第26話 旅立ちとワンワンワン放送局
「よし、皆忘れ物はないな?」
運転席のドアを勢い良く閉じた亜森は、バックミラーを覗き込みながら一同に最終確認をした。
良く晴れた日の朝、出発には好都合な天気だ。
胡桃が新たに改造を施された.45口径サブマシンガンを練習している間、亜森は車の準備、悠里達は持ち出す食料などをまとめていた。
運転席の亜森からは、助手席に座る胡桃、二列目のシートに並んで座る悠里達、そして三列目シートと後部スペースには寝袋や食料を詰めたダンボールがいくつか見える。
車中泊も考えて、それなりに大きめのバンを選んで探してきたつもりだったが、この様子ではいささか手狭かもしれない。
(まぁ、どうしても狭いならその辺りの住宅を借りたらいいか)
亜森の呼びかけに、問題なしと返したのを確認すると、キーを回した。
バッテリーあがり対策として車の屋根に設置したフレキシブルタイプのソーラーパネルのおかげか、キュルキュルとセルがから回ることなくエンジンが始動する。
ゆっくりと校門から滑り出したバンは、大学方面へと続く道路を進んだ。
学校周辺の道路事情とショッピングモールやホームセンターへの道については、どこが通れてどこが塞がっているか事細かに把握しているのだが、今回進む道は初めての道路が大半である。
一つ角を曲がれば事故車両によって閉ざされ、一つ通りを変えればゾンビ集団によって塞がれていた。
いくつもの迂回路を辿りそれを地図に記しながら進むとすると、安全なルートこそ見つかっても、安全と引き換えに時間が過ぎていくのだ。
それが一日二日と続いていってもなお、大学への道程は道半ばといった状態だった。
「どこも工事中みたいだね……」
クマのぬいぐるみを大事そうに抱えた由紀が、窓の外を眺めながら静かにつぶやいた。
「地図だと近いんですけどね」
その隣では、地図を広げた美紀と悠里が現在地と大学とを指差し、最短距離を指先でなぞる。
「なぁ、次はどっち?」
運転を変わった胡桃が左右を注意深く観察しながら、交差点で車を停止させた。
助手席に移動した亜森といえば、胡桃のサブマシンガンを抱え込みながら薄く目を閉じて休んでいる。
亜森、胡桃、悠里と順番に運転を代わってはいるが、それでも運転時間が多いのは男である亜森の役目。
夜間の見張りのことも考慮すると、極短時間でも休める時は休みたいと思うのは無理からぬことであった。
「あ、ちょっと待ってね。えーとぉ、今いるのが三丁目五番地だから、多分もういっこ先の角を右かな」
「よっしゃ」
地図でのナビゲートが最も達者な由紀の指示の下、胡桃はアクセルを静かに踏み込んだ。
「りーさん、今日はあとどのくらい走る?」
「んー、そうねぇ。夕方になる前には休める場所を決めたいから、あと一時間ぐらいかしら」
「アモはそれでいい?」
「……、あ?」
「あと一時間ぐらいで寝る場所決めようって話」
「あぁ、いいよ」
閉じていた重い瞼を半開きにしあくびを噛み殺すと、覚醒する亜森。
今日の残りの予定を了承すると、身じろぎしながら助手席に座り直す。
亜森が周囲を眺めてみれば、住宅街の只中で少し離れた位置に数体のゾンビがいるだけ。
それは、この数日見慣れた光景であり、代わり映えしないとも感じられた。
「丈槍、どこかちょうどいい場所あるか? ゆっくり泊まれそうなとこ」
「えっとねー……。コンビニとか?」
「コンビニですか?」
「そう。お掃除したら皆で横になって寝られるし……それにさー」
「何かあるの?」
言葉を濁す由紀を見る悠里。
その視線に、言いにくそうな顔をして頬をポリポリと掻く由紀であったが、観念したのか続きを話しだした。
「何か漫画の新刊、入ってないかなーって。えへへ」
「漫画、ね……。難しいかもな」
「えぇー、そんな~」
「漫画はともかくとして、横になって寝られるってのは賛成ですね」
「だな。車中泊もキツイもんな、デカい車とはいえ」
運転席で由紀達の会話を聞いていた胡桃も、そのコンビニという案は賛成のようであった。
まだ学校を出発して二日程の時間しか経過していないが、車の中で凝り固まった身体の筋肉は既にその解放を望んでいた。
助手席の亜森も特に反対意見はなく、車に備え付けられたカーナビで近くのコンビニを検索する。
いくつかピックアップされた中で、最も近く進行方向寄りのコンビニを探し出していく。
「んー、一番近いのは……ここだな。この通りをまっすぐ行って、次の信号を左折だ」
「大丈夫、何でしょうか」
不安そうな表情で、悠里は亜森に小声で尋ねた。
いざとなれば発進してしまえばいい車中泊と違い、学校のような強固なバリケードもない廃墟同然のコンビニでの寝泊まりに、悠里は一抹の不安を隠しきれなかった。
「大丈夫さ。コンビニはもちろん、その周りも明るい内に掃除してくるから」
「それならいいんですけど」
「胡桃もいるんだ、なんとかなるよ」
「そうだぜ、りーさん。あたしの新しい銃が火を噴くからな」
「無理しちゃだめよ?」
「分かってるって。ちゃんと練習したんだから」
路上の放置車両を器用に避けながら、胡桃は自信満々に答えた。
その返事を聞いて一応の了解をした悠里は、前のめりになっていた姿勢を戻し、座席に座り直す。
時刻はもうすぐ、夕方に差し掛かろうとしている時間帯であった。
「胡桃、コンビニの中は頼んでいいか? 俺は車に引き寄せられてきた分と、周りのを始末してくる」
目的のコンビニの駐車場に車を停めると、亜森は助手席から降り立ち、運転席の胡桃へと声をかけた。
その手には、胡桃の新しい銃となった改造.45口径サブマシンガンのオリジナルが握られていた。
弾薬の共有を可能とするため、拳銃以外は基本的に同じ銃を使う方針だった。
「あぁ、任せて。そっちも気を付けて」
「分かってる」
何かあれば無線でと言い残してドアを閉めた亜森は静かに歩き出し、コンビニ駐車場の道路側入り口まで来ると今しがた車が通って来た道路に向かって銃を構えた。
そして数発、近くによろよろと接近していたゾンビへと発砲すると、再び歩を進めて同じように発砲を続けた。
「そろそろ行くけど、皆はどうする?」
胡桃が、道路を前進しながら射撃していく亜森の姿を見据えながら、後部座席にいる皆へ話を振る。
何なら車の中にいても良いけどと、言葉を続ける胡桃を遮り由紀が身を乗り出して言った。
「わたしも行くよ!」
「ん、それは別に良いけど……」
何か待ちきれない様子を見せる由紀の表情に一瞬疑問を覚え、胡桃は彼女の顔に手を伸ばし、指先で頬を摘んで引っ張る。
「ちょっ、くすぐったいよぉ」
「本物のゆきは、こんなこと言わない。さては宇宙人だなー」
「ひどーいっ、手伝うって言ってるのにー」
突然始まった寸劇に、由紀を挟んで座る悠里と美紀は口元を緩め、空気が和むのを感じた。
「その心は?」
「……コンビニで漫画読みたいな~って」
「知ってた」
「そうだろうと思ったわ」
「えぇー、りーさん。だめ?」
助けを求めるように、悠里に尋ねる由紀。
「気を付けなきゃ駄目よ?」
「はいっ!」
「返事だけは一人前だな」
許可を得た由紀は胡桃の手を取ると、さぁさぁと急かすように車から降りていった。
車から降りた胡桃は、自身の新しい相棒となるサブマシンガンを手にして、準備を整えていく。
いつものシャベルは背中に、サブマシンガンには30発ボックスマガジンを装着し、コッキングレバーを引いて初弾を薬室に送り込む。
亜森とも何度か話し合い、基本的にドラムマガジンではなく、より身に付けやすく邪魔にもなりにくいボックスマガジンを選んだためであった。
セイフティを外しセミオートにレバーを回した胡桃は、由紀を後ろに従えてコンビニの入り口へと近づいていく。
「ゆき、あたしの後ろにいろよ」
「う、うん」
フォアグリップに取り付けられたフラッシュライトの灯りで、薄暗い店内を照らす。
このコンビニも、学校近くのコンビニと同様に荒れ放題となっており、幾つかの残骸に食事の痕跡が見られたが、それらに積み重なった塵や埃が長期間の間人の出入りや動きが無いことを示していた。
一歩一歩足を踏み入れていき、レジカウンター裏や商品棚の間の通路を灯りで照らした。
見えない所にも、ゾンビは見当たらない。
残りはバックヤードだけだった。
「あちゃー、漫画は売り切れかー」
「ゆき、あたし裏を見てくるから。そこ動くなよ?」
「わかった。床、きれいにしとくね」
シャベルに持ち替えた胡桃を見送った由紀は、手にとっていた日に焼けた雑誌を棚に戻すと、店内にあったゴミ袋や箒を使って床掃除を始めた。
かつて誰かが飲んで放置していったのだろう空き缶や、割り箸の残るカップ麺の残骸。
他にも細々としたゴミを箒で集めて塵取りで拾い上げていると、そう時間もかからず胡桃が店内へと戻ってくる。
胡桃には、その光景が不思議だった。
幻覚に生き、今でも偶にめぐねえと会話する由紀が、コンビニの店内を不思議に思うことなく掃除しているのだ。
幻覚との整合性が取れようもない行動に、やはり現実に戻ってきているのではと、胡桃は考えてしまう。
しかしながら、今の由紀を問い詰めることはしなかった。
他の皆とも話し合った結果なのだが、藪を突付くべきではないというのが、彼女らの結論だ。
考えても仕方ないかと、胡桃は頭を切り替えることにして、車に残る二人に肩口に装着している無線機で呼びかけた。
「あー、胡桃よりりーさんへ。聞こえますか? どーぞ」
『えっと、こちら悠里。聞こえてるわ……ねぇ、普通に呼びかけるんじゃ駄目なの? どうぞ』
「こっちの方が、それらしくて格好良くない?」
車の中で待機している悠里達の方に顔を向けて、胡桃は片手を振ってみせる。
手を振り返す悠里と美紀を視界に入れながら、無線機のボタンを押した。
「中はもう安全だよ、そっちは何かあった? どーぞ」
『こっちは何もなかったけど、さっき亜森さんが道路の反対側に進んでいったわ。どうぞ』
「分かった。外はあたしが見張りを続けるから、りーさん達は中にはいってて。通信終わり」
了解と返事が帰ってくるのを確認すると、胡桃は由紀に一言告げて、コンビニのドアをくぐった。
辺りが夕焼けに染まり切る前に、亜森は皆の元に戻ってきていた。
掃除が順調に終わったことを胡桃に伝え、コンビニの陳列棚をバリケード代わりして入り口を塞ぐと、ようやく全員が一息つけた。
電気が途切れて久しい店内は、薄暗いを通り越して夜一歩手前と言ってもいい。
明かりを灯したろうそくランタンをレジカウンターに置き、ささやかながら食事の準備を始めた。
二日間車中泊だったこともあり、車内で火を使う食事を取れなかった一行は、今日こそは温かい食事をと、持ち出していたカセットコンロに薬缶をセットしお湯を沸かしている。
「夕飯は何にするんだ?」
「そうですねぇ。カップ麺か、お湯を注いで待つだけのインスタント炊き込みご飯とか、どうです?」
亜森の興味津々な問い掛けに、悠里は車から下ろしていたダンボール箱を開けながら答える。
中身はインスタント食品が詰め込まれており、カップ麺やお湯で戻せるご飯物など、そのラインナップは多岐に渡る。
その悠里の傍らには、亜森と同じように夕飯の内容が気になる他の面々もいて、あれやこれやと中身を物色していた。
「わたし今日はカレー味のカップ麺にしようっと!」
「私は、炊き込みご飯にしますかね」
「俺はご飯物がいいな、今日は」
「じゃあ、あたしはカップ麺の醤油味」
それぞれに好みのインスタント食品を選んだところで、薬缶の蓋の隙間から蒸気が噴き出しはじめる。
フロアに敷いていたレジャーシートに車座になって座った一同は、お湯を注いで出来上がるまで暫く待った。
「少し固めだけど、意外とイケるな。このご飯」
「アモ、一口くれよ」
「麺と交換なら考えんこともない」
「スープでいいなら」
「取引なんてなかった」
食事中も、やいのやいのと笑い声が絶えない。
それは食事が終わってからも変わることはなく、学校にいた頃よりも幾分か早めの就寝時間まで続いた。
学園生活部の四人が非常用の布団に包まり、寝息を立てている時間帯。
亜森は一人、レジカウンターに座り込んで暗視スコープを片手に外の様子を伺っていた。
夕方に亜森自身が粗方掃除したおかげか、視界に動くものは見当たらなかった。
最低限の光源としてろうそくランタンは灯したままにしているが、それに刺激されたゾンビもいないようだ。
(静かなもんだ。このままの状態が続くなら、俺も横になるか)
チラリとフロアに視線を移す。
胡桃が寝る布団の隣には、主のいない布団が一揃い敷いてあった。
荷物になるし寝袋で十分だと亜森は何度も断ったのだが、皆でお揃いがいいのだと彼女らに押し切られた代物だった。
寝袋よりもリラックスでき、疲労も抜けやすいのは間違いない。
それでも亜森としては、休むのであればもう少し頑丈な建物をと思うのは、高望みが過ぎるだろうか。
危険度だけなら数段上をいく連邦を思えば、安全対策を講じたこの廃墟同然のコンビニは、安全地帯と評しても過言ではないかもしれないが。
(ここは連邦じゃないし、比べるだけ無駄だろうけど)
最後に一度、外の様子を一通り観察し、亜森は布団に潜り込むことにした。
その気配に気づいたのか、胡桃が薄目を開けて亜森の方へと顔を向けた。
「んぅ……、アモ?」
「悪い、起こしたか?」
「んーん、大丈夫。見張りはもういいの?」
「あぁ、寄ってくるのはいないみたいだ。それに、鳴子だってあるからな。問題があればすぐに分かるさ」
亜森の語る鳴子とは、工事現場にあるような三角コーンとロープ、そして使用していないフライパンや鍋を組み合わせた、即席の警報装置のことだ。
バンで車中泊中も、周囲に張り巡らすように設置していた。
今この瞬間も、コンビニ駐車場入口を塞ぐように陣取っている。
「じゃあもう寝ようぜ。明日も運転しなきゃいけないんだし」
欠伸を噛み殺しながら胡桃はもぞもぞと布団の中で身動きすると、亜森の布団の方へと器用に移動して背中を寄せた。
「おやすみー……」
「あぁおやすみ」
(あれ、毎晩やるつもりなんですかね……)
(いやぁ、くるみちゃんも堂々としちゃって)
(二人共、聞こえちゃうわよ)
彼女達のひそひそ話に聞こえないふりを決め込んで、亜森も自身の瞼を下ろし眠りについた。
翌朝、寝床から起き出した一行は早々に身支度を終え簡単な食事を取ると、バンから持ち出していた諸々の荷物を詰め込んで車に乗り込んだ。
亜森は運転席に座り、一番ナビゲートの上手い由紀が助手席に収まった。
「ねぇ、アモさん。これ、つけてもいいかな?」
助手席に座った由紀が、これと言ってセンターコンソール備え付けのカーオーディオを指さした。
「大音量じゃなければつけてもいいぞ。何かCDでも持ってきてるのか?」
「うん、移動中どうかなって思って。めぐねえの車にあったのを持ってきたんだ」
フッフッフと、もったいぶった調子でCDを取り出してみせ、由紀はその中の一枚をセットする。
取り込まれたCDを再生しようと、適当なボタンを押していく。
「んー、これかな?」
スピーカーにスイッチが入り、シャーッとホワイトノイズが走った。
「ゆき、CD入れたんだよな?」
「入れたよー」
「最初は無音で始まる音楽とかじゃないかしら」
由紀はCDのケースを裏返してみるが、英語のタイトルが羅列されているだけで内容までは分からなかった。
『……──誰か聞いてる?』
車を発進させようと、アクセルを踏み込みかけた亜森の身体が止まった。
それは他の皆も同様だったらしく、全員の視線がセンターコンソールへと注がれる。
「今の……聞こえたか?」
「き、聞こえた」
亜森のどこか慎重な問い掛けに、隣に座る由紀は信じられないような表情で答えた。
「私も聞こえましたっ」
「あたしも!」
「流石にCDじゃ、ないわよね……」
お互いに顔を見合わせ、スピーカーから聞こえてくる何かに耳を傾ける。
『こちらは、巡ヶ丘ワンワンワン放送局! この世の終わりを生きている皆、元気かーいっ!』
『──んぅ、聞こえてないのかな? まぁいいや! それじゃあ、ワンワンワン放送局、はっじまるよー!』
『それでは今日もゴキゲンなナンバーいってみよっ! まずは──』
確かに間違いない、誰かがラジオ放送を行っていた。
同時刻、巡ヶ丘市某所の避難施設。
ヘッドホンを装着した女性が、ラジオ放送用の操作盤の前で今日もいつもと同じように卓上マイクに向かって語りかけていた。
この施設にたまたまたどり着いて以来、自分と同様に誰かがやって来ることを信じて、こうしてラジオ放送を続けているが、未だに来訪者は現れなかった。
幾度となく気持ちが挫けそうになったが、きっと誰かが来てくれる。
そう信じて、電波を飛ばし続けていた。
「ご静聴ありがとう! 私としては、もっとうるさくても大歓迎だけどねっ!」
今日も、やはり駄目だったか。
発電をソーラーパネルに依存している関係で、電気が十分に貯まっている日にしかラジオ放送は出来ていなかった。
可能な限り同じ時間帯に放送することを心がけてはいたが、自然が相手では予定通りにとはいかないことも多い。
テーブルに置いたマグカップを手に取り、中身の珈琲を一口含む。
すっかり冷めきった珈琲は味もイマイチであるが、沈んだ気持ちを切り替えるにはちょうど良かった。
異変に気づいたのは、そんな毎日のルーティーンを続けている、そんな時だ。
『──ガガッ、ザァー……ちら、ミニッツメ──……、聞こえて──ザァー』
耳を塞ぐヘッドホンからではなく、どこかくぐもったような、それでいて割と近くからその雑音は発生していた。
「ん? 今、何か……あれ?」
操作盤の電源を落とす寸前、ヘッドホンをした女性は聞き慣れない雑音の発生源を探すように周囲に視線を巡らせる。
いや、そんな音が聞こえるはずなんてありえない。
なぜなら、自分以外にはここにたどり着いていないのだから。
「あぁーやばい、寂しすぎて幻聴が聞こえるようになっちゃったかな」
改めて電源スイッチに手を伸ばそうとした瞬間、再び何かが聞こえてきた。
今度ははっきりとその意味が分かる、明瞭な声として。
『こちらミニッツメンの声。ワンワンワン放送局、こちらの声は聞こえているか? これは幻聴じゃないぞ。どうぞ』
「うっそ──マジでっ!?」
『ガガッ──マジだ。聞こえているなら、無線機が手元にあるはずだ。そっちで応答してくれ。どうぞ』
「ええっと!? ち、ちょっと待って!」
ガバリとヘッドホンを外し、女性は椅子から慌てて腰をあげた。
くぐもって聞こえていたのは、ラジオ電波を受信していたのではなく、小型携帯無線機が受信していたためだった。
この施設に避難してそれほど時間が経っていない頃、倉庫から見つけていた無線機を可能な限り外に人がいる兆候を見逃さないために、テーブルの何処かに置いていたはず。
焦った様子で乱雑に積まれたCDケースを脇にずらし、ようやく見つけたのは随分前に存在すら忘れていた見た目こそ無骨で黒塗りのそれ。
被ったホコリを吹き飛ばし、マイク部分を恐る恐る口元に寄せる。
「も、もしもし?」
『やぁ、こんにちは。会話が出来るってことは、この世の終わりはもう少し先らしいな』
「ほ、本当に人間?」
『それはこっちのセリフだぜ。俺は今の今まで、ラジオの声はコンピューターでループさせてるんじゃないかと疑ってた』
「んなわけないでしょっ」
会話の節々に挟まれる軽口に、応答する声が弾んでいくのを自覚する。
これまでどんなに望んでも聞けなかった、生きている人間の肉声。
自然と鼻の奥がツンとして、涙がこぼれそうになる。
もっといろんなことを尋ねたくあるが、気持ちの高ぶりに舌が回らない状態だった。
『そっちが良ければになるんだが、面と向かって話さないか? 俺の仲間も、あんたと話したいそうだ』
無線機越しに聞こえる男の声は、ようやく本題に入れるといった調子で落ち着いた声色に変わる。
「仲間っていうのは?」
『女子高生が四人、俺と合わせたら五人だな』
「そう……なんだ。……うんっ、分かった。取り敢えず住所を言うね? 巡ヶ丘市○×△──」
ラジオ放送中は必ず付け加える避難場所の住所を、操作盤に貼り付けていた付箋メモから読み上げた。
返事を待っていると伝えた住所を繰り返す男の声、背景に薄っすらと混じる少女たちの声がスピーカーから伝わってくる。
少なくとも、男の言葉に偽りはなさそうだ。
少女たちの声もどこか明るく、男に抑圧されていそうな印象は受けない。
声の主たちは、暴力よりもモラルによる関係を築いているのだろう。
胸に抱いていた薄暗い懸念が消え行くのを感じた女性は一つ大きく深呼吸をすると、無線機の向こう側へと問い掛けた。
「今いるところから、どれくらいかかりそう?」
『あー、それはだな……。丈槍、今のペースだと──』
少女の一人は、丈槍という名前らしい。
地図を読み解くのが上手なのか、少女はそう間をおかず答えを導きだした。
『えっとねー、急げば夕方までには着きそうかな? ただ、これ以上工事現場が増えちゃうと難しいね』
少女が口にする工事現場というのが、どういったものを指すのか女性にはピンとこない。
しかし、そんなことはどうでも良かった。
重要なのは、夕方までにたどり着けるかもしれないという事実、それだけだった。
「夕方までに来れるのっ?!」
『強行軍になるけどな。ま、なんとかするさ』
男の声は言葉こそ軽い調子であったが、外の世界で生きているだけはあり、確かな自信が感じられた。
矢継ぎ早に仲間の少女たちに指示を出した男は、最後にもう一度女性に向かって声をかけた。
『そうそう、一つ聞きたいことがあったんだ』
「なにかな? 私は早く来てくれるのを待ってるんだけど」
『あんたの名前だよ。なんて呼んだらいい?』
そう言われると、未だに名乗っていなかったような気がした。
んんッと喉の調子を整え、女性は改めて久しく口に出していない自分の名前を告げた。
「楓(カエデ)、椿楓(ツバキカエデ)。たった一人で立ち上げたワンワンワン放送局で、ラジオパーソナリティをやってるよ」
『俺は亜森太郎、ミニッツメンをやっている』
『丈槍由紀! 学園生活部だよ!』
『部長の若狭悠里です』
『部員の恵飛須沢胡桃、よろしく椿さん』
『同じく直樹美紀です、よろしくお願いします』
「うんっ、うん! 亜森さんと丈槍さんに若狭さん、恵飛須沢さん、それに直樹さん!」
それぞれの名前を繰り返し口に出して、忘れないように記憶に刻む。
ワンワンワン放送局ラジオパーソナリティの楓は、自分が一人でなかったことに声を押し殺し泣いて、歓喜した。
『あぁ、それと最後にもう一つだけ』
「……ぇぐっ、なに?」
亜森は、楓が涙声なのは察しがついていたが、それには触れず言葉を続けた。
『一人でよく頑張ったな』
「──っ!? ……そう思うんならっ、早く来てよね」
ズズッと鼻をすすり、楓は悪態をついてみせる。
それが許される空気だと、何となくではあるが感じていた。
『近くまで行けたら、また連絡する』
「分かった、皆を待ってるよ」
『またあとで。通信終わり』
「うん……またね!」
通信が終わり、部屋の中は再び沈黙で埋まる。
これまでは憂鬱の種であったそれは、今となっては彼らの到着を待ちわびるワクワクした時間となっていた。
初めてその役目を十分に果たした無線機を大事そうにテーブルへと置いた楓は、よしッと気合を入れる。
可能であれば、今日の夕方にも彼らに出会えるかもしれないのだ。
多少なりとも歓迎の準備を整えなくては、この喜びを余すことなく伝えられる気がしなかった。
「うん! まずは倉庫から何か豪華な缶詰でも……あっ」
椅子から立ち上がったままの姿勢で、楓は自身の姿に目をやった。
上に羽織ったお気に入りのジャケットはともかくとして、その下には若干くたびれた様子を見せる下着があるのみ。
地下水を利用できる施設にいるとはいえ、常日頃から節水に取り組んでいるためか、洗濯は良くて週に一回程度。
更に付け加えるならば、どうせ誰もいないのだからと身だしなみが物臭になっていったのも、理由に挙げられるだろう。
施設内の気温も調節されており、下着姿で過ごしても風邪を引く心配がないせいもある。
言葉を選んで表現するなら、少なくとも楓は人に見せられるような状態にはなかった。
「やば、着る服がない? いやいや、確か洗濯機に突っ込んで乾燥まで終わってるのが入ったままだったはず……。アイロンどこにやったっけ?」
放送ブースとして利用している部屋から生活空間に移動した楓は、あちこちをひっくり返しながら何とか様になりそうな服を手に取りあげ、姿見の前に立つ。
「……ちょっとぐらいお化粧したほうがいいかな? 女子高生はともかく男の人いるし、スッピンはちょっと……。でも、こんな状況で化粧してる女って感じ悪いと思われるかも……」
姿見の鏡に顔を近寄らせ、じっと自分の顔を見た。
少しばかり伸びた前髪を指先でいじり、手櫛で整える。
自然に任せたままの眉毛は、かつての楓の基準では人前に出るのは少し躊躇われるレベルにある。
(……眉毛をちょっと整えて、リップクリームを塗るぐらいならいいよね?)
楓が逃げ延びた際に身に着けていた小さなショルダーバックから、最近はとんと出番のなかった化粧ポーチを取り出す。
「待て待て、こんなことをしてる場合じゃないわ。さっさとアイロンかけて服を着なきゃ。お化粧は最後で十分間に合うはずよ」
始めたら終わらない気がする眉毛の整形を一旦諦め、楓は服装を整えるところから始めることにした。
亜森達の到来まで、残り数時間。
緩む口元を気にもとめず、楓は歓迎の準備を着々と進めていくのだった。
・遠征仕様のバン
亜森が適当なディーラーから見つけてきた、死ぬまで借りる予定の車。
薄型フィルム状のソーラーパネルを屋根に設置したことで、バッテリーあがりの心配も減り、携帯やデジカメ等の電子機器の充電も可能に。
・ゆるくないキャンプΔとなったコンビニ
コンビニチェーンGMart、原作で登場するコンビニは大体これ。
描写外では、缶飲料やタバコ等々持っていけそうなものはPip-Boyや車の空きスペースに放り込んでいる模様。
もちろんコンドーさん、君もだよ(迫真)。
分からないという人は、パパやママに聞いてみようね!(ゲス顔)
・ワンワンワン放送局とラジオパーソナリティの女性
巡ヶ丘市某所の避難施設で放送されているラジオのこと、原作の悠里の言葉によるとAM電波らしい。
原作コミックス6巻巻末『電波受信記録vol.29』によると、住所は個人宅で周波数は1242KHz。
ラジオパーソナリティの女性は原作では、空気感染を示唆するギミックとして登場し変異してそのままフェードアウトしてしまったが、今作ではオリ名・椿楓(ツバキカエデ)として生存中。
何故、トランシーバーがあったのか?
それは、個人宅にラジオ放送設備を用意するよりよっぽど簡単で、準備しやすいだろうなと考えたため。