夏休み。
とはいえ、俺にとっては「本番前の調整期間」に過ぎない。
全国大会まで、あと20日とちょっと。
たったそれだけ…されど、それだけ。
0.1秒でも速く、0.1秒でも強く。
自分のすべてを、プールに置いていくために、今日も泳ぐ。
「ラスト1本、バタフライ、全力で!」
剛先輩の声が、屋内プールに響き渡る。
肩に鉛が乗ったような疲労感。
肺の奥で酸素が焼けるような痛み。
それが心地いい、強くなっていると実感できる。
限界なんて、とうに通り過ぎてる。
だからこそ、その先に行きたい。
水の音だけが、世界を満たしていく。
〜〜〜〜〜〜〜〜
練習を終えて、陽が傾いた帰り道。
濡れた髪の先から落ちる雫をタオルで拭きながら、自転車をゆっくり走らせる。
坂を下って、見晴らしのいい防波堤の前に差し掛かったとき、ふと、視界に映る人影にブレーキをかけた。
――桜内、か。
夕陽に染まった海を、じっと座って見つめている。
髪がきらきらと光に透けており、その背中には、何か話しかけづらい感じがした。
迷っているような、思い出しているような、どこか不安げな。
気づけば、俺は自転車を脇に止めていた。
「…また、飛び込むのか?」
冗談めかして声をかけると、桜内は小さく肩を跳ねさせて、振り向いた。
「え?黒澤くん?びっくりした……」
驚いたように目を見開いた彼女は、すぐに頬を緩める。
「お疲れ、どした?こんなとこで」
風は心地よく吹いているのに、彼女の横顔だけはどこか寂しげに見えた。
スカートに着いた砂をぱんぱんと払って立ち上がる。
その仕草すら、どこか元気がないように感じた。
「大丈夫、ちょっと考え事してただけよ」
そう言って、にこっと微笑む。
けれどその笑顔に、どこか既視感があった。
…ああ、そうだ。
あの時の鞠莉姉の笑顔に、よく似ていた。
すべてを自分で抱え込んで、誰にも本心を見せず、明るく振る舞おうとする――あの笑顔だ。
胸の奥に、あの頃の痛みがふっとよみがえる。
気がつけば、俺は桜内の手首を掴んでいた。
「…どうしたの?」
桜内が驚いたように俺を見る。
しまった、と一瞬思ったが、もう手は放せなかった。
咄嗟に、口から出任せのように言葉がこぼれ出る。
「え?ああ…桜内、この後暇か?」
「ええ、予定はないわね」
「そ、そっか! えっと…良かったらメシでも、どうだ?」
急な誘いに、自分でもどうかと思う。
でも、今このまま彼女を一人にするのは、違う気がした。
海から吹く風の中で、桜内はほんの少し目を見開いたあと、小さく笑った。
「ふふ…黒澤くんって、変なところで強引なのね」
「う、うるせぇよ」
俺は顔をそらして、自転車のハンドルを掴み直す。
彼女の手を、そっと離した。
どこか遠くを見つめるその目が、少しでも柔らかくなればいいと思っている。
そして桜内を連れて向かった所は、商店街の奥に、ぽつんと一軒の定食屋。
昭和の香りが残る木の引き戸に、手書きの「営業中」の札がかかってる。
中を覗くと、こぢんまりとしたカウンターと四人がけのテーブルが二つ。
夕飯どきなのに、客は俺たちだけだった。
「ここ、初めて来たわ」
「安いし、うまい。先輩に教えてもらった」
引き戸を開けると、厨房奥から年季の入った割烹着を着たおばちゃんが顔を出す。
「こんちは、おばちゃん」
「あら〜、いらっしゃい!…んま、今日はかわいこ連れてきたのねぇ」
「はいはい、おばちゃんの好きそうな可愛い子連れてきたよ」
からかうように笑うおばちゃんをよそに、厨房の奥では無口そうな店主のオヤジさんが、黙々と味噌汁の鍋をかき混ぜている。
「とりあえず、日替わり定食でいいか?ここ、ボリュームすごいから」
「ええ、じゃあそれで」
注文を伝えると、奥から湯気の立つ湯呑みを二つ持って戻ってきた。
にこにこと笑いながら、まず俺の前にひとつ、そして桜内の前にもそっと置く。
「はいはい、お待ちどうさま〜……って、あらまあ!」
ふと桜内の顔をじっと見つめて、おばちゃんが目を丸くした。
「どっかで見たと思ったら……あんた、スクールアイドルの子じゃな〜い!?テレビで見たわよ!お人形さんみたいで、まぁ〜ほんっとに可愛いこと!」
おばちゃんは嬉しそうに手を打ちながら、まるで孫でも見るような勢いで褒めまくる。
「髪もお肌もツヤツヤ!目もぱっちりして、まるでお人形!あんたねぇ、芸能人より輝いてるわよ!ほんと、世の中不公平だわぁ〜!」
「えっ、あ、あの…ありがとうございます……」
桜内は明らかに圧倒されつつ、ぎこちなく微笑んで頭を下げた。
戸惑いつつも、ちゃんとお礼を言うあたりは、やっぱり桜内らしい。
…そろそろ止めたほうがいいか。
「はいはい、おばちゃんありがと。もうそのへんで勘弁してやってよ。桜内が困ってるって」
「なに言ってんの!こんな可愛い子、褒めなきゃバチが当たるわよ〜!」
「いやいや、バチとかの前に落ち着いて……!」
俺が両手を上げておばちゃんをなだめてる間、桜内はくすっと笑って、小さく「ふふっ…」と笑みをこぼした。
おばちゃんは最後まで桜内のことを褒めちぎりながら、満足そうに鼻歌を口ずさみつつ厨房へと戻っていった。
鍋をかき混ぜる金属音とともに、どこか懐かしい昭和歌謡が小さく聞こえてくる。
俺は小さくため息をついて、頭を下げる。
「…ごめんな桜内。おばちゃん、キャラ濃いからさ。ああいうの、慣れてないとビビるだろ」
桜内は少し驚いた顔をしながらも、すぐに笑って首を横に振った。
「ううん、びっくりはしたけど…大丈夫よ。なんだか元気もらえた気がするし、こういう定食屋さんって来たことなかったから、新鮮でいいわ」
その言葉に、俺の肩の力が少し抜ける。
「そっか。それならよかった」
なんとなく、空気がふわっとやわらかくなる。
厨房の方からは、相変わらず鼻歌と包丁の音が軽やかに響いていた。
注文した定食が届くまでの間、少しの沈黙があった。
湯呑みをひと口飲んでから、俺は桜内を見た。
「……んでさ、結局。何があったんだよ?」
なるべく軽い口調を意識して聞く。
だが、桜内は一瞬だけ視線を逸らし、すぐに柔らかな笑顔を浮かべた。
「ほんとに何でもないのよ。ただ、ちょっと考え事してただけ」
そう言って、また湯呑みのお茶に口をつける。
その笑顔はさっき、海辺で見た笑顔とまったく同じだった。
「……ふーん」
俺は目を細めて桜内を見たが、それ以上は何も言わなかった。
「まぁ、言いたくないなら、無理に聞かないよ」
正直、桜内とこうして二人きりで話すのはほとんど初めてだった。
いつもは曜か千歌が間にいるし、会話する機会もそう多くはない。
けど、だからこそ、たまにこうしてひとりでいる姿が気になるのかもしれない。
「……たださ」
コップをくるくると指で回しながら、少しだけ視線を下げる。
「親友には話しづらいことでも、ただの“友達”になら話せることって、あるかもなって思っただけ」
ふと顔を上げると、桜内が少しだけ驚いた顔でこちらを見ていた。
「……友達?」
「うん。だって、桜内にとっての親友って、曜とか千歌だろ?いつも一緒にいるし」
俺はあくまで自然な口調で、当たり前のようにそう言った。
桜内はその言葉を聞いて、小さく目を伏せたまま何か言おうと、ほんの少し唇を開いた瞬間だった。
「お待たせ〜!今日の日替わりはね、カツオのタタキだよ〜!」
勢いよく暖簾をくぐって現れたおばちゃんが、湯気の立つ定食をテーブルに置く。
鼻歌混じりで手際よく箸を並べながら、得意げに言った。
「今朝あがったばっかりの新鮮なカツオだよ〜!うちのタタキはね、ちょっと炙りが強め!これが香ばしくってクセになるの〜!」
目を丸くする桜内の前に、手際よく味噌汁と漬物、小鉢が並べられる。
「どう?美味しそうでしょ?」
「……すごい、ほんとに美味しそう」
桜内がぽつりと感嘆の声を漏らす。
「おばちゃん、ありがとう」
「なぁに〜、可愛い子に美味しいって言われたら、それだけで元気出ちゃうわよ〜!」
上機嫌にそう言うと、おばちゃんはまた鼻歌を口ずさみながら、厨房へと戻っていった。
「「いただきます」」
ふたりで手を合わせてから、俺は箸を手に取る。
一口めのカツオのたたきは、炙りの香ばしさと薬味の爽やかさが絶妙で、思わず声が漏れる。
「うん、うま……っ」
白ごはんを追いかけるようにかき込みながら、思わず笑ってしまう。
「ほんと、ここ来ると食欲なくても食えるんだよな」
そう呟いたとき、ふと視線を感じて顔を上げると、桜内がこっちをじっと見ていた。
「…黒澤くんって、美味しそうに食べるのね」
「え?」
「ふふ、ごめん。なんか、見てるとこっちまでお腹すいてきちゃって」
箸を手にしながら、桜内が柔らかく笑う。
「そ、そうか?ただ腹減ってただけだって」
少し照れくさくなって、味噌汁をすする。
ダシが沁みて、また思わず目を細めた。
他愛のない会話をしながら食事が終わり、空になった皿の余韻を舌で思い出しながら、ふと顔を上げると、桜内が少しだけ視線を落としていた。
「…実はね、黒澤くん」
湯呑みを置いた俺に、桜内がぽつりと口を開く。
「ピアノのコンクールの案内が来たの」
「へぇ。そっか、すごいじゃん。なんか、でかい大会とか?」
「うん。大きめのコンクール、でも…日程が、ラブライブの地区予選と被ってて」
…なるほど、そういうことか。
桜内は湯呑みに目を落としたまま、唇を少しだけかむ。
「今は……Aqoursの活動に集中したいって思ってる。だから、コンクールは……諦めようかなって」
その声には、決めたような強さと、どこか自分をごまかすような弱さが混ざっていた。
俺はその顔をじっと見つめる。
「…そっか」
その言葉を返したあと、俺はほんの少しだけ考えてから、湯飲みを置いた。
「桜内がそう決めたんなら、いいんじゃないか。やりたいことに集中すんのは、悪いことじゃないし」
俺の言葉に、桜内は驚いたように目を見開いた。
「…もっと、引き止められるかと思った」
「別に、俺が決めることじゃないしな。やりたいこと、選ぶのは自分だ」
俺が言うと、桜内は少しだけ微笑んだ。
けど、その笑顔の奥には、やっぱりどこか迷いが見え隠れしていた。
「たださ」
少しだけ間を置いて、俺は言葉を続けた。
「俺が桜内の変化に気づいたぐらいなんだ。……曜とか千歌には、もっと前から気づかれてるかもな」
言葉を聞いた桜内は、少しだけ目を伏せた。
俺は続けて、
「ま、Aqoursの誰かには……相談しといてもいいんじゃないか?」
湯飲みを手に取りながら、俺はそう言った。
桜内は少し黙っていたけど、その顔には、ほんの少しだけ肩の力が抜けたような気がした。
「おばちゃーん、お会計お願いしまーす!」
俺が声をかけると、厨房の奥から「はーい、ちょっと待ってね〜」と、あの鼻歌交じりの返事が返ってくる。
「黒澤くん、私が…」
桜内が財布を出そうとするのを、俺は軽く手で制した。
「いや、いいよ。俺が誘ったんだからさ。遠慮すんなって」
「…そう?じゃあ、ありがとう。ごちそうさま」
「うん。…おばあちゃん、ごちそうさま!」
おばちゃんの元気な笑い声と、湯呑みに残ったぬるいお茶の香りが、妙に心地よく感じた。
店を出ると、外はすっかり陽が落ちていた。
通りを照らす街灯がぽつぽつと灯り、潮の香りを乗せた夜風が静かに吹き抜けていく。
桜内は俺の隣を歩きながら、ちらりと空を見上げた。
「桜内」
「ん?なに?」
「もう少し、我儘になってもいいと思うよ。自分の夢とか、やりたいこととか、全部我慢して抱え込むのって、きっとしんどいだろ?」
立ち止まって、そう言うと、桜内は驚いたように俺を見た。
「黒澤くんって、そういうこと……言うんだね」
「言うさ、たまにはな」
少しだけ照れくさくなって目をそらすと、彼女はふっと笑って、優しく言った。
「…ありがとう。今日は誘ってくれてよかった。なんだか、少しだけ楽になれた気がする」
「ん、それは良かった」
「それじゃあ、さっそく我儘言ってもいいかしら?」
歩き出そうとした桜内が、ふと立ち止まって、俺の方を見上げながら言った。
「ん?俺にか?構わないが……なんだ?」
突然のことに少しだけ身構える。
俺に何か頼みごとでもあるのかと警戒したが、桜内の口から出た言葉は意外なものだった。
「私も……“瑠璃くん”って、呼んでもいい?」
「…は?」
思わず間の抜けた声が出てしまう。咄嗟に意味が飲み込めず、眉をひそめて聞き返す。
「…どして?」
すると桜内は、ぽつぽつと弁解を始めた。
「ち…違うの!?千歌ちゃんも曜ちゃんも“瑠璃くん”って呼んでるし、それに…男の子の友達なんて初めてで…だから、その…仲良く…うぅ……」
話すうちにどんどん声が小さくなり、しまいには顔を真っ赤にしてうつむいてしまう。
恥ずかしさに身を縮めているその様子が、なんだか小動物みたいで可笑しい。
──なるほど。俺のこと、ちゃんと“友達”として見てくれてるんだな。
そう思うと、少しだけ胸の奥が温かくなる。
「…態々聞かなくてもいいのに。好きに呼びな」
俺が苦笑混じりにそう言うと、桜内はパッと顔を上げた。
「っ……ありがと、瑠璃くん」
その瞬間見せた笑顔は、先ほどまでの恥じらいが嘘のように柔らかく、まっすぐだった。
「お、おう……」
不意を突かれて、今度はこっちが動揺する番だった。
気まずさをごまかすように咳払いを一つして、歩き出す。
桜内の家の近くまで送ったあと、軽く手を振って別れた。振り返ると、彼女は小さく頭を下げて、またあの笑顔を見せてくれた。
そして俺は、静かな夜風に当たりながら、ゆっくりと家路についた。
溜まってる分の投稿終了でございます!
急な更新で驚いた方、大変ご迷惑をおかけ致しました。
次回から、週一更新目指していけたらと思います。
長々と失礼致しました。
よろしくお願いいたします