「……ふざけたことを仰いますのね」
計画を話し終えたナナリーに対し、引き攣った顔で神楽耶が返したのはこれだった。
ナナリーは笑みを崩さない。
「ブリタニアの経済支配に甘んじろと」
「そうですね、わたくしたちもボランティアではないので。我が国の利益、民の生活を考えなければなりません」
「それは、そうでしょうね。今まで甘い汁を吸ってきたブリタニア人がいきなり富を失えば、国が傾くのは目に見えています」
「でしょう?それで強硬路線に走られては困るのです。何のために戦争を終わらせたのかわかりません。ですのでしばらく……と言っても数十年はかかるでしょうが……ひとまず誰も死ぬことはありません」
「エリアとされている国を解放したところで、経済支配はいつかの火種となるだけでは?」
「ええ、その通りですわ。ですからそこが私たちの腕の見せ所です。もちろん簡単に行くとも思っていません。信じて頂かなくとも構いませんが、皇族として生まれた以上、生涯をかけて世界を造り変えるつもりです」
「黙って屈しろと」
「まあ、そういうことになります」ナナリーはこともなげに頷いた。
「命より……大事なものがあるとしても?」
「あなた方のプライドのことですか?そんなこと、気にしている場合でしょうか?」
「……ッ」
「仰る通り我々は卑怯な侵略者ですが、あなたたちが負けたこともまた事実ですもの。まさか、正義だのなんだのといった議論をここでなさるおつもりですか?」
神楽耶は唇を引き結んだ。平静を保っているように見せかけても、握った拳はぶるぶると震えている。
「神楽耶、」
「スザク!」
いよいよ耐えられなくなって、ついに叫ぶ。
「なぜ……なぜ、わたくしを見捨てなかったのです!そうしていれば、こんな……こんなっ」
「今更言ったところで詮無いことです。屈辱的な事実はあなた方の内にだけ残り、今なおゲットーで貧困に喘ぐ子どもは救われる。ねえ神楽耶さん。私たちの手を取るか殺されるか、道はふたつ……いえ、もうひとつ。ここで自刃するか、ですわね。それしかもう残されていません。枢木准尉がなんのために膝を折ったのか、よく考えて返事をしてください」
それからナナリーは、しかし怯えたように目を伏せる。敵には決して見せぬ、ただの少女としての姿。一瞬ののち、「アーニャ!」意を決して呼びかけた。
「その……すぐに、返事をちょうだい。迷う心で、付いてきてはいけない」
アーニャは顔面蒼白だ。そんな顔を見たくなかったとばかりに顔を歪めながら、主である少女は畳みかける。
「アールストレイム家だって、謀反の意が知れれば無事ではすまない……終身刑ならまだいい方。それでもこんな私に付いてきたい?」
敬語を伴わないナナリーの言葉。皆、黙ってそれを聞いている。
「シャルル……陛下を、あの方を殺すの?」
「場合によっては。……だけど、知っていたでしょう?私がお父様に、恨みの気持ちがないと言えば嘘になると。お母さまを、お兄さまを、あんなふうに……あんなふうに、して。私は、ええそうよ、ただの私怨だとわかっているわ………だけど、どうしても。許すことは出来ないの」
ナナリーはもう動揺していなかった。凪いだ水面のように、騎士を見つめている。神楽耶はきっと、こんな言葉は言えないだろう。自分の命を捨てることは惜しくない。
だけどこれから飛び込もうとする大渦に一緒に飛び込むときは、きっと一緒にいてほしい。スザク、お願い、そばにいて。もしいけないとわかっていても、そう言ってしまうだろう。
いや、ナナリーにとってそうすることのできない相手が、ルルーシュなのか。
そのルルーシュは一言も発することなく見守っていた。が、アーニャがすっかり黙ってしまって俯いた頃、隣に座る妹の手を握って、小さく彼女を促した。
「アーニャ……」
「……ナ、ナリー様」
「無理なことを言いましたね。もう何も言わないわ。預けている騎士章を……」
「ナナリー様!」
「……なに?」
桃色の少女が顔を上げた。その反応に、ナナリーは期待の色を浮かべそうになる。いけないと引き締めながらも隠しきれていなく、これがあの副総督だとは思えない。大衆の望む皇女の仮面を引き剥し、そこにいるのはただのナナリーだった。
「私を殿下の騎士に。どうか……」
「…………」
「候補じゃなくて、仮……じゃなくて。本物の騎士に……」
がたり。
ふらりと立ち上がったナナリーはアーニャに駆け寄ると、その体を思い切り抱きしめた。ほとんど体当たりだ。今どうにかしなければいけないはずの神楽耶もスザクも置き去りに、そのまま、強く強く抱きしめる。隠れた顔のむこうからずずっと鼻を啜る音がして、ヴィレッタが目を瞠った。泣いている?まさか。
いったいどうしたものか。神楽耶は完全に調子を狂わされて、スザクを見やる。スザクも同じような心境らしかった。総督ルルーシュも微笑み――心温まる、と言えるはずのそれが、禍々しいものに感じてしまうのはなぜか――皆一様に、ほっとしたような顔つきだ。
「私、ずっと思っていたの。あの日アーニャが私の騎士になるって言った時から、嬉しくて仕方なかったけれど、どこかで後悔していた。こんなふうに生きなくてよかったのにって。学校に通ったり、誰か好きな人でも作ったりして、それから家を継いで――貴族として当たり前の生活を、私が全部奪ってしまった。これでよかったのかって、ずっと……。なのに私は今また貴女を、とんでもないことに引き入れようとしている。騎士なんかになってしまったら、もう絶対離れられないのに。どうしてそんなことを言ってくれるの?馬鹿だわ」
アーニャはいくらか戸惑う素振りを見せたが、向かいに座るジェレミアやヴィレッタの顔を見て、何か思うことがあったらしい。ナナリーを抱き返し、ナナリー様こそ、と言った。
「馬鹿はお互い様。もうずっと同じ船に乗ってるのに」
「ごめんなさい……」
「謝らないでください。私が選んだ」
ぽんぽんと背中を叩く。これがクーデターの計画だとか、エリア解放だとか、そんな血なまぐさい話でなかったらどれだけよかっただろうか。部屋全体の空気がいよいよ緩みだしたとき、それを良しとしない人間がばつんと断ちを入れた。
「ナナリー。泣き止め」
頬杖をついたルルーシュだ。
「そんな顔で開演式に出るつもりか?辛気臭いことこの上ないぞ。副総督の仕事に支障を出すな」
反射だろう。妹でありながら、彼の忠実な部下でもあり続けるナナリーは、すぐさまルルーシュを向き直って泣き止んだ。ずずずっ、と皇族らしからぬ鼻を啜る音を立ててはいたが、なんとか良しが出たらしく、今度は咎めは飛んでこなかった。
「いいだろう。今日は式後の仕事はキャンセルしてやるから、ゆっくり二人で話せ。お前たちはどうも言葉が足りていないようだから」
「でも総督、あれは……」ヴィレッタが顔を曇らせると、
「ジュリアスは今晩暇だったな」
「…………ええ、はい。時間が作れないわけでは」
一番端に座っていた男が唸るようにイエスと返す。覆面の下から聞こえるくぐもった声は、言外に、他にやらなければならないことがあるのだとはっきり示していた。
ルルーシュは満足そうに一同を見渡すと、悠々と息を吐く。
そしてとうとう、
「……さて、皇殿?時間が来たようだ」
――蛇の目が神楽耶を捉えた。
わかっている。神楽耶に逃げ道などない。
だがしかし。神楽耶たちが正式な国の代表であるならばまだしも、神楽耶もスザクも、キョウト六家というひとつの組織の一員に過ぎない。勝手が許されるわけもないのだ。
結果がどうあれ、これはまごうこと無き裏切り。
「殿下」
神楽耶が張り付けたかのように唇を引き結んだままでいると、ぱしゅんと軽い音を立てて咲世子が入ってくる。
「遅くなって申し訳ありません」
「いや、いい。片付いたか?」
「はい」
神楽耶は彼女を凝視した。篠崎咲世子。彼女自身を知っているわけではなかったが、その苗字ともなれば話は別だ。篠崎。
皇家だって長きに渡って護衛を任せてきた忍の一族だ。ブリタニアに公開処刑された神楽耶の父母である皇家当主は、篠崎家の当主の弟を護衛としていたはずだ。彼もまた、ブリタニアに殺されたはず。初めて彼女を見たときから、なぜそんな一族の生き残りがブリタニアに与しているのか、理解が出来なかった。わけを知りたくとも、狸芝居のあの茶会でそんなことができるはずもない。
刺すようにこちらを見てくる全員の視線を振り切って、神楽耶は彼女に声を掛ける。ルルーシュの右隣に座った咲世子は、落ち着き払って返答した。
「何でしょう」
「貴女、“あの”篠崎の者ではないのですか」
「ええ、如何にも。私が父より当主を継いだ篠崎流の後継者です」
「なぜ……貴女のような方がブリタニアに下っているのです。あなたの一族はすべてブリタニアの手で殺されたというのに」
「私の主はブリタニアでは御座いません。私は、ルルーシュ様に仕える女です」
咲世子はきっぱりと言い切った。
「ではあなたは、このCODE-Rに賛成していると?」
「はい」
「日本がどのように戻ってくるか、わかっているのですか」
「もちろん」
咲世子はそこで言葉を切り、アーニャにひしりとくっついているナナリーをちらと見た。
「ナナリー様がどのようなご説明をなさったのかはわかりませんが……そのご様子だと、あまり良い伝え方はなさらなかったようですね。ルルーシュ様も」
表情はほとんど変わらないが、どこか苦笑するような気配を滲ませる。そして彼女は、話す言葉を日本語に切り替えた。
「神楽耶様。私は日本人としての誇りはなにひとつ捨てておりません。己が親族に教わった生き方に、今も恥じてはおりません。ルルーシュ様もナナリー様も、お口はあまりよろしくありませんが、今のブリタニアを変えようという熱い志を持っていらっしゃいます。そのためのお力も、持っていらっしゃいます」
真摯に語りかけてくる咲世子。まっすぐと神楽耶を見る目は澄んでいて、彼女が言葉通り、日本人としての誇りを秘めていることが伺えた。明朗な日本語からも、それがわかる。
「……話を聞いてみても、雲をつかむような計画です。まるで子どもが立てたような夢物語ですわ。失敗する確率の方が、私は強いと思いますけれど」
「そのために、殿下方は全力で準備をしてこられました。決して無謀なことではありません。私は、この方に賭けてみたいのです」
なおも苦々しい顔をする少女。まだあどけなさの強く残るその姿で敵陣に放り込まれ、かかる重責はいかほどのものか。
そこで咲世子はふと微笑んだ。
「篠崎家の人間の欠点をご存知ですか、神楽耶さま?」
篠崎咲世子は忙しい。それはもう忙しい。なにせルルーシュの御傍係と、エリア総督である彼のお傍係と護衛を兼任しているうえに、雑多な用事もこなすのだ。隠密として放たれることもままあるのだから、目まぐるしいことこの上ない。昔はナナリーに篠崎流戦闘術を仕込んでいたし、今でも手合わせをする。二十代も半ばになり、最近少し体の変化を感じるのが悩みの種だ(年上であるヴィレッタに相談してみれば、最近化粧水を変えたとややずれた返答をもらった)。
一人で何役もこなす咲世子は、部隊いち忙しい。何日も仲間と会わないことはざらだ。並大抵の根性でできる役ではなかった。
しかし咲世子は、憎き敵国の皇族にわざわざ誠心誠意奉仕するほど愚かではない。名誉ブリタニア人としては破格の給料をもらっているのだから、そのようにする同胞もいるにはいるだろう。しかしやはり、帝国の中枢でナンバーズが、猿が、イレブンがと罵られながら、それでも頭を垂れることは、咲世子にとって許しがたいことだ。自由と名前を奪われても、心に刻んだ日本人としての誇りまで奪われたつもりはない。屈辱には変わりない。
なぜそれに耐えてまで彼に仕えるか。簡単だ。
彼がブリタニア帝国の破壊と創造を、本気でやろうとしているから。咲世子が仕えているのは「ルルーシュ様」であって、間違っても神聖ブリタニア帝国ではない。
ついこの間、仲間に初めて吐露された本音たち。
7年前から彼がそれを計画していたことを、咲世子は知っていた。
咲世子は当時、イレブン開拓を目指しやってきた貴族のうちのひとつであるアッシュフォード氏のSPであり、表向きはメイドだった。なぜって、他に仕事がなかったのだ。
篠崎流は知る人ぞ知る隠密機動の名家。昔から、将軍、天皇、首相など、名だたる人間を守って来た。決して日本史の表に出ることはなくとも、家系図を辿ればその歴史の重みが知れる。
しかしその日本はブリタニアに敗北した。当時の咲世子は16歳。免許皆伝をもらえるところだった篠崎流見習いであり、高校生であった。
いくら身体能力に優れた人間であろうとも、降ってくる爆弾に、KMFに勝つことは叶わない。そこに守るべき相手がいればなおさらのことである。一族の大半はトウキョウ戦に巻き込まれて死亡し、咲世子は運良く、奇跡的に、命からがら逃げおおせた。残った者はわずかだ。いまどうしているのか、生きているか死んでいるかすらわからぬ者も、最後まで主を守り、ブリタニアに処刑された者もいる。仕事と割り切り逃げればいいものを、一度この人だと惚れてしまうと、生涯相手に仕えてしまうのが篠崎一族の悪いところだった。
篠崎流当主の娘であった咲世子は、腹をくくって篠崎流を継ぐことにした。躊躇したのはひとえに、父からまだ一人前のお墨付きをもらえていなかったからである。
焼け跡の家からせめても役立つ資料をかき集め腕を磨く日々。咲世子ひとりがブリタニアに盾突いたところで焼け石に水、まったくどうしようもないことだ。それでははて、これからどう生きればいいのか。途方に暮れていた。なにせまだ高校生だったのだ。いくら身体能力に優れていれど、戦争に負けて国がなくなってしまったときの身の振り方なんてもの、知っているわけもない。いや、年齢なんて関係なかった。答えを知っている者なんて、ほとんど誰もいなかっただろう。
大学に受かった、あの人に明日会える、本社に栄転だ、子どもが出来た……。そんな人々の日々の営みは、あっさりと終わった。宣戦布告から1か月もたたぬうちに。
明日の見えない焼けた国で、勝手にイレブンと名付けられたのだ。途方に暮れているのに腹は空く。どんどんブリタニア人が乗り込んでくる。咲世子もそのひとりだった。
だが絶望している場合ではなかった。それではいけない。そんなことでは生きていけない。どうしたって、明日は来る。
――自分はここで死んではいけない。後継者を見つけ、育てなければいけない。
ただひとつ、強烈なまでに咲世子がわかっていたのはそれだけだ。
篠崎流を託された人間としての使命。
最後に父と言葉を交わしたのは、東京が火の海になるその日の朝だった。
咲世子もそろそろ一人前だと、自分も負けていられないと。
父は確かにそう言った。だから諦めてはいけない。
咲世子は考え抜いた末、名誉ブリタニア人となった。
そして、まずは職だとふらふらとしている時、町である親子を助けた。娘が車に挽かれかけ、咄嗟に身体が動いたのだ。いくら敵国の人間だろうと、小さな子どもにまで責任はない。少女の両親はイレブンである咲世子を汚らわしそうに睨めつけたが、その父――つまりは少女の祖父はそうではなかった。
咲世子が職を探している途中だと言えば、ならばうちで働かないかと誘ったのだ。
それがルーベン・アッシュフォードである。
まさかこの半年後ブリタニア本国に飛ばされるなどとは、思ってもみない咲世子であった。
SPとして採用されたものの、まあとにかく、没落貴族の命を狙う人間はいない。結局ほとんどメイドとして使われることになり、孫娘のミレイの世話をしていた。仕事も板について来たある日、ルーベンはこんなことを言った。
この家は5大貴族とも言われる大貴族だったのだが、事業に大失敗して今こんなことになっている。先祖に顔向けができんよ。ああ、マリアンヌ様さえ生きていれば……、と。
咲世子は日本人の小娘で、ブリタニアの事情など知る由もなかった。情報の大事さはよくわかっていたから、適度に学んではいたけれど、しかし所詮イレブン。ブリタニアにおける身分制度を、肌で知っているわけもない。
とにかくルーベンにとっては、貴族社会の理を知らず、自分より身分が低く、話を聞いてくれて、外に漏らさない人間が必要だったのだ(外に漏れてはいけない、というのはルーベンの外聞やプライドの問題で、咲世子が知ってまずいようなことはひとつもなかったが)。
つまりは愚痴の吐き出し役。
マリアンヌ様は素晴らしい方だった。あのまま生きていらっしゃれば、今ごろ我々のガニメデに……とか、あの時あそこで手を引いたのが失敗だったとか、しかし博打を楽しめなくて、人生何を楽しむのか?とか。それはそれはバリエーション豊かな、しかし最終的には同じようなことを言っている彼の愚痴に付き合う日々。ぽつりと、殿下方はどうしてらっしゃるかなあ、とこぼすこともあった。
アッシュフォードはマリアンヌ皇妃の後ろ盾で、彼女がテロによって身罷った後、事業に大失敗して後を追うように没落した家だ。今なおヴィ・ブリタニア家の後見ではあっても、力はたかが知れている。ブリタニア本国でお助けすることすら、御家存続を思えばできなくなるような。そのくらい当時は大惨事だったのだ。エリア11での事業が安定してようやく、ルーベンは残された皇子皇女の話をするようになった……そんな、ある日のことだった。
「アリエス宮の人手不足が深刻だ。うちからも何人か使用人を派遣したいが、わたしは君も送ろうと思う」
いつものように、ミレイが寝付いた後。寝酒を持って行ったとき、つまりは愚痴に耳を傾ける深夜。
ルーベンはとんでもないことを言い出した。
「……と、おっしゃいますと」
「アリエスのコックが、殿下に毒を盛ろうとしたらしい。ありえないことだ……ありえないことだよ」
嘆かわしい、ありえない、とばかりに首を振るルーベン。ありえないのはこっちだった。
「信用できる人間を送りたいのだ。今更アッシュフォードがヴィ家の足を引っ張ろうだなんて、あまりにも益のないこと。ルルーシュ殿下も、少しは安心なさってくださるかと」
プリンス・ルルーシュ。咲世子はそのとき初めて皇子の名前を知った。
「しかし旦那様、私は……」
「お願いだ咲世子。殿下が大きくなられて、皇宮で力を身に着けるまで……側にいてやってくれないか」
「そう仰られましても、ブリタニア語に自信もありません」
「この家でこれだけ支障なく仕事ができるようになったんだ、大丈夫だ」
「イレブンですし」
「かまわない」
いや、構うだろう。
英語だってとりわけ得意であったわけでもない。英語教育の進んでいた日本では、高校卒業時には軽い会話は難なくこなせるように実践的なカリキュラムを組んでいたが、咲世子はまだ高校2年生だった。この家でも普段の仕事の内容を問題なく理解できるようになっただけだ。ルーベンだって簡単な言い回しばかりを選んで、咲世子にもわかりやすいように話していたではないか。
何よりナンバーズが皇宮などに入っていいのか。入れたとして、それは立場の危うい皇子にさらに悪い噂を立てるだけではないのか。今だってミレイの両親にはうっとうしがられている。ひとつの家の中だけでこうなのだから、どうなるかなど想像に難くない。
咲世子はいつになく饒舌で言い募った。
口に出す言葉以上に、ペンドラゴンだなんて冗談じゃないという気持ちがあった。
だって咲世子は、ある程度生活が安定したらブリタニアに抵抗する同胞のところにでも行くか、ゲットーの子どもたちの学校で後継者探しでもしようと思っていたのだ。ブリタニア本国首都ネオウェルズ?冗談じゃない。そんなところに日本人がいるものか。ルーベンのことはそれなりに好ましく感じていたし、ブリタニア皇帝を慕うからといって、その人自身が差別に塗れた冷血漢ではないのだということも知ることができた。一方でマリアンヌ皇妃や残された皇子らを慕うのは、なによりも彼らが皇族であるからだということも。ルーベンはそんな話はひとつもしなかったが、もしもこれから皇子たちが廃嫡されるようなことがあれば、手を差し伸べるかは微妙なところだ。しかしそれは貴族に生まれた彼らなりの処世術であって、仕方がないこと――少なくとも身分社会の理では――なのだと、学ぶこともできた。ブリタニアの身分制度というものが、このころには咲世子にも現実感を持って把握することが出来始めていたのだ。
ブリタニア人だらけの生活の中でしか、理解できないこともある。
生活習慣ひとつから思想に至るまで、何もかも少しずつ、見える景色が違う。
ブリタニア人を憎むのではなく、刃を向けるべきは――。咲世子が心からそう思えたのは、この家に仕えた日々があったからだ。
が、皇族に仕えるだなんてまっぴら御免。ブリタニア自体は憎いのだ。
ルーベンはそんな咲世子の気持ちを感じ取ったのだろう。こちらも粘り強く、重ねて言い募る。
「殿下のお気に召さなければ戻ってくるといい。確かにナンバーズであればやりづらいだろう。だが、私は殿下にせめても、今出来る一番マシな事をしたいのだ。私の世話などかまわん。この家の選りすぐりを送るから、きっと殿下の役に立ってくれ」
ルーベンが事業に成功し、また失敗したのは、この頑固さが原因だろう。
いかに経営に疎い咲世子でも確信できるほどだった。困った。
現在の日本人の状況は惨憺たるものだ。職にありつけるものなどごくわずか。戦後の混乱であっさりと軌道に乗れたのは悪く言えば変わり身の早い、よく言えば合理的な人々であり、いわばかつての日本で上流階級にいたような人間ばかりだった。そんな中でたったひとりでうまく立ち回れたのはほとんど奇跡みたいなもの。アッシュフォード家の使用人だって、まさかすべて日本人から雇ったわけではない。大半は昔からこの家に仕えているブリタニア人だ。もちろん恩義は感じていた。
恩をあだで返してはならない。義理人情、一期一会は大切にせよ。
篠崎家の家訓の一つだ。
断ることもできただろう。しかしそうするのは、家に誇りを持つ咲世子には心苦しいことだったのだ。
一族に顔向けできない生き方はしたくない。
であれば、咲世子にできる返事はひとつしかない。
Yes,Sir.
その一言で咲世子は10日後にも航空機に詰め込まれ、トランクひとつだけを手に、生まれ育った祖国を離れることになった。
このときはまだ、すぐに戻ってくるだろうという確信を持っていた。
スーパー捏造パート、咲世子過去編。