黒澤家の長男です。   作:カイザウルス

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インターハイ編開始!


インターハイ編
第32話


 

 

まだ夜が明けきらない、浦男の駐車場。街灯に照らされたアスファルトの上には、いくつかの影が静かに集まりつつあった。セミの鳴き声すらなく、どこか張り詰めたような空気が漂っている。

 

その中で俺は、大きな遠征バッグを肩にかけ、無言で部の貸し切りバスのそばまで歩いた。手早く荷物を預け、乗車リストに名前を記入すると、バスのステップを軽く上がる。

 

車内にはまだ誰もいない。エンジンも空調も止まっていて、朝の冷たい空気がそのまま残っていた。俺は自分の席を確認し、窓際に腰を下ろす。左手でイヤホンをポケットから取り出し、右手ではアイマスクを首に掛ける。頭の中では、今日泳ぐ100m自由形のことが自然と再生され始めていた。スタート、潜水、ターン、ラストのラップ――いつものルーティン。

 

……と、そのとき。

 

「……うわ」

 

思わず、声の方を向いた。バスの入り口に立っていたのは、珊瑚だった。

 

半分寝起きのような顔をしていたが、俺の姿を見た途端、露骨に嫌そうな顔になる。眉をひそめ、目を伏せ、まるで「最悪だ……」とでも言いたげな空気をまといながら、荷物をずるずる引きずって歩いてくる。

 

「……何だよ、その顔」

 

少し呆れたように言うと、珊瑚は心底嫌そうな目でこちらを見てきた。

 

「いや、お前の隣とか、運が悪すぎるだろ」

「俺だって選んだわけじゃねえよ。座席表見ろ、決まってんだろが。あと敬語」

 

言いながら、軽くその頭をぺしっと叩く。

 

いてて……!っと、小さく文句を呟きながらも、渋々と荷物を置き、座席に腰を下ろす珊瑚。

エンジンがかかる音が、バスの床を伝って響いてくる。

俺はアイマスクを指にかけたまま、ふと思いついて口を開いた。

 

「なあ、昨日のライブ……Aqoursの。見たか?」

 

珊瑚はちらりと俺を見たあと、すぐに視線を逸らした。

一瞬の沈黙。

それから、ぼそりと小さく答える。

 

「……見たよ」

「どうだった?」

 

訊くと、少しだけ間があって。

隣の気配が、わずかに縮こまるのがわかった。

 

「……めちゃくちゃ良かった」

 

声は小さくて、でもはっきりしていた。

どこか照れたように、でもごまかすような笑いもなくて――

たぶん、あいつなりの素直な言葉だった。

 

俺はそれを聞いて、少しだけ口元を緩めた。

昨日のことが、ふと頭をよぎる。

 

楽屋での、あの一言――

「善子ちゃんは、珊瑚くんにほの字ずら」

 

言ったのは、花丸だった。

気づけば、ぽつりと口にしていた。

 

「そういや、お前と津島って……どんな関係なんだ?」

 

ちらりと横目で見ると、珊瑚の肩がぴくっと動いた。

面倒くさそうに眉をひそめて、ゆっくりと振り向いてくる。

 

「……なんでっすか、いきなり」

 

その顔は、あからさまに“警戒”していた。

わかりやすいやつだなと思いながらも、俺は肩をすくめて返す。

 

「そう言えば、海の家の時も仲良さげだったからな」

 

俺が何気なくそう言うと、珊瑚は明らかにめんどくさそうな表情を浮かべながら、吐き捨てるように答えた。

 

「……同じ団地に住んでる、幼馴染です」

 

嫌そうな語気だったが、それでも嘘ではなさそうだった。

 

「なるほどな」

 

俺は頷きながら思い返す。

津島は礼儀が正しくて、話し方も丁寧で、芯のある子って印象だった。

 

「すごい礼儀正しい子だったからな。……いい子なんだな、あいつ」

 

そう言うと、珊瑚は一瞬こちらを見て、それから小さく笑った。

 

「いい子……ですけどね。厨ニ病入ってる、けっこう痛いやつですよ、あれ」

 

「厨ニ病?」

 

俺が思わず聞き返すと、珊瑚はふっと笑って、座席にもたれかかるようにして続けた。

 

「小さい頃から、ずっとっすよ。“堕天使ヨハネ”とか名乗ってましたし」

「マジかよ……」

「マジです。俺、小一のときっすからね。“貴様には闇の素質がある。”とか言われて、真顔で指輪渡されて」

 

想像しただけで、笑いがこみ上げてきそうになる。

けれど、珊瑚はその思い出を、どこか懐かしそうに話していた。

 

「その指輪、学校に持っていったら先生に取り上げられて……で、善子が放課後に、涙目で“それは呪われし契約の証だから!”とか言って」

「……めっちゃおもしれぇな」

 

俺が吹き出すと、珊瑚は少しだけ誇らしそうに肩をすくめた。

 

「まあ、最近はだいぶ落ち着きましたけどね。中学ぐらいから。今でもたまにスイッチ入りますけど」

「スイッチ?」

「何かの拍子に急に“覚醒”するとか言い出すんすよ。マジで意味わかんないっすよね」

 

そう言いながら、でもその顔はどこか楽しそうだった。

津島の話をする珊瑚は、どこか笑っていた。

けして大きく笑うわけじゃない。

でも、言葉の端々に、何かを思い出してふと綻ぶような――そんな表情が混じっていた。

 

きっと、大事な人なんだろうな。

そう、思った。

本人は嫌そうな顔ばかりしてるけど……言葉より、目が語ってる。

 

「……そっか」

 

俺はそれだけ言って、窓の外に目を向けた。

いつの間にか、あたりには人の気配が増えていた。

周囲を見渡せば、バスの座席はほとんど埋まっていて、前方では顧問が出欠を取りながら何か確認している。

 

気づけば、バスは静かに発進していた。

 

「……じゃあ、東京着くまで寝るわ」

 

そう一言だけ珊瑚に伝えて、俺はゆっくりとアイマスクを下ろす。

隣の席から何か言いたげな気配もあったが、構わず体を預けて、目を閉じた。

 

窓の外の風景がゆっくりと流れ始める。

その音を遠くに感じながら――

俺は、静かに眠りについた。

 

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 

 

「……先輩、着きましたよ」

 

ぼんやりした意識の中、耳元で声がした。

まぶたを持ち上げると、隣に座る珊瑚がこっちを見ていた。

その表情は、ほんの少しだけ笑っているようにも見える。

 

「……ああ、悪い。ありがと」

 

体をゆっくりと伸ばす。

硬いシートに押しつぶされていた腰と背中が、バキバキと音を立てた。

窓の外を見ると、都会の街並みが広がっていた。

 

東京――無事、着いたらしい。

 

バスの中にざわめきが広がっている。

誰かが立ち上がり、荷物の準備を始める中で、前方に立った監督が声を張り上げた。

 

「はい、みんな聞けー! 到着早々だが、日程をもう一度確認しておくぞ」

 

一斉に視線が向けられる中、監督は紙を手にして続けた。

 

「初日は開会式のあと、すぐに個人種目の予選をやる。お前らそれぞれの種目、時間を間違えるなよ」

 

小さなざわめきとともに、数人がうなずく。

監督は続けた。

 

「2日目がその決勝とB決勝だ。勝ち残ればそこでメダルが決まる。気合入れてけよ」

 

「3日目は個人メドレーとメドレーリレーの予選。そして、最終日の4日目にその決勝と閉会式。全日程、気を抜くな。いいな」

 

ピンと張り詰めるような空気が、車内を包んだ。

 

俺は小さく頷きながら、握っていたアイマスクをリュックにしまった。

 

バスを降りると、立ち止まって大きく息を吸った。

胸いっぱいに満ちる、湿ったような、でもどこか乾いた匂い。

沼津の空気とは違う。人と車と、ビルの隙間をすり抜けるような東京の空気。

 

ああ、着いたんだな――そう思った。

周囲では他校のバスも次々と到着していて、ざわざわとした喧騒が広がっている。

知らない制服、知らない顔。

この空間に、全国の強豪たちが集まっている。

 

そして、その中に――

 

「……和也、いるのかな」

 

ふと口の中で呟いた。

でもすぐに首を振る。

北海道代表の和也なら、普通に考えて飛行機だろう。あるいは前日入りしてるのかもしれない。

こんなタイミングで会えるほど、世の中はドラマチックじゃない。

 

俺は少しだけ目を細めながら、遠くをぼんやりと見つめていた。

 

「おーい、瑠璃ー」

 

後ろから聞き慣れた声が飛んできた。

振り返ると、剛先輩が手を振ってこっちに歩いてくる。

 

いつもよりちょっとだけ引き締まった顔つき。

でも、その雰囲気は変わらず、どこか余裕を感じさせるものだった。

 

「緊張してるか?」

 

不意にそう聞かれて、俺は少し間を置いてから頷いた。

 

「……少しだけ」

「だな。俺もだ」

 

剛先輩はそう言って、視線を遠くの空にやった。

その目に映るのは、きっと去年の記憶だ。

 

「去年は広島だったからな。正直、遠すぎて実感湧かなかったが、東京ってなると、なんか近くなった気がする」

「……地元から見に来る人も多そうですしね」

「ああ、オヤジも珍しく“応援行く”とか言い出してさ。何年ぶりだよって感じだ」

 

先輩は苦笑しながら、頭を掻いた。

でもその横顔は、なんだか嬉しそうだった。

 

そして、施設の入り口を抜ける。

目の前に広がったのは、東京アクアティックセンター。

国際大会でも使われる、日本屈指の水泳競技場だ。

天井は高く、透明なパネルから差し込む朝の光が、水面を淡く照らしている。

プールの青は深く、どこか静かで、でも底知れない緊張感を漂わせていた。

 

「……すげぇな」

 

思わず、口に出ていた。

テレビでは何度も見たことがある場所。

でも、実際に立つと――そのスケールの違いに、息を呑むしかなかった。

 

ここでは、水泳、飛込、水球……すべての水の競技が行われる。

日本で“世界と戦う”と言えば、まずこの場所の名前が挙がる。

まさに“本物”のステージだった。

館内をぐるりと見回しながら、俺たちは観客席の一角に設けられた裏男の応援席へと向かう。

開会式まで、あと一時間ちょっと。

 

「けっこう時間あるな」

 

そう呟いた俺に、隣の剛先輩が肩をすくめて笑う。

 

「まあ、どこの高校も早めに来るからな。直前で焦るより、のんびり構えてる方がいい」

 

言われてみればその通りだ。

バスを降りてから、他校の選手たちが集まってきているのが見えた。全国から選ばれた強者たち。みんなそれぞれのジャージを身にまとい、落ち着いた様子で談笑したり、ストレッチをしたりしている。

 

俺はふと、少し離れた場所に腰掛けている珊瑚と蛍の姿を見つける。

イヤホンをつけて、タブレットで2人揃って何かを見ていた。

全然緊張してるように見えない。

 

まあ、余裕があるのは悪いことじゃない。

 

俺もベンチに座って、バッグからスポーツドリンクを取り出す。

キャップを開け、ひと口飲んでから、スマホの画面を点けた。

メッセージの通知――ひとつだけ。

 

曜からだった。

 

『がんばれ!』

シンプルな文字と、親指を立てたスタンプが添えられていた。

 

俺は小さく笑って、スマホを伏せる。

不思議なもんだ。

あの一言だけで、少しだけ気持ちが軽くなる。

緊張も不安もあるけど、それより――やってやろうって気持ちの方が勝ってきた。

 

「……よし」

 

立ち上がって、少し歩くことにした。

センターの裏手にある休憩スペース。ガラス越しにプールの全景が見渡せるその場所は、ちょうど日が差し込んでいて、光がゆらゆらと水面を照らしていた。

その水の揺れを見ていると、自然と心が落ち着いてくる。

 

「和也も……もう、どこかに来てるんだよな」

 

あいつもこの施設のどこかにいる。

この間のリベンジ。そのチャンスが、いよいよ始まる。

 

「よう、瑠璃。来てたか」

 

――いきなり頭をぐしゃりと掴まれた。

 

「っ!!」

 

反射的にその手を払いのけて、振り向く。

 

そこに立っていたのは、日焼けしたような褐色の肌。

逆光を背に、白髪がふわりと風に揺れていた。

変わらないようで、どこか鋭さを増したその雰囲気――沢白和也がそこにいた。

 

「……まさか、こんなに早く会えるとはな」

 

自然と口が動いていた。

和也は小さく肩をすくめて、言う。

 

「俺たちは前日から来てるんだよ。会場からバスで五分のとこに宿取っててさ、まあ楽なもんだ」

「……そっか」

 

俺が短く返すと、和也はポケットに手を突っ込んだまま、ゆるくあくびをひとつ。

それから、眠たそうな目で俺をじっと見つめた。

 

「にしても……思ったより元気そうじゃん、瑠璃」

「は?」

「顔が死んでるかと思ってたよ。この間、沼津で俺に負けてさ。わりと引きずるタイプじゃねぇかなって思ってた」

 

その言い方は、どこか軽くて、挑発的で。

でもなぜか、妙に胸に引っかかった。

心の奥を、ざらりと撫でられたような感覚。

俺は言い返せず、ただ黙り込む。

 

だが、和也はそれ以上は何も言わず、ちらと横目でプールを見やった。

 

「ま、いきなり当たるってことはなさそうだな。自由形は……別ブロックだっけ?」

「決勝で当たるな。お前さえ上がってくれば」

「はん、それはお互い様だろ」

 

言い合いながらも、どこか牽制し合うような、探り合うような空気。

和也は小さくくっと喉を鳴らして、あくびをひとつ。

まるでどうでもいいことを言うように、ぽつりと口を開く。

 

「……俺を熱くできるのは、どうせ日本にいねぇよ」

 

その目はどこまでも淡々としていて、まるで諦めているようで――

けれど、その奥底にあるものは、きっとまだ燃えている。

 

「……“憧れるのをやめました”」

「“叩きのめしたい”だっけ?」

 

和也がポケットからスマホを取り出して、すっと俺の目の前に掲げた。

画面には、つい先日公開された例の取材記事。

俺が、あの時の思いのままに語った言葉たちが、しっかりとそこに載っていた。

 

「……読んだのかよ」

「目についたからな」

 

気だるげな声音のまま、けれどその目は一切笑っていなかった。

画面を俺の前でひらひらと揺らして、挑発するように口角を上げる。

 

「――やってみろよ、瑠璃」

 

その瞬間、空気が変わった気がした。

和也の声は小さいけれど、重かった。

冗談でも、軽口でもない。そこには、確かな圧があった。

 

俺は、ほんの少し口元を引き結んでから、和也の目を真っ直ぐに見返した。

 

「……そのつもりだよ」

 

一瞬の静寂。

その中で、互いの視線が絡み合い、ぶつかり合う。

引かない。逸らさない。誰が上かなんて、そんな簡単な話じゃない。

これはもう、言葉じゃなく――覚悟のぶつかり合いだった。

 

「……絶対、決勝で会う」

 

俺は低く、それだけを返した。

やってみせる。言葉じゃなく、結果で。

あの取材記事に刻んだ言葉は、ただの虚勢なんかじゃない。

 

「ふーん」

 

和也は鼻で笑って、それ以上何も言わずに踵を返した。

風を切るように白髪が揺れて、すれ違いざま、ぽつりと呟いた。

 

「楽しみにしてるぜ、“黒澤”」

 

その声音は、やっぱりどこまでも淡々としていた。

でも、確かに聞こえた。

俺はもう一度、深く息を吸った。

鼓動が速い。

でも、いい。

 

やっと、戦える場所に来たんだ。

 

気を抜けば、何かがこぼれ落ちそうになる――そんなほどに、胸の奥が騒がしい。

 

「……っし」

 

軽く頬を叩いて、気合を入れ直した。

そのときだった。

 

「いたいた!」

 

後ろから突然声がして、振り返る。

背後から、少し息を弾ませた声が聞こえた。

 

「探したっすよ。開会式、始まりますって」

 

そのまま立ち止まった俺の顔を見て、珊瑚はぴたりと足を止める。

そして、一瞬――ほんの一瞬だけ、目を見開いた。

 

「……うおっ、びっくりした……」

「は?」

「いや、その……顔、怖いっすよ。めっちゃ。いや、ほんとに」

「元からだろ」

 

肩をすくめながら、俺は踵を返す。

さっきまでの空気を振り払うように、一歩ずつロビーへと足を進めた。

人の波に紛れながら、俺たちは開会式の会場へ向かう。

 

天井までの高さがある巨大なホールに、一歩足を踏み入れた瞬間。

空気の密度が、ほんの少しだけ変わった気がした。

 

ずらりと並ぶ都道府県ごとの代表チーム。

掛け声も談笑も少なく、そこにあるのは――静かな熱。

 

「……全国、だな」

 

思わずこぼれたその言葉は、誰にも届かずに飲み込まれていく。

それでも、確かに感じていた。

足元から伝わってくる、選手たちの鼓動。

天井近くを流れる空調の音さえ、今は妙に遠い。

 

どこかの高校の部長らしき声が、張り詰めた会場に響いた。

司会のマイクが入り、少し硬いトーンで開会式の開始が告げられる。

 

「これが、始まりだ」

 

そう、俺の中の何かが告げていた。

隣に立つ珊瑚も、前を真っすぐ見ていた。

剛先輩は少し背筋を伸ばし、じっとステージを見据えている。

銀次先輩も、蛍も、どこか静かに燃えていた。

 

そしてこの空間のどこかに、和也もいる。

同じ空気を吸って、同じ舞台に立っている。

 

この4日間で、全部が決まる。

一度も負けられない。

一瞬のミスも許されない。

 

拍手が起きて、式は終わりを迎えた。

その瞬間、会場の温度がすっと切り替わった気がした。

戦いの幕が、正式に上がった。

拍手が鳴り終わると、場の空気が一気に現実に引き戻された。

 

誰かの声を合図に、選手たちが次々に動き出す。

俺たちも、自然と監督のいる場所へと足を向けた。

監督は短く、必要最低限のことだけを告げる。

 

「開会式は終わった。気持ち切り替えろ。アップはしっかりな。スタートはもう始まってるぞ」

 

俺たちはうなずいて、すぐにそれぞれのバッグを肩にかけた。

 

更衣室の中はすでに熱気に包まれていた。

聞き慣れた水着の擦れる音と、ロッカーを開け閉めする金属音。

誰も無駄口を叩かない。ただ黙々と、試合の準備を進めていく。

 

俺も、静かに水着を身に着けた。

髪を後ろで縛り、キャップを確認し、ゴーグルを手に取る。

 

「行くか」

 

誰に言うでもなく呟いて、ロッカーを閉めた。

そして、自由形100mのアップ用プールへ向かう。

 

廊下を歩くたび、足音が心臓の鼓動みたいに響いた。

遠くで水の跳ねる音が聞こえる。

プールサイドに立つと、水の冷たさと塩素の匂いが鼻をくすぐった。

まだ公式な試合は始まっていない。

それでも、張り詰めた空気が肌を包み込む。

心のどこかがざわつく。

呼吸は穏やかに、でも全身が微かに震えているのがわかる。

 

周囲では、他の選手たちがそれぞれのペースでアップをしていた。

誰もが、集中している。

時折、視線が交差する。

勝負師同士の目線が、互いの実力を測り合っているようだ。

 

今はただ、前に進むしかない。

ここにいる理由を、証明しなければならない。

 

軽く肩を回し、腕を振る。

水面に手を入れると、冷たさが心地よくて、自然と気持ちが引き締まる。

 

水面が静かに揺れる。

一歩一歩、距離を刻むように。

身体が水に馴染んでいくのを感じながら、呼吸を整える。

ただ、腕をかき、足を蹴り、一定のリズムを刻む。

それだけなのに、集中が途切れることはなかった。

 

目の前にあるラインを、ひとつずつ超えていく感覚。

すべてが純粋な挑戦に変わっていく。

 

一通り泳ぎ終え、身体の調子を確かめる。

問題はない。

呼吸も整い、心拍も落ち着いていた。

 

静かなプールサイドに放送が響く。

 

「ただいまより、100メートル自由形予選Aブロック開始いたします。出場する選手はAプール場まで集まって下さい」

 

すぐにペットボトルを手に取り、タオルとジャージを羽織って、Aプール場へと向かう。

足取りは自然と速くなり、心臓の鼓動が一気に高鳴る。

受付を済ませ、指定されたレーンのスタート台の前に立つ。

その場に立っただけで、空気が変わるのがわかる。呼吸が少しだけ浅くなる。

 

目の前に広がる、綺麗な透明感のあるプール。

遥か高い天井の窓から見える空は、どこまでも青く、吸い込まれそうなほどに広がっていた。

その光景を見ていたら、何かが――感情とも言い切れない、熱のようなものが、ぐわっと胸の奥から込み上げてきた。

 

「5番、黒澤瑠璃くん」

 

アナウンスが静かなプールサイドに響いた。

名前を呼ばれるその瞬間、観客の視線が一斉にこちらに向くのを感じる。

 

俺は深く一礼をして、呼吸を整えながらジャージを脱いだ。

肌にあたる空気が一気に冷たくなり、張り詰めた緊張感が肌を這う。

 

キャップをかぶる。

ゴーグルを手に取り、頭にかける。

そして、後頭部のゴム紐をゆっくりと後ろに引っ張った。

 

――集中しろ。

 

そのまま、ためらいなく手を放す。

 

バチン!っと、甲高い音が頭の後ろで鳴る。

その音が、心に火を点けるスイッチになった。

 

「On your mark」

 

機械音声が、ぴんと張り詰めた空気をさらに締めつける。

ゆっくりとスタート台に足をかけ、俺は前傾姿勢を取った。

 

両手で台の縁をしっかりと掴む。

つま先が、わずかに軋む音を立てた。

 

心拍数が、ひとつ跳ねる。

呼吸は浅い。でも、乱れてはいない。

全神経が、耳に集中していた。

 

一瞬の沈黙――

 

ピッ!と乾いた合図が鳴った、その刹那。

体が本能のままに動いた。

 

空気を裂く感触。

迷いなんてなかった。ただ、前へ。

視界が一気に反転して、水面へと吸い込まれていく。

 

水が、弾ける。

 

スタート台から一斉に飛び込んだ選手たちの身体が、水面を鋭く切り裂いていく。

俺の体も、水を受け止める抵抗を、滑らかに突き破った。

 

一瞬の無音。

水中に潜ると、外の世界のざわめきがすべて遮断される。

ゴーグル越しに見える水の中は、青く、深く――それでいて澄んでいた。

 

いける!

手を伸ばし、強く水を掻く。

バサロのキックが連続して炸裂し、水を蹴り上げながら一気に進む。

15mラインまで、そのままの勢いで突き進み、浮き上がってストロークに切り替える。

 

ゴーグルの端に、隣のレーンがぼやけて映る。

肩の影。泡の軌道。

でも、今はなにも気にしない。ただ前を見る。

 

ーー抑えすぎるな。でも、力むな。

予選は一発勝負、油断すれば落ちる。

スピードをコントロールしながら、最大効率で水を捉える。

 

前だけを見て、ひたすらに腕を回す。

力を抜きすぎず、でも追い込みすぎず。

音はしない。ただ水が揺れ、体が進む感覚だけがある。

 

50m――ターン。

 

壁に手をかけ、勢いよく蹴り出す。

水がぶわっと弾けて、体がもう一度、水中に沈む。

脚の感触は、悪くない。

回転もスムーズだ。

呼吸のリズムも、肩の回転も、スタート前の不安なんてもうない。

 

水面が跳ね、ゴーグルの内側に小さな波紋が揺れる。

視界が揺らいでも、心は揺れない。

目指すはただ――この予選を、1位で抜けること。

 

ゴールまで、あと25m。

俺の腕がもう一度、水を大きく、確かに掴んだ。

全身が水を裂いていく感触に、焦りも不安もなかった。

呼吸を一つ、吐き出すように整える。

頭の中は静かだ。足のキック、腕の回転、それぞれが完璧に連動していた。

今の俺には、ゴールまでの距離も、タイミングも、はっきりと見えていた。

 

残り10m。

隣のレーンの水音が少しだけ近づく――でも構わない。焦らない。

俺は俺のリズムで、俺の速さで、前へ出る。

 

ラスト3回、ストロークを数える。

1。

2。

――3。

 

最後の一掻きで、俺の指先がゴールタッチを決めた。

水しぶきが舞い、ゴーグルの奥で目を閉じる。

しばらくして、プールサイドの電光掲示板を見上げると――

 

「1位 黒澤瑠璃 Time: 00:51.77」

 

思わず、ほんの少しだけ口元が緩んだ。

予選突破。それも、1位で。

これで決勝に進める。

プールの縁に手をかけ、体を引き上げながら、静かに息を吐いた。

興奮を抑えるように、心の奥に火を灯すように。

 

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 

予選がすべて終わり、再びバスに乗り込む。

宿泊先のホテルへと向かう。

どっと疲れが押し寄せたのは、エレベーターのドアが閉まった瞬間だった。

 

部屋に入ると、ベッドの柔らかさがいつになく贅沢に感じられた。

 

「……ふぅ」

 

荷物を置いて、その場に腰を下ろす。

今日一日、何本も泳いだわけじゃない。けれど、心のほうがやたらと疲れていた。

 

天井を見上げると、まだ胸の奥に熱が残っていた。

勝った。でも、これはまだ始まりだ。

明日には決勝がある。

 

少しボーっとしたあと、スマホを手に取る。

通知がいくつか届いていた。

Aqoursのグループチャットからのスタンプと――曜からの個別メッセージがひとつ。

 

『今日の予選どうだった!?』

 

ぽつんと、それだけのメッセージ。

既読をつけたまま返さないのも、なんだか悪い気がして。

そのまま立ち上がって、ベランダの扉を静かに開けた。

 

夜の東京は、少しだけ風が涼しかった。

下を見れば、車のライトがゆっくりと流れていて、空はまだ少し明るかった。

 

俺は曜の名前をタップした。

コール音がひとつだけ鳴ったところで、すぐに出る。

 

「どうだった!?」

 

声が弾んでいた。

心配よりも、期待と興奮が混ざった声。

曜のいつもの明るさが、画面越しじゃないところからちゃんと伝わってくる。

 

「……予選、一位で通ったよ」

 

ベランダの手すりに片肘をついて、ゆっくりと言葉を返すと、電話の向こうでぱっと息を飲む音がした。

 

「やっぱりー!すごいじゃん、瑠璃くん!」

 

その声を聞いて、ふっと口元が緩んだ。

ただ報告しただけなのに、こんなに喜んでくれるなんて――ちょっとだけ、誇らしい。

 

「まあ、明日が本番だ。それに……」

 

言いかけて、少しだけ間をあける。

曜が、受話器の向こうで首をかしげたような気配がした。

 

「?」

「和也もいた。決勝進出だ」

 

その名前を出した瞬間、曜の声が一拍遅れて返ってきた。

 

「そっか……明日、和也くんと勝負だね!」

 

言葉の端に、ほんの少しだけ緊張がにじんでいた。

けど、それ以上に――信じてくれている音がした。

 

「うん。次は勝ってくるよ」

 

俺がそう言うと、曜はすぐに笑って返した。

 

「明日は――Aqoursみんなで行くからね!」

 

声のトーンが一段明るくなって、思わず俺も笑ってしまう。

 

「……時間、間違えるなよ?」

 

「大丈夫、ちゃんと目覚ましかけるから!」

 

そう言い返す声が少どこか楽しそうだった。

俺も肩の力が抜けていくのを感じる。

 

そのあとは、取りとめのない話をいくつかした。

今日の練習どうだったとか、丸の衣装の帯が途中でほどけそうになって焦った話とか――

まるで、いつもの放課後みたいに。

 

電話を切り、息を吐く。

東京の夜は少し蒸し暑くて、でも風は心地よかった。

ベランダの手すりにもたれて空を見上げると、街の光の向こうに星が滲んでいた。

 

曜の声が、まだ胸の奥に残っている。

強くて、優しくて、まっすぐで。

 

最近――なんか、あいつの声がよく響く。

 

電話越しでも、横で笑ってても。

ふとした拍子に、鼓膜の奥に残るような感覚があって。

それが消える頃には、やけに心が静かになってる。

 

不思議だなって思う。

前までは、もっと軽くて、明るくて、ただ“元気な幼なじみ”って感じだったのに。

今は……何だろうな。

言葉にしようとしても、うまく形にならない。

 

ちょっと眩しいな、って。

少し見てられないな、って。

 

でも、見ていたくなる。

 

風がまた吹いて、シャツの裾が揺れた。

夜の匂いがする。

 

俺はスマホを胸の前で握ったまま、そっと目を伏せる。

 

まだはっきりとは分からないけど、

きっと、俺はあいつに……何か、特別な気持ちを抱いてる。

 

そんな予感だけが、妙に確かだった。

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