黒澤家の長男です。   作:カイザウルス

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第24話

夏休み。

とはいえ、俺にとっては「本番前の調整期間」に過ぎない。

全国大会まで、あと20日とちょっと。

たったそれだけ…されど、それだけ。

0.1秒でも速く、0.1秒でも強く。

自分のすべてを、プールに置いていくために、今日も泳ぐ。

 

「ラスト1本、バタフライ、全力で!」

 

剛先輩の声が、屋内プールに響き渡る。

肩に鉛が乗ったような疲労感。

肺の奥で酸素が焼けるような痛み。

それが心地いい、強くなっていると実感できる。

限界なんて、とうに通り過ぎてる。

だからこそ、その先に行きたい。

水の音だけが、世界を満たしていく。

 

〜〜〜〜〜〜〜〜

 

練習を終えて、陽が傾いた帰り道。

濡れた髪の先から落ちる雫をタオルで拭きながら、自転車をゆっくり走らせる。

坂を下って、見晴らしのいい防波堤の前に差し掛かったとき、ふと、視界に映る人影にブレーキをかけた。

 

――桜内、か。

 

夕陽に染まった海を、じっと座って見つめている。

髪がきらきらと光に透けており、その背中には、何か話しかけづらい感じがした。

迷っているような、思い出しているような、どこか不安げな。

気づけば、俺は自転車を脇に止めていた。

 

「…また、飛び込むのか?」

 

冗談めかして声をかけると、桜内は小さく肩を跳ねさせて、振り向いた。

 

「え?黒澤くん?びっくりした……」

 

驚いたように目を見開いた彼女は、すぐに頬を緩める。

 

「お疲れ、どした?こんなとこで」

 

風は心地よく吹いているのに、彼女の横顔だけはどこか寂しげに見えた。

スカートに着いた砂をぱんぱんと払って立ち上がる。

その仕草すら、どこか元気がないように感じた。

 

「大丈夫、ちょっと考え事してただけよ」

 

そう言って、にこっと微笑む。

けれどその笑顔に、どこか既視感があった。

…ああ、そうだ。

あの時の鞠莉姉の笑顔に、よく似ていた。

すべてを自分で抱え込んで、誰にも本心を見せず、明るく振る舞おうとする――あの笑顔だ。

胸の奥に、あの頃の痛みがふっとよみがえる。

気がつけば、俺は桜内の手首を掴んでいた。

 

「…どうしたの?」

 

桜内が驚いたように俺を見る。

しまった、と一瞬思ったが、もう手は放せなかった。

咄嗟に、口から出任せのように言葉がこぼれ出る。

 

「え?ああ…桜内、この後暇か?」

「ええ、予定はないわね」

「そ、そっか! えっと…良かったらメシでも、どうだ?」

 

急な誘いに、自分でもどうかと思う。

でも、今このまま彼女を一人にするのは、違う気がした。

海から吹く風の中で、桜内はほんの少し目を見開いたあと、小さく笑った。

 

「ふふ…黒澤くんって、変なところで強引なのね」

「う、うるせぇよ」

 

俺は顔をそらして、自転車のハンドルを掴み直す。

彼女の手を、そっと離した。

どこか遠くを見つめるその目が、少しでも柔らかくなればいいと思っている。

そして桜内を連れて向かった所は、商店街の奥に、ぽつんと一軒の定食屋。

昭和の香りが残る木の引き戸に、手書きの「営業中」の札がかかってる。

中を覗くと、こぢんまりとしたカウンターと四人がけのテーブルが二つ。

夕飯どきなのに、客は俺たちだけだった。

 

「ここ、初めて来たわ」

「安いし、うまい。先輩に教えてもらった」

 

引き戸を開けると、厨房奥から年季の入った割烹着を着たおばちゃんが顔を出す。

 

「こんちは、おばちゃん」

「あら〜、いらっしゃい!…んま、今日はかわいこ連れてきたのねぇ」

「はいはい、おばちゃんの好きそうな可愛い子連れてきたよ」

 

からかうように笑うおばちゃんをよそに、厨房の奥では無口そうな店主のオヤジさんが、黙々と味噌汁の鍋をかき混ぜている。

 

「とりあえず、日替わり定食でいいか?ここ、ボリュームすごいから」

「ええ、じゃあそれで」

 

注文を伝えると、奥から湯気の立つ湯呑みを二つ持って戻ってきた。

にこにこと笑いながら、まず俺の前にひとつ、そして桜内の前にもそっと置く。

 

「はいはい、お待ちどうさま〜……って、あらまあ!」

 

ふと桜内の顔をじっと見つめて、おばちゃんが目を丸くした。

 

「どっかで見たと思ったら……あんた、スクールアイドルの子じゃな〜い!?テレビで見たわよ!お人形さんみたいで、まぁ〜ほんっとに可愛いこと!」

 

おばちゃんは嬉しそうに手を打ちながら、まるで孫でも見るような勢いで褒めまくる。

 

「髪もお肌もツヤツヤ!目もぱっちりして、まるでお人形!あんたねぇ、芸能人より輝いてるわよ!ほんと、世の中不公平だわぁ〜!」

「えっ、あ、あの…ありがとうございます……」

 

桜内は明らかに圧倒されつつ、ぎこちなく微笑んで頭を下げた。

戸惑いつつも、ちゃんとお礼を言うあたりは、やっぱり桜内らしい。

…そろそろ止めたほうがいいか。

 

「はいはい、おばちゃんありがと。もうそのへんで勘弁してやってよ。桜内が困ってるって」

「なに言ってんの!こんな可愛い子、褒めなきゃバチが当たるわよ〜!」

「いやいや、バチとかの前に落ち着いて……!」

 

俺が両手を上げておばちゃんをなだめてる間、桜内はくすっと笑って、小さく「ふふっ…」と笑みをこぼした。

おばちゃんは最後まで桜内のことを褒めちぎりながら、満足そうに鼻歌を口ずさみつつ厨房へと戻っていった。

鍋をかき混ぜる金属音とともに、どこか懐かしい昭和歌謡が小さく聞こえてくる。

俺は小さくため息をついて、頭を下げる。

 

「…ごめんな桜内。おばちゃん、キャラ濃いからさ。ああいうの、慣れてないとビビるだろ」

 

桜内は少し驚いた顔をしながらも、すぐに笑って首を横に振った。

 

「ううん、びっくりはしたけど…大丈夫よ。なんだか元気もらえた気がするし、こういう定食屋さんって来たことなかったから、新鮮でいいわ」

 

その言葉に、俺の肩の力が少し抜ける。

 

「そっか。それならよかった」

 

なんとなく、空気がふわっとやわらかくなる。

厨房の方からは、相変わらず鼻歌と包丁の音が軽やかに響いていた。

注文した定食が届くまでの間、少しの沈黙があった。

湯呑みをひと口飲んでから、俺は桜内を見た。

 

「……んでさ、結局。何があったんだよ?」

 

なるべく軽い口調を意識して聞く。

だが、桜内は一瞬だけ視線を逸らし、すぐに柔らかな笑顔を浮かべた。

 

「ほんとに何でもないのよ。ただ、ちょっと考え事してただけ」

 

そう言って、また湯呑みのお茶に口をつける。

その笑顔はさっき、海辺で見た笑顔とまったく同じだった。

 

「……ふーん」

 

俺は目を細めて桜内を見たが、それ以上は何も言わなかった。

 

「まぁ、言いたくないなら、無理に聞かないよ」

 

正直、桜内とこうして二人きりで話すのはほとんど初めてだった。

いつもは曜か千歌が間にいるし、会話する機会もそう多くはない。

けど、だからこそ、たまにこうしてひとりでいる姿が気になるのかもしれない。

 

「……たださ」

 

コップをくるくると指で回しながら、少しだけ視線を下げる。

 

「親友には話しづらいことでも、ただの“友達”になら話せることって、あるかもなって思っただけ」

 

ふと顔を上げると、桜内が少しだけ驚いた顔でこちらを見ていた。

 

「……友達?」

 

「うん。だって、桜内にとっての親友って、曜とか千歌だろ?いつも一緒にいるし」

 

俺はあくまで自然な口調で、当たり前のようにそう言った。

桜内はその言葉を聞いて、小さく目を伏せたまま何か言おうと、ほんの少し唇を開いた瞬間だった。

 

「お待たせ〜!今日の日替わりはね、カツオのタタキだよ〜!」

 

勢いよく暖簾をくぐって現れたおばちゃんが、湯気の立つ定食をテーブルに置く。

鼻歌混じりで手際よく箸を並べながら、得意げに言った。

 

「今朝あがったばっかりの新鮮なカツオだよ〜!うちのタタキはね、ちょっと炙りが強め!これが香ばしくってクセになるの〜!」

 

目を丸くする桜内の前に、手際よく味噌汁と漬物、小鉢が並べられる。

 

「どう?美味しそうでしょ?」

「……すごい、ほんとに美味しそう」

 

桜内がぽつりと感嘆の声を漏らす。

 

「おばちゃん、ありがとう」

「なぁに〜、可愛い子に美味しいって言われたら、それだけで元気出ちゃうわよ〜!」

 

上機嫌にそう言うと、おばちゃんはまた鼻歌を口ずさみながら、厨房へと戻っていった。

 

「「いただきます」」

 

ふたりで手を合わせてから、俺は箸を手に取る。

一口めのカツオのたたきは、炙りの香ばしさと薬味の爽やかさが絶妙で、思わず声が漏れる。

 

「うん、うま……っ」

 

白ごはんを追いかけるようにかき込みながら、思わず笑ってしまう。

 

「ほんと、ここ来ると食欲なくても食えるんだよな」

 

そう呟いたとき、ふと視線を感じて顔を上げると、桜内がこっちをじっと見ていた。

 

「…黒澤くんって、美味しそうに食べるのね」

「え?」

「ふふ、ごめん。なんか、見てるとこっちまでお腹すいてきちゃって」

 

箸を手にしながら、桜内が柔らかく笑う。

 

「そ、そうか?ただ腹減ってただけだって」

 

少し照れくさくなって、味噌汁をすする。

ダシが沁みて、また思わず目を細めた。

他愛のない会話をしながら食事が終わり、空になった皿の余韻を舌で思い出しながら、ふと顔を上げると、桜内が少しだけ視線を落としていた。

 

「…実はね、黒澤くん」

 

湯呑みを置いた俺に、桜内がぽつりと口を開く。

 

「ピアノのコンクールの案内が来たの」

「へぇ。そっか、すごいじゃん。なんか、でかい大会とか?」

「うん。大きめのコンクール、でも…日程が、ラブライブの地区予選と被ってて」

 

…なるほど、そういうことか。

桜内は湯呑みに目を落としたまま、唇を少しだけかむ。

 

「今は……Aqoursの活動に集中したいって思ってる。だから、コンクールは……諦めようかなって」

 

その声には、決めたような強さと、どこか自分をごまかすような弱さが混ざっていた。

俺はその顔をじっと見つめる。

 

「…そっか」

 

その言葉を返したあと、俺はほんの少しだけ考えてから、湯飲みを置いた。

 

「桜内がそう決めたんなら、いいんじゃないか。やりたいことに集中すんのは、悪いことじゃないし」

 

俺の言葉に、桜内は驚いたように目を見開いた。

 

「…もっと、引き止められるかと思った」

「別に、俺が決めることじゃないしな。やりたいこと、選ぶのは自分だ」

 

俺が言うと、桜内は少しだけ微笑んだ。

けど、その笑顔の奥には、やっぱりどこか迷いが見え隠れしていた。

 

「たださ」

 

少しだけ間を置いて、俺は言葉を続けた。

 

「俺が桜内の変化に気づいたぐらいなんだ。……曜とか千歌には、もっと前から気づかれてるかもな」

 

言葉を聞いた桜内は、少しだけ目を伏せた。

俺は続けて、

 

「ま、Aqoursの誰かには……相談しといてもいいんじゃないか?」

 

湯飲みを手に取りながら、俺はそう言った。

桜内は少し黙っていたけど、その顔には、ほんの少しだけ肩の力が抜けたような気がした。

 

「おばちゃーん、お会計お願いしまーす!」

 

俺が声をかけると、厨房の奥から「はーい、ちょっと待ってね〜」と、あの鼻歌交じりの返事が返ってくる。

 

「黒澤くん、私が…」

 

桜内が財布を出そうとするのを、俺は軽く手で制した。

 

「いや、いいよ。俺が誘ったんだからさ。遠慮すんなって」

「…そう?じゃあ、ありがとう。ごちそうさま」

「うん。…おばあちゃん、ごちそうさま!」

 

おばちゃんの元気な笑い声と、湯呑みに残ったぬるいお茶の香りが、妙に心地よく感じた。

店を出ると、外はすっかり陽が落ちていた。

通りを照らす街灯がぽつぽつと灯り、潮の香りを乗せた夜風が静かに吹き抜けていく。

桜内は俺の隣を歩きながら、ちらりと空を見上げた。

 

「桜内」

「ん?なに?」

「もう少し、我儘になってもいいと思うよ。自分の夢とか、やりたいこととか、全部我慢して抱え込むのって、きっとしんどいだろ?」

 

立ち止まって、そう言うと、桜内は驚いたように俺を見た。

 

「黒澤くんって、そういうこと……言うんだね」

「言うさ、たまにはな」

 

少しだけ照れくさくなって目をそらすと、彼女はふっと笑って、優しく言った。

 

「…ありがとう。今日は誘ってくれてよかった。なんだか、少しだけ楽になれた気がする」

「ん、それは良かった」

「それじゃあ、さっそく我儘言ってもいいかしら?」

 

歩き出そうとした桜内が、ふと立ち止まって、俺の方を見上げながら言った。

 

「ん?俺にか?構わないが……なんだ?」

 

突然のことに少しだけ身構える。

俺に何か頼みごとでもあるのかと警戒したが、桜内の口から出た言葉は意外なものだった。

 

「私も……“瑠璃くん”って、呼んでもいい?」

「…は?」

 

思わず間の抜けた声が出てしまう。咄嗟に意味が飲み込めず、眉をひそめて聞き返す。

 

「…どして?」

 

すると桜内は、ぽつぽつと弁解を始めた。

 

「ち…違うの!?千歌ちゃんも曜ちゃんも“瑠璃くん”って呼んでるし、それに…男の子の友達なんて初めてで…だから、その…仲良く…うぅ……」

 

話すうちにどんどん声が小さくなり、しまいには顔を真っ赤にしてうつむいてしまう。

恥ずかしさに身を縮めているその様子が、なんだか小動物みたいで可笑しい。

 

──なるほど。俺のこと、ちゃんと“友達”として見てくれてるんだな。

 

そう思うと、少しだけ胸の奥が温かくなる。

 

「…態々聞かなくてもいいのに。好きに呼びな」

 

俺が苦笑混じりにそう言うと、桜内はパッと顔を上げた。

 

「っ……ありがと、瑠璃くん」

 

その瞬間見せた笑顔は、先ほどまでの恥じらいが嘘のように柔らかく、まっすぐだった。

 

「お、おう……」

 

不意を突かれて、今度はこっちが動揺する番だった。

気まずさをごまかすように咳払いを一つして、歩き出す。

桜内の家の近くまで送ったあと、軽く手を振って別れた。振り返ると、彼女は小さく頭を下げて、またあの笑顔を見せてくれた。

そして俺は、静かな夜風に当たりながら、ゆっくりと家路についた。

 





溜まってる分の投稿終了でございます!
急な更新で驚いた方、大変ご迷惑をおかけ致しました。
次回から、週一更新目指していけたらと思います。
長々と失礼致しました。
よろしくお願いいたします
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