男子更衣室の片隅。試合用の水着に着替え、アップも終わらせて、ジャージを羽織ったところで思い返す。
曜が、好き。
頭の中でその言葉が、妙にくっきりとした輪郭を持って浮かび上がる。
曜が、好き。
曜が……好き?曜が、俺のことを信じてくれて、笑ってくれて――それが嬉しくて……。
いやいやいや、何言ってんだ俺は!
「落ち着け俺、落ち着け……っ」
更衣室のロッカーに額をぶつけながら、低く唸る。
なんだこれ、さっきまで試合前の緊張しかなかったのに、突然心臓が別の意味で騒ぎ出した。
いつからだ!曜が好きって……!
小さい頃、泥だらけになって遊んでた時?
中学の帰り道、なんとなく会話が増えてた頃?
それとも――高校に入って、隣で応援してくれるようになった頃……?
考えるほど頭が爆発しそうになる。
「やべぇ……わかんねぇ……!」
両手で顔を覆って、ロッカーに崩れ落ちるように座り込んだ。
――なんだよこのタイミング。
なんで俺、決勝前に気づいてんだよ……!
そんなドラマみたいな展開、誰が予想できたよ!
「……なにやってんだ、お前?」
唐突に響いた声に、心臓が飛び出そうになる。
「うわぁ!?って、和也…」
振り向くと、バスタオル肩にかけ、仁王立ちしていた和也。
相変わらず、何も期待していない目をしている。
和也は、何も言わずにイヤホンを耳に差し込む。
スマホを取り出して、何かを再生している。たぶん、ルーティンの一環。音楽か、あるいはレースの映像か。
「さっきまで死んでた奴が見間違えるぐらいに、顔がイキイキしてるな」
突然、そんな言葉が飛んできた。
俺は思わず和也の方を見る。けれど、彼は相変わらずスマホに視線を落としたままだった。
「……そんなに変わったか?」
ロッカーの扉に貼りつけられた鏡に目をやる。
そこには、汗ばむ額とやや強ばった表情が映っていた。けど――正直、自分じゃよくわからなかった。
ただ、確かに――今の俺は、さっきまでの俺じゃない。
「勝利とか今はどうでもいい……楽しんで泳ぐよ」
自然に、口から言葉がこぼれていた。
曜の顔が、声が、思い出の一つひとつが胸の奥に浮かんで、俺の心を軽くしてくれていた。
だけど、和也がその言葉を聞いた瞬間、一瞬だけ表情を曇らせたのを、俺は見逃さなかった。
「……羨ましいな」
そう、小さく呟いた声。
けれどそれはすぐに、もう何も映さない目と、冷たい口調に戻る。
「じゃあ、もう一回――へし折ってやるよ」
和也はすっと立ち上がり、俺の前に立つ。
その目は鋭く、ただ前を見据えていた。
「……楽しむにしても、勝たせる気はないからな」
短く言い放つと、そのまま更衣室を出ていった。
タオルを首にかけ、濡れた髪を払いながら、背中だけで“勝負”を語っていた。
扉が閉まる。
俺はしばらくその場に立ち尽くして、深く息を吐いた。
――さあ、行こう。
俺も、戦場へ。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
駆け足で階段を駆け上がって、応援席に戻ってくると、ちょうどみんながこっちを振り返った。
「曜ちゃん、おかえり!」
真っ先に千歌ちゃんが声をかけてくれる。座ってたはずなのに、立ち上がってまで。
「ルーくん、どうだった?」
その目はまっすぐで、ちょっとだけ不安そうだった。
私は頷いて、少しだけ息を整えてから答える。
「うん、大丈夫だと思う。予想よりプレッシャー抱えてたみたいだけど……でも、ちゃんとガス抜きできた感じ」
「そっか……よかったぁ」
千歌ちゃんの表情がふっと和らいで、私もつられて笑ってしまった。
「曜ちゃんが、急に瑠璃くんの様子見てくるって言って飛び出してったから、びっくりしたよ」
梨子ちゃんが少し呆れたような顔でそう言ってくる。
「ごめんごめん。でも、行ってよかったよ」
空いていた自分の席に腰を下ろすと、背後からコツンと肩を叩かれた。
「ん?」
振り向くと、ダイヤさんが、そっと口元に指を添えて、控えめに微笑んでいた。
「曜さん。……ありがとうございます」
小さな声だったけど、その響きには、しっかりとした思いが込められていた。
「あ、いえ……そんな、私こそ勝手に動いちゃって……」
ちょっと照れながらそう返すと、ダイヤさんはふふっと笑った。
「瑠璃のことは……曜さんに任せても、いいのかもしれませんわね」
優しくて、どこか少し寂しげな、でも信頼を滲ませた眼差しだった。
ダイヤさんの言葉の意味を、頭の中でゆっくり反芻する。
ーーー瑠璃のことは……曜さんに任せても、いいのかもしれませんわね。
じわじわと、熱が顔に昇ってくる。耳まで赤くなってるのが、自分でもわかる。
「な、ななな……何でそうなるんですかっ!?」
わけもなく手をばたばたさせて、座ったままジタバタ。
顔が熱くてどうしようもない。
「瑠璃くんとは!そういうんじゃなくて、まだ、っていうか、全然!違いますってば!」
わたわたしてる私を見て、ダイヤさんは口元を手で隠して、くすっと笑った。
「赤くなって……お可愛いこと」
「や、や、やめてくださいよぉ〜〜〜っ!!」
ああもう、ホントにやめてくださいってば〜〜〜!
逃げるように視線を泳がせてたら、隣からくすっと笑う声が聞こえた。
「ダイヤ、曜いじめないの。顔、真っ赤だよ」
果南ちゃん。やさしい笑顔で、でもちょっと面白がってるのが分かる。
「ふふっ、つい、からかいたくなってしまって。ごめんなさいね、曜さん」
そう言いながらも、ダイヤさんの目は、どこかあたたかかった。
私は、思わずぷぅっと頬を膨らませてから、ふっと視線をプールに向ける。
「……でも。うん、私がしっかり見てなきゃって、思ってるのは本当……です!」
瑠璃くんのこと。
ずっと見てきた。
だから、最後まで見届けるって、決めてる。
胸の奥でそう呟いたときだった。
「あ!選手たち出てきたよ!」
千歌ちゃんの声に、思わず私も顔を上げる。指差す方向、入場口から次々と名前を呼ばれた選手たちが現れる。
「第3レーン、浦の星男子学院、黒澤瑠璃くん」
アナウンスが響いた瞬間、胸の奥がふっと高鳴った。
ジャージを羽織った瑠璃くんが、背筋を伸ばしながら歩き出す。観客席に向かって手を開き、丁寧にお辞儀した。
その仕草はとても自然で、穏やかで、何より…清々しかった。
「第4レーン、函館聖泉男子学園高等学校、沢白和也くん」
再び会場にアナウンスが響く。今度は、瑠璃くんの隣のレーン――和也くんが現れた。
一歩一歩、まっすぐに進む足取り。観客席にも視線を向けず、誰に対しても頭を下げることはしない。ただ、自分の泳ぐべきレーンだけを見据えて進んでいく。
まるで、王者の風格。何かを背負っているというよりは、すでに何かを乗り越えた人のような、そんな重たさと風格があった。
瑠璃くんとは正反対の歩き方。
でも、どちらも――強い。
形は違っても、ちゃんと覚悟を持ってここに立ってる。
「ルーくん、負けないでね…」
私は、自然と両手を胸の前で組んでいた。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
レーンの前に立ち、深く息を吸い込む。
太陽の白さが、水面に反射して、目に眩しい。
天井の高さも、観客のざわめきも、どこか遠く感じる。
けれど、確かに俺は今、ここにいる。
隣のレーンには──和也。
チラリと視線を送ると、すでに集中の中にいて、目を閉じていた。
まるで、外の世界をすべて遮断して、自分だけの静寂に身を置いているようだった。
俺も負けてられない。
肩を回し、腕を振って、体をほぐす。
跳ねるように足を踏み鳴らすと、体が自然とスイッチを入れ始める。
──ここが、戦場だ。
客席からは歓声が飛び交っている。
知らない声も、知ってる声も、全部が混ざって、渦になって耳に届く。
熱気が、体を包む。
鼓動が、速くなる。
でも、怖くはない。
曜がが言ってくれたから。
楽しんで、って。
見てるよ、って。
だから、俺は──泳ぐ。
勝ちたい。けど、それ以上に……
楽しく、自由に。
このレーンを、自分のものにするために。
自分の後頭部にあるゴーグルの紐を大きく引っ張り、離す。
バチンッ!と、甲高い音が頭の後ろで鳴った。
その音が、心に火を点けるスイッチになった。
ピリッと、背筋が伸びる。
足の裏から頭の先まで、全神経が研ぎ澄まされていくのがわかる。
視界に入るのは、ただ一直線に伸びたこの50メートル×2のコース。
水面の揺らぎ。スタート台。隣の和也の静かな横顔。
心臓が高鳴っていた。でも、それは怖さじゃない。
高ぶり。期待。
胸の奥から湧きあがる、純粋な感情。
「……見ててくれ」
心の中で、そっと呟いた。
この想いも、このレースに全部込めていく。
係員の合図が入る。
選手たちがスタート台の前に並び、足を台に乗せる。
――もう、迷わない。
俺は、俺のまま、泳げばいい。
「On your mark」
機械音声が、ぴんと張り詰めた空気をさらに締めつける。予選とは違う空気感に肌がピリつく。
ピッ!と乾いた合図が鳴った、その刹那。
全員の体が、まるで弾かれたように宙を舞った。
スタートの一瞬はすべてを決める。集中は極限。時間が一瞬、止まったように感じる。
空気を裂き、水面を切り裂いて、飛び込む。
ひやりとした水が全身を包み込み、視界が青に染まる。
一掻き、二掻き──
足で水を蹴り上げ、身体を前へ前へと押し出す。
水が軽い。身体が進む。
今、この瞬間、自分の全神経は水に溶けていた。
和也は前にいる。
そのフォームは荒々しく、それでいて圧倒的に洗練され、誰も寄せ付けない。
体をひねるたび、鯨の尾のように力強くしなった。まるでその姿は、白鯨そのものだ。
遠くて、近い背中。
見えるのに、届かない。
前半の50メートルで、和也は確かに差をつけていた。
だけど。
「これが、俺のレースだ!」
身体を締め、呼吸を最小限に。
水をかく手に、迷いはない。
肺が焼けつくようでも、恐怖はない。
むしろ、この苦しさすら愛しく思えた。
ターンの壁が迫る。
最後の一掻きを入れて、ひねる。
身体を丸めて、手のひらを壁へ。
パシン──!
響く水音とともに、後半の50メートルへ。
和也はまだ前にいる。
水しぶきを割いて進むその背中は、依然として大きく、力強い。
遠くて、手を伸ばしても届かない。
そんな気がした。
──負けたくない、負けたくない!
歯を食いしばり、肩をかくたびに水を強く押す。
けれど、さっきまで感じていた“楽しさ”は、どこかに行ってしまった。
代わりに胸の奥に広がるのは、焦り。
重たく、呼吸を妨げるような、鈍い不安。
とき。
「いけぇぇぇ!!瑠璃くぅぅぅん!!!」
──曜の声が、耳の奥で弾けた。
水中なのに。
水の外の世界が、鮮明に響いた。
鼓膜に触れたわけじゃない。
けれど、確かに聞こえた。
目を開ける。
水の中。世界は青く、静かで、やさしい。
手を伸ばす。
水をつかむ。
けれどそれは、つかんでいるのではない。
水と一緒に、自分が溶け合っている。
自分の意思と身体が、バラバラになっていくのではなく──完全に重なる。
ああ、これだ。
スローモーションのように時間がゆっくりになる。
一つひとつの掻きが、無駄なく加速する。
筋肉の動き、呼吸のリズム、水の抵抗──すべてが見える。
感覚が鋭くなる。
その世界の中心は、俺だと叫ぶ。
泳いでいるのに、泳いでいないような。
泳がされているのではなく、“泳いでいる”という行為そのものと一体になったような。
そして、ふと気づく。
和也の背中が、少しずつ近づいてくる。
──いける。
今なら、追いつける。
いや、超えられる。
俺は、まだ速くなれる。
ゴールが見える。
壁まで、あと数メートル。
全身の力を指先に込める。
一掻き、また一掻き──
和也の姿が、視界の隅で並ぶ。
いや──追い越した。
水の抵抗すら味方につけ、体が弾丸のように突き進む。
最後の最後、肺が悲鳴を上げても、もう止まれない。
壁まで、あとひと伸び──!
「うおぉぉぉぉぉぉぉッッ!!」
魂の叫びとともに、指先がゴールの壁を叩いた。
──水がはじける。
──音が、止まる。
数秒の静寂。
やがて水面から顔を出した瑠璃は、荒く息をつきながら天井を見上げた。
息が切れてる。けど──
勝ったか?
見上げた電光掲示板に、自分の名前が一番上にあるのを見た瞬間──
「1位 黒澤瑠璃 Time: 00:49.42」
その数字が、まるで光を放っているように見えた。
水を叩き、両手を広げて吠える。
「うおぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!!!!!」
水しぶきが跳ね、歓声が爆発する。
声援の渦。拍手。チームメイトの叫び。Aqoursの誰かが泣いてる声──全部、耳に届いてるのに、夢みたいだ。
目の前が揺れて、眩しくて、でもすべてが鮮明だった。
隣を見ると、荒い息をしながらゴーグルを外す和也がいた。
額から滴る水をぬぐいもせず、ただ一点を睨むように見つめている。
勝った。
けど──まだ終わっていない。
そんな空気が、和也の全身から滲み出ていた。
「和也──」
話しかけようと瑠璃が一歩近づくと、和也はわずかに顔を傾けた。
「……メドレーだ」
「え?」
聞き返すと、和也は睨むような眼で瑠璃を一瞥した。
「チームメドレーで、ぶち抜いてやる。次は──絶対、俺が勝つ」
低く圧をかけた声でそう言い残すと、和也は無言でプールの縁に手をかけ、スッと水から上がった。
その背中を見送りながら、瑠璃は息をついた。
熱い。まだ終わらない。
けど今は──ただ、勝利の余韻に、少しだけ身を委ねたかった。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
更衣室前の休憩スペース。
折りたたみ椅子に深く腰を沈め、背もたれに体を預けた。
タオルを頭からかぶって、ようやく一呼吸つく。
──1位。
あの掲示板に、自分の名前が一番上にあった。
間違いじゃない。本当に──勝ったんだ。
「……49秒86」
口の中で呟く。
信じられない、けど──それが、俺の出したタイムだ。
公式記録。ベストタイム。初の全国制覇。
鼓動がまだ落ち着かない。
水から上がってずいぶん経つのに、体の奥がずっと熱い。
ポタリと、タオルの端から雫が落ちる。
全身の筋肉がジンジンと痺れているのも、勝利の余韻だ。
ようやく、ほんの少しだけ、現実に追いつきはじめた――そのときだった。
「ルーーーーく〜〜〜ん!!!」
「瑠〜〜〜〜璃〜〜〜〜!!!」
甲高く弾けた声と共に、勢いよく駆けてくる二つの影。
一瞬で視界が明るくなったかと思うと、ドンッ、と同時に左右から体を挟まれる。
「うわっ、ちょっ、待っ──」
押し倒されそうになりながらも、かろうじて椅子に踏ん張る。
目の前には、満面の笑みを浮かべた鞠莉姉と、泣きそうな顔の千歌がいた。
「ルーくん、すっごかったよぉ!あのラストスパート!」
「カッコよかったじゃない!?全国一位なんて、やるじゃない!!」
頬を挟まれ、背中をばんばん叩かれ、全身がさらにジンジンする。
けど、それはレースの疲労とは違う、別の熱だった。
「……ちょっと、落ち着いて……マジで、倒れるから……」
「いいのいいの! 倒れるくらい褒めさせて!」
「むしろ、倒れる前に抱きしめさせて?」
ふたりのテンションに翻弄されながらも、瑠璃の頬には自然と笑みが浮かんでいた。
「千歌、鞠莉、落ち着いて」
ガシッと、両肩から引き離すように首根っこを掴んだのは、果南姉だった。
ふたりは猫の子みたいにぶら下げられながらも、まだ手を伸ばしてくる。
「ありがと、果南姉……助かった」
そう呟くと、果南姉はにこっと笑って、
「おめでとう、瑠璃。かっこよかったよ」
と、静かに、けれど優しく声をかけてくれた。
その言葉に、胸の奥がじんわりと熱くなる。
すると、少し離れた場所から、ぱたぱたと足音が近づいてきた。
ハンカチを握りしめて涙目になっているのは──
「感動しましたわ、瑠璃!」
潤んだ瞳を潤ませたまま、ダイヤが駆け寄ってきた。
その隣では、目を真っ赤にしたルビィが、鼻をすすりながら叫ぶ。
「お兄ちゃん、おめでとっ!ルビィ、泣いちゃったよぉ……!」
そのまま抱きついてきたルビィを、優しく受け止める。
やわらかな感触と、熱のこもった想いが胸に染み込んでくる。
「ありがとう、ルビィ……姉ちゃんも……」
しばらくのあいだ、抱きしめ返す腕の力が、自然と強くなっていた。
その時だった。
「ほら、曜ちゃん!」
桜内の声がして、視界の端で彼女が曜の腕を引っ張っているのが見えた。
ぐいぐいと、容赦なく。いや、割と強めに。
「……何してんの、桜内」
思わず問いかけると、桜内はニコッと笑って振り返る。
「瑠璃くん、優勝おめでとう。すごかったわ」
なんだその三拍子、と内心ツッコみながらも、一応の礼は返す。
「……ありがとう」
すると桜内は、朗らかな声で続けた。
「曜ちゃんね、瑠璃くんの顔見たら泣いちゃうって言って、来ないって言い張るから、無理やり連れて来ちゃったの」
そう言って、満足そうに笑うその姿は、どこか憎めない。
たまにパワー系だよな、桜内。そう思いながら視線を曜へと移すと──
曜は、タオルで顔を隠していた。
指の隙間から、濡れた頬がほんの少しだけ覗いている。
その姿が、たまらなく愛おしかった。
俺は、そっと歩み寄って、曜に声をかけた。
「……どうだった、曜?」
タオルの奥でピクリと肩が動く。
すぐには返事が返ってこなかった。だけど、ゆっくりと曜の指がタオルをずらし、ようやく顔が見えた。
目元は赤く、涙の跡が残っている。
けれど、その瞳は真っ直ぐで、どこまでも澄んでいた。
「……もう、最高だった」
しぼり出すように呟いたその声は、どこか震えていたけど、確かに響いた。
「途中でね、ほんとに、息止まるかと思った。
和也くんに負けるんじゃないかって……怖くて……でも……!」
曜は少しだけ顔を逸らしながら、ぐっと目を閉じて、言葉を続ける。
「最後、叫んじゃったよ。……いけぇぇぇ!って。もう、瑠璃くんしか見えてなかった。……嬉しくて、泣いた」
そう言って、またタオルで顔を隠す曜。
その姿に、瑠璃の胸がほんのりと熱くなった。
こんなにも自分のことを見て、感じて、涙を流してくれる人がいる──
それが、ただ嬉しくて、誇らしくて。
「ありがと、曜。……聞こえたよ、声」
言った瞬間、タオルの奥からぴくっと曜の耳が反応する。
「……瑠璃くん、ちゃんと泳いでくれてありがとう」
顔を上げた曜は、涙の痕が残るまま、けれど、笑っていた。
ぐしゃぐしゃな顔だったのに、やっぱり綺麗で、まぶしくて──
そんな曜の笑顔が、今まででいちばん嬉しかった。
どうしようもなく、胸が熱い。
「……曜、こっちこそ、ありがと」
曜は何も言わずに、少しだけ視線を逸らした。でもその横顔は、どこか照れているようにも見えた。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
その日のスケジュールは、それで全て終わった。
競技の熱気と興奮、たくさんの拍手と笑顔。
Aqoursのみんなとの再会も、嬉しさと涙と笑いに満ちていた。
夜になり、ホテルに戻ると軽く部内ミーティングが行われ、監督からも今日のレースを称賛された。
夕食を済ませてから解散となり、それぞれの部屋に戻る。
部屋の中は、静かだった。
シャワーの音が聞こえていた。
たぶん、先に剛先輩が入ってるんだろう。特に気にも留めなかった──最初は。
でも──
「……っ、く……ぅ……」
水音に混じって、低く押し殺すような声が聞こえた。
苦しそうな、それでも堪えようとするような声。
嫌な予感がした。
「先輩……?」
答えはない。
胸の奥がざわつく。迷いながらも、シャワー室のドアに手をかけた。
湯気の中、かすかに見えた先輩の背中──
その肩が、腫れ上がっていた。
青黒く変色し、触れるだけでも痛みが走りそうなほどだった。
「剛先輩……!」
目を見開いた先輩と視線がぶつかる。
けれどその驚きは一瞬で消え、すぐにいつもの調子に戻った。
「……入る時ぐらい、ノックしろ」
冗談みたいに笑ってる。
でも、その笑顔は、濡れた髪の奥で少しだけ揺れていた。
「な、どうしたんですか!? その肩!?」
思わず声が荒くなった。気づいた時には、もう言葉になってた。
ヤバい。明らかに、普通の打撲じゃない色だ。青黒く腫れ上がって、肩から肘にかけて筋が浮き上がってる。
「少し捻っただけだって。心配しすぎだよ、瑠璃」
そう言って、先輩はのんきに笑った。
タオルで頭を拭きながら、まるでそれが大したことじゃないみたいな顔で。
「明後日のメドレーリレーには間に合う。……ちゃんと、泳ぐさ」
シャワーが止まる音が、やけに冷たく響いた。
「……一応、明日、近くの病院には行くつもりだ。さすがに放っとけないしな」
「でも、他の連中には黙っててくれ。みんなに心配かけるわけにはいかない」
低く、でもはっきりした声だった。
その背中が、少しだけ遠く感じた。
言いたいことは山ほどあった。
無理するなとか、メドレーより身体の方が大事だ──なんて。
でも、全部呑み込むしかなかった。先輩の目が、全部拒んでた。これは譲れないっていう目だった。
「……はい」
それしか言えなかった。
俺の声が、ひどく小さく響いた。
湯気の残る脱衣所の空気が、急に重くなった気がした。
冗談みたいに笑ってるその顔の裏で、
先輩が何を隠してるのか、俺はもう知ってしまった気がして──
妙に冷たい不安が、胸の奥にじわりと沈んでいった。
インターハイ編残り2話ほどになります。