あきつの空   作:溶けた氷砂糖

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そこには何も無いけれど

「練度、ねえ」

 

 提督は訝しげにその言葉を口にした。普段から鉄面皮を崩さない彼らしくもない、困惑に満ちた表情だった。その気持ちはよく分かる、と陽炎も心の中で頷く。死ぬまで進め、死んでも進め。ずっとそう教えられてきたのだ。今更掌を返されても困る。

 

 提督の次の言葉は予想外だった。

 

「まあ何にしろ、途中撤退の大義名分が出来たのは良いことだわな」

「司令は練度なんてものを信じてるの?」

 

 乗員が居るのならば、練度は確かに重要視されて然るべきだろう。しかし、ここに居るのは兵器そのもの。兵器が、刀や銃が学ぶか、と問われればノーと答える他ない。

 

「いや半信半疑。っていうかあんまり信じてない」

 

 けどねえ、と提督は瓶から錠剤を取り出して一息に煽った。

 

「子供を死地に送り込むのは胃に優しくないのよ」

「私達は兵器よ?」

「そう割り切れたら楽なんだけどねえ」

 

 彼と彼女においての絶対的な隔たりがそこにはあった。提督は彼女達を死なせたくはなかった。たとえ、彼女達自身が玉砕を望んでいたとしても。鳥も食わない偽善を振り回したいのではない。ただ、自身の心が蝕まれていくのをうっすらと理解していたからだ。

 

「何においても、自分で引き金を引くのはやってられないさ」

 

 こんな話を知っているかい。提督は何の役にも立たない雑学を意味ありげに披露しようとする。

 

「何故、銃殺隊は複数人で組織されるのか」

「あのね、私達は昔から軍の船よ? 知らないわけがないでしょうか」

 

 陽炎は呆れ顔で首を振った。銃殺隊。軍事裁判における最も有名な処刑法として銃殺刑は存在する。それは複数人で同時に撃ち殺すというものだ。そうすることで、苦しませることなく確実に殺せる。それだけでなく、()()()()()()()()()()()()()

 

 感情の乖離はともかくとして、提督の言いたいことは陽炎にも分かった。確かに、今の彼は一人だけの執行人に近いのかもしれない。

 

 それでも意外だった。この男にまさか人の情があったのかと。

 

 陽炎の視線に気付いた提督が表情を曇らせる。

 

「何だ、そんな鬼の目にも涙があったのか、みたいな顔は」

「もっと冷徹に差配する人だと思ってたわ」

「人間はね、見た目に随分と左右される生物なんだよ」

 

 子供を送り込むのは嫌いだ。彼は改めて言った。

 

「僕には今年で十になる娘が居てね」

 

 初耳だった。まだこの男に出会ってから数日程度しか共にしていないとはいえ、彼は恋人に電話をかける素振りも見せていなかった。

 

 陽炎は彼の伴侶という言葉に気を取られて、一瞬もっと重要なことに気が付けなかった。幸か不幸か、本来訊ねるべき疑問は、彼が再び口を開く前になされる。

 

「十歳って、それ……」

「生まれた直後だったけど、新生児ということで別室に移されていたから、生き延びたらしい」

 

 十年前、誰もが知っている大災害がある。西暦にして二十世紀最後の年に起きた深海棲艦による本土上陸。当時の日本の人口をおよそ半分にしたとさえ言われ、横文字並べの外国では、ミレニアム・ラグナロクと呼称される()()が起こった年に産まれた赤子。提督の()()()()()()()()()()()()()()()()という言葉は、彼の妻がどのような結末を迎えたのか想像するには十分だった。

 

「こんな職業だから、娘にもめったに会えない。内陸で難を逃れた親戚の家に預けているからね。機密もあるし、年に一度でも顔を見れればマシな方さ」

 

 陽炎は産まれて、産み出されて数日だ。彼の言葉を実感として受け取る事はできない。だから彼女は黙っている。陽炎型長女として生まれ持った気質だろうか。聞き手に徹し、彼の心情吐露を受け止めようとしている。

 

「こんな御時世だ。なりふり構っちゃいられないのは分かってる。僕だってこうなることを半ば分かっていてこの任に着いているんだ。けどよ」

 

 だけど。

 

「どうして、娘と同じくらいの子を死に追いやらなければならない!」

 

 口調に伴わず、彼の表情は殆ど歪んでいなかった。それは軍人としての最後の矜持であったのかもしれない。臆面もなく泣き喚けばもう立ち上がれない。出来上がってしまった彼という芯は、一度折れればもう元には戻らない。

 

「…………」

 

 陽炎は黙っていた。反論は幾つもあった。それは全て艦娘の視点から来るものだった。彼女には人間の気持ちは分からない。人間に例えてみれば、何故生きるのか、と問われているようなものだ。戦船である彼女達にとって、海に出るのは本来息をすることに等しい。

 

 これは時の状況を廃した言葉であるが、練度というものが周知された後の艦娘ならば彼の言葉に共感することもあっただろう。良くも悪くも()()()()()()頃の艦娘であれば、彼と同じように自分を持ち、自分という存在に悩む者は少なくなかった筈だ。

 

 陽炎は違った。沈むまで進め、命を捨ててより多くの敵を道連れにせよ。彼女の存在意義はそこに在る。

 

「私は沈まないわ」

 

 それを鑑みれば、彼女の言葉は何よりも深い慈愛を持って放たれたものだったと分かるだろう。

 

「戦艦に追い立てられようと、空母に退路を塞がれようと、魚雷が目の前に迫っていたって」

 

 陽炎とは止まらない。

 

「どんな死地からでも、私は必ず敵を撃滅して帰ってくる」

 

 だから。

 

「だから心配要らないわ」

 

 提督はじっと陽炎を見た。彼女が本気で言っていることも、それが不可能であることも。何より彼には慰めにすらならないことも分かっていた。

 

 だから。

 

「そうか。それは安心だな」

 

 彼は言葉だけでも笑ってみせた。それが彼女に対する礼儀であり、そうしなければ全てが無駄になってしまうから。

 

 陽炎は自分の髪を括っていた黄色のリボンを解く。解放されたオレンジ色の髪がふわりと浮いて、重力にしたがって落ちる。

 

「これはその証」

「僕に持っていろと?」

 

 差し出されたそれを、ためらいがちに受け取る。証にも何にもならない。艦娘が使っていた、ということさえ除けば本当にただのリボンだ。

 

「それを司令が持っている限り、私は必ず帰ってくる」

「信じるよ」

 

 それ以上の会話はそこには無かった。

 

 

 

 

 

 

 彼は朝日に照らされて目を覚ました。寂しくなった頭髪を撫でながら、小柄なベッドから身体を起こす。枕元の時計を見て、なるほど、と思い出したように、その下の引き出しを開けた。そこにあるのは黄色のリボン。汚れて、ボロボロになっているが切れてはいない。

 

 端末が音を鳴らしていた。瞼を擦りつつボタンをタップする。

 

「分かってるって。言われなくたって」

 

 耳にも当てずその一言だけ言い放つ。それだけで端末は満足して沈黙する。

 

 黄色のリボンを腕に巻き、顔を洗う為に洗面台へと向かう。その足取りは軽い。

 

 小綺麗に整えて、朝食のトーストをかじる。何本か差し歯になっていて、どうも食べにくさが抜けない。無理矢理コーヒーで流し込んで、クローゼットから物々しい黒のスーツを取り出す。

 

 つうっ、と涙が流れた。涙脆くなってしまったものだと彼は思う。昔であれば、もっと我慢できた筈なのに。

 

「さて、あの嘘吐きに会ってくるかねえ」

 

 それが終わったら、娘の家に行って久々に孫の顔を見よう。黒い革靴を履いて彼は玄関の扉を開けた。

 

 雲は所々に見られる物の、白い雲は太陽を隠すことなく去っていく。朝も早いというのに頭が痛くなるほど蝉が鳴いていた。これでは、到着する頃にはヘトヘトになっているかもしれない。

 

 何処かの自動販売機で茶でも買おう。右手はポケットに元々入れてあった小銭を触ってじゃらじゃらと鳴らし、左手ではハンカチーフで額に滲む汗を拭いながら、彼はコンクリートで舗装された道を歩く。

 

 その先には、陽炎がゆらゆらと揺れていた。




陽炎は確かにそこにある
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