後書きにてご連絡ございます。
朝の陽射しは、どこまでも優しかった。
それなのに、俺の胸の奥は、昨日からひどく重たいままだった。
いつもの時間に起きて、いつものように水着に着替えた。
けれど玄関の前で足が止まった。
部活に行かなかったのは、いつぶりだろう。
いや、たぶん初めてだ。
家の前で、しばらく立ち尽くしていた。
足は前に進まないくせに、戻る気にもなれなかった。
……でも。
逃げてる場合じゃないだろ。
勝てなかった理由がわからないままじゃ、余計に惨めだ。
「……行くしかねぇか」
そう呟いて、無理やり身体を動かした。
〜〜〜〜〜
「お! 珍しく時間ギリギリだな、瑠璃さん!」
更衣室からプールへ向かう通路の途中、いつものように元気な声が飛んできた。
珊瑚だ。タオルを肩にかけて、いつもどおりのニヤニヤ顔。
「……寝坊しただけだよ」
そう言って、視線を外す。
途端に珊瑚が「えっ」と驚いたように目を丸くした。
「え? あれ? 注意しないんすか?」
「は? ……あ〜、敬語ね。気分じゃないからな」
語気を強めるでもなく、ただ口先で答える俺に、珊瑚は少しだけ眉を寄せた。
「そっすか」と気まずそうに返して、それきり黙った。
いつもなら、ここから軽口の応酬が始まるが、今日は、それをする気すら起きなかった。
黙ったまま歩き出した俺の背中を、珊瑚が少し不思議そうに見送っていた。
その視線が妙にくすぐったくて、でも振り返る気にもなれなかった。
メンバーも揃い、部活が開始したが
「瑠璃!!集中しろ!!それで全国行くつもりか!?」
「は……はい!! すみません!!」
コーチの怒声が、プールの反響音とともに鼓膜を打った。
声を張ったつもりでも、芯の通っていない返事だった。
自分でもそれがわかる。
だから余計に、悔しかった。
体を引きずるようにしてプールから上がり、ベンチに腰を下ろす。
水滴がポタポタとタイルに落ちて、小さな水たまりをつくっていく。
その音すら、やけに耳についた。
――最初の気持ちって、なんだよ。
昨日、和也に言われた言葉が、頭の中で繰り返されていた。
勝ちたいと思ってた。
和也に勝ちたかった。
なのに、その「勝ちたい」が、どこか空っぽに感じる。
メンタル面――ってことでいいのか?
そんなふうに考えがまとまらないまま、ぼんやりと視線を落としていたときだった。
「大丈夫か?」
「え?剛先輩……お疲れ様です。休憩ですか?」
「まあな」
気づけば、剛先輩が隣に座っていた。
大きな体をゆっくりとベンチに沈めると、ペットボトルの水をひと口。
その仕草が、妙に落ち着いていて、少しだけ心が和らぐ。
「どうしたんだ?いつもの感じじゃなかったな」
「…やっぱりそうですか?」
「気づいたのは翔太だけどな」
「銀次先輩が?」
思わず、プールサイドを歩いている銀次先輩に視線を向ける。
すると、こちらに気づいたのか、軽く手を振ってきた。
なんとなく頭を下げて返す。
あの人、本当に周りをよく見てる。
「で、どうしたんだ?」
剛先輩の声はいつもどおり淡々としているけど、その目はまっすぐだった。
ごまかしがきかないって、すぐにわかる。
「……実はですね」
観念して、俺は一つひとつ話し始めた。
あの後、レースしたこと。
挑戦して、全力で泳いだのに、勝てなかったこと。
和也に言われた、最初の気持ちのこと。
剛先輩は、黙って頷きながら、時折うなずいたり、目を細めたりしていた。
最後まで、口を挟まず、ただじっと聞いてくれていた。
話し終えた頃には、少しだけ胸のつかえが取れたような気がした。
でも、まだ答えは見えないまま。
だからこそ――何かを言ってくれるのを、俺はどこかで期待していた。
「なるほどな……」
ようやく剛先輩が口を開いた。
低くて静かな声。
でも、胸の奥にずしりと響く。
「勝ちたくて泳いだんだな」
俺は、うなずくしかできなかった。
「勝ちたい、って気持ちは悪くない。誰だって、そう思って泳いでる。でも……」
剛先輩は小さく息をついた。
「お前、それしか見えなくなっていたんじゃないか?」
何も言い返せなかった。
言葉じゃなく、心に直接届くような言い方だったから。
「勝ちたい相手がいるのも、負けて悔しいのも、いいことだ。でも、それが“全部”になると、自分を見失う」
俺の拳が、無意識に膝の上でぎゅっと握られる。
先輩はベンチの背に体を預け、空を仰いだ。
「“勝ち”ってのはな、泳ぎ続けた先に“ついてくる”もんだ。追いかけてるうちは、案外逃げる」
「……それ、どういう……」
「自分で考えろ」
バッサリ切られて、俺は思わず口を閉じた。
「俺も、一回迷った。“勝ち”にこだわっていた時が」
「……剛先輩にも、ですか?」
「あるよ。どんな奴にも、そういう時期は来る。けど――そこでどう泳ぐかで、その先が決まる」
「……どう泳ぐか、ですか」
「そうだ。答えは、自分で見つけろ。見つけた答えのほうが、ずっと強いからな」
そう言い残すと、剛先輩は立ち上がった。
少しだけ振り返って、俺の頭を軽く小突く。
「悩むのも、水泳のうちだ。逃げるなよ、瑠璃」
それだけ言って、ベンチを離れた背中は、なんだかやけに頼もしく見えた。
残された俺は、静かに拳を握る。
“勝ち”は、追いかけるものじゃない――か。
確かに胸の中に残っていた。
次の日の朝。
と言っても、空はまだ濃い藍色に染まっていた。
足元のアスファルトが、リズムよく音を立てる。
吐く息は白くないけど、ほんの少しだけ冷たい風が肌を撫でていった。
こんな時間に走るなんて、何かに追われてるみたいだな、と思う。
いや、きっと――追われてるんだろう。
自分自身に、昨日までの情けない自分に。
一歩ずつ、地面を蹴って進むたびに、胸の奥がざわつく。
頭の中で、剛先輩の言葉が繰り返される。
「“勝ち”は、追いかけるものじゃない」
「自分で見つけろ」
……自分で見つけろ、か。
だったら俺は、何を見つけたいんだ?
何を手に入れたくて、泳いできたんだ?
気づけば足は、海沿いの防波堤に向かっていた。
波の音が、静かな朝にリズムを刻んでいる。
水平線の先、まだ太陽は顔を出していない。
しばらく立ち止まり、肩で息をしながら、目を閉じた。
潮の匂いと、風の冷たさが、少しずつ頭を冷やしてくれる。
……勝ちたい。
それはずっと変わらない。
でもなぜ、あんなに焦ってたんだ。
なぜ、あんなに苦しかったんだ。
「……和也に、勝ちたかったから」
ポツリとつぶやいて、自分で自分に問い返す。
じゃあ――勝って、どうするつもりだった?
和也に勝って、それで終わりか?
いや、違う。
その先が、ずっとあるはずだった。
だけど、俺は……勝つことばかりに目が行って、何も見えてなかった。
思い出すのは、あの声。
厳しくて、冷たくて、腹の立つ顔。
「親父……」
その言葉が、喉から漏れると、なぜか胸がきしんだ。
親父の存在が、重くのしかかってくる。
水泳にのめり込む俺を、最初は褒めていた親父。
しかし、今は認めてくれていない。
でも、心のどこかで――俺はいつか、結果を出せば認めてくれると思っている。
やっと気づいた。
俺が“勝ち”にこだわっていた理由は、親父に認めてほしかった。
ただ、それだけだったんだ。
でも、それだけじゃダメなんだろう。
このままじゃ、親父のために泳いでるだけだ。
でも…。
「……じゃあ、“最初の気持ち”って、なんだよ」
和也の言葉が、頭の奥でこだまする。
けど、俺の最初って、なんだった?泳ぎたい、と思った瞬間。
最初にプールに入った時の気持ち。
あの時、俺は……何を思ってた?
「……わかんねぇよ」
叫ぶように言ったその声は、海に吸い込まれていった。
「――瑠璃くん?」
「うおっ!? え、え、曜……?」
背後から突然聞こえた声に、心臓が跳ね上がる。
振り返ると、そこには見慣れた顔が立っていた。
「な、なんで曜がここに……?」
「えへへ、びっくりした?千歌ちゃんと梨子ちゃんがどっか行っちゃってさ、追いかけたんだけど見失っちゃって」
「千歌と梨子が……?」
何があったのか少し気になったが、まあ、あの二人ならきっと大丈夫だろう。
それよりも、今は――。
「で、瑠璃くんは?こんな時間に海に来てるって、何かあったの?」
「…ちょっとな。和也に負けてから、色々考えることが増えてさ」
「和也くんに……」
俺はことの経緯を全て話した。
和也から言われた、最初の気持ちについて。
勝ちにこだわり始めたこと。
その理由も…曜は一言も挟まず、ただ静かに聞いていた。
表情はどこか寂しそうではあった。
「そっか…お父さんが」
「…ああ」
「確かにさ、瑠璃くん……最近、水泳のことであんまり笑わなくなった気がする。なんとなくだけど、見ててそう思ってた」
「……そうか」
曜は小さくうなずくと、波打ち際に目を向けた。
少し風が吹いて、曜の髪が揺れる。
「でもさ、最初の気持ちって、すぐに思い出せるもんじゃないよね」
「…ああ」
俺は重くうなずいた。
和也に言われた言葉が、まだ頭の中をぐるぐる回ってる。
けど、それが何なのか、まだ掴めない。
「私も、すぐにはわからなかったな」
曜がぽつりと呟く。
その声には、どこか遠くを見つめるような響きがあった。
「ちょっとずつでいいと思うよ。焦らないで、ひとつひとつ思い出してみたらどうかな」
「思い出す……?」
「うん。たとえば、最初に泳ぎたいって思ったのはいつだったか、とか。勝ちたいって思ったのは、誰のためだったのか、とか。ちゃんとあったはずだよね?」
曜の言葉は柔らかくて、でも胸に刺さる。
曜はにこっと微笑むと、砂浜にしゃがみ込んで、指で何かを描き始めた。
波がそれをさらっていくけど、曜はそれを楽しそうに眺めている。
「私ね、泳げるようになった日、すっごく嬉しかったの。千歌ちゃんが拍手してくれて、私も思わずバシャバシャって水かけちゃったくらい!」
「……はは、曜らしいな」
「瑠璃くんにも、そういう日があったでしょ? 誰かに褒められたとか、自分で“泳げた!”って喜んだとかさ」
「……そう、だな。初めて25メートル泳げたとき、母さんと親父が喜んでくれて…」
「あ、今ちょっと笑ったよ?」
「えっ……?」
「うん。今の瑠璃くんの顔、すごく良かった」
曜の目が、俺をまっすぐ見つめていた。
「その顔、大事にしてみて。もしかしたら、そこに“最初の気持ち”が隠れてるかもしれないよ」
最初の気持ち――水泳が楽しいって気持ち。
水泳が楽しかった。
泳いでも楽しかった。
負けても楽しかった。
勝っても楽しかった。
泳ぐのが、ただ楽しかった。
――それが、俺の最初の気持ちだったんだ。
「……うん。ありがとな、曜。ちょっと……なんとかなる気がしてきた」
「えへへ、それならよかった!」
曜がふと、東の空を指さす。
「――わあっ、日の出だ!」
俺もつられて、そちらに目を向けた。
地平線の端から、朱色の光がゆっくりと昇っていく。
それはまるで、新しい何かが始まるような、そんな気がした。
「……ありがとな、曜。曜のおか……げ――」
曜が朝焼けを見つめているその横顔が、ゆっくりとした時間に見えた。
俺の鼓動が、ふいに跳ねる。
「ん?なに、瑠璃くん?」
――綺麗だな。
そんな言葉が、頭の中にふいに浮かんだ。
慌てて首を横に振る。
胸の奥が、急に熱を帯びる。
ドクンと、いつもより強く心臓が脈打った。
無邪気に笑う、あの笑顔。
「瑠璃くん、ぼーっとしちゃってどうしたの?」
「い、いや、なんでも……ない」
視線をそらしながら答えるのがやっとだった。
顔が妙に火照っている気がする。
きっと、朝日が眩しいせいだ。
「そ、そう?それじゃ私、千歌ちゃんの家戻るねー!」
「お、おう……気をつけてな」
曜が軽く手を振って走り出す。
俺はしばらく、背中を見送っていた。
……朝焼けの海と、あの声が、少しだけ心をあったかくした。
こんにちは!カイザウルスです。
次回の話をします。
原作通りなら、「友情ヨーソロー」回なのですが…。
ご覧の通り「黒澤家の長男です。」の曜ちゃんは、そこまで千歌ちゃんに嫉妬ファイヤ〜感がございません。
ですので、オリジナル展開になると思います。
苦手な方、申し訳ございません。
暖かい目で見ていただけると助かります。
どうか今後とも「黒澤家の長男です。」をよろしくお願いいたします。