黒澤家の長男です。   作:カイザウルス

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第34話

 

 

男子更衣室の片隅。試合用の水着に着替え、アップも終わらせて、ジャージを羽織ったところで思い返す。

 

曜が、好き。

 

頭の中でその言葉が、妙にくっきりとした輪郭を持って浮かび上がる。

曜が、好き。

曜が……好き?曜が、俺のことを信じてくれて、笑ってくれて――それが嬉しくて……。

 

いやいやいや、何言ってんだ俺は!

 

「落ち着け俺、落ち着け……っ」

 

更衣室のロッカーに額をぶつけながら、低く唸る。

なんだこれ、さっきまで試合前の緊張しかなかったのに、突然心臓が別の意味で騒ぎ出した。

 

いつからだ!曜が好きって……!

 

小さい頃、泥だらけになって遊んでた時?

中学の帰り道、なんとなく会話が増えてた頃?

それとも――高校に入って、隣で応援してくれるようになった頃……?

 

考えるほど頭が爆発しそうになる。

 

「やべぇ……わかんねぇ……!」

 

両手で顔を覆って、ロッカーに崩れ落ちるように座り込んだ。

 

――なんだよこのタイミング。

なんで俺、決勝前に気づいてんだよ……!

そんなドラマみたいな展開、誰が予想できたよ!

 

「……なにやってんだ、お前?」

 

唐突に響いた声に、心臓が飛び出そうになる。

 

「うわぁ!?って、和也…」

 

振り向くと、バスタオル肩にかけ、仁王立ちしていた和也。

相変わらず、何も期待していない目をしている。

 

和也は、何も言わずにイヤホンを耳に差し込む。

スマホを取り出して、何かを再生している。たぶん、ルーティンの一環。音楽か、あるいはレースの映像か。

 

「さっきまで死んでた奴が見間違えるぐらいに、顔がイキイキしてるな」

 

突然、そんな言葉が飛んできた。

俺は思わず和也の方を見る。けれど、彼は相変わらずスマホに視線を落としたままだった。

 

「……そんなに変わったか?」

 

ロッカーの扉に貼りつけられた鏡に目をやる。

そこには、汗ばむ額とやや強ばった表情が映っていた。けど――正直、自分じゃよくわからなかった。

 

ただ、確かに――今の俺は、さっきまでの俺じゃない。

 

「勝利とか今はどうでもいい……楽しんで泳ぐよ」

 

自然に、口から言葉がこぼれていた。

曜の顔が、声が、思い出の一つひとつが胸の奥に浮かんで、俺の心を軽くしてくれていた。

 

だけど、和也がその言葉を聞いた瞬間、一瞬だけ表情を曇らせたのを、俺は見逃さなかった。

 

「……羨ましいな」

 

そう、小さく呟いた声。

けれどそれはすぐに、もう何も映さない目と、冷たい口調に戻る。

 

「じゃあ、もう一回――へし折ってやるよ」

 

和也はすっと立ち上がり、俺の前に立つ。

その目は鋭く、ただ前を見据えていた。

 

「……楽しむにしても、勝たせる気はないからな」

 

短く言い放つと、そのまま更衣室を出ていった。

タオルを首にかけ、濡れた髪を払いながら、背中だけで“勝負”を語っていた。

 

扉が閉まる。

俺はしばらくその場に立ち尽くして、深く息を吐いた。

 

――さあ、行こう。

俺も、戦場へ。

 

 

 

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 

駆け足で階段を駆け上がって、応援席に戻ってくると、ちょうどみんながこっちを振り返った。

 

「曜ちゃん、おかえり!」

 

真っ先に千歌ちゃんが声をかけてくれる。座ってたはずなのに、立ち上がってまで。

 

「ルーくん、どうだった?」

 

その目はまっすぐで、ちょっとだけ不安そうだった。

 

私は頷いて、少しだけ息を整えてから答える。

 

「うん、大丈夫だと思う。予想よりプレッシャー抱えてたみたいだけど……でも、ちゃんとガス抜きできた感じ」

「そっか……よかったぁ」

 

千歌ちゃんの表情がふっと和らいで、私もつられて笑ってしまった。

 

「曜ちゃんが、急に瑠璃くんの様子見てくるって言って飛び出してったから、びっくりしたよ」

 

梨子ちゃんが少し呆れたような顔でそう言ってくる。

 

「ごめんごめん。でも、行ってよかったよ」

 

空いていた自分の席に腰を下ろすと、背後からコツンと肩を叩かれた。

 

「ん?」

 

振り向くと、ダイヤさんが、そっと口元に指を添えて、控えめに微笑んでいた。

 

「曜さん。……ありがとうございます」

 

小さな声だったけど、その響きには、しっかりとした思いが込められていた。

 

「あ、いえ……そんな、私こそ勝手に動いちゃって……」

 

ちょっと照れながらそう返すと、ダイヤさんはふふっと笑った。

 

「瑠璃のことは……曜さんに任せても、いいのかもしれませんわね」

 

優しくて、どこか少し寂しげな、でも信頼を滲ませた眼差しだった。

ダイヤさんの言葉の意味を、頭の中でゆっくり反芻する。

 

ーーー瑠璃のことは……曜さんに任せても、いいのかもしれませんわね。

 

じわじわと、熱が顔に昇ってくる。耳まで赤くなってるのが、自分でもわかる。

 

「な、ななな……何でそうなるんですかっ!?」

 

わけもなく手をばたばたさせて、座ったままジタバタ。

顔が熱くてどうしようもない。

 

「瑠璃くんとは!そういうんじゃなくて、まだ、っていうか、全然!違いますってば!」

 

わたわたしてる私を見て、ダイヤさんは口元を手で隠して、くすっと笑った。

 

「赤くなって……お可愛いこと」

「や、や、やめてくださいよぉ〜〜〜っ!!」

 

ああもう、ホントにやめてくださいってば〜〜〜!

逃げるように視線を泳がせてたら、隣からくすっと笑う声が聞こえた。

 

「ダイヤ、曜いじめないの。顔、真っ赤だよ」

 

果南ちゃん。やさしい笑顔で、でもちょっと面白がってるのが分かる。

 

「ふふっ、つい、からかいたくなってしまって。ごめんなさいね、曜さん」

 

そう言いながらも、ダイヤさんの目は、どこかあたたかかった。

私は、思わずぷぅっと頬を膨らませてから、ふっと視線をプールに向ける。

 

「……でも。うん、私がしっかり見てなきゃって、思ってるのは本当……です!」

 

瑠璃くんのこと。

ずっと見てきた。

だから、最後まで見届けるって、決めてる。

 

胸の奥でそう呟いたときだった。

 

「あ!選手たち出てきたよ!」

 

千歌ちゃんの声に、思わず私も顔を上げる。指差す方向、入場口から次々と名前を呼ばれた選手たちが現れる。

 

「第3レーン、浦の星男子学院、黒澤瑠璃くん」

 

アナウンスが響いた瞬間、胸の奥がふっと高鳴った。

ジャージを羽織った瑠璃くんが、背筋を伸ばしながら歩き出す。観客席に向かって手を開き、丁寧にお辞儀した。

 

その仕草はとても自然で、穏やかで、何より…清々しかった。

 

「第4レーン、函館聖泉男子学園高等学校、沢白和也くん」

 

再び会場にアナウンスが響く。今度は、瑠璃くんの隣のレーン――和也くんが現れた。

 

一歩一歩、まっすぐに進む足取り。観客席にも視線を向けず、誰に対しても頭を下げることはしない。ただ、自分の泳ぐべきレーンだけを見据えて進んでいく。

 

まるで、王者の風格。何かを背負っているというよりは、すでに何かを乗り越えた人のような、そんな重たさと風格があった。

 

瑠璃くんとは正反対の歩き方。

 

でも、どちらも――強い。

形は違っても、ちゃんと覚悟を持ってここに立ってる。

 

「ルーくん、負けないでね…」

 

私は、自然と両手を胸の前で組んでいた。

 

 

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 

 

レーンの前に立ち、深く息を吸い込む。

 

太陽の白さが、水面に反射して、目に眩しい。

天井の高さも、観客のざわめきも、どこか遠く感じる。

けれど、確かに俺は今、ここにいる。

 

隣のレーンには──和也。

 

チラリと視線を送ると、すでに集中の中にいて、目を閉じていた。

まるで、外の世界をすべて遮断して、自分だけの静寂に身を置いているようだった。

 

俺も負けてられない。

 

肩を回し、腕を振って、体をほぐす。

跳ねるように足を踏み鳴らすと、体が自然とスイッチを入れ始める。

 

──ここが、戦場だ。

 

客席からは歓声が飛び交っている。

知らない声も、知ってる声も、全部が混ざって、渦になって耳に届く。

 

熱気が、体を包む。

鼓動が、速くなる。

 

でも、怖くはない。

 

曜がが言ってくれたから。

楽しんで、って。

見てるよ、って。

 

だから、俺は──泳ぐ。

勝ちたい。けど、それ以上に……

楽しく、自由に。

このレーンを、自分のものにするために。

 

自分の後頭部にあるゴーグルの紐を大きく引っ張り、離す。

バチンッ!と、甲高い音が頭の後ろで鳴った。

 

その音が、心に火を点けるスイッチになった。

ピリッと、背筋が伸びる。

足の裏から頭の先まで、全神経が研ぎ澄まされていくのがわかる。

 

視界に入るのは、ただ一直線に伸びたこの50メートル×2のコース。

水面の揺らぎ。スタート台。隣の和也の静かな横顔。

 

心臓が高鳴っていた。でも、それは怖さじゃない。

高ぶり。期待。

胸の奥から湧きあがる、純粋な感情。

 

「……見ててくれ」

 

心の中で、そっと呟いた。

この想いも、このレースに全部込めていく。

 

係員の合図が入る。

 

選手たちがスタート台の前に並び、足を台に乗せる。

 

――もう、迷わない。

俺は、俺のまま、泳げばいい。

 

「On your mark」

 

機械音声が、ぴんと張り詰めた空気をさらに締めつける。予選とは違う空気感に肌がピリつく。

 

ピッ!と乾いた合図が鳴った、その刹那。

 

全員の体が、まるで弾かれたように宙を舞った。

スタートの一瞬はすべてを決める。集中は極限。時間が一瞬、止まったように感じる。

 

空気を裂き、水面を切り裂いて、飛び込む。

ひやりとした水が全身を包み込み、視界が青に染まる。

 

一掻き、二掻き──

足で水を蹴り上げ、身体を前へ前へと押し出す。

 

水が軽い。身体が進む。

今、この瞬間、自分の全神経は水に溶けていた。

 

和也は前にいる。

そのフォームは荒々しく、それでいて圧倒的に洗練され、誰も寄せ付けない。

体をひねるたび、鯨の尾のように力強くしなった。まるでその姿は、白鯨そのものだ。

 

遠くて、近い背中。

見えるのに、届かない。

前半の50メートルで、和也は確かに差をつけていた。

 

だけど。

 

「これが、俺のレースだ!」

 

身体を締め、呼吸を最小限に。

水をかく手に、迷いはない。

肺が焼けつくようでも、恐怖はない。

むしろ、この苦しさすら愛しく思えた。

 

ターンの壁が迫る。

最後の一掻きを入れて、ひねる。

身体を丸めて、手のひらを壁へ。

 

パシン──!

 

響く水音とともに、後半の50メートルへ。

 

和也はまだ前にいる。

 

水しぶきを割いて進むその背中は、依然として大きく、力強い。

遠くて、手を伸ばしても届かない。

そんな気がした。

 

──負けたくない、負けたくない!

 

歯を食いしばり、肩をかくたびに水を強く押す。

けれど、さっきまで感じていた“楽しさ”は、どこかに行ってしまった。

代わりに胸の奥に広がるのは、焦り。

重たく、呼吸を妨げるような、鈍い不安。

 

とき。

 

「いけぇぇぇ!!瑠璃くぅぅぅん!!!」

 

──曜の声が、耳の奥で弾けた。

 

水中なのに。

水の外の世界が、鮮明に響いた。

鼓膜に触れたわけじゃない。

けれど、確かに聞こえた。

 

目を開ける。

水の中。世界は青く、静かで、やさしい。

 

手を伸ばす。

水をつかむ。

けれどそれは、つかんでいるのではない。

水と一緒に、自分が溶け合っている。

自分の意思と身体が、バラバラになっていくのではなく──完全に重なる。

 

ああ、これだ。

 

スローモーションのように時間がゆっくりになる。

一つひとつの掻きが、無駄なく加速する。

筋肉の動き、呼吸のリズム、水の抵抗──すべてが見える。

感覚が鋭くなる。

 

その世界の中心は、俺だと叫ぶ。

 

泳いでいるのに、泳いでいないような。

泳がされているのではなく、“泳いでいる”という行為そのものと一体になったような。

 

そして、ふと気づく。

 

和也の背中が、少しずつ近づいてくる。

 

──いける。

今なら、追いつける。

いや、超えられる。

 

俺は、まだ速くなれる。

 

ゴールが見える。

 

壁まで、あと数メートル。

全身の力を指先に込める。

一掻き、また一掻き──

和也の姿が、視界の隅で並ぶ。

いや──追い越した。

 

水の抵抗すら味方につけ、体が弾丸のように突き進む。

最後の最後、肺が悲鳴を上げても、もう止まれない。

壁まで、あとひと伸び──!

 

「うおぉぉぉぉぉぉぉッッ!!」

 

魂の叫びとともに、指先がゴールの壁を叩いた。

 

──水がはじける。

──音が、止まる。

 

数秒の静寂。

やがて水面から顔を出した瑠璃は、荒く息をつきながら天井を見上げた。

息が切れてる。けど──

 

勝ったか?

 

見上げた電光掲示板に、自分の名前が一番上にあるのを見た瞬間──

 

「1位 黒澤瑠璃 Time: 00:49.42」

 

その数字が、まるで光を放っているように見えた。

 

水を叩き、両手を広げて吠える。

 

「うおぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!!!!!」

 

水しぶきが跳ね、歓声が爆発する。

声援の渦。拍手。チームメイトの叫び。Aqoursの誰かが泣いてる声──全部、耳に届いてるのに、夢みたいだ。

 

目の前が揺れて、眩しくて、でもすべてが鮮明だった。

 

隣を見ると、荒い息をしながらゴーグルを外す和也がいた。

額から滴る水をぬぐいもせず、ただ一点を睨むように見つめている。

 

勝った。

けど──まだ終わっていない。

そんな空気が、和也の全身から滲み出ていた。

 

「和也──」

 

話しかけようと瑠璃が一歩近づくと、和也はわずかに顔を傾けた。

 

「……メドレーだ」

「え?」

 

聞き返すと、和也は睨むような眼で瑠璃を一瞥した。

 

「チームメドレーで、ぶち抜いてやる。次は──絶対、俺が勝つ」

 

低く圧をかけた声でそう言い残すと、和也は無言でプールの縁に手をかけ、スッと水から上がった。

その背中を見送りながら、瑠璃は息をついた。

 

熱い。まだ終わらない。

けど今は──ただ、勝利の余韻に、少しだけ身を委ねたかった。

 

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 

更衣室前の休憩スペース。

折りたたみ椅子に深く腰を沈め、背もたれに体を預けた。

タオルを頭からかぶって、ようやく一呼吸つく。

 

──1位。

あの掲示板に、自分の名前が一番上にあった。

間違いじゃない。本当に──勝ったんだ。

 

「……49秒86」

 

口の中で呟く。

信じられない、けど──それが、俺の出したタイムだ。

公式記録。ベストタイム。初の全国制覇。

 

鼓動がまだ落ち着かない。

水から上がってずいぶん経つのに、体の奥がずっと熱い。

 

ポタリと、タオルの端から雫が落ちる。

全身の筋肉がジンジンと痺れているのも、勝利の余韻だ。

 

ようやく、ほんの少しだけ、現実に追いつきはじめた――そのときだった。

 

「ルーーーーく〜〜〜ん!!!」

「瑠〜〜〜〜璃〜〜〜〜!!!」

 

甲高く弾けた声と共に、勢いよく駆けてくる二つの影。

一瞬で視界が明るくなったかと思うと、ドンッ、と同時に左右から体を挟まれる。

 

「うわっ、ちょっ、待っ──」

 

押し倒されそうになりながらも、かろうじて椅子に踏ん張る。

目の前には、満面の笑みを浮かべた鞠莉姉と、泣きそうな顔の千歌がいた。

 

「ルーくん、すっごかったよぉ!あのラストスパート!」

「カッコよかったじゃない!?全国一位なんて、やるじゃない!!」

 

頬を挟まれ、背中をばんばん叩かれ、全身がさらにジンジンする。

けど、それはレースの疲労とは違う、別の熱だった。

 

「……ちょっと、落ち着いて……マジで、倒れるから……」

「いいのいいの! 倒れるくらい褒めさせて!」

「むしろ、倒れる前に抱きしめさせて?」

 

ふたりのテンションに翻弄されながらも、瑠璃の頬には自然と笑みが浮かんでいた。

 

「千歌、鞠莉、落ち着いて」

 

ガシッと、両肩から引き離すように首根っこを掴んだのは、果南姉だった。

ふたりは猫の子みたいにぶら下げられながらも、まだ手を伸ばしてくる。

 

「ありがと、果南姉……助かった」

 

そう呟くと、果南姉はにこっと笑って、

 

「おめでとう、瑠璃。かっこよかったよ」

 

と、静かに、けれど優しく声をかけてくれた。

その言葉に、胸の奥がじんわりと熱くなる。

 

すると、少し離れた場所から、ぱたぱたと足音が近づいてきた。

ハンカチを握りしめて涙目になっているのは──

 

「感動しましたわ、瑠璃!」

 

潤んだ瞳を潤ませたまま、ダイヤが駆け寄ってきた。

その隣では、目を真っ赤にしたルビィが、鼻をすすりながら叫ぶ。

 

「お兄ちゃん、おめでとっ!ルビィ、泣いちゃったよぉ……!」

 

そのまま抱きついてきたルビィを、優しく受け止める。

やわらかな感触と、熱のこもった想いが胸に染み込んでくる。

 

「ありがとう、ルビィ……姉ちゃんも……」

 

しばらくのあいだ、抱きしめ返す腕の力が、自然と強くなっていた。

その時だった。

 

「ほら、曜ちゃん!」

 

桜内の声がして、視界の端で彼女が曜の腕を引っ張っているのが見えた。

ぐいぐいと、容赦なく。いや、割と強めに。

 

「……何してんの、桜内」

 

思わず問いかけると、桜内はニコッと笑って振り返る。

 

「瑠璃くん、優勝おめでとう。すごかったわ」

 

なんだその三拍子、と内心ツッコみながらも、一応の礼は返す。

 

「……ありがとう」

 

すると桜内は、朗らかな声で続けた。

 

「曜ちゃんね、瑠璃くんの顔見たら泣いちゃうって言って、来ないって言い張るから、無理やり連れて来ちゃったの」

 

そう言って、満足そうに笑うその姿は、どこか憎めない。

たまにパワー系だよな、桜内。そう思いながら視線を曜へと移すと──

 

曜は、タオルで顔を隠していた。

指の隙間から、濡れた頬がほんの少しだけ覗いている。

その姿が、たまらなく愛おしかった。

 

俺は、そっと歩み寄って、曜に声をかけた。

 

「……どうだった、曜?」

 

タオルの奥でピクリと肩が動く。

すぐには返事が返ってこなかった。だけど、ゆっくりと曜の指がタオルをずらし、ようやく顔が見えた。

 

目元は赤く、涙の跡が残っている。

けれど、その瞳は真っ直ぐで、どこまでも澄んでいた。

 

「……もう、最高だった」

 

しぼり出すように呟いたその声は、どこか震えていたけど、確かに響いた。

 

「途中でね、ほんとに、息止まるかと思った。

和也くんに負けるんじゃないかって……怖くて……でも……!」

 

曜は少しだけ顔を逸らしながら、ぐっと目を閉じて、言葉を続ける。

 

「最後、叫んじゃったよ。……いけぇぇぇ!って。もう、瑠璃くんしか見えてなかった。……嬉しくて、泣いた」

 

そう言って、またタオルで顔を隠す曜。

その姿に、瑠璃の胸がほんのりと熱くなった。

こんなにも自分のことを見て、感じて、涙を流してくれる人がいる──

それが、ただ嬉しくて、誇らしくて。

 

「ありがと、曜。……聞こえたよ、声」

 

言った瞬間、タオルの奥からぴくっと曜の耳が反応する。

 

「……瑠璃くん、ちゃんと泳いでくれてありがとう」

 

顔を上げた曜は、涙の痕が残るまま、けれど、笑っていた。

ぐしゃぐしゃな顔だったのに、やっぱり綺麗で、まぶしくて──

そんな曜の笑顔が、今まででいちばん嬉しかった。

 

どうしようもなく、胸が熱い。

 

「……曜、こっちこそ、ありがと」

 

曜は何も言わずに、少しだけ視線を逸らした。でもその横顔は、どこか照れているようにも見えた。

 

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 

その日のスケジュールは、それで全て終わった。

 

競技の熱気と興奮、たくさんの拍手と笑顔。

Aqoursのみんなとの再会も、嬉しさと涙と笑いに満ちていた。

 

夜になり、ホテルに戻ると軽く部内ミーティングが行われ、監督からも今日のレースを称賛された。

夕食を済ませてから解散となり、それぞれの部屋に戻る。

 

部屋の中は、静かだった。

シャワーの音が聞こえていた。

たぶん、先に剛先輩が入ってるんだろう。特に気にも留めなかった──最初は。

 

でも──

 

「……っ、く……ぅ……」

 

水音に混じって、低く押し殺すような声が聞こえた。

苦しそうな、それでも堪えようとするような声。

 

嫌な予感がした。

 

「先輩……?」

 

答えはない。

胸の奥がざわつく。迷いながらも、シャワー室のドアに手をかけた。

湯気の中、かすかに見えた先輩の背中──

 

その肩が、腫れ上がっていた。

青黒く変色し、触れるだけでも痛みが走りそうなほどだった。

 

「剛先輩……!」

 

目を見開いた先輩と視線がぶつかる。

けれどその驚きは一瞬で消え、すぐにいつもの調子に戻った。

 

「……入る時ぐらい、ノックしろ」

 

冗談みたいに笑ってる。

でも、その笑顔は、濡れた髪の奥で少しだけ揺れていた。

 

「な、どうしたんですか!? その肩!?」

 

思わず声が荒くなった。気づいた時には、もう言葉になってた。

ヤバい。明らかに、普通の打撲じゃない色だ。青黒く腫れ上がって、肩から肘にかけて筋が浮き上がってる。

 

「少し捻っただけだって。心配しすぎだよ、瑠璃」

 

そう言って、先輩はのんきに笑った。

タオルで頭を拭きながら、まるでそれが大したことじゃないみたいな顔で。

 

「明後日のメドレーリレーには間に合う。……ちゃんと、泳ぐさ」

 

シャワーが止まる音が、やけに冷たく響いた。

 

「……一応、明日、近くの病院には行くつもりだ。さすがに放っとけないしな」

「でも、他の連中には黙っててくれ。みんなに心配かけるわけにはいかない」

 

低く、でもはっきりした声だった。

その背中が、少しだけ遠く感じた。

 

言いたいことは山ほどあった。

無理するなとか、メドレーより身体の方が大事だ──なんて。

でも、全部呑み込むしかなかった。先輩の目が、全部拒んでた。これは譲れないっていう目だった。

 

「……はい」

 

それしか言えなかった。

俺の声が、ひどく小さく響いた。

 

湯気の残る脱衣所の空気が、急に重くなった気がした。

 

冗談みたいに笑ってるその顔の裏で、

先輩が何を隠してるのか、俺はもう知ってしまった気がして──

妙に冷たい不安が、胸の奥にじわりと沈んでいった。





インターハイ編残り2話ほどになります。
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