「……んん」
窓から差し込む朝日が彼の顔を照らした。うっすらと目を開け、どうしてこんなに眩しいのかと寝ぼけたままで考える。そういえばカーテンを閉めるのを忘れていたと少しずつ醒めてきた頭が思い出し、秋津は体を起こした。見覚えのない部屋。ああ、そういえば宿を取っていたのだった。
秋津は補給と報告を兼ねて大本営に一度戻った。その際に少々相手に皮肉を幾らか言いもしたのだが取り合ってもらえず、監視の継続を申し出ると好きにしろと返された。
そうして教授のもとへ戻るために列車に乗ったのだが、事故で遅れが発生していた。そのため急に宿を取ったのだ。
「土産話といえばいいお湯だったことくらいでありますな」
浴衣姿からいつもの軍服に着替え、チェックアウトの手続きを取る。女将はめったに見ない軍人の姿に驚きを隠せないようだったが、秋津は一般の客人と変わらない振る舞いをしていた。
次の列車で向かえば太陽が昇りきる前に着くだろう。端末でしっかり時間を調べて秋津は宿を出る。梅雨の季節は既に終わり、カンカン照りの夏の空が肌を焼く。日焼けするなんてことは無いが、流石にその暑さには辟易するところだ。
今日は列車も問題無く走り、予定通りの時刻に秋津は鎮守府の前に辿り着く。自分の居ない間にまた問題でも起こしていないだろうか。頭のネジが何本か外れた科学者のことを思うと胃がきりきりと痛んだ気がした。
今度はノックすることもなく扉を開く。埃っぽい廊下はほんの気持ちばかりとは言え掃除され、綺麗になっている。はて、珍しいこともあるものだと秋津が首を傾げていると、後ろから声をかけられる。
「おやおや、もしかして秋津さんですか。何か困り事ですかぁ?」
「ああいや、教授殿はどちらに」
「教授ならクッキー焼いてますよ」
「なるほど、ありがとう」
私室に向かっていた足が止まる。
「ところでどちら様でありますかな」
ホルスターに手を忍ばせながら、自然な流れで振り返る。この鎮守府には教授以外には誰も居ない筈だ。艦娘でさえも例外ではない。
グレイッシュピンクの髪、十四、五歳くらいに思える体付き。幼さを助長する青を貴重としたセーラー服に、動きやすそうなハーフパンツ。快活さの見える整った容姿。見覚えがあり過ぎた。
「あー、私
少女はおどけた調子で敬礼してみせた。首からかけられたスチルカメラは傷一つない。手に持った手帳はまだ最初の方のページが開かれている。
「艦娘が好き勝手歩いているなんて、いったいどういう心変わりを」
「いやー、あのですねえ、私もう艦娘じゃないんですよ」
「艦娘じゃないと言っても……艦娘じゃない?」
目の前の少女の姿は、秋津に助けを求めた彼女と瓜二つだ。艦娘ではない、なんて騙りにすらならない嘘。だが、仮に事実であるとするのならば。
「おや、音がしたからもしやと思えば。想定していたよりも遅いお帰りだね。青葉君も、私が出迎えるより先に出会ってしまうとは、幸運なのかどうだろうか」
「教授殿。これは……」
「彼女は人間だよ。比喩でも何でもなくね」
本人に言われてしまえば否定することはできない。喜ぶべきことなのか、驚くべきことなのか。秋津に言えるのは、間が悪いとただそれだけだった。
「立ち話もなんだろう。座ると良い。君用に間宮アイスとやらを仕入れてみたんだ」
「確かに、不意打ちで立っているのもやっとなもので。お言葉に甘えるであります」
いつもの場所で、少しクッキーの量が増えたバスケットと二人分のティーカップが並べられる。秋津が定位置に腰掛けると教授もいつもの席へ。青葉は工廠から持ってきたシンプルな丸椅子に座った。平然とクッキーを口にする少女を見て、本当に艦娘ではないのだと、思う。
「ちょうど君がここから出立した翌日だったんだよ。私の研究が第二段階に進んでいたのは君も知っているだろう」
「艦娘の研究は終わり、内部物質を置き換えるための薬品開発に移った、でありましたっけ」
注射一本で種族すら変えてしまえるのかと半信半疑であったものだが。
「それが成功した、と」
「正確にはまだ成功とは言えないがね。人間と同じ構造になったのは彼女だけだ。他は拒否反応を起こして解体せざるを得なかった。艦娘の種類なのか、個体差なのか、或いは彼女自体が奇跡的な幸運によって生まれたのか。調べることは尽きていない」
「何にせよ、前例は出来たのでしょう?」
「そういうことだ」
満足そうに教授は頷いた。百に至るには遥か遠い。しかし、零と一では雲泥の差だ。何より、仮に彼の所業が明らかになったところで、狂言の戯れ言と切って捨てることが出来なくなった。
「おめでとう、と言うべきでありましょうか?」
「有難く受け取っておくよ。本当は艦娘達からの賞賛が何よりの褒美なのだが、理解を貰うにはまだまだ足りないからね」
「また心にも無いことを」
「そうでもないさ。誰かが救われないと、私はただの人殺しだ」
しばらく噛み砕いた音だけが響いた。一言で気温が一気に下がったのだろうか。もう夏の日だというのに寒気がした。
「……それで、成功者はどう扱うつもりで? まさか、殺すなんてことは言わないでしょう。おそらくは憲兵で請け負うことになりましょうが」
「ああ、それなんだがね。これからの成功者は君達に預けるつもりだよ。ただ」
教授は珍しく困ったような顔で青葉を見た。つられて秋津の視線も彼女に向かう。当の本人は輝かんばかりの笑顔を浮かべていた。
「私はここに残りますよ? この人だけじゃ危なっかしいし、何より! 艦娘の人間化技術なんて特ダネじゃないですか!」
「副作用で頭がおかしくなったのでありますかな」
「ひどいっ!?」
大袈裟に仰け反って見せる元艦娘。こういうオーバーリアクションな所は少し似ているな、と漠然と思った。ある意味では中身も似ているのかもしれないが。そう考えて、人と艦娘を同列に扱っている自分に気付く。全く、
「こんなところに長居したいなど、真っ当な人間の考えることではないでありますよ」
「長居しているのが家主の前で言う台詞ではないね」
「自分は仕事でありますから」
秋津は立ち上がり、煙草の箱をチラつかせて部屋を出て行く。屋上に行くからついてくるな、という意思表示だ。教授は気にすることもなく、残り一枚のクッキーを掴もうとする。背後で三十路と少女のおやつ争奪戦が始まったのを察しながら彼は部屋を後にした。
雲一つない快晴に煙をもくもくと立ち昇らせて、秋津は手すりに肘を乗せた。頭の中で反響するのは青葉の言葉。
艦娘はこの研究には反対するものだと思っていた。少なくとも教授のしてきた所業を知っているのなら。艦娘は戦争さえあれば艦娘として生きられる。絶対ではないがそれが常識だ。人間になりたいという欲求は生まれない。艦娘からは遠く離れた生き方をした自分でさえ、初めは酔狂と疑ったのだ。理解があると言ってしまえば聞こえは良い。しかし、しかし。
パシャリ、とシャッターを切る音がした。二回、三回と繰り返される。秋津は振り返らなかった。灰を携帯用の灰皿に落とし、新たにもう一本くわえる。
視界の端に髪の毛が映る。手すりに頭を乗せて、出会った時に持っていたスチルカメラよりずっと小柄なデジタルカメラをポケットに仕舞う少女の姿を横目に眺めて、秋津は煙草を口元から離し、逡巡して、まだ吸い始めのその火を消してしまった。
「貴官は、この呼び方は良くないでありますな。貴女は彼がやってきたことを知っているのですか?」
「解体の話ですかあ? そりゃまあ、本人から聞きましたし当然知ってますよ」
「それならどうして」
「さらに言うなら
秋津の言葉が止まる。教授がまだ
「たった一回だけですけどね。秋津さんは気付いてないかもしれませんけど、あれで結構ガラスのハートさんなんですよ」
青葉は語る。秋津が見ようとして来なかった人間としての教授を。
「先ず私が建造されたときですけどぉ、あの人はこう言ったんです。『私は君を殺すだろう。人間として君を殺すだろう』。人間として、って誰を指しているんでしょうねぇ。それで全部聞かされてー、私はどうぞご自由に、って答えました。どうせ苦しんで解体か、苦しまず解体かのどちらかしか無かったですし」
「死にたくない、という気持ちは無かったので」
「無いと言ったら嘘になりますけどぉ」
青葉はニカッと笑った。全部受け入れた笑みだった。
「それ以上に、艦娘の人間になりたいって気持ちは強かったってことなんでしょうねえ。赤の他人のことすら心配してしまえるくらい。もしかしたら私だけかもしれませんけど」
「…………」
「まあ、私は全部理解した上で選んでるつもりですよ。私が生まれるために
「人が……」
教授の言葉を思い出す。艦娘が人になるのは経験を得たとき。艦娘が彼と話をする。ああ、そうか。
彼は人殺しなのだ。自分の意志で人殺しになったのだ。他の人を救うために泥を被ったのだ。
「自分には、貴女の意志を否定することは出来ませんね」
口調が少しだけ弛んだ。自分を
自分が出すべき答えは、憲兵隊の副官でも、あきつ丸でも、ましてや混ざり者なんかでもない。
「貴女のおかげで視界が開けた気がします」
「おぉ! その表情はきっとレアですねぇ!」
彼女の方へ振り返った瞬間、炊かれるフラッシュ。さっきとは似ても似つかないいたずらっ子らしい満面の笑みに、台無しだと思う秋津であった。