「鈴谷をどうして離したの?」
先生は資料から目を離して、霞の顔を見た。少し真面目に指揮を取っていない間にどうもたくましくなったものだ。わざわざ普段は立ち入らない本棟にまでやってきて聞きたいのはその事か。彼はペットボトルの蓋を開けた。コップに注ぐのも面倒になって直接口をつける。
「どうしてそんなことが知りたいんだ?」
数日前から鈴谷を教練から外していた。理由は新しくやってきた方の鈴谷といざこざを起こし、不適格と認定されたから。人手が足りないのは以前変わらないので、本格的に事務仕事に回ってもらうと彼は言っていた。
「それで十分じゃないか」
「惚けないでよクズ教師」
新しい三人がやってきてから、鈴谷は一度も教練に参加していないのだから、おかしいではないか。
「先生と呼ばれてはいるけど教師になったつもりは無いんだが。語呂の良さかそれは」
「そんなのどうだって良いでしょ」
問題はそこじゃない。
「いざこざを起こしたと言ってもすぐさま干されるようなことじゃないわ。あれなら足柄を半殺しにした方がよっぽど危ない」
「判断するのは俺だ」
彼はごくりと喉を鳴らした。冷蔵庫で冷やされていた黒い液体が一気に食堂を通り抜けていく。背筋の冷える気持ちの悪さに身震いした。端に残った苦味を噛み潰す。
「上官の命令は絶対。それが分からないのか」
「此処は鎮守府じゃないでしょ。私に上司なんて居ないわ」
霞は堂々と言ってのける。確かに先生と呼び慕われる彼は霞の直属の上官ではない。あくまで施設の管理者であって、艦娘である彼女達の立場は曖昧なまま宙ぶらりんになっている。
しかし、ここまではっきりと言葉にするのか。どうしてこの娘が今まで埋もれていたのかと、彼は自分の節穴を恥じる。たくましくなったの一言で片付けられるレベルではない。以前とはまるで別人だ。
そして、その切っ掛けがどこにあったのかは、思案するまでも無かった。
大きく溜め息を吐く。納得のいく答えがあるまで彼女は梃子でも動かないだろう。我慢勝負では、先に根負けするのは分かりきっていた。
「彼女自身が望んだんだよ。自分を教練から外してくれって」
「どうして」
霞の詰問に彼は苦い顔をする。
「そんなこと俺は知らないよ」
わざとらしく手で追い払う仕草をする様は、自分で聞きに行け、と言外に語っていた。
*
「こんな所に居たんだ」
霞の声に彼女は振り返った。隻腕隻眼。欄干に肘をついて、くわえたタバコの灰が落ちる。鈴谷の瞳がすうっと細くなって相手を見つめる。
「こんな所まで来るなんてね」
驚きと呆れが半々に入り混じった声色だった。
彼女が居たのはアーセナルの本棟屋上。普段は立入禁止の場所で、当然許可など取っていない。尖った言い方をすれば鈴谷も霞も等しく軍規違反だ。
兎に角、通常ならば艦娘が入ることは有り得ない場所である。先生も此処には来ないだろうし、彼女達の会話に横槍を入れる無粋者は居ない。
「タバコなんて吸ってたのね」
「娯楽なんてこんな物しか無いもの」
煙と共に疲れた言葉を吐いた。無い、というよりは知らないと言う方が正しかった。ゲームやテレビや、或いは読書すらも彼女の居た場所には存在しなかった。
霞は煙を気にすることなく彼女の隣に並んだ。罵声の一つでも浴びせたくなるような青空に紫煙が吸い込まれていくのを見上げる。
何も聞いてこない霞に、鈴谷は苛立ちを隠さずタバコを噛んだ。どうしてなのだろうか。霞は彼女を恐れていなかった。最初は単に度胸があるだけだと思ったのだが、他の艦娘が恐怖を深めていくのに対して、彼女だけは水に溶いたように畏怖の念が消えていっているのを感じていた。
鈴谷はタバコを落とした。地面に落ちた火種をヒールで潰す。
「何を聞きに来たのよ」
ついに痺れを切らして鈴谷の方から話し掛けた。自分の憩いの場に土足で踏み込まれて気分の良い筈が無い。押し入り強盗のように傍若無人に暴れまわるのならば突き落とせば済む話だ。しかし、幽霊のようにその場に佇まれるだけでは、まさか読経する訳にもいかない。
仮にも教官である筈の自分に文句を言いに来たわけでもあるまいし、聞きたいことがあるのならば手短に済ませてほしかった。
先手を取られた霞は目を見開いて、口を金魚みたいにパクパクさせた後、観念して口を開いた。普段の強気な口調とは真逆の、消え入りそうな声だった。
「出撃って、怖いの?」
「…………っ」
鈴谷は言葉に詰まった。喉を空気だけがひゅうひゅうと通り過ぎていった。
出撃は艦娘の意義であり、義務であり、本懐だ。疑問が介在する余地などまるで無い。馬鹿なことを聞くものだと切り捨ててしまえばよいのに、それが出来なかった。
きっと、霞はある程度察していて彼女に聞いたのだろう。笑い飛ばして誤魔化されることなく、真情を答えてくれる相手として求めたのだろう。
「怖いわ。少なくとも、私は怖い。普通はそうじゃないかもしれないけど」
核心を突かれてなお逃げる勇気は鈴谷には無い。芯の折れ曲がった、聞くものを不安にさせる様であるが、言い間違えないよう確かに言葉を繋げる。
「そうなのね」
良かった、と彼女は言った。
「貴方みたいに強くても、戦場は怖いんだもの。私が怖いと言ったって、何もおかしな事はないわ」
「貴方は戦場が怖いの?」
いっそ無謀とすら思える程に勇敢な彼女が、熱くなっていた自分の目の前で足柄に手を貸してみせた彼女がそんなことを言うとは思わなかった。
「怖い。好き好んで行く人達の気が知れない。どうせ後悔するって分かってるのに」
霞はちらりと鈴谷を見た。痛々しい眼帯と、本来通される筈の腕が無いためにぶらりと垂れ下がった袖。自分はこうなりたくない、と思わせるには十分だ。
「後悔したいのよ」
鈴谷が呟いた。霞が完全に彼女の方へ向き直る。
「マゾヒストなのかしらね。進む先が地獄だと分かってて、それなのに見に行かなければ気が済まない。後悔先に立たずって言うでしょ。そこに行かなければ、後悔もないから」
「……やらぬ後悔よりやる後悔?」
「そんなとこでしょうね」
忌々しげに吐き捨てた。現実を知り、恐怖を覚え、まさしく
正直な所、この話を受けた時はまさかここまで精神を痛めつけるものだとは思いもよらなかったのだ。足柄を見て、先生に見透かされて、そして
「戦うのが嫌ならどうして貴方はここに居るのかしら」
此の場所は望まなければ来ることは出来ない。戦場に行きたくないのであれば、解体を選ぶ道もあった筈だ。自分は答えたのだから、今度はそちらの番だと問い掛ける。
「それも怖いからよ」
どういうことかと首を傾げる。
「私が出なかったら他の誰かが代わりに
彼女が言っているのは、けして死にたがりの艦娘ではないのだな、と鈴谷には分かった。
自分一人では何も出来ない提督や、本当に何も知らない民間人。れっきとした人間に危害が及ぶ。それが彼女には我慢ならない。
「強いのね」
「強くないわ。私は、後悔したくないだけよ」
「貴方ならきっと悔いの無い生き方ができるわ」
私には出来なかったけれど。そんな言葉は胸の奥にしまい込んだ。
片手で器用にタバコをの蓋を開ける。くわえて、箱をポケットにしまい込むと、代わりにライターを取り出した。煙に乗ってもやもやが飛んでいってしまえば良いのに、心が晴れることはない。
本当は分かっている。霞がそんなことを聞くためだけに自分を探していたのではないことを。そして、自分の答えでそれを萎縮させてしまったことを。
「先生に頼んで本格的に裏方に回らせて貰うわ。それでも、日が暮れる前なら時間が取れると思う」
「それって……」
この小さな同類を死なせたくない、と思ってしまった。
「本当は習いたくて来たんでしょ」
鈴谷の言葉に霞は頷いた。