黒澤家の長男です。   作:カイザウルス

36 / 38
第35話

 

 

朝の光が、窓のカーテン越しに淡く差し込んでいた。

スマホのアラームはとっくに止まっていて、俺はすでに着替えも済ませていたけど、どうにも気持ちが落ち着かない。

 

インターハイ3日目。

今日はメドレーリレーの予選がある。

……一応、って言い方になるのは、明日が本番ってみんな思ってるからだ。

 

剛先輩と泳ぐリレー。

──その剛先輩の肩のことが、頭から離れなかった。

 

昨夜、見てしまった。

青黒く腫れた肩と、シャワーの音にまぎれた低く押し殺したような吐息。

あれで「大したことない」って言えるわけがない。

でも先輩は、何もなかったみたいな顔をして、いつもの調子だった。

 

「黙っててくれ」その言葉の意味が、どれだけ重たいか。

 

……ずるいよな、あれ。

ああ言われたら、俺はもう、はいって言うしかない。

カーテンの隙間から、セミの声が聞こえる。

季節は、夏。だけど、昨日よりちょっとだけ、空気が重たく感じた。

 

「……行くか」

 

ベッドに座っていた俺は、軽く息をついて立ち上がる。

 

部屋を出て、食堂に向かう廊下を歩いていたときだった。

ロビーのあたりから、聞き慣れた低い声が耳に届いた。

 

「──そんなこと言ってる場合じゃないだろ」

 

足を止める。

その声の主は、剛先輩。そして、もうひとり……監督だ。

 

俺は思わず近くの柱の陰に身を寄せた。

咄嗟だった。聞き耳を立てるなんて、後輩として最低だってわかってるけど──でも、どうしても気になってしまった。

 

「……今日のリレー、外す気ですか?」

「当然だ。あの肩で泳がせるわけにはいかんだろう」

 

監督の声は冷静だった。感情を抑えてるような口調。

だけど、先輩は一歩も引かなかった。

 

「それでも、俺は泳ぎます。今日だけは──チームとして、俺が行かないといけないんです」

 

「根性論で通る時代じゃないんだぞ、剛。最悪、今後の選手生命に関わる」

 

「それでも構いません」

 

食い下がるような剛先輩の声。

静かだけど、張りつめた強さがあった。

 

「責任があるんです。俺が引っ張ってきたチームだから。最後まで、泳ぎきらないと示せないことがある」

 

少しの沈黙のあと、監督が低く息を吐く音が聞こえた。

 

「……それに、人生最後の水泳なんです。お願いします」

 

静かな声だった。

けれど、その一言で、俺の心臓は不自然なまでに大きく跳ねた。

 

──人生、最後?

 

気づけば、足が勝手に動いていた。

柱の影から飛び出して、ふたりの前に出る。

 

「……どういうことですか、それ」

 

声が震えていた。

 

剛先輩と監督が同時にこちらを振り返る。

俺の存在に気づいてなかったらしい。剛先輩が少し驚いた表情を見せたが、すぐにいつもの調子に戻った。

 

「おいおい、盗み聞きは趣味か?」

 

軽く言う先輩に、俺はもう一歩踏み出す。

 

「冗談で流さないでください。今の……『人生最後の水泳』って、どういう意味ですか」

 

一瞬、剛先輩の瞳が揺れた。

でもすぐに、口を開こうとした瞬間。

 

「言葉の通りだ……まぁ、別に隠すこともないが」

 

低く、少しだけ息を混ぜた声だった。

剛先輩は、わずかに視線を逸らして、それからまた俺の方を見る。

 

「俺は高校を最後に、水泳を引退するんだ」

 

まっすぐな声だった。

それを聞いても、俺はすぐには言葉が出なかった。

 

「……怪我のせいじゃないぞ?」

 

先輩は、苦笑のような笑みを浮かべながら続ける。

 

「俺はシャチトレーナーになりたいんだ」

 

言葉の意味が、すぐには頭に入ってこなかった。

けれど、先輩の目の奥には、どこか遠くを見ているような光が宿っていた。

 

「中学の時、職場体験で行ったんだ。水族館の飼育スタッフの仕事。あのとき見たシャチのジャンプが、ずっと頭から離れなくてさ。……それ以来、水泳よりも、ああいう世界に惹かれるようになったんだよ」

「……だから、『人生最後の水泳』って」

「ああ。競技者としての俺はもう今回で最後なんだ」

 

淡々としていた。

でもその淡々さは、迷いを捨てた人間のそれだった。

 

「だからこそ、なんだよ。最後の試合、最後のリレー。これが“俺の水泳”の終着点だって、そう思ってる」

 

──終着点。

その言葉が、胸にじわりと染み込んでくる。

 

「痛くても、腫れてても、引いても、構わない。お前らと一緒に泳げるなら、それで十分だって、思ってるよ」

 

まるで何でもないことのように言って、先輩は肩を竦める。

でもその右肩は、昨日見たあの青黒い腫れが、確かにそこにあることを思い出させた。

 

俺が何か言葉を返すよりも早く、横から低い声が割り込んだ。

 

「……とりあえず、剛。お前は病院に行け」

 

監督だった。

ずっと黙って話を聞いていたその目が、厳しく細められていた。

 

「最悪のケースは想定してある。リザーブは一人登録してる。代わりは立てられる」

 

剛先輩は、その言葉にわずかに眉をしかめた。

 

「……俺は──」

 

「気持ちはわかってる」

 

ぴしゃりと断ち切るように、監督は言う。

 

「お前が背負ってきたことも、水泳への想いも、ここまで引っ張ってきた責任もな。でもな、それを通すには、最低限の“身体”が必要だ。泳げるかどうかを、今ここで感情で決めるな」

 

痛いくらいに、理屈だった。

だけどそれは、大人として、監督としての当然の判断だった。

 

剛先輩は、拳をぎゅっと握りしめる。

 

「……検査の結果が出てから、判断を仰ぐ。それまでは、俺の責任で、お前をメンバーから外すことも考える。わかったな?」

 

沈黙。

ほんの一瞬だけど、重い静けさが流れた。

 

「……わかりました」

 

先輩は小さく、けれどはっきりと答えた。

その横顔は、悔しさと、それ以上に強い覚悟がにじんでいた。

 

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 

個人メドレーの予選が終わり、電光掲示板に次々とタイムと順位が表示されていく。

 

その下で、プールから顔を上げた珊瑚が、水しぶきを上げながらガッツポーズをした。

 

「……やるな」

 

思わず小さく笑ってしまう。

冷静で、滅多に感情を表に出さないあいつが、珍しく嬉しそうな顔をしていた。

 

決勝進出──一年で全国大会に出て、しかも決勝まで行けるなんて、本当にすごい。

正直、羨ましいと思った。

 

もちろん、それだけの努力をしてきたのは知ってる。

黙々と練習をこなす姿を何度も見てきたし、誰よりもストイックな性格もわかってる。

 

だから、嬉しかった。

 

──さて、次は俺たちの番だ。

 

電光掲示板を一瞥してから、観客席を後にして動き出す。

 

次はメドレーリレーの予選。

剛先輩のことがまだ頭をよぎるけど、今は泳ぐことに集中しないといけない。

 

控室に入ると、銀次先輩と蛍がすでに水着に着替えてストレッチをしていた。

剛先輩の姿は――ない。

 

蛍がこちらに気づき、少し強ばった表情で口を開く。

 

「瑠璃先輩、お疲れ様です。あの……まだ剛先輩見てないんですけど……何か知ってますか?」

 

どう答えるべきか、迷った。

言わないでくれと頼まれたけど、もう誰もが気にしてる。黙っていていいことなのか、俺の中で答えが揺れる。

 

でも――その瞬間。

 

「待たせたな」

 

後ろから、聞き慣れた声が飛んできた。

振り返ると、タオルを肩にかけた剛先輩が、いつもの余裕を纏った表情で立っていた。

昨日見た肩の腫れは、今はジャージに隠れて見えない。

 

「お疲れ様です! 午前中、見当たらなかったんで、どこ行ったのかなって心配しましたよ」

 

蛍が、少しだけ眉をひそめながら剛先輩に声をかける。

 

「悪いな。ちょっと外の空気吸ってた」

 

剛先輩はそう言って軽く笑いながら、荷物から水着を取り出す。

 

着替えのために上着を脱いだその肩を、俺はさりげなく見た。

──昨日のあの青黒さは、少し引いているように見えた。

 

完全に腫れが引いたとは思えない。でも、先輩の表情に痛みの色はない。

 

「じゃ、俺、銀次先輩にも声かけてきますね」

 

蛍がそう言い残し、控室を出ていった。

 

俺と剛先輩だけが残る静かな空間に、ほんの一瞬だけ、言葉のない間が流れる。

 

俺は視線を剛先輩の背中に向けたまま、ふっと小さく息を吐いた。

 

「……病院、どうだったんですか?」

 

控えめに、けれど確かに届くように声をかけた。

 

剛先輩は着替えの手を止めることなく、しばらく黙っていた。

やがて、ロッカーに荷物をしまってからぽつりと答える。

 

「手術が必要なのと、医師に止められたよ」

 

その声は、いつもの落ち着いた調子からわずかに陰を帯びていた。

 

俺は思わず一歩踏み出す。

 

「じゃあ──」

 

でも、その先を言わせないように、先輩が少しだけ笑って言った。

 

「痛み止めは打った。明日も、朝イチで行って打ってくるさ」

 

冗談めかしてるのか、本気なのか。

その表情からは、何も読めなかった。

 

だけど、俺は黙っていられなかった。

その肩で、また泳ぐつもりなのか。

痛み止めで誤魔化して……それが、先輩の「最後の水泳」なのか。

 

けれど言葉が出てこない。

出そうになるたびに、喉の奥で何かがせき止める。

 

俺は、ただ拳を握りしめた。

 

先輩はそんな俺を横目に、タオルを軽く首にかけて、ふっと笑った。

 

「大丈夫だ。泳げるうちは、泳ぐ。お前も、自分の泳ぎに集中しろ」

 

そう言って、軽く俺の肩を叩いた。

その手の重さに、言葉が詰まりかけたけど──俺は、黙って頷いた。

 

少し間を置いて、口を開く。

 

「……遅れても、俺が抜くんで。

だから──無理は、しないでください」

 

先輩は、一瞬だけ目を見開いた。

けれどすぐに、苦笑とも微笑ともつかない表情を浮かべた。

 

「……頼もしくなったな。お前も」

 

その声が、どこか寂しそうに響いたのは気のせいじゃない。

俺は、ただ前を見つめた。

 

このリレーが──たとえ終着点だとしても。

その先へ、先輩を連れて行く泳ぎをする。

絶対に。

 

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 

メドレーリレー予選。

俺たちは、しっかりと結果を出した。

 

一位通過──決勝進出。

 

剛先輩の泳ぎは、やっぱり速かった。

痛み止めを打ってまで泳いだことを思えば、素直に喜べるわけじゃない。

でも、それでも──

あの背中は、何も変わらず、まっすぐだった。

 

予選を終えて、控室に戻る道すがら。

俺はただ黙って歩いていた。

その時だった。

 

「おい、瑠璃」

 

肩にぽんと腕を回される。

振り向くと、銀次先輩がいつもの笑みを浮かべていた。

 

「ちょっと来て」

 

そのまま俺は引っ張られるように、少し人目のない廊下の角へ連れて行かれた。

 

「さっき、剛と内緒話してただろ?何話してたんだ」

 

……バレてたか。

銀次先輩は、そういうところ、やけに鋭い。

気付かれるのは時間の問題だと思ってたけど──

まさか、こんなに早く突っ込まれるとは。

 

「……肩のことです」

 

俺は観念して、ぽつりと打ち明けた。

 

「昨日の夜、シャワー室で腫れてるの見て。朝、監督と話してるのを聞いて……さっき、控室で少しだけ話してました。手術が必要って言われたそうです」

 

銀次先輩は、それを聞いても、あまり驚いた顔はしなかった。

 

「……やっぱりね」

 

その一言に、思わず俺は言葉を詰まらせた。

 

「思ってたより深刻そうだったから、気になってた。でも剛、いつも通りの顔してたしさ。どこまで俺たちに隠すつもりなんだか……ほんと、あいつらしいけどな」

 

そう言って、少しだけ苦笑いを浮かべる銀次先輩。

その目には、怒りでも心配でもない、でも確かに”覚悟”を帯びた、先輩の表情があった。

 

「で、あいつはどうするつもりなんだ? 明日の決勝も、出る気か」

「……出ます。痛み止め打ってでも」

「……あー、もう、マジかよ……」

 

銀次先輩はそう呟くと、しばらく無言で天井を見上げていた。

 

「……俺さ、ちょっと怒ってんだよな」

 

そう言いながら、銀次先輩は俺の肩に手を置いた。

その手は思ったよりも、あたたかくて、やさしかった。

 

「瑠璃、お前のことだ。きっと一人でいろいろ考えてたんだろ? どうしたらいいか、どこまで言うべきか、正解を探して……でもな」

 

言葉を切って、俺の目をまっすぐ見据える。

 

「そういうときこそ、メンバーに話しなさい。特に俺たち先輩には、な。お前が全部背負って潰れたら、それこそ一番困るのは……俺たちだろ」

 

その声音は、責めるというよりも、安心させるためのものだった。

強くはないけど、絶対に届くように置かれた言葉だった。

 

「……すみません」

 

自然と、そう言葉がこぼれた。

怒られる覚悟だったのに、そのやさしさがかえって刺さる。

銀次先輩は、それ以上は何も言わずに肩をポンと叩いて離れた。

 

「蛍には、俺から話しておくよ」

 

その声は落ち着いていて、もう次へ進んでいる人の響きだった。

 

「それと──剛と監督……リザーブは、確か珊瑚だったよな?」

 

一度こちらに目を向けてから、軽く顎で示すように言う。

 

「その3人、集めてもらえるか。明日の決勝戦、どうするか。夕飯後に話そう」

 

そう言った銀次先輩の顔は、いつものように飄々と笑ってはいなかった。

でもその代わりに、仲間としての信頼と責任を、確かに背負っている横顔がそこにあった。

 

「……はい」

 

俺は頷いて、着替えてから控室を出る。

重たいことはまだ胸に残っていたけど、今は動くべき時だ。

 

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 

夜の帳がすっかり下りて、宿舎の廊下も静まり返っていた。

 

俺たちは、食堂の奥にある小さな会議室へと足を運ぶ。

そこにはすでに監督がいて、ローテーブルと簡素な椅子がいくつか並んでいた。

 

蛍、銀次先輩、剛先輩、そしてリザーブの珊瑚。

リレーメンバー4人が揃ったところで、扉が静かに閉まる。

 

蛍、銀次先輩、剛先輩、そしてリザーブの珊瑚。

リレーメンバー4人が揃ったところで、扉が静かに閉まる。

 

全員が席についたのを確認してから、静かな沈黙が数秒だけ場を支配した。

 

「……さて」

 

ぽつりと、その沈黙を破ったのは銀次先輩だった。

 

「剛。何か、俺たちに言うことあるよね?」

 

笑っている。けれど、その笑顔の奥にあるドス黒いオーラは隠しきれていなかった。

声は柔らかく、言葉も淡々としているのに──怖い。まるで、嵐の前の静けさだ。

 

剛先輩は、わずかに口元を引き結びながら、視線を銀次先輩とまっすぐに合わせた。

 

「……あぁ、悪かった」

「“悪かった”じゃないんだよ」

 

銀次先輩の声が、少しだけ低くなる。

隣の蛍も、何かを察したのか背筋を伸ばし、口をつぐんだまま。

 

銀次先輩は視線を剛先輩から逸らさず、静かに言葉を継いだ。

 

「……昨日の決勝戦、タッチの直後に肩を抑えてたよな。あれ、ただの張りとかじゃないと思ったけど……やっぱ、トラブルだったんだな?」

 

一瞬、剛先輩の喉が動いた。何かを飲み込むようにして、彼は短く頷く。

 

「腫れてた。今朝、病院行った。……結果は、関節唇損傷。医者には、これ以上泳げば、選手生命に関わるって言われた」

 

その場に、重い沈黙が落ちた。

蛍が、思わず息を呑む音が聞こえた。

珊瑚は眉一つ動かさず、真っ直ぐ剛先輩を見ている。

その眼差しに、感情はなかった。ただ、静かな評価の視線――まるで、選手を見るコーチのようだった。

今度は、銀次先輩の視線が監督に向けられる。

 

「……監督。気づいてましたよね? 剛の肩のこと。どうして止めなかったんですか?」

 

静かに、だが確実に圧を込めた声だった。

監督は組んでいた手をほどき、深く息を吐いた。

 

「気づいていたよ。昨日のレース後、テーピングの状態を見た時点で、ある程度はな」

「じゃあ、なぜ――」

 

銀次先輩が食いかかる前に、監督は手を上げて遮った。

 

銀次先輩が声を荒げかけた、その時だった。

 

「監督を責めないでくれ」

 

低く、けれどはっきりとした声で、剛先輩が口を開いた。

 

「俺が……強行突破したんだ」

 

その言葉に、場の空気が一瞬止まった。

 

「昨日の夜、監督には言われたよ。無理をするな、明日はリザーブを使うって。でも、俺が――聞かなかった。泳ぎたいって言って、頼み込んで、納得させたんだ」

 

剛先輩の表情は、悔しさと、覚悟と、どこか痛みを堪えるような色に染まっていた。

 

「監督は、俺の意志を尊重してくれただけだ。だから責めるなら……俺にしてくれ」

 

銀次先輩は、黙ったまま剛先輩を見つめる。感情の読めない表情の奥に、どこか複雑な思いがにじんでいた。

 

剛先輩は視線を皆に向け、続ける。

 

「もう、逃げる気はない。肩のことも、全部話す。決勝に出るかどうかも、みんなで決めてほしい」

 

その声に、蛍も、珊瑚も、そして銀次先輩も――真剣なまなざしで応えていた。

 

次の言葉を、誰が言うのか。

沈黙が、再び部屋を包み始めていた。

俺は意を決して口を開く。

 

「まずは、状況を整理しませんか?」

 

少しだけ間を置いてから、珊瑚に視線を向けて問いかける。

 

「珊瑚、予選突破おめでとう。明日の個人メドレー決勝の後、体力やメンタルの状態はどう?リザーブとしてリレーに出られそうか、正直に教えてほしい」

 

珊瑚は動じず、真っ直ぐ俺の目を見返す。

 

「大丈夫…です。いつでも出られるように準備します」

 

普段、敬語が抜ける珊瑚もここでは敬語で話す。

その言葉に安堵しつつ、俺は続ける。

 

「ありがとう。剛先輩のこともあるけど、まずは自分のやるべきことをしてくれ、無理はしないでほしい」

 

「ありがとう。剛先輩のこともあるけど、まずは自分のやるべきことをしてくれ、無理はしないでほしい」

 

そう伝えると、俺は視線を剛先輩に向けた。

 

「先輩…明日は――」

「出る」

 

言いかけたところで、剛先輩が俺の言葉を遮るように、きっぱりと答えた。

 

「出る。どんなに痛くても、最後まで泳ぐって決めてるんだ。」

 

剛先輩の瞳には揺るがぬ覚悟が宿っていた。

 

「みんなに迷惑かけるかもしれない。でも、今さら引き下がれない。お前たちと一緒に、このチームで泳ぐことが俺の最後の目標だ。」

 

頼む、と剛先輩は静かに頭を下げた。

その姿を見て、俺は何も言えなかった。

 

しばらくの沈黙の後、蛍が真っ直ぐな瞳で口を開く。

 

「俺は……無責任かもしれませんが、剛先輩と一緒に泳ぎたいです!」

 

続いて珊瑚も言葉を紡いだ。

 

「俺も、できれば剛先輩に泳いでほしいです。リザーブの俺ではなくて……」

 

一年生の二人が意を決して話したその言葉に、部屋の空気が少しだけ軽くなった気がした。

 

剛先輩はゆっくりと銀次先輩の目を見据え、静かな声で言った。

 

「俺は、みんなに迷惑はかけたくない。だけど、最後までこのチームで泳ぎたいんだ。だから、俺を助けてくれ」

 

その言葉には、これまで隠していた覚悟と責任感が滲んでいた。銀次先輩は少し黙り込んだ後、ゆっくりとうなずいた。

 

銀次先輩は、視線を逸らすことなく剛先輩の言葉を受け止めていた。

 

「……ああ、わかったよ。そこまで言うなら、俺も止める気はない」

 

低く、落ち着いた声だった。

 

「でも条件がある。お前が泳ぐって決めた以上、どんな結果になっても、ちゃんと受け止めろ。逃げるのは、ナシだ」

 

銀次先輩の声には、いつもの柔らかさの奥に、仲間を思う強さが滲んでいた。

 

剛先輩は一拍置いてから、ふっと笑みを浮かべた。

 

「わかってる。逃げも隠れもしない。……最後まで、俺の責任で泳ぎきるよ」

 

その瞬間、蛍が小さく頷いた。珊瑚もまた、真剣な面持ちで剛先輩を見つめている。

 

監督が一つ咳払いをして口を開いた。

 

「…明日は4人で挑む。お前ら決めたなら、勝つか負けるかはその先だ。だが、後悔だけは残すな」

 

静かだった部屋に、決意の空気が満ちていく。

銀次先輩が立ち上がり、軽く手を叩いた。

 

「今日はもうしっかり休もう。俺たちのリレーは、明日が本番だ」

 

それぞれが頷き、立ち上がる。

部屋の扉が開くと、廊下の明かりが差し込んできた。

 

明日は決勝。

誰にとっても、きっと忘れられない一日になる――その確信だけが、静かに胸を満たしていた。





次回、インターハイ編最終回!
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。