会場を包む歓声の波が、胸の奥まで響いてくる。
応援席の最前列。俺は息を詰めて、ただ一心にプールを見つめていた。
個人メドレー決勝――
鳴り響くタッチの電子音と同時に、観客席のざわめきが少しだけ高まった。
場内アナウンスが順位を読み上げる中、その背中を見つめていた。
――全国3位。
堂々たる結果。胸を張っていいはずの順位。
なのに、ゴーグルを外した珊瑚の目には、静かな涙が滲んでいた。
「……くっそ」
絞り出すような珊瑚の声は、どこか子どもっぽくて、でも確かに、心の奥底から溢れた悔しさそのものだった。
俺は少しだけ目を細めて、その背中を見つめる。
言葉にはしない。
でも、胸の中で静かに思う。
――忘れるなよ、その悔しさ。
そして、来年ぶつけろ。もっと強くなって、絶対に勝て。
そう願わずにはいられなかった。
改めて思う。
本当に、いい後輩を持った。
自分が一年生の頃、ここまでがむしゃらだっただろうか。
ここまで泥臭く、勝ちにこだわっていただろうか。
そんな問いが一瞬、頭をよぎる。
でも今はそれを考えるときじゃない。
次は――俺たちの出番だ。
「行きましょう。瑠璃先輩」
観客席を後にしようとしたとき、後ろから声がかかった。
振り向くと、蛍が、まっすぐな目で俺を見ていた。
その隣には、銀次先輩と剛先輩。
それぞれの目に、迷いはなかった。
俺は頷き、立ち上がる。
「行こう」
夏の終わりが、始まる。
ひとつのチームとして、泳げる最後のレース。
俺たちのすべてをぶつける舞台が、待っている。
いよいよ始まる。
男子400mメドレーリレー・決勝戦。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
静かな部室。
壁に掛けられたテレビの前で、Aqoursのメンバーたちが息を呑んでいた。
全国大会の中継。男子個人メドレー決勝。
画面には表彰台に立つ珊瑚くんの姿。銅メダルが陽に照らされて、きらりと光っている。
しかし、その顔は納得している様子はなかった。
私は、テレビを見つめながら何も言えずにいた。
隣では、手を合わせて祈るように応援していた善子ちゃんが、ぽつりと声を漏らす。
「珊瑚…すごかったわよね?」
不安そうな表情の善子ちゃんに、私はにこやかに答える。
「一年生で全国大会を経験して、しかも3位なんて……本当にすごい結果だよ。よかったね、善子ちゃん」
善子ちゃんはその言葉に、ぱっと顔を輝かせて――でもちょっと照れくさそうに、頬を赤らめながら小さく頷いた。
「うんっ……!」
その「うん」は、どこか誇らしくて、まるで自分のことのように嬉しそうだった。
善子ちゃんの目が、また画面に戻る。まっすぐに、珊瑚くんの姿を追っている。
後ろから、千歌ちゃんが顔を覗き込むようにして話しかけてくる。
「次はメドレーリレーだよね? いよいよ――」
「うん、けど……」
私は少しだけ言葉を濁した。
心のどこかに引っかかっている不安を、どう伝えていいかわからなくて。
視線を横に移すと、果南ちゃんが静かにテレビを見つめたまま、小さく頷いていた。
「……剛は、出るよ。絶対に。瑠璃やみんなが止めたとしても」
果南ちゃんのその声には、迷いがなかった。
まるで、剛先輩の決意を誰よりも理解しているかのように。
「果南ちゃん……知ってるの?」
私の問いに、果南ちゃんはゆっくり頷いた。
「バタフライの決勝でね――肩、痛めてたんだと思う。剛は、我慢強いからさ。痛みなんて、きっと誰にも見せなかった。昔から、そうだった」
言葉の端々に、懐かしさと少しの寂しさが滲んでいた。
「だけど、それでも出る。剛は、そういう子だから」
剛先輩と果南ちゃんは、幼少期からの付き合いだと聞いている。
どうやら、お父さん同士が昔からの友人で――中学に上がるまでは、果南ちゃんの家で一緒に暮らしていたらしい。
血の繋がりはなくても、家族みたいな関係だったんだろうな、とふと思う。
そんな話を思い返していると、
「あ!映ったよ!」
ルビィちゃんが、パッと画面を指差した。
テレビに、リレーメンバーの姿が大きく映し出される。
先頭にいるのは、どこか緊張した面持ちの蛍くん。
その隣には、落ち着いた表情を浮かべる銀次先輩。
そして――肩にサポーターを巻いた剛先輩の姿。
最後に、スタート台を見据える瑠璃くん。
「……本当に、出るんだね」
私は思わず呟いた。
その声に応えるように、隣の果南ちゃんがぽつりとつぶやく。
「見てるよ、剛……頑張れ。最後の水泳、楽しんで」
静かな声だった。けれど、その一言に、長い時間を共に過ごした人にしかない温度が宿っていて。
ちらりと横を見ると、果南ちゃんの瞳がわずかに潤んでいるように見えた。
それでも、涙はこぼさず、じっと画面の剛先輩を見つめている。
私も、もう一度前を向いた。
泳ぐのは、彼ら。
私たちができるのは、ただひとつ――
「頑張れ、瑠璃くん」
テレビ越しに、強く、心の中で叫んだ。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
熱気に満ちた観客席の歓声を背に、俺たちはプールサイドに並んで円陣を組んでいた。
「確認だけど、序盤は蛍と俺で何とか周りを突き放す。なるべくリードを取る」
銀次先輩が真剣な眼差しで言う。
「剛が、いつも通りに泳げなくても……最後は瑠璃がいる。それで勝てる」
その言葉に、蛍がぐっと拳を握る。
「頑張るよ、蛍!」
銀次先輩が力強く背中を叩けば、蛍は思い切り頷いた。
「はい!頑張ります!」
気合いのこもった声が、円陣の中心に響いた瞬間、剛先輩が静かに口を開く。
「……俺の我儘でこうなってしまったのは、本当に申し訳ない」
その声は、どこまでも真っ直ぐで、重かった。
「でも――俺が選んだ、最高のチームだ。俺は、お前らを信じてる。頼むぞ、みんな」
剛先輩の声が、胸の奥に突き刺さる。
この人がどれだけの覚悟で、今日ここに立ってるのか。
言葉なんかいらない。熱が、一瞬で全員に伝わった。
「それでは選手の皆さん、準備をお願いします」
アナウンスの声が会場に響く。
剛先輩は一度、深く息を吸い込むと――
「……浦男!! 行くぞ!!!」
その叫びに、円陣の中心から炎が立ち上がるような気がした。
空気が一変する。全員の視線が、プールへと吸い寄せられる。
男子400mメドレーリレー――最初の泳法は背泳ぎ。
先陣を切るのは、銀次先輩だ。
スタート台の縁に立ち、冷静にゴーグルを押さえる。
一歩、プールへと降りると、ゆっくりと水に身を沈め、スタート台のグリップに両手を添えた。
背中越しに、上を仰ぐようにして息を吸う。
「……お願いします、銀次先輩」
蛍がぽつりと呟く。
その声に、俺も同じ気持ちで心の中で祈る。
スタートの合図を待つ数秒が、永遠にも感じられる。
会場全体が静まり返る中――
ピッ、と乾いた音が鳴り響いた。
次の瞬間、銀次先輩の体が弾けるように水中へと飛び込む。
豪快な水しぶきが上がり、直線的にプールを切り裂いていった。
俺たちの、最後のレースが、いま始まった。
銀次先輩の泳ぎは、見ていて惚れ惚れする。
全身がしなやかに水をかき、ローリングも小さく効率的。水の抵抗を最小限に抑え、まるで水の中を滑るように進んでいく。
背泳ぎはスタート直後の加速と、ターンの技術が命だ。
銀次先輩はそのどちらも、一級品だった。
「一人目!銀次先輩いけっ……!」
蛍が隣で叫ぶ。声を張り上げながら、拳を握りしめている。
1人、2人とどんどん抜いていく銀次先輩。
ターンも鮮やかに決め、後半はさらにギアを上げていく。
会場の歓声が高まり、各レーンが一気にヒートアップする中で――
銀次先輩の泳ぎは、どこまでも冷静だった。
向かいの壁を蹴り、ラスト50m。
銀次先輩の泳ぎは、どこまでも冷静だった。
向かいの壁を蹴り、ラスト50m。
水を切る音が、鋭く響く。
銀次先輩の前には、まだ3人。――だが、間違いなく距離は詰まってきている。
「蛍!準備!」
俺が呼びかけると、
「はい!」
蛍は短く返事をして、水中ゴーグルをつけながらスタート台に立った。
彼の目には、もう迷いはない。
残り25m、銀次先輩は隣レーンの選手と並ぶ。……残り2人。
だが、ここから先が縮まらない。各校エース級が揃ってきている。レベルが違う。
――そのとき、妙な気配を感じた。
隣のレーン。
視線を向けると、鋭い眼光がこちらを貫いた。
和也だ。
明らかにこちらを睨みつけている。
その目に宿るものは、怒りとも執念とも違う。――執着。意地。
俺は思い出した。
和也は、あのとき言っていた。
『チームメドレーで、ぶち抜いてやる。次は──絶対、俺が勝つ』
和也も、自由形。……つまり、最後に再びぶつかる。
逃げられない、避けられない、決着の時。
バンッ――!
スタート台が蹴られる、鋭い音がプールに響く。
我に返ったときには、蛍がもう宙を舞っていた。
空気を裂くように、一直線に飛び込むその姿。
蛍の代名詞ともいえる、力強くも美しい入水だった。
水面下で泡が弾け、白く尾を引く。
彼の泳ぎは、銀次先輩のラストスパートをそのまま引き継ぐように、流れるように始まった。
周囲の歓声が、少し遠くに聞こえる。
それよりも耳に残るのは、水をかく音と、蛍の息遣い。
今まで見てきた中でも、今日の蛍は一段と違う。
迷いがない。怖れもない。ただ、自分の役目を果たすためだけに泳いでいる。
「瑠璃……」
隣から聞こえた声に、俺は横目を向ける。
剛先輩が、低く、ゆっくりと口を開いていた。
「俺は……本当に、幸せだ」
視線はまっすぐ、プールの中で泳ぐ蛍の背中に注がれている。
その目は、いつもの無表情の中に確かな色を宿していた。
光の加減か、それとも感情の波か、わずかに潤んで見えた。
「こんなにいいチームを持って……幸せだ」
小さく、絞るような声だった。
それでも、俺の胸には真っ直ぐ響いた。
「……剛先輩」
俺は、その言葉を胸に刻みながら、視線を前に戻す。
蛍が、必死に腕を伸ばしている。ストロークが一つ、また一つと前へ進むたびに、差が少しずつ詰まっていく。
あの、入学当初は不安げで、弱気で、涙もろかった蛍が――今はただひたむきに、仲間のために水をかいている。
ーーかっこいいよ、蛍
それが、剛先輩のためであり、俺たちのためであり、そして――きっと自分自身のためだ。
剛先輩が、無言でジャージのジッパーを下ろす。
ゆっくりと肩を出すと、右肩にうっすらと残るアザがあらわになった。
痛々しいそれでも、先輩の表情に迷いはない。
スタート台に立ち、深く息を吸う。
銀次先輩がそっと背後に回り、その背中を、力強く一発叩いた。
「舞台は俺と蛍で整えたぞ。行け、剛!」
その声が、空気を震わせるように響く。
まるで呼応するかのように、蛍がターンを終えて最後のストロークを刻みながら、こちらへ向かってくる。
まっすぐな想いが込められたその泳ぎに、剛先輩の目がわずかに見開かれる。
バシンッと、タッチの音が響いた瞬間――
「剛先輩ッ!!」
蛍が叫ぶ。剛先輩の体が、スタート台を強く蹴り、宙に舞った。
重力を忘れさせるような、美しい飛び出し。
水面がはじけ、剛先輩が力強く水中へと入っていく。
胸の奥が熱くなる。
限界の体で、それでも仲間のために泳ぐその姿に――もう、言葉はいらなかった。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
水の中は、静かだった。
音も、言葉も、感情も、すべてが泡のように消えていく。
だけど、俺は――この静寂が嫌いじゃなかった。
……昔から、俺は「無表情」だったらしい。
笑っているのか怒っているのか分からない。何を考えているのか分からない。
そう母親に言われて、ある日、ぽつんと家を追い出された。
「気持ち悪いのよ、あんたの顔。ずっと仏頂面して」
あの人の言葉も、捨てられた日のことも、もう遠い昔だ。
泣いたか、泣かなかったかさえ思い出せない。
ただ――その日、ひとりぼっちで玄関先に立っていた俺に、親父は何も言わなかった。
何も訊かずに、ただ一度だけ、頭を撫でてくれた。
大きくて、ごつごつした手だった。
あの温もりだけは、なぜか今でもはっきりと覚えている。
……そうして、親父との二人暮らしが始まった。
無口な親父は、仕事ばかりでほとんど家にいなかった。
家にはいつも俺ひとり。でも、あの時から、俺はひとりで泣かなくなった。
代わりに――水泳があった。
泳いでいる時だけは、誰にも何も言われない。
「何を考えているか分からない」と言われることもない。
ただ泳いで、進んで、勝てばそれでいい。
勝つことでしか、価値を証明できないと思っていた。
そんな中――
親父が数年の海外赴任を命じられた。
「お前を一人にしておけない」とだけ言い残し、俺は親父の親友の家に預けられることになった。
松浦家。
静岡の港町にある、海に近い家だった。
最初の数日は、正直、居心地が悪かった。
どこもかしこも明るすぎて、温かすぎて、戸惑った。
俺には似合わない場所だと、思った。
それでも、あの人たちは――俺のことを遠ざけなかった。
「剛くん、朝ごはんできたよ」
「今日も練習か?頑張れよ」
「おかえり、晩ご飯はハンバーグだって!」
毎日毎日、そんなふうに声をかけてくる松浦家の人たち。
まるで――家族みたいに。
その中にいたのが、果南だった。
初めて会った日、果南は俺の目を見て、いきなり笑った。
「無表情って言われたことあるでしょ?」
図星すぎて、思わずうなずいた俺に、彼女は言った。
「でも私にはわかるよ。今の顔、“ちょっと困ってる”って感じでしょ?」
何を見てそう思ったのか、わからなかった。
けどその瞬間、胸の奥が少しだけ温かくなったのを覚えている。
それからは、少しずつ変わっていった。
果南の家で過ごす日々は、俺の中の何かを、ゆっくりとほぐしてくれた。
気づけば、笑っていた。
いや、たぶん――笑えていたんだと思う。
口角は上がってなかったかもしれないけど、心が笑っていた。
あの時間があったから、俺は――。
そんな想いを胸に、俺は水の中を進み続ける。
ラストターンまで、あと数メートル。
嫌な音が――骨がきしむような、筋肉が裂けるような――全身に響いた。
その瞬間、肩から腕、背中、腰にかけて、激しい痛みが走る。
呼吸が、浅くなる。
でも止まれない。
止まるわけには――いかない。
「……っぐ……」
思わず水中で歯を食いしばる。
激痛で、指先に力が入らない。
でも俺は、手を掻き続ける。
もはや腕ではなく、魂で泳いでいた。
――泣くな。叫ぶな。耐えろ。前へ。
そう、自分に言い聞かせながら。
目を閉じれば、過去の自分が見える。
何も表情を出せず、愛されず、認められず、ただ勝つことでしか意味を見いだせなかった、あの頃の俺が。
でも――今は違う。
監督が、銀次が、蛍が、瑠璃が。
あの日、果南がくれた笑顔が、背中を押す。
今も、ずっと。
痛みが、限界を超える。
けれど、あと少し。
あと――ひとり。
このバトンを託すべき、最後の泳者。
それは、瑠璃だ。
俺たちが見つけた光。
何度倒れても立ち上がり、負けを恐れず、前を見据える背中。
だから、もう――託すだけだ。
腕を、最後の一滴まで振り絞って伸ばす。
壁に触れる、刹那。
「瑠璃ーーーーーーーっ!!!!!」
全身を裂くような叫びと同時に、瑠璃が空を飛んだ。
真っ直ぐ、まるで水面すら切り裂く一閃のように。
俺の頭上を越え、プールに突き刺さる。
水が跳ね上がり、音が掻き消える。
その姿を見ながら、俺は水面に沈み、ただ心の中で呟いた。
――あとは、頼んだ。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
水が俺を包む。
熱く、鋭く、でも心地いい――
まるで、これまで積み重ねてきた全部が、今の一瞬に凝縮されているような感覚だった。
剛先輩の声が、まだ耳に残ってる。
いや、心に残ってる。
「瑠璃ーーーーーーーっ!!!!!」
その叫びに背中を押されて、俺は今、ここにいる。
絶対に、負けられない。
勝つとか負けるとか、それだけじゃない。
でも、今日だけは違う。
全部背負ってる。
みんなの想いも、剛先輩の痛みも、俺の全部も。
――俺は、泳ぐ。全てを懸けて。
刹那、後ろからプレッシャーを感じる。
激しい水飛沫と共に、白鯨が追いかけてくる。
和也だ。
距離が近い。呼吸ひとつ分の差もない。
その存在感は、水の中でも異質だった。
まるで獲物を喰らう捕食者のような、研ぎ澄まされた気配。
あいつも、懸けてきてる。全部。
でもな、和也――俺もだ。
仲間のために。剛先輩のために。
そして、俺自身のために。
一瞬、横目にあいつの肩が見えた。
ギリギリで並んでる。いや、わずかに前に出てるかもしれない。
だったら――加速するしかねえだろ。
ターンをして、残り50mを泳ぎ切る。
蹴り足に全神経を込める。
水が裂け、鼓膜を打つ泡の音だけが響く世界。
ここまで来た。
一緒に走ってきた時間、全部が背中を押す。
悔しかった日も、怖かった日も、諦めたくなった日も。
全部、今の俺を作ってる。
水面が近い。息を継ぐ暇なんかない。
脳が酸素を求めてる。でも、そんなもんに構ってる余裕はない。
ただひたすら、手を伸ばせ。
あの日、追いかけた背中を、今度こそ抜かすために。
あいつの手が、視界の端で伸びる。
俺の手も、伸びる。
そして、壁に手をつき、
全身を突き抜ける痛みと疲労の中、顔を上げる。
電光掲示板を、見た。
そこには、確かにあった。
《1位 浦の星男子学院》
一瞬、何かの見間違いかと思った。
でも、何度瞬きをしても変わらない。
そこに、確かに「俺たちの名前」が刻まれていた。
……勝った。
「瑠璃先輩!!」
「瑠璃!」
「瑠璃!!」
飛び込むように声が届く。
水面から顔を上げた俺に、蛍、銀次先輩、そして剛先輩が手を伸ばしてくる。
その手を、俺は迷わず掴んだ。
ぐいっと力強く引き上げられ、プールサイドに引っ張り上げられた瞬間、
全身から水が滴り落ち、世界の音が一気に鮮明になる。
「よくやった!瑠璃!」
銀次先輩が俺の頭をわしわしと撫でながら、目尻を下げて笑った。
「……俺!感動しました!!」
蛍は子供みたいに顔をくしゃくしゃにして泣いていた。
その目の奥に、誇らしさと喜びと、全部があって。俺も、こみ上げそうになる。
そして――剛先輩が、一歩前に出た。
「瑠璃……本当にありがとう」
無表情だったはずのその顔が、今は確かに涙で濡れていた。
右肩をかばうように、力が抜けて下がっている。
「……肩、大丈夫ですか?」
「めちゃくちゃ痛い」
剛先輩はそう言って、苦笑した。
でもその顔は、痛み以上に、嬉しさで歪んでいた。
俺たちは――このチームで、やりきったんだ。
「瑠璃」
背後から呼ばれた名前に、俺は振り返る。
和也がいた。
さっきまでレーンで競り合っていたあいつが、今はプールサイドに立っている。
その顔は、どこか陰っていた。
いつもの自信に満ちた覇気も、強さを誇示するような笑みもない。
後ろには、和也と同じチームのメドレーメンバーたち。
誰もが言葉を失ったように、あたふたと所在なく立ち尽くしていた。
「……負けたよ」
和也が静かに言った。
その目は、俺をまっすぐに見ていた。
俺は、ほんの少しだけ息を吸い――そして、答える。
「――ああ」
たったそれだけ。でも、それだけでよかった。
今日のすべてが、そこに詰まってた。
「お前なら叶えられるかもな――」
和也がそう呟いた声は、小さくて、風に紛れそうだった。
「……近いうちに、また会おう」
とだけ言い残して、和也はくるりと背を向けた。
その後ろ姿は、敗者のものではなかった。
むしろ、何かを託すように。何かを見届けるように。
ただの悔しさや怒りじゃなく――少しだけ、安堵にも似た何かがあった。
チームメイトたちが戸惑いながらも和也の後を追っていく。
彼らの足音が遠ざかるなか、俺は立ち尽くしたまま、その言葉を反芻する。
――近いうち?
何のことだろうか?
わからない。ただ、ひとつ確かなのは。
あいつはまた、俺の前に現れる。
そのときに胸を張って会えるように、俺は――まだ、泳ぎ続けなきゃならない。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
閉会式も終わり、無事にインターハイは幕を閉じた。
歓声と拍手の余韻だけが、まだ耳の奥に残っている。
剛先輩はあの後、先に沼津に帰った。
「マジで痛い。冗談抜きでヤバい」なんて言ってたから、そのまま病院に直行だろう。
それでも、俺たちには「お前ら、最高だったな」って、最後まで笑って言ってくれた。
あの笑顔は、絶対に忘れられない。
そして、俺たちは無事に沼津に帰ってきた。
行きと同じく貸し切りバスに揺られて、疲れきった体を引きずりながら、ひとりひとりがバスを降りていく。
俺は、荷物を抱えて校門をくぐったとき、ふと立ち止まって空を見上げた。
濃い青と、やけに高く感じる雲。
この4日間、本当に濃かった。
泳いで、叫んで、悩んで、ぶつかって、笑って――
全部が青春の一ページ、なんて言葉じゃ片づけられないくらい、心の奥に焼きついている。
明日からまた、いつもの日常が始まる。
でも、俺の中の何かは、きっともう昨日までと違う。
だって俺たちは、やりきったんだ。
誰に誇るでもなく、自分たちに胸を張って言える。
――これが、俺たちの夏だったって。
インターハイ編、これにて終了!
次回、剛先輩視点で1話分書きます!