――ピピピ、ピピピ、ピ――。
けたたましい電子音で、目が覚めた。
うっすら目を開けると、カーテンの隙間から差し込む光が、まっすぐ顔を照らしていた。
時計に目をやる。朝の六時。
いよいよ、今日が本番。インターハイ100m自由形の決勝戦。
昨日の疲れが少し残っているが、問題ない。
昼には無くなるだろう。
そのとき。
シャッ、とカーテンが勢いよく開く音がした。
光が差し込み、視界が一気に白くなる。
「……いよいよだな」
部屋の窓の前で仁王立ち。
やたら決まった声が聞こえてきて、俺は思わず息をのんだ。
ただ一つ、見慣れていないものがある。
「……剛先輩、パンツ履いてください」
何故パンツ、履いていない。
「ああ……忘れてたな」
「なんでそんな堂々としてるんですか」
「寝てるときに脱いだのかもしれん」
「……いや、余計意味わかんないんですけど」
寝る時パジャマだったよなこの人?
真顔でカーテンを閉め、真顔でズボンを履く剛先輩を横目に、俺はベッドから起き上がった。
そして、そっと窓の外に目を向ける。
都会の空は思ったより澄んでいて、東の空には、もう太陽が顔を出していた。
これから、本当に勝負が始まる。
インターハイの決勝。全国のてっぺんを懸けた、たった100mの勝負。
ーー俺は……ちゃんと泳げるんだろうか?
そう思った瞬間、胸の奥がきゅっと締まった。
不安。緊張。期待。全部が混じってる。
ベッドの端に腰をかけ、ひとつ深呼吸する。
――逃げるな。昨日の自分を、信じろ。
小さくつぶやいて、俺は立ち上がった。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
ホテルの食堂は、朝から賑わっていた。
チームで一緒に席に着いて、俺はトレイに並べられたパンとスクランブルエッグ、そして果物をつつく。剛先輩はというと、黙々とご飯と味噌汁。しかもおかわりしてた。
身体に入った食事が、じんわりと熱に変わっていく。
ほんの少し、眠気と緊張がほぐれた気がした。
朝食を終えたあとは、みんなでバスに乗って会場へ向かった。
既に観客が集まりはじめていて、ロビーはざわついている。予選の空気とは段違いだった。
決勝戦のタイムスケジュールを確認すると、俺の100m自由形は昼過ぎ。
まだ、だいぶ時間がある。
「……暇だな」
時計を見ながら、ぼんやり壁にもたれていたそのとき。
「だ〜れだ?」
後ろからふいに、目隠しされる。
でも、その声は聞き間違えようがなかった。
俺はフッと笑って、軽くため息をつく。
「……鞠莉姉?」
「シャイニー♪」
明るくはじける声と同時に、背中からぎゅっと抱きしめられる。
香水の匂いが鼻をかすめる。
振り返ると、やっぱり鞠莉姉。
ラフな白いシャツにサングラスをかけて、いつものように完璧にキマってる。
「おはよ鞠莉姉。来てくれてありがと」
「Good morning!瑠璃!そりゃそうよぉ♪ うちの可愛い弟が、全国の舞台で泳ぐんだから~?」
「……いや、弟じゃないし」
「細かいことは気にしないの!」
まるで昨日ぶりに会ったかのように、鞠莉姉は元気だった。
その直後、さらに聞き慣れた声が後ろから届いた。
「あなたが無事にここまで来れたこと、本当に誇らしいですわ」
振り返ると、ダイヤが微笑んでいた。
黒髪をきちんとまとめて、いつもの凛とした雰囲気は変わらない。
「瑠璃、いい顔してるね」
今度は果南姉。
にかっと笑って俺の肩を軽く叩いた。
「他のみんなは……?」
そう尋ねると、鞠莉姉が唇に人差し指を立てて、ふふっと笑った。
「もう来てるわよ〜。でも、それぞれ自由行動中って感じかしら? 千歌なんて、今頃パンフレット読みながら歩いてるんじゃない?」
「善子はサングラスで芸能人気取りしてたよ」
果南姉が思い出し笑いしながら言う。
「ルビィと花丸さんは、たしかお土産コーナーに……曜さんと梨子さんは、プールの方に先に行ってたような……」
ダイヤが丁寧に説明してくれて、俺は自然と笑みがこぼれた。
みんなが来てくれてる。
それだけで、ほんの少し胸が軽くなる。
「……緊張、してる?」
不意に、ダイヤが真顔で聞いてきた。
俺は少しだけ間を置いて、素直に答える。
「……うん、少しね」
鞠莉姉が俺の肩を抱いて寄り添い、果南姉が両手を腰に当てて頷く。
「いい緊張だと思うよ。それだけ本気ってことだもん」
「わたくしたち、最前列で見守ってますからね」
「うん……ありがとう」
時間は刻一刻と本番に迫ってくる。
心の奥にじわじわと圧力がかかって、落ち着かない。
何とかこの緊張をどうにかしたい――。
「ちょっと……外、走ってくる」
三年生たちにそう伝えると、誰も何も言わずに頷いてくれた。
その背中をあとにして、俺は会場のロビーを抜け、外へ出る。
東京の夏の朝は予想よりも涼しく、空は高く澄んでいた。
空気を吸い込んで、俺はゆっくりと走り始める。
歩道沿いの影を辿るように、軽いランニング。
足を動かしながら、心拍数を上げていく。
身体は、悪くない。昨日の疲労も、思ったより残っていない。
……けれど。
頭の中で、昨日の映像が何度も再生される。
電光掲示板に映った、和也のタイム――49.51
50秒の壁を突破している上に、準決勝の全体トップ。
勝てるのか? 行けるのか?
頭の中には、ネガティブな言葉ばかりが次々と浮かんでくる。
落ち着こうとしても、思考は加速して止まらない。
呼吸のリズムを整えようと、少し強めに地面を蹴った時だった。
「あ?」
前から、ランニングしてくる影が見えた。
近づいてきたのは――和也だった。
上半身はタンクトップ一枚で、筋肉の浮いた腕に汗が光ってる。
肩で息をしてる様子もなく、むしろ身体はもう完全に起きてる。
アップは、十分って感じだ。
「……黒澤か」
立ち止まりざま、和也は額の汗を拭って俺を見た。
その視線に、少しだけ圧を感じる。
「調子どうだ」
立ち止まりざま、和也は額の汗を拭って俺を見た。
その視線に、少しだけ圧を感じる。
「……まぁ、悪くないよ」
そう返すと、和也はふっと口角を上げた。
「昨日、見たよ」
その一言に、胸が微かにざわつく。
まさかとは思ってたけど、やっぱり見られてたか。
「タイム、見ても漠然だな。お前がどう泳いだかも、大体想像はついた」
「……それで?」
和也は、軽く息をついてから言った。
「悪いが、お前は――俺に勝てない」
その言葉には、迷いも飾りもなかった。
ただ、事実を述べるような、静かで重たい断言。
胸の奥が、ギュッと締めつけられた気がした。
頭では分かってた。和也は強い。誰よりも速い。
それでも、こうして目の前で、はっきり言われると……こたえる。
俺は唇を噛んだ。
「……そっちこそ、油断してたら、足元すくわれるかもよ」
やっとの思いで返すと、和也は眉をひとつ上げて、ふっと笑った。
「その気概があるうちは、いい勝負になるかもな」
そう言って、また走り出す。
その背中は、さっきより少しだけ遠くに見えた。
まだ、追いつけない遠い背中。
拳をぎゅっと握った、その瞬間。
「わぁっ!!」
背後から不意に声がして、肩が跳ねた。
一瞬にして心臓が跳ね上がる。
振り向くと、そこには――
「……千歌」
いたずらっ子みたいな笑顔で、千歌が立っていた。
「ビックリした? 絶対したよね? 顔、ピクってしてたもん!」
「……するに決まってんだろ」
思わずため息をつきながら、軽くデコピンをかました。
千歌は「いたっ」と小さく悲鳴を上げて、額を押さえる。
「だからやめようって言ったのに〜……」
ふくれっ面の千歌の背後から、二人の顔がぬっと現れる。
「やっぱり……やったんだ、千歌ちゃん」
曜が少し呆れたように笑う。
その隣では、桜内も小さくくすくすと笑っていた。
曜が、少し首を傾けながら俺の顔を覗き込んでくる。
「調子、どう?」
……その一言に、喉が少し詰まった。
正直、不安でいっぱいだった。でも、素直にそれを言えるほど、俺はまだ強くない。
「……問題ないよ」
咄嗟にそう言い切ってしまった。
自分でも驚くくらい、綺麗に嘘が出てきた。
曜は「そっか」と言いながらも、ほんの一瞬だけ、眉を寄せたように見えた。
だけどそれを追及せず、ふわりと笑ってくれる。
「にしても……すごいわね、瑠璃くん」
桜内さんがそう言って、俺の肩を軽くたたく。
その瞳は柔らかくて、でもどこか感心したような、そんな色をしていた。
「インターハイの決勝なんて、簡単に立てる舞台じゃないもの」
「えへんっ!」
なぜか胸を張って、堂々とした態度を取っているのは千歌だ。
「ルーくんはすごいんだよ。……私の、同級生なんだから!」
何をドヤ顔で言ってんだ、こいつ。
「何でお前が自慢するんだよ」
思わずツッコむと、千歌はふふっと照れたように笑った。
……と、その時だった。
「瑠璃先輩!」
ちょっと高めの声に振り向くと、蛍が小走りで駆け寄ってきた。額にうっすら汗をにじませて、俺の前でぴたりと止まる。
「剛先輩の100mバタフライ、もうすぐ始まります。応援席に来てくださいって、監督が!」
「わかった、今行く」
そう返してから、曜、桜内、そして千歌を見やる。
「じゃあ……応援、よろしく」
俺が言うと、曜が親指を立てながら言った。
「任せて、瑠璃くん!」
その隣では桜内が穏やかに微笑みながら、優しい声で言葉をくれる。
「がんばってね、瑠璃くん」
そして千歌は、まっすぐ俺を見て――自分の両手を握りしめながら叫んだ。
「ファイトだよ!ルーくん!」
顔が自然とほころぶ。
不思議と、気持ちが少し軽くなった。
「……ありがとう」
その一言だけ残して、俺は蛍と並んで、その場をあとにする。
通路を抜けて、観客席の方へと足を向けた。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
結果から言うと、剛先輩は――2位という成績だった。
タイムも、決して悪くはない。むしろ、ほぼベストに近いはずだ。
それでも、表彰台の一番上には届かなかった。
全国の舞台に立つと、つくづく思い知らされる。――上には、上がいるんだって。
でも、それより気になったのは、ゴールした後。
プールサイドを上がった剛先輩が、ふと肩に手をやっていたことだ。
一瞬の動きだったけど、俺の目には確かに映った。
……気のせい、だといいけど。
その後すぐ、銀次先輩のレース――100m背泳ぎの決勝。
結果は3位。
やっぱり全国の壁は厚い。でも、それでも。
ゴールして水をかいたまま顔を上げた銀次先輩は、どこか晴れやかな表情をしていた。
まだ、浦男から出場している個人種目で、決勝に残っているのは――俺だけだ。
普段なら、そこまで気にしない。
自分のレースに集中して、いつも通りに泳ぐだけ。
だけど、全国大会って場所は、やっぱり特別だ。
先輩たちの戦いを目の当たりにして、
あの巨大な電光掲示板を何度も見上げるうちに、
胸の奥にじわじわと、言葉にならない重みが広がっていく。
――俺が負けたら、終わりだ。
誰にもそんなこと言われてないし、チームメイトがそんなふうに思ってるとも思わない。
でも、勝手に背負ってるんだ。俺自身が。
プレッシャーってのは、結局自分との戦いなんだなって、今さらながら思い知る。
応援席をそっと抜け出し、会場の隅の自動販売機の横まで歩く。
その近くにある、小さなソファに腰を下ろした。
座面が少し沈んで、背中がふっと軽くなる。
喧騒が遠のいて、ようやく自分の呼吸の音が聞こえた。
「……深呼吸、しろ。まだ、落ち着ける」
自分自分に言い聞かせるように、息を吸って、吐いた。
決勝まで、あと少し。
頭ではわかってるのに、心だけがずっと落ち着かないままだった。
落ち着け――…。
そう言い聞かせても、うるさい。
心臓が、耳の奥でドクドクと鳴っている。
呼吸のリズムを乱して、思考の流れすらかき消してしまう。
鼓動が速すぎる。緊張が、指先にまで伝わっていた。
集中しろ、瑠璃。
決勝戦まで来たんだ。ここまで来たなら――あとは、一位を取るだけ。
それだけだ。たったそれだけなのに。
……できるのか? 本当に俺に?
否定的な言葉が脳裏に浮かぶ。
気づけば、奥歯を強く噛み締めていた。
ダメだ、考えるな。もうやめろ、そんなことは。
不安も、プレッシャーも、全部、全部押し殺せ。
勝つんだ。
勝たなきゃ。
絶対に――勝たないと……!
勝って親父を見返す!
「瑠璃くん?」
静かな、けれど確かに届く声。
その瞬間、現実に引き戻された。
肩が、ピクリと動く。
背後から聞こえたのは、優しく包み込むような声だった。
不安で膨れ上がった胸の内を、そっと撫でてくれるようなその響きに、思わず振り返る。
そこにいたのは、曜だった。
額にかかった前髪の隙間からのぞく、まっすぐな瞳。
心配そうに、けれど笑みを絶やさず立っている姿。
「顔死んでるよ、瑠璃くん」
笑いながら、曜が俺の隣に腰を下ろす。
いつも通りの明るい声。だけど、どこか優しさがにじんでいた。
「……そんなにヤバい顔してたか?」
自分でも、ちょっと自覚はあった。
緊張と不安で表情がこわばってたんだろう。
曜に見透かされてたと思うと、少しだけ恥ずかしくなる。
曜は俺の顔を覗き込むようにして、優しい声で訊いた。
「どうしたの? ……何かあった?」
その視線が、まっすぐで、逃げ場がなかった。
でも、俺は咄嗟に首を振った。
「いや、別に。なんでもないよ」
小さな嘘だった。
けれど、すぐに曜が「ふぅ……」とため息をつく音が耳に届く。
「何年、幼なじみやってると思ってるの?」
その声には、どこか呆れと優しさが混じっていて、
なのに次の瞬間、曜は真剣な目でこちらを見た。
「隠さないで。ちゃんと……話して、瑠璃くん」
胸の奥がぐっと締めつけられた。
ごまかせない。見抜かれてる。
そのまっすぐな視線が、俺の心の奥をやさしく、けれど鋭く突いてくる。
「……」
何て言えばいいんだろう。
プレッシャーで潰れそうだなんて、格好悪いし。
でも、曜になら――話しても、いいのかもしれない。
ほんの少しだけ、目を伏せてから、ゆっくりと口を開いた。
「……怖いんだよ、たぶん。負けるのが」
吐き出した途端、胸の奥が少し軽くなった気がした。
情けない自分を見せたのに、曜は何も言わず、ただ静かに聞いてくれている。
視線を逸らしたままの俺に、曜がそっと言葉を返した。
「怖くない勝負なんて、ないよ」
その言い方は、あまりに自然で――でも、強くて。
「勝ちたいって思うから、怖いんでしょ? だったら、ちゃんと真剣に頑張ってる証拠だよ」
そう言って、曜はふっと笑った。
その笑顔が、あまりにもまぶしくて、眩しくて――見ていられなかった。
俺は視線を落としたまま、ぐっと息を呑む。
「瑠璃くんは、ちゃんとやってきた。だから、大丈夫。信じてるよ。……私が、一番近くで見てきたんだから」
曜の声は、まるで水面を渡る風みたいに静かでやさしかった。
そのまま、少し照れたように笑ってから、曜はぽつりと話し出した。
「ほら、覚えてる? 最初にタイム測ったとき、飛び込みがうまくいかなくて、思いっきり水飲んだやつ」
「……覚えてるよ。あのとき、めっちゃ咳き込んで、周りの人に心配されたんだよな」
自然と口元が緩む。
思い出は、どれも温かくて、ちょっと恥ずかしくて、それでも全部大切だった。
「それからさ、スクールの夏合宿のときも。疲れてるのに、自分からタイム取り直したじゃん。ああいうの、ちゃんと見てたんだよ」
「……そっか」
「うん。私ね――瑠璃くんの笑った顔が、好きだよ」
一瞬、時が止まった気がした。
不意を突かれたみたいに、息が詰まる。
「……え?」
視線を落としたままの俺に、曜はゆっくりと、でも確かにそう言った。
心が、少しずつ溶けていく。
張り詰めていた緊張も、冷たい不安も、曜のその言葉に少しずつ洗い流されていくようで。
「だから、私に――楽しく泳いでる瑠璃くんを見せて?」
優しい瞳が、まっすぐに俺を見つめていた。
そのまま、何も言えなくなって、俺は曜の顔を見た。
心の奥深くで、何かが、はっきりと音を立てて鳴った。
あぁ、そうか。
気づいてしまった。
ずっと、当たり前のように隣にいてくれて、
気安くて、楽しくて、何でも話せて――
だけど今、こんなにも俺の心を揺らすのは。
俺はーーー曜が、好きなんだ。
そう自覚した瞬間、呼吸が少しだけ浅くなった。
この気持ちに名前をつけるなら、それは、恋。
間違いなく、恋だ。
「ありがとう、曜……。もう大丈夫だ」
絞り出すように、そう言った。
曜は何も言わずに、にこっと笑った。
「俺の水泳……見ててくれ」
そう言ったとき、曜の目が少し見開かれた気がした。
でも、すぐにまた、柔らかな笑みが浮かぶ。
「……ついでに、勝ってくるよ」
気取った言い方じゃない。
気負いすぎてもいない。
ただ、今の俺が言える、精一杯の覚悟だった。
曜は頷いた。言葉はなかったけれど、その瞳がすべてを受け止めてくれている気がした。
「頑張って!瑠璃くん!!」
もう、迷わない。プレッシャーも不安も、すべて背負って、超えてみせる。
俺は立ち上がる。
そして、曜に背中を向けて歩き出す。
戦場へ。
決勝の舞台へ。
胸の奥には、曜の笑顔。
泳ぐ理由が、たしかにここにある。
――見ていてくれ、曜。
俺のすべてを、水の中に置いてくる。
切りがいいので短めに投稿。
次回、決勝戦!