から漏れ出た液体で全身を汚し、その場に泣き崩れた。そこに演習が始まる前の勝ち気な様子は無い。
「演習はこれで終わり。誰か足柄をドックまで運んでやれ」
鈴谷の前に出る事すら恐ろしいのか、それとも足柄に人望が無かったのか。誰もざわつくだけで足柄のもとへ駆け寄ろうとはしない。たとえ頑丈な艦娘でもこのまま放置すれば沈んでしまうだろう。
鈴谷も殺すつもりは無い。仕方が無いと一歩踏み出した所で、オーディエンスから悲鳴が上がった。まさかとどめを刺すと思われたのだろうか。鈴谷の足が止まる。
流石にやり過ぎたか、と今更に後悔する。ブルネイでは日常茶飯事だ。内地の加減はよく分からない。
鈴谷が立ち止まったことで尚更誰も出て行けなくなった。このままでは埒が明かないと先生が声を上げようとしたその時、観客の中からするりと足柄に近づいていく姿があった。
足柄よりも小柄な身体。朝潮型駆逐艦の霞だ。鈴谷をきっときつく睨むと、足柄を担ぎ上げようと体を下に潜り込ませる。
ぐっ、と足に力を込めたは良いが、完全に意識を失っている足柄の体は鉛のように重い。ずるずると曳航する姿は霞の方が先に沈んでしまいそうだった。彼女を呼び水にして、手伝いが何人か出てきても良さそうなものだが、孤軍奮闘する彼女に天佑は来ない。
「思っていたよりも腑抜けが多いわね」
鈴谷が吐き捨てる。再び歩き出すと、必死に足柄を引き摺っている霞の横に並んだ。またも甲高い悲鳴が上がるが、今度は気にしない。
「何よ」
霞は一層強く鈴谷を睨みつけた。しかし、声は震えていた。それもそうだろう、足柄の実力は彼女達もよく知るところ。その足柄を完膚なきまでに叩きのめしたのだから、駆逐艦クラスが怯えるのは当たり前だ。
それでも何とか取り繕って足柄を守ろうとする。仲間想いで勇敢な行動だ。
「手伝いに来たのよ。流石にやり過ぎたから」
鈴谷は素っ気ない口調で言うと、自らも足柄の下に潜り込んだ。右手を失っているとはいえ、出力だけならば戦艦にも匹敵する鈴谷が持ち上げると、容易く足柄の体は浮かび上がり、潰されそうになっていた霞は急に肩の荷が降りた。手伝いとは言うが、彼女一人でも十分そうだった。
霞はどうすれば良いのか分からず、ただ足柄の体に手を添える。これ幸いと離れようとはしなかった。そもそも鈴谷が恐ろしくて逃げるのなら元々駆け寄ったりしない。
二人が陸に向かって歩いていくとそれに合わせて人の波が開けていく。モーセの脱出みたいだ、と遠目に眺めていた先生は思った。
それから、呆然としている他の艦娘を早く正気に戻さなければならないと思い立ち、マイクの前で手を叩く。
「はいはい、足柄に関してはこっちに任せて。君達は訓練に戻りましょうか。あんまり駄々こねるようだと鈴谷を呼び戻すよ」
弾かれたように動き出し、むりやり日常へ戻ろうとする艦娘の怯えた表情を見ながら、彼は失敗したかもしれないと頭を掻いた。