「ただーいまっと」
バイトを終えて帰宅した俺は、静かに玄関扉を開けて家に入る。時刻は既に12時を回っていて日を跨いでいた。家の中の明かりは全て消えて⋯⋯。
「⋯⋯ん? リビング、点いたまんまだな。消し忘れ、か?」
玄関から見えるリビングの扉、その隙間から光が漏れている。廊下が暗いからよく分かった。
「お帰り~」
玄関扉の鍵が落ちたのを確認して靴を脱ぎ、廊下を歩いてリビングに入ると、呑気、と言うよりは、眠た気な声が聞こえた。
母さんがテーブルに頬杖を突いて俺を見ていた。
「母さん、まだ起きてたのか? 明日⋯⋯と言うか、朝に響くぞ」
「だーいじょーぶだよー、今日は休みだからー」
母さんは顔の前でひらひらと手を振る。
年齢の割りに幼い顔立ちで高等部生にも間違えられがちの母さんではあるが、今の疲れた表情は大人っぽく見える。⋯⋯実際に大人なんだけどな。
「そうか? それなら別にいいんだけどな」
言いながら母さんの向かいの席に座る。ここまで起きてたのは俺を待っていたからだろうし、いつまでも立ったままだと話がし辛いからな。
「で、何で起きてるんだ? 連日の早朝出勤と残業で疲れてるだろ。話なら明日⋯⋯今日の夜とかでもいいと思うぞ」
次回のクロスオンラインのイベント調整で忙しいらしいからな。身体を労ってほしいと思う。
「今しておきたいんだよー」
眠気からか、母さんの語尾が妙に伸びている。焦点も定まってないし、本当に大丈夫か?
「分かった分かった。さっさと話を済ませて部屋に戻って寝てくれ」
「えぇー? 息子との語らいはゆっくりしたいよー」
「それより母さんの身体の健康が大事だ」
睡眠欲求はマイクロチップに備えられた機能で十分押さえられるが、身体の不調はそうはいかない。
睡眠不足や日頃の疲れで母さんの肉体はそこそこに調子が悪そうにも見える。それは眠た気な表情から分かることでもあった。睡眠欲求を押さえられていないのだ。
「息子がつれないよー」
顔を両手で覆ってしくしくと泣き真似をする我が母。
普段から朗らかで、リアクションの大きい母さんだが、これは異常だ。寝不足で相当ハイになってるらしい。
「⋯⋯で、話ってのは?」
「よくぞ聞いてくれました! これを持って帰ってきたのだ!」
暫く眺めていたが、いつまで経っても終わらない泣き真似に痺れを切らしてそう問い掛けると、隣の椅子に置いていたらしい正方形の段ボール箱を取り出し、デデン! と言いながら机の上に置く。
⋯⋯やっぱりテンションがぶっ飛んでるな。口調もおかしいし、効果音を自分で付けるところが今のイカれ具合を如実に表している。
これは早めに切り上げた方が良さそうだ。
「それは?」
「これはね、宏壱専用のVRヘッドギアだよ」
VRヘッドギアってのは、VR空間にダイブするための装置だ。VR空間ってのは仮想現実のことだな。
詳しくは知らないが、仮想空間に自分が作成したアバターを投影して精神をそこに入れる物らしい。
「俺専用?」
VRをカスタムして色々機能を付け加えたりとか、装飾を変えたりなんてことはできるらしいが、前者は実際にやってしまうと脳に甚大なダメージを与えてしまうとか、五感の麻痺だとか、眠ったままになるとか聞くんだが⋯⋯。
「そう、宏壱専用。VR空間での感覚をダイレクトに伝えてくれるんだよ」
「VRってのはそういうもんじゃないのか? 実際に感じているように思えるからここまで普及したんだろ?」
VRは当初、医療目的で研究され発展したものだ。
手術のデモンストレーションや、身体が不自由な者に歩く感覚、物を見る感覚、聞き取る感覚、喋る感覚⋯⋯他にも様々なことで利用されていた。
実際リハビリなんかにも使われ、驚異的な回復速度を見せた者もいたらしい。
今は擬似的な海外旅行なんかもできるが。
「うん、そうなんだけどね。実は伝わってる感覚は10分の1程度でね、それを十全に受けてるって脳波を誤魔化してるんだよ」
「⋯⋯何でまた? 痛覚だけじゃなかったのか?」
あらゆる感覚の中で、負の感覚、痛覚や空腹はVRで100%本人に伝わらせていない。死ぬほどの痛みを味わえば、人間の脳は本当に死んだと勘違いを起こすことがあるらしい。で、実際に現実の肉体も死に至るわけだ。
痛覚の制限と言えばいいのか、感じる痛みを押さえたことでそんな事案もなくなったらしいんだが⋯⋯。
母さんが言うには、全ての感覚を痛覚と同レベルに押さえて、脳に送る信号を組み換えて誤魔化しているらしい。
「現実とVR空間を剥離してる枠組みを明確にするためだよ。混同しないようにね」
「錯覚させたら意味ないんじゃないのか?」
「大丈夫だよ。現実に戻ったら、錯覚が消えてVR空間での食事より、現実の方が美味しいって感じられるから」
「⋯⋯そんなものか?」
「そんなものだよ。人間の脳とか精神って、複雑なようで単純だから」
納得いくような、いかないような⋯⋯そんな説明だ。
⋯⋯じゃなくてだ。
「つまり、そいつは感覚を100%俺に伝えるってことか?」
母さんの前に置かれた段ボール箱に人差し指を向けて確認する。
「うん」
「何でまた? 下手すると俺は現実とVR空間を混同するかもしれないぞ?」
「だって、宏壱が退屈そうだから」
母さんはいたって真剣だった。真っ直ぐに俺を見る眼は、俺の眼を捕らえて離さなかった。