黒澤家の長男です。   作:カイザウルス

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第29話

午後の陽が差し込む屋内プール。

窓の外ではセミがうるさく鳴いているけれど、水の中に潜れば、すべての音が遠ざかっていく。

 

――もうすぐ、インターハイだ。

 

何度も聞かされたその言葉。

県予選を突破してから数週間、俺はただ、毎日を泳いでいる、速くなるためじゃない。

ただ、「楽しい」と思えるその感覚を、失いたくなくて。

 

壁をタッチして浮かび上がると、プールサイドのバッグから電子音が鳴った。

 

「……ん?」

 

タオルで顔をぬぐいながらスマホを手に取る。画面には「千歌」の名前。

開いてみると、画面いっぱいに大きく、

 

『予選突破!!』

 

絵文字とびっくりマークで溢れた、いかにも千歌らしいメールだった。

 

ふっと口元が緩む。

続けて曜からも一通。

 

『なんとか予選通過! まだまだここからだね』

 

「……そっか。やったな」

 

スマホを構え、短く返す。

 

『おめでとう』

 

言葉はそれだけだったけど、自然と胸の奥が温かくなった。

 

――俺も、負けてられないな。

 

スマホをタオルの上に置き、水の中へと戻ろうとしたその時だった。

 

「おい、瑠璃!」

 

プールサイドの入口から、剛先輩の声が響く。

 

「ん?」

 

振り返ると、先輩は肩にタオルをかけたまま、こっちに手を振っている。

 

「監督が呼んでる。早めに行ってやれ」

「……俺に?」

 

思わず聞き返す。

監督に呼ばれるような心当たりはなかった。

別にタイムをサボってたわけでもないし、ミスもしていない。

先輩は「さあな」と肩をすくめると、軽く背中を押すようにして言った。

 

「さっさと行けって」

 

俺は濡れた体を拭き、バスタオルを引っ掛けて監督室へ向かう。

 

監督室のドアをノックし、返事を聞いてから中へ入る。

壁一面に飾られた賞状やトロフィーが目に入った瞬間、思わずため息が漏れそうになった。

 

ここ、苦手なんだよな。

歴代の浦男水泳部の栄光がこれでもかというほど詰め込まれているその部屋は、まるで「重み」を押しつけてくるようだった。

自分の実力や覚悟を、じわじわと試されているような気分になる。

 

そんな俺の思考を断ち切るように、監督の声がした。

 

「そこ、座れ」

「はい……」

 

指示されたパイプ椅子に腰を下ろす。

心なしか背筋が勝手に伸びてしまう。

監督は無言で、湯気の立つ湯呑みを差し出した。

 

「ほらよ」

「……ありがとうございます」

 

両手で湯呑みを受け取る。

ふっと、茶の香ばしい香りが鼻に抜けた。

ひと口、口をつける。

熱すぎず、少し渋みのある味が喉を通っていく。

その落ち着く感覚が、逆に緊張を引き立てた。

 

監督はまだ何も言わない。

机の書類に目を落としたまま、沈黙が続く。

 

少し汗ばむ手を膝の上で握りしめる。

何が始まるんだろう。

 

「最近、調子が良いみたいだな」

 

監督が書類から顔を上げ、視線を向けた。

 

「……まだまだですよ」

 

苦笑まじりに応える。

確かに自分でも手応えは感じていた。

けれど、だからといって自信満々になれるほど、まだ何かを掴んだわけじゃない。

 

すると、監督は椅子の背にもたれかかり、ぽつりと続けた。

 

「もうすぐで、インターハイだな。そんでインターハイが終わったら、すぐに秋が来て……冬が来る」

「……?」

 

俺は、一瞬間を置いた。

 

ーー季節の話?

 

思わず湯呑みを見つめながら、拍子抜けしてしまう。

監督らしくない、ふわっとした話題に困惑するも、すぐに次の言葉が投げかけられる。

 

「瑠璃」

 

名を呼ばれ、背筋が自然と正された。

 

「――将来、どうなりたい?」

 

その問いに、目を見開く。

予想していなかった。その一言は、まるで不意打ちのように胸の奥に刺さった。

 

将来――。

 

言われて、視線を宙に彷徨わせた。

小さい頃や、中学の頃までは、聞かれれば即答していた。

「水泳選手になりたい」って。

ただ、それは憧れであって、夢だった。

夢である限り、現実味なんて求められなかった。

 

でも――今は違う。

インターハイを控えて、強い選手たちと競って、自分の限界に挑んで、それでもまだ全然届かなくて。

 

いま考えたら、どうやって選手になるんだ?

ポツリと胸の中に浮かんだ疑問は、意外なほど冷静で、現実的だった。

才能?努力?結果?それとも全部?

言葉にならないまま、湯呑みの縁を指先でなぞる。

 

「わかんないです」

 

言ってから、自分でも驚いた。

もっと見栄を張ってもよかったかもしれない。

だけど今の自分には、明確な答えなんてなかった。

 

ぽつりと答えると、監督は一瞬だけ驚いたような顔をした。

 

だけど、すぐに――ふっと笑った。

 

「はは、そうか。まぁ、だよな」

 

肩の力が抜けたような、素の笑いだった。怒られるかもと身構えていた俺は、少し拍子抜けした。

 

「そりゃそうだ。俺だって、お前の頃は何にも見えてなかったさ。見えたフリしてるやつの方が危なかったりするもんだ」

「……そういうもんですか?」

「そういうもんだよ。だから、わかんねぇって言えるお前は立派だ」

 

監督はそう言って、机の上の湯呑みに手を伸ばすと、一口すすった。

そして、口を開いた。

 

「まぁ、カウンセリングみたいなもんだ。インターハイに出る選手全員に聞いてるんだよ」

 

湯呑みを置きながら、どこか照れ隠しのように肩をすくめる。

 

「全国大会が近い中でな、実力もそうだけど、メンタルの確認も大事だからな。……お前、見た目よりも考えすぎるところあるし」

「う……」

 

図星を突かれた。

俺はちょっとだけ眉をひそめる。

監督はそれを見てまた小さく笑った。

 

「ま、余計なこと考えるくらいなら、楽しく泳げ。インターハイってのは、簡単に出られる舞台じゃねぇ。出られるだけでも、誇っていい。あとは……お前がどこまで行けるかだ」

 

ーーどこまで、行けるか……。

 

監督の言葉が、じわじわと胸に染みていく。

 

監督はそう言って湯呑みを置くと、「あと」と付け加えながら、机の引き出しから一枚の紙を取り出した。

 

「明日、お前に取材が来るから」

 

そう言って、何でもないことのように紙を差し出す。

絶対、そっちが本命だろ!

俺は内心でそうツッコミを入れながらも、黙って紙を受け取った。

そこには、地元新聞社の名前と、取材予定の時間が書かれている。

 

思わず紙をまじまじと見つめて、ため息が漏れた。

 

「緊張すんなよ?お前、見た目は割とカッコいいんだからさ。ちゃんと受け答えできれば、それなりに絵になる」

 

監督が冗談めかして笑う。

 

「……ありがとうございます」

 

皮肉とも感謝ともつかない声で、そう返すしかなかった。

紙をポケットにねじ込んで、椅子を引いて立ち上がる。

 

「失礼しました」

 

そう一礼して、俺は監督室を後にした。

ドアノブに手をかけ、廊下へ出ようとした、そのとき。

 

「瑠璃」

 

背後から呼ばれた声に、思わず足が止まる。

振り返ると、監督はまだ椅子に腰を下ろしたまま、じっと俺を見ていた。

 

「……期待してるぞ」

 

その声は、どこまでもまっすぐだった。重すぎず、でも軽くもなくて、芯だけが残るような、そんな響きだった。

 

「……はい」

 

俺は短く返事をして、今度こそドアを閉めた。

 

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 

夕焼けが街をオレンジに染めている。

 

蝉の声も少し落ち着いて、風がほんのり涼しくなった気がした。

俺は自転車のペダルをゆっくり踏み込みながら、いつもの帰り道を進んでいく。

 

監督の言葉が、まだ頭の奥に残ってる。

「期待してるぞ」――か。

べつにプレッシャーってほどでもない。

でも、何かを預けられたような気がして、胸の奥がほんのりと熱を帯びていた。

 

そんなときだった。

 

「あっ!ルーくん!」

 

前方から飛んできた声に、顔を上げる。

夕焼けの坂道の上から、誰かが手を振っていた。

……千歌だった。

 

制服のまま、ランドセル代わりのスクールバッグを背負って、こっちに駆けてくる。

少しだけ汗ばんだ額をぬぐいながら、相変わらずの笑顔。

ブレーキをかけて、自転車を止めた。

 

「部活終わり?」

 

そう声をかけると、千歌はふにゃっと笑ってうなずいた。

 

「うん!練習早く終わったんだ~!その後、曜ちゃんと果南ちゃん家にいたの!」

「そっか」

「メール、ありがとね。すっごく嬉しかった」

「……予選、突破したんだろ?」

「うんっ!曜ちゃんも喜んでたよ。これで、次に進める!」

「……そりゃ、よかったな」

 

言いながら、自然と視線を少しだけ逸らす。

 

「そんな曜は?一緒じゃないのか?」

 

俺がそう聞くと、千歌はちょっと口を尖らせた。

 

「曜ちゃんはね、今日はバスで帰ったの!荷物いっぱいあるからって」

 

何時も千歌といっしょにいるし、ちょっと話したかったんだけどな…。

後でメールでも送るか。

 

「…っていうかさ、最近ルーくん、曜ちゃんとばっか話してない?」

「え?」

「千歌とも話そうよ~、たまには!拗ねちゃうよ?」

 

半分冗談、半分本気みたいな顔だった。

俺はちょっとだけ笑って、肩をすくめた。

 

「そんなつもりはないけど……そう見えたか?」

「見えるよー。この間も2人で話してだじゃん!」

「まぁ、水泳の話だしな……千歌はわからないだろ?」

 

そう返すと、千歌はぷくっと頬をふくらませた。

 

「むぅ~、わからないけど!わからないなりに混ざりたいの!」

「混ざってどうすんだよ。ターンの角度とか、浮力の話とか……退屈だぞ?」

「そういうのはいいの!ルーくんが真面目な顔で話してるのを見るのが楽しいんだから」

「……なんだそれ」

 

思わず吹き出しそうになった。

けど、千歌の顔は案外真剣で、からかってるだけでもなさそうだった。

 

「だってさ、最近のルーくん、ちょっと変わった気がするんだもん」

「変わった?」

「うん。なんか、柔らかくなった。前はもっと、ピリピリしてた気がする」

 

そう言って、千歌は小さく笑った。

 

「……悪い意味じゃないよ。たぶん、今の方が……私は好きかも」

 

夕焼けが差し込む中、その一言だけが、妙にあたたかく響いた。

俺は少しだけ目を伏せて、前を向いた。

 

「……そうかよ」

 

何気ない風を装って、そう言ったけど。

胸の奥がじんわり熱くなるのを、隠しきれなかった。

 

「そういえばさ、もうすぐ全国大会なんでしょ?」

 

唐突に千歌が顔をこちらに向ける。

 

「ん?」

「インターハイ。いつなの?」

「ああ……ちょっと待てよ」

 

俺はポケットからスマホを取り出して、スケジュールを開いた。

カレンダーの画面に指を滑らせながら、画面を見せる。

 

「……一週間後ぐらいだな。これ」

「あっ!」

 

千歌が思わず声を上げた。

 

「ラブライブの次の日だ!」

「本戦か?」

「ううん、東海ブロックだよ。予選と比べてかなりレベル高くなるって、みんなで話してたの」

「へえ……」

 

そうか、お互い大きな勝負が続いてるんだな。

 

「どっちも、踏ん張りどころってわけだ」

 

俺がそう言うと、千歌はニコッと笑ってうなずいた。

 

「うんっ。瑠璃くんも、負けないでよ?」

「お前らこそな。負けたら、予選突破おめでとうのメール、取り消すからな」

「え~!?ひど~い!」

 

冗談めかして肩をすくめると、千歌は笑いながら俺の横を小走りで先に進んでいった。

夕焼けの下、その笑顔がやけに眩しく見えた。

 

「……ああ、そうだ」

 

並んで歩きながら、ふと思い出して口を開く。

 

「ラブライブ、見に行くから」

「えっ!?」

 

千歌が大げさなくらい驚いた声を上げて、こっちを振り返る。

 

「……なんだよ、その反応」

「もう“Aqours関係者”として申請してるよ?」

「……は?」

 

あまりにサラッとした言い方に、思わず聞き返す。

 

「何勝手に……」

「大丈夫、大丈夫。ちゃんとダイヤさんのOKは取ってあるから!」

「いやいやいや」

 

俺は思わず頭を抱えた。

 

「そういうのは、せめて本人の了承取ってからにしようよ……」

「えー、だって絶対断らないと思ったし!ほら、瑠璃くんって、なんだかんだ来てくれるし、サポートしてくれそうだし!」

「勝手に信頼されてるのか、雑に扱われてるのか、どっちなんだよ……」

「どっちも!」

 

千歌は満面の笑みで、まるで迷いなく答えた。

……そうやって全部持っていくんだよな、こいつは。

 

「……はぁ。もういいや。行くよ、ちゃんと」

「やったー!じゃあ当日は、マネージャー兼応援団ってことで! 制服じゃなくて、AqoursTシャツ着てきてね!」

「着ねぇよ」

「えー! なんでー!?」

 

千歌の声が、夕暮れの道に響いた。

それを聞きながら俺は、何かもう、いろいろ諦めて笑うしかなかった。

 

 

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