魔法少女リリカルなのは INNOCENT BRAVE 作:ウマー店長
ごめんちゃい。
「決めるぞ、ブレイブフォース!」
『ブレイクショット発動──行けッ! アヤト!』
俺が対戦相手に向けて投げ放った白銀の槍──バインドランス──はその動きを封じこめ、体を空中へと縛り付けた。
それをトリガーに周囲に槍の穂先のような形状の魔力弾が12個展開される。
「行けぇっ!」
それらは対戦相手に向けて撃ち出され、その銀色の軌跡を追いかけるように俺も飛翔する。
貫通性能を持った魔力弾が動けない相手の体を貫いていく様を見ながら、俺自身もブレイブフォースを振りかぶった。
「──見せてやる! これが俺の、全力全霊ッ!」
全速力で接敵し、切り上げの一撃から始まった縦横無尽の斬撃があらゆる角度から対戦相手を切り裂いていく。
振り下ろし、水平切り、切り上げ、時には突きや蹴りなども交えながら息もつかせぬ嵐のような斬撃を浴びせ続ける。
空気を裂く音と斬撃のSEが絶え間なくステージへと響き渡る中、最後の一撃を繰り出すためにブレイブフォースを脇に構え一気に振り抜いた。
「切り裂け、煌刃乱舞ッ!!」
魔力刃にため込まれた魔力が解き放たれ、派手なライトエフェクトと共に放たれた渾身の斬撃が対戦相手のLIFEを消し飛ばした。スキルの衝撃によって周囲に魔力粒子と煙が舞い散るが、それらをブレイブフォースを一閃し振り払う。
ふぅ、と息をつく。体の中の火照った空気が吐き出され、それと入れ替わりに吸い込まれた空気が熱を持った体を通り抜ける。まるで熱くなった機械が冷却ファンで冷まされているようだなと思った。
視界を遮るものがなくなったところで上空を見上げると、ステージ中央の空中ディスプレイに勝利者である俺の名前がファンファーレと共に表示された。
「くっそぉ……俺の負けかぁ……」
対戦相手の青年の下へと飛んでいく。
俺は悔し気な声を漏らす彼に向って右手を差し出した。
「ありがとう、すごく楽しいデュエルだった」
「こちらこそ。それにしてもあんた強いな! 本戦、俺の分も頑張れよ!」
青年はそう言って笑顔で俺の手を握りしめた。
* * * * * *
「これで予選突破か。なんとか本戦にこぎつけたなぁ」
グランツ研究所の廊下に設置されている小さな休憩スペース。
俺はベンチに腰掛け、自動販売機で買ったペットボトルのスポーツ飲料に口をつけた。
今日はブレイブデュエルロケテストトーナメントの当日。先ほどまでの対戦はその予選だったというわけだ。
「予選で負けて約束を果たせない……なんてことにはならずに済んだな」
俺の脳裏に浮かぶのは先週シュテルと交わした約束……ロケテストトーナメントの決勝で戦うという誓いを早々に反故にするわけにはいかない。
まぁ、仮にその約束がなかったとしても負けるつもりで大会に挑む気はさらさらないのであまり変わらないかもしれないが。
さて、その決勝戦に進むためのトーナメント……つまり本戦は午後からだ。
食堂で昼食をとってデッキを軽く見直すくらいの時間はあるだろう。
俺は中身を飲み干したペットボトルをゴミ箱に入れ、立ち上がった。
「よし、そうと決まれば食堂に……」
行こう、と思ったところでポケットの中のスマートフォンが振動した。
スリープを解除して画面を見てみると、画面中央にメッセージアプリ“LIME”のメッセージが届いたことを表すポップアップが表示されていた。
その相手は──。
「シュテル?」
そのメッセージには短くこう書かれていた。
『無事予選を通過しました』
「さすがシュテル。えっと……『おめでとう! 俺も予選通過したよ』──っと」
小さなライバルの予選通過報告を受け、うれしい気持ちになりながら返信のメッセージを送る。
『ありがとうございます。ちょうど今メインホールで本戦トーナメントの組み合わせが発表されたところですので確認されてはいかがでしょうか?』
「もう組み合わせ出てるのか! こうしちゃいられない」
食堂へ向けていた足を止め、頭の中でメインホールへの道のりを描く。
シュテルもそこにいるのなら、せっかくだから食事に誘ってみるのもいいかもしれない。
その旨のメッセージをシュテルに送ろうと思い、スマホの画面を操作しながら廊下を進み、曲がり角に差し掛かったあたりで顔を上げた──その時だった。
「──あっ」
「うぉっ」
体にわずかな衝撃が走り、思わず足に力を籠め踏ん張った。
理由については考えるまでもない。曲がり角の先から現れた小さな人影とぶつかってしまったのだ。
「あっ、危ない!」
──危ないのは歩きスマホをしていたお前だろう。
……なんだろう。現実世界では聞こえないはずのブレイブフォースによるお小言が聞こえた気がする。
まぁ、実際には自分自身に対する叱責・後悔の気持ちなわけだが、今は湧き上がってくるそれをぐっと飲み、リノリウムの床へと倒れていく相手に向けて手を伸ばす。
「っと、ごめんね! 大丈夫?」
ぶつかった相手は小さな女の子だった。シュテルよりもさらに幼いように見える。
腰まで伸びたモフモフとした金髪が特徴的で、その髪と白い肌から日本人ではないことがうかがえた。
幼いながらも整った顔立ちをしており、将来は美人になるだろうなと予想させた。
……が、倒れる彼女を支えた時に気になったことがいくつかある。
(……体が細すぎる。それに顔色もよくない。これじゃ肌が白いというよりも青ざめてるって言った方がしっくりくるぞ)
「……うぅ」
俺の腕の中でうめきに近い声を発しながら少女はゆっくりと目を開いた。
その表情はとても元気な子供のそれとは言い難く、放っておけばそのまま倒れてしまうのではないかと思えてくるほど弱々しい。
小さな口から吐き出される非常にか細い息がその印象をさらに強める。
「キミ、大丈夫!? しっかり! くそっ、早く医務室に……いや、救急車呼んだ方がいいか!?」
救急車を呼ぶべくスマホを取り出し119番しようとするが、小さな手が伸びスマホの画面を抑えた。
「だい、じょうぶ……です、から。いむしつ……っ、ドクターが……」
少女の口から漏れ出した言葉を何とか拾う。
大丈夫・医務室・ドクター……救急車を呼ばなくてもいいからドクターがいる医務室に連れて行ってほしい、ということだろうか。
「だいじょうぶ……。だい、じょうぶ……ですから……」
とても大丈夫そうには見えないが、この子をこのままリノリウムの床に寝かせておくわけにもいかないし、救急車を呼ぶにしろ呼ばないにしろ到着までの間きちんとした場所で休ませてあげるべきだろう。
ひたすら大丈夫を連呼する姿に違和感を覚えながらも、膝と肩の後ろに手を回し──所謂お姫様抱っこで──少女を持ち上げる。
「すぐに医務室に連れて行くから、少しだけ我慢しててね」
少女の頭が不用意に揺れないように腕で支えつつ廊下を駆ける。
確か医務室はここからそう遠くない。おそらくこの子も医務室に向かう途中だったのだろう。
そこに俺がぶつかってしまった……そういうことだ。
ふと、服の胸のあたりが引っ張られているような感じがした。
誰が──なんて考えなくてもわかる。俺の腕に抱かれているこの子以外にいない。
この子は自分を襲う不快感を何とか耐えようとしているんだ。
怪我をしたときに奥歯を噛み締めて痛みに耐えるように、俺の服をその小さな手で力いっぱいに握りしめて。
その姿を見れば誰だって今の俺のように少しでも早くと歩みを早めるだろう。
「医務室……着いた! ここだ!」
ほどなくして医務室へとたどり着いた。少女を抱えたまま足や肘を使ってなんとかスライド式のドアを開ける。少々行儀は悪いが緊急時なので許してほしい。
開け放ったドアをくぐり、医務室内部に入る。白で統一された室内は右手奥に2台のベッド、左手にはドクター用のものと思われるデスクが設えられている。
そして、そのデスクの隣の資料棚の前で何かのファイルを読んでいた黒髪をポニーテールにまとめた白衣姿の女性が、入ってきた俺たちを見て目を丸くしながら駆け寄ってきた。
「ユーリちゃん!? どうしたの!?」
どうやらこの子の名前はユーリちゃんというらしい。なんとなく察しはついていたが、この子とドクターはすでに顔見知りであるようだ。
そうでなければこんな小さな子が救急車を呼ぶことを拒否して医務室へなどと発言しないだろう。
ユーリちゃんとドクターの間には、すでにある程度の信頼関係が構築されており、彼女はとっさにすぐ近くにいるドクターの方を頼った──そういうことだろう。
「廊下の角でこの子とぶつかってしまって……。頭とかは打ってないんですが、体調がすぐれないようだったのでここに。救急車を呼ぼうとも思ったんですがこの子がここに連れてきてくれと」
「そうなの……ありがとう。取り敢えずベッドに寝かせてあげてくれるかしら。診察するわ」
「はいっ!」
ドクターの指示にしたがって少女をベッドの上に優しく寝かせる。そして診察の邪魔になるといけないので一度離れよう思い一歩下がった時、まだ少女が俺の服の端をつかんだままだったことに気が付いた。
ユーリちゃんは依然として青ざめた顔で目を閉じたままだ。そんな彼女が少しでも安心できるように俺は可能な限り優しく語り掛ける。
「大丈夫だよ、ユーリちゃん。すぐにドクターが診てくれるからね」
そうして服の端を握りしめる小さな手を優しくほどき、そのまま立ち去ろうとした。──が、その途中で俺の体はピタリと動きを止める。
──本当に立ち去っていいのか?
俺がここにいてもできることは何もない。むしろ診察の邪魔になるだけだろう。
それにユーリちゃんと俺は今日が初対面──つまりは完全に部外者だ。彼女のプライバシーという観点からも俺はここに残るべきではないと思う。論理的に考えればそうだ。
ユーリちゃんと俺は兄弟でも家族でも友人でもない。無事医務室に送り届けた以上──歩きスマホでぶつかってしまったことは置いておいて──これ以上関わる必要はないし義務も義理もない。
でも、俺はこの子のことが気になってしまっている。
……確固たる理由はない。この子のこれまでの様子を見て、ただなんとなく、心のどこかに小さな棘が刺さってしまっているような──そんな微かな胸の苦しさを感じてしまったのだ。
「……? どうかしたの?」
中途半端な位置で静止した俺をドクターは不思議そうな目で見つめていた。
胸に残る漠然とした気持ち。それが俺を突き動かす。
「あの、もう少しここにいてもいいでしょうか」
気がついたら、そんなことを口走っていた。
俺の言葉を聞いたドクターが目を丸くする。
無理もない。俺の発言は非常識極まりないものだ。
ドクターからすれば俺はユーリちゃんをつれてきた人間、ただそれだけだ。
患者と面識のない人間が残りたいなどと言い出せば当然怪しむ。俺が彼女と同じ立場だったら俺の頼みを良しとはしないだろう。それは理解している。
それでも俺は言葉を続けた。
「この子、ここに運ぶまでの間、ずっと大丈夫って言い続けてたんです。こんなに顔色が悪くて、辛くないわけないのに……。それが俺には、この子が無理しているように見えて……だから、俺はこの子と、話がしたい。放っておけない……そう思ってしまって。だから!」
ドクターの目をまっすぐに見つめる。互いの視線が交差し、数秒。ドクターは困ったような顔をしてため息をついた。
「あなたの気持ちは分かったわ。でも、さっきも言った通りこれから診察をするから、あなたをここにいさせるわけにはいかないの。出て行ってもらえるかしら」
その返答は一人の医者として当然のものだった。
反論の手立てがない俺は押し黙るしかない。顔をうつ向かせた俺を見かねたようにドクターは口を開く。
「もう、そんな顔しないで。別にユーリちゃんと話しちゃいけないって言っているわけじゃないんだから。診察が終わった後にお見舞いに来るっていうことならちゃんと許可出せるから」
「ほんとですか!?」
勢いよく顔を上げ、その勢いで思わず大声を上げてしまう。ドクターにギロリと睨まれ、その眼から感じる圧の強さに思わず背筋を正して口をつぐんでしまった。
「と・に・か・く!ユーリちゃんの診察が終わったら呼んであげるから、そこのソファにでも腰かけて待っていて。まぁ……ユーリちゃんの服をまくって胸の音を聞いてる光景を見たいっていうなら、しかるべきところに電話をしないといけなくなるけど」
「今すぐ出ていきます!」
俺は全力でベッドから離れ、ベッドを仕切るカーテンを思いっきり閉めた。
* * * * * *
数分後、ユーリちゃんの診察を終えたドクターに声をかけられた俺は彼女の後に続いて、ベッドを仕切るカーテンをくぐった。
ユーリちゃんはまだベッドの上で目を閉じたままだが、さっきまでと比べると幾分か顔色がよくなったように思える。
立ちっぱなしもなんだから、とドクターに勧められ簡素な丸椅子に腰かける。
「顔色もよくなってきたから、もう少しすれば目を覚ますと思うわ。おそらく軽い貧血と疲労……ってとこかしらね」
「貧血はともかく……疲労、ですか? こんな小さな子が……」
これぐらいの子供が疲労で倒れる、というのがいまいちピンとこない。
遊び疲れて眠ってしまう、というならわかるが、真っ青な顔をして倒れてしまうというのはどういうことだろうか。
「あまり詳しいことは話せないけど、この子にもいろいろあってね……体力が極端に少ないの。こうやって医務室に運ばれてきたのも初めてじゃないわ」
ドクターはそう言いながらどこか寂しげな表情でユーリちゃんの頭を撫でた。
「……私はこの子の保護者に連絡をしてくるわ。何かあれば読んで頂戴」
「あ、はい。わかりました」
「……ユーリちゃんの事、おねがいね」
俺の方は見ずに、背中越しにそう呟いてドクターはカーテンの向こうへと消えていった。そのあと何やら話し声が聞こえ始めたのはユーリちゃんの保護者に電話をかけているということなのだろう。
ドクターが消えていったカーテンを見つめながら彼女の最後のセリフについて考えた。
ユーリちゃんをおねがい──言葉通りに受け止めるなら自分が戻るまでユーリちゃんを見ていてくれ、ということになる。それはもちろん構わないしここで彼女を放ってどこかへ行くつもりは毛頭ない。
だが、俺にはドクターの言葉の意味がそれだけとは思えなかった。──例えるなら、落ち込んだ子供を元気づけてほしいと頼む母親のような。
「……んぅ……? 」
ベッドから聞こえた微かな声にハッと我に返り、声の主の方を見やる。うっすらと目を開けたユーリちゃんはゆっくりとその体を起こした。
「あれ……? 私……」
「ここは医務室だよ。体の具合はどうかな? 」
「は、はい。少しだるいですけど大丈夫です……。あ、あなたはさっき……」
どうやら俺のことはちゃんと覚えていたらしい。そして俺の顔を見るや否や、申し訳なさそうな表情をしながら顔をうつむかせてしまった。
「──ごめんなさい。ご迷惑をおかけしてしまいました……本当に、ごめんなさい……」
「い、いや! そんなに謝らなくていいよ。ぶつかった俺が悪いんだし、それに俺が自分の意志でやったことなんだから。あぁそうだ、俺の名前は結城アヤト。君の名前はさっきドクターから聞いて……俺だけ知ってるのもあれだし一応自己紹介しとく、ね?」
ユーリちゃんの顔があまりにも暗いので重い空気を軽くする意味合いも込めて足早に自己紹介などをしてしまった。
「ユウキ・アヤト……さん?」
「そうそう。結城でもアヤトでも好きな方で呼んで」
「……アヤトさんは、ブレイブデュエルのプレイヤーさん……ですよね?」
「えっ? なんでそれを?」
「今日この研究所にいるのは研究所のスタッフの方々かプレイヤーの方々だけですから……。研究所の方の顔は知っていますので、見慣れない方はみなさん今日のトーナメントのために集まった方々かな、と……」
顔を伏せたまま、ユーリちゃんは自分の推測を語った。
なんというか、幼い外見年齢──小学校低学年程度に見える──に反してしっかりした話し方をする子だ。というのが正直な感想だった。
シュテルもそうだが、この年代の子供たちが敬語で、しかも知性的な会話をすることに舌を巻く思いだ。
俺が彼女たちくらいの年齢の頃はもっと毎日悪ふざけやらイタズラを繰り返し父親から拳骨をもらっていた記憶しかない。
実は彼女たちは謎の組織から毒薬を飲まされ体が縮んでしまった……いわゆる見た目は子供、頭脳は大人なアレなのでは? などというアホな考えが一瞬浮かぶほどだ。
「それに、あなたが予選でデュエルしているところを見ていましたから」
「えっ!? み、見てたんだ。はは、ちょっとはずかしいな……」
恥ずかしいのは見られていたことだけではないがそれはさておく。
「とても楽しそうにデュエルをしたので、つい目に留まってしまったんです。──うらやましいなって、思いました」
「羨ましい……? 」
「私には、あんなふうにデュエルをすることはできませんから」
「いや、そんなことはないよ! ユーリちゃんだって楽しめるはずだよ! 確かに最初は慣れない感覚で戸惑うこともあるかもしれないけど、練習を積めば──」
そこまで言ったところで、気が付いた。
ユーリちゃんがより一層顔をうつむかせ、その小さな体にかけられたタオルケットを力いっぱいに握りしめていることに。
そこで察する。彼女が言っているのは、決してデュエルの腕前とか、そういう技術面での話ではないということに。
「……無理なんです、私には」
何とか絞り出したような声。そこからは悲痛さすら感じられた。
思わず息をのむ。
「昔から、体が弱いんです。ちょっとしたことですぐに病気になって寝込んでしまって……。だから、外で遊んだりしたこともほとんどありません。そんな体だからいつもいつも両親や友達に迷惑ばかりかけて、今回はあなたにも……。今はこの研究所にホームステイをさせてもらってますけど、ここのドクターにも、一緒に留学してくれた友達にも、博士やそのご家族にも迷惑かけてばかりで……」
──自己嫌悪。
彼女の言葉からはその感情を非常に強く感じた。それと同時にここに運ばれるまでの彼女の言葉の理由も理解できた。
自分は周囲に迷惑をかけるだけの存在だと、そう思い込んでしまっている。
周りに心配をかけさせまいとする。ひたすらに謝罪を繰り返す。これらの行為はその考えからの行動だろう。
「私が『迷惑ばかりかけてごめんなさい』っていうと、みんな表情を曇らせるんです。みんなにそんな顔をさせてしまうのが本当に嫌で、それでも私には、どうしようも、でき、なくて──っ!」
ポタポタと小さな雫が落ち、タオルケットを濡らした。必死に抑えてきた感情が堰を切ったようにあふれ出す。
「だから、せめてっ……心配かけ、かけないように、しようって──。なのに、全然だめでっ──!」
あふれる涙を服の袖で何度もぬぐうが、一度溢れた感情は簡単には止まらない。
──いったいどうすれば、ユーリちゃんの涙を止められるのだろうか。
彼女の心は完全にネガティブな感情に支配されてしまっている。しかもそれは幼少期からずっと続く根の深いものだ。今日出会ったばかりの俺が何か言っただけでどうこうなるものではない。
(だけど──!)
何もしない──その選択肢は俺には初めからなかった。
「ユーリちゃん」
名前を呼ぶ。まっすぐに彼女を見つめて。
手を握る。これまで何度も涙をぬぐってきたであろう、その小さな手を。
そして思った。廊下で出会ったあの時から、この子は一度たりとも笑っていない。
本来なら毎日楽しいことがいっぱいで、笑いが絶えないものであるはずの幼少期をこの子は泣いて過ごしてきたのだ。
このままでは、この子の心は降り続ける涙の雨で腐ってしまう。
ならば俺は、その心にかかる雲を散らして日の光をあててやりたい。
だから──。
「少し、俺の話を聞いてくれないかな」
涙でしおれた向日葵に、優しく微笑みかけながら、俺はそう言った。
次回 「ラフメイカー」
※次回の題名は仮のものです。変更になる場合もあります。