黒澤家の長男です。   作:カイザウルス

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インターハイ編最終回!!


第36話

 

会場を包む歓声の波が、胸の奥まで響いてくる。

応援席の最前列。俺は息を詰めて、ただ一心にプールを見つめていた。

 

個人メドレー決勝――

鳴り響くタッチの電子音と同時に、観客席のざわめきが少しだけ高まった。

場内アナウンスが順位を読み上げる中、その背中を見つめていた。

 

――全国3位。

堂々たる結果。胸を張っていいはずの順位。

なのに、ゴーグルを外した珊瑚の目には、静かな涙が滲んでいた。

 

「……くっそ」

 

絞り出すような珊瑚の声は、どこか子どもっぽくて、でも確かに、心の奥底から溢れた悔しさそのものだった。

 

俺は少しだけ目を細めて、その背中を見つめる。

 

言葉にはしない。

でも、胸の中で静かに思う。

 

――忘れるなよ、その悔しさ。

そして、来年ぶつけろ。もっと強くなって、絶対に勝て。

 

そう願わずにはいられなかった。

改めて思う。

本当に、いい後輩を持った。

 

自分が一年生の頃、ここまでがむしゃらだっただろうか。

ここまで泥臭く、勝ちにこだわっていただろうか。

そんな問いが一瞬、頭をよぎる。

 

でも今はそれを考えるときじゃない。

次は――俺たちの出番だ。

 

「行きましょう。瑠璃先輩」

 

観客席を後にしようとしたとき、後ろから声がかかった。

振り向くと、蛍が、まっすぐな目で俺を見ていた。

 

その隣には、銀次先輩と剛先輩。

それぞれの目に、迷いはなかった。

 

俺は頷き、立ち上がる。

 

「行こう」

 

夏の終わりが、始まる。

ひとつのチームとして、泳げる最後のレース。

俺たちのすべてをぶつける舞台が、待っている。

 

いよいよ始まる。

男子400mメドレーリレー・決勝戦。

 

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 

静かな部室。

壁に掛けられたテレビの前で、Aqoursのメンバーたちが息を呑んでいた。

 

全国大会の中継。男子個人メドレー決勝。

 

画面には表彰台に立つ珊瑚くんの姿。銅メダルが陽に照らされて、きらりと光っている。

しかし、その顔は納得している様子はなかった。

 

私は、テレビを見つめながら何も言えずにいた。

隣では、手を合わせて祈るように応援していた善子ちゃんが、ぽつりと声を漏らす。

 

「珊瑚…すごかったわよね?」

 

不安そうな表情の善子ちゃんに、私はにこやかに答える。

 

「一年生で全国大会を経験して、しかも3位なんて……本当にすごい結果だよ。よかったね、善子ちゃん」

 

善子ちゃんはその言葉に、ぱっと顔を輝かせて――でもちょっと照れくさそうに、頬を赤らめながら小さく頷いた。

 

「うんっ……!」

 

その「うん」は、どこか誇らしくて、まるで自分のことのように嬉しそうだった。

善子ちゃんの目が、また画面に戻る。まっすぐに、珊瑚くんの姿を追っている。

 

後ろから、千歌ちゃんが顔を覗き込むようにして話しかけてくる。

 

「次はメドレーリレーだよね? いよいよ――」

「うん、けど……」

 

私は少しだけ言葉を濁した。

心のどこかに引っかかっている不安を、どう伝えていいかわからなくて。

 

視線を横に移すと、果南ちゃんが静かにテレビを見つめたまま、小さく頷いていた。

 

「……剛は、出るよ。絶対に。瑠璃やみんなが止めたとしても」

 

果南ちゃんのその声には、迷いがなかった。

まるで、剛先輩の決意を誰よりも理解しているかのように。

 

「果南ちゃん……知ってるの?」

 

私の問いに、果南ちゃんはゆっくり頷いた。

 

「バタフライの決勝でね――肩、痛めてたんだと思う。剛は、我慢強いからさ。痛みなんて、きっと誰にも見せなかった。昔から、そうだった」

 

言葉の端々に、懐かしさと少しの寂しさが滲んでいた。

 

「だけど、それでも出る。剛は、そういう子だから」

 

剛先輩と果南ちゃんは、幼少期からの付き合いだと聞いている。

どうやら、お父さん同士が昔からの友人で――中学に上がるまでは、果南ちゃんの家で一緒に暮らしていたらしい。

血の繋がりはなくても、家族みたいな関係だったんだろうな、とふと思う。

 

そんな話を思い返していると、

 

「あ!映ったよ!」

 

ルビィちゃんが、パッと画面を指差した。

 

テレビに、リレーメンバーの姿が大きく映し出される。

 

先頭にいるのは、どこか緊張した面持ちの蛍くん。

その隣には、落ち着いた表情を浮かべる銀次先輩。

そして――肩にサポーターを巻いた剛先輩の姿。

最後に、スタート台を見据える瑠璃くん。

 

「……本当に、出るんだね」

 

私は思わず呟いた。

 

その声に応えるように、隣の果南ちゃんがぽつりとつぶやく。

 

「見てるよ、剛……頑張れ。最後の水泳、楽しんで」

 

静かな声だった。けれど、その一言に、長い時間を共に過ごした人にしかない温度が宿っていて。

ちらりと横を見ると、果南ちゃんの瞳がわずかに潤んでいるように見えた。

それでも、涙はこぼさず、じっと画面の剛先輩を見つめている。

 

私も、もう一度前を向いた。

 

泳ぐのは、彼ら。

私たちができるのは、ただひとつ――

 

「頑張れ、瑠璃くん」

 

テレビ越しに、強く、心の中で叫んだ。

 

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 

熱気に満ちた観客席の歓声を背に、俺たちはプールサイドに並んで円陣を組んでいた。

 

「確認だけど、序盤は蛍と俺で何とか周りを突き放す。なるべくリードを取る」

 

銀次先輩が真剣な眼差しで言う。

 

「剛が、いつも通りに泳げなくても……最後は瑠璃がいる。それで勝てる」

 

その言葉に、蛍がぐっと拳を握る。

 

「頑張るよ、蛍!」

 

銀次先輩が力強く背中を叩けば、蛍は思い切り頷いた。

 

「はい!頑張ります!」

 

気合いのこもった声が、円陣の中心に響いた瞬間、剛先輩が静かに口を開く。

 

「……俺の我儘でこうなってしまったのは、本当に申し訳ない」

 

その声は、どこまでも真っ直ぐで、重かった。

 

「でも――俺が選んだ、最高のチームだ。俺は、お前らを信じてる。頼むぞ、みんな」

 

剛先輩の声が、胸の奥に突き刺さる。

この人がどれだけの覚悟で、今日ここに立ってるのか。

言葉なんかいらない。熱が、一瞬で全員に伝わった。

 

「それでは選手の皆さん、準備をお願いします」

 

アナウンスの声が会場に響く。

剛先輩は一度、深く息を吸い込むと――

 

「……浦男!! 行くぞ!!!」

 

その叫びに、円陣の中心から炎が立ち上がるような気がした。

空気が一変する。全員の視線が、プールへと吸い寄せられる。

 

男子400mメドレーリレー――最初の泳法は背泳ぎ。

先陣を切るのは、銀次先輩だ。

 

スタート台の縁に立ち、冷静にゴーグルを押さえる。

一歩、プールへと降りると、ゆっくりと水に身を沈め、スタート台のグリップに両手を添えた。

背中越しに、上を仰ぐようにして息を吸う。

 

「……お願いします、銀次先輩」

 

蛍がぽつりと呟く。

その声に、俺も同じ気持ちで心の中で祈る。

 

スタートの合図を待つ数秒が、永遠にも感じられる。

 

会場全体が静まり返る中――

ピッ、と乾いた音が鳴り響いた。

 

次の瞬間、銀次先輩の体が弾けるように水中へと飛び込む。

豪快な水しぶきが上がり、直線的にプールを切り裂いていった。

 

俺たちの、最後のレースが、いま始まった。

 

銀次先輩の泳ぎは、見ていて惚れ惚れする。

全身がしなやかに水をかき、ローリングも小さく効率的。水の抵抗を最小限に抑え、まるで水の中を滑るように進んでいく。

 

背泳ぎはスタート直後の加速と、ターンの技術が命だ。

銀次先輩はそのどちらも、一級品だった。

 

「一人目!銀次先輩いけっ……!」

 

蛍が隣で叫ぶ。声を張り上げながら、拳を握りしめている。

 

1人、2人とどんどん抜いていく銀次先輩。

ターンも鮮やかに決め、後半はさらにギアを上げていく。

 

会場の歓声が高まり、各レーンが一気にヒートアップする中で――

銀次先輩の泳ぎは、どこまでも冷静だった。

 

向かいの壁を蹴り、ラスト50m。

 

銀次先輩の泳ぎは、どこまでも冷静だった。

 

向かいの壁を蹴り、ラスト50m。

 

水を切る音が、鋭く響く。

銀次先輩の前には、まだ3人。――だが、間違いなく距離は詰まってきている。

 

「蛍!準備!」

 

俺が呼びかけると、

 

「はい!」

 

蛍は短く返事をして、水中ゴーグルをつけながらスタート台に立った。

彼の目には、もう迷いはない。

 

残り25m、銀次先輩は隣レーンの選手と並ぶ。……残り2人。

だが、ここから先が縮まらない。各校エース級が揃ってきている。レベルが違う。

 

――そのとき、妙な気配を感じた。

 

隣のレーン。

視線を向けると、鋭い眼光がこちらを貫いた。

 

和也だ。

明らかにこちらを睨みつけている。

その目に宿るものは、怒りとも執念とも違う。――執着。意地。

 

俺は思い出した。

和也は、あのとき言っていた。

 

『チームメドレーで、ぶち抜いてやる。次は──絶対、俺が勝つ』

 

和也も、自由形。……つまり、最後に再びぶつかる。

逃げられない、避けられない、決着の時。

 

バンッ――!

 

スタート台が蹴られる、鋭い音がプールに響く。

我に返ったときには、蛍がもう宙を舞っていた。

 

空気を裂くように、一直線に飛び込むその姿。

蛍の代名詞ともいえる、力強くも美しい入水だった。

 

水面下で泡が弾け、白く尾を引く。

彼の泳ぎは、銀次先輩のラストスパートをそのまま引き継ぐように、流れるように始まった。

周囲の歓声が、少し遠くに聞こえる。

それよりも耳に残るのは、水をかく音と、蛍の息遣い。

 

今まで見てきた中でも、今日の蛍は一段と違う。

迷いがない。怖れもない。ただ、自分の役目を果たすためだけに泳いでいる。

 

「瑠璃……」

 

隣から聞こえた声に、俺は横目を向ける。

剛先輩が、低く、ゆっくりと口を開いていた。

 

「俺は……本当に、幸せだ」

 

視線はまっすぐ、プールの中で泳ぐ蛍の背中に注がれている。

その目は、いつもの無表情の中に確かな色を宿していた。

光の加減か、それとも感情の波か、わずかに潤んで見えた。

 

「こんなにいいチームを持って……幸せだ」

 

小さく、絞るような声だった。

それでも、俺の胸には真っ直ぐ響いた。

 

「……剛先輩」

 

俺は、その言葉を胸に刻みながら、視線を前に戻す。

蛍が、必死に腕を伸ばしている。ストロークが一つ、また一つと前へ進むたびに、差が少しずつ詰まっていく。

 

あの、入学当初は不安げで、弱気で、涙もろかった蛍が――今はただひたむきに、仲間のために水をかいている。

 

ーーかっこいいよ、蛍

 

それが、剛先輩のためであり、俺たちのためであり、そして――きっと自分自身のためだ。

 

剛先輩が、無言でジャージのジッパーを下ろす。

ゆっくりと肩を出すと、右肩にうっすらと残るアザがあらわになった。

痛々しいそれでも、先輩の表情に迷いはない。

 

スタート台に立ち、深く息を吸う。

 

銀次先輩がそっと背後に回り、その背中を、力強く一発叩いた。

 

「舞台は俺と蛍で整えたぞ。行け、剛!」

 

その声が、空気を震わせるように響く。

 

まるで呼応するかのように、蛍がターンを終えて最後のストロークを刻みながら、こちらへ向かってくる。

まっすぐな想いが込められたその泳ぎに、剛先輩の目がわずかに見開かれる。

 

バシンッと、タッチの音が響いた瞬間――

 

「剛先輩ッ!!」

 

蛍が叫ぶ。剛先輩の体が、スタート台を強く蹴り、宙に舞った。

 

重力を忘れさせるような、美しい飛び出し。

水面がはじけ、剛先輩が力強く水中へと入っていく。

胸の奥が熱くなる。

限界の体で、それでも仲間のために泳ぐその姿に――もう、言葉はいらなかった。

 

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 

水の中は、静かだった。

音も、言葉も、感情も、すべてが泡のように消えていく。

だけど、俺は――この静寂が嫌いじゃなかった。

 

……昔から、俺は「無表情」だったらしい。

笑っているのか怒っているのか分からない。何を考えているのか分からない。

そう母親に言われて、ある日、ぽつんと家を追い出された。

 

「気持ち悪いのよ、あんたの顔。ずっと仏頂面して」

 

あの人の言葉も、捨てられた日のことも、もう遠い昔だ。

泣いたか、泣かなかったかさえ思い出せない。

 

ただ――その日、ひとりぼっちで玄関先に立っていた俺に、親父は何も言わなかった。

何も訊かずに、ただ一度だけ、頭を撫でてくれた。

 

大きくて、ごつごつした手だった。

あの温もりだけは、なぜか今でもはっきりと覚えている。

 

……そうして、親父との二人暮らしが始まった。

無口な親父は、仕事ばかりでほとんど家にいなかった。

家にはいつも俺ひとり。でも、あの時から、俺はひとりで泣かなくなった。

 

代わりに――水泳があった。

泳いでいる時だけは、誰にも何も言われない。

「何を考えているか分からない」と言われることもない。

ただ泳いで、進んで、勝てばそれでいい。

勝つことでしか、価値を証明できないと思っていた。

 

そんな中――

親父が数年の海外赴任を命じられた。

「お前を一人にしておけない」とだけ言い残し、俺は親父の親友の家に預けられることになった。

 

松浦家。

静岡の港町にある、海に近い家だった。

 

最初の数日は、正直、居心地が悪かった。

どこもかしこも明るすぎて、温かすぎて、戸惑った。

俺には似合わない場所だと、思った。

 

それでも、あの人たちは――俺のことを遠ざけなかった。

 

「剛くん、朝ごはんできたよ」

「今日も練習か?頑張れよ」

「おかえり、晩ご飯はハンバーグだって!」

 

毎日毎日、そんなふうに声をかけてくる松浦家の人たち。

まるで――家族みたいに。

 

その中にいたのが、果南だった。

初めて会った日、果南は俺の目を見て、いきなり笑った。

 

「無表情って言われたことあるでしょ?」

 

図星すぎて、思わずうなずいた俺に、彼女は言った。

 

「でも私にはわかるよ。今の顔、“ちょっと困ってる”って感じでしょ?」

 

何を見てそう思ったのか、わからなかった。

けどその瞬間、胸の奥が少しだけ温かくなったのを覚えている。

 

それからは、少しずつ変わっていった。

果南の家で過ごす日々は、俺の中の何かを、ゆっくりとほぐしてくれた。

 

気づけば、笑っていた。

いや、たぶん――笑えていたんだと思う。

口角は上がってなかったかもしれないけど、心が笑っていた。

あの時間があったから、俺は――。

 

そんな想いを胸に、俺は水の中を進み続ける。

ラストターンまで、あと数メートル。

 

嫌な音が――骨がきしむような、筋肉が裂けるような――全身に響いた。

その瞬間、肩から腕、背中、腰にかけて、激しい痛みが走る。

 

呼吸が、浅くなる。

でも止まれない。

止まるわけには――いかない。

 

「……っぐ……」

 

思わず水中で歯を食いしばる。

激痛で、指先に力が入らない。

でも俺は、手を掻き続ける。

もはや腕ではなく、魂で泳いでいた。

 

――泣くな。叫ぶな。耐えろ。前へ。

 

そう、自分に言い聞かせながら。

 

目を閉じれば、過去の自分が見える。

何も表情を出せず、愛されず、認められず、ただ勝つことでしか意味を見いだせなかった、あの頃の俺が。

 

でも――今は違う。

 

監督が、銀次が、蛍が、瑠璃が。

あの日、果南がくれた笑顔が、背中を押す。

今も、ずっと。

 

痛みが、限界を超える。

けれど、あと少し。

あと――ひとり。

 

このバトンを託すべき、最後の泳者。

それは、瑠璃だ。

 

俺たちが見つけた光。

何度倒れても立ち上がり、負けを恐れず、前を見据える背中。

 

だから、もう――託すだけだ。

 

腕を、最後の一滴まで振り絞って伸ばす。

壁に触れる、刹那。

 

「瑠璃ーーーーーーーっ!!!!!」

 

全身を裂くような叫びと同時に、瑠璃が空を飛んだ。

 

真っ直ぐ、まるで水面すら切り裂く一閃のように。

俺の頭上を越え、プールに突き刺さる。

 

水が跳ね上がり、音が掻き消える。

その姿を見ながら、俺は水面に沈み、ただ心の中で呟いた。

 

――あとは、頼んだ。

 

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 

水が俺を包む。

 

熱く、鋭く、でも心地いい――

まるで、これまで積み重ねてきた全部が、今の一瞬に凝縮されているような感覚だった。

剛先輩の声が、まだ耳に残ってる。

いや、心に残ってる。

 

「瑠璃ーーーーーーーっ!!!!!」

 

その叫びに背中を押されて、俺は今、ここにいる。

絶対に、負けられない。

 

勝つとか負けるとか、それだけじゃない。

でも、今日だけは違う。

全部背負ってる。

みんなの想いも、剛先輩の痛みも、俺の全部も。

 

――俺は、泳ぐ。全てを懸けて。

 

刹那、後ろからプレッシャーを感じる。

激しい水飛沫と共に、白鯨が追いかけてくる。

 

和也だ。

 

距離が近い。呼吸ひとつ分の差もない。

その存在感は、水の中でも異質だった。

まるで獲物を喰らう捕食者のような、研ぎ澄まされた気配。

 

あいつも、懸けてきてる。全部。

 

でもな、和也――俺もだ。

 

仲間のために。剛先輩のために。

そして、俺自身のために。

 

一瞬、横目にあいつの肩が見えた。

ギリギリで並んでる。いや、わずかに前に出てるかもしれない。

 

だったら――加速するしかねえだろ。

 

ターンをして、残り50mを泳ぎ切る。

蹴り足に全神経を込める。

水が裂け、鼓膜を打つ泡の音だけが響く世界。

 

ここまで来た。

一緒に走ってきた時間、全部が背中を押す。

悔しかった日も、怖かった日も、諦めたくなった日も。

全部、今の俺を作ってる。

 

水面が近い。息を継ぐ暇なんかない。

脳が酸素を求めてる。でも、そんなもんに構ってる余裕はない。

 

ただひたすら、手を伸ばせ。

あの日、追いかけた背中を、今度こそ抜かすために。

 

あいつの手が、視界の端で伸びる。

俺の手も、伸びる。

 

そして、壁に手をつき、

全身を突き抜ける痛みと疲労の中、顔を上げる。

 

電光掲示板を、見た。

 

そこには、確かにあった。

《1位 浦の星男子学院》

 

一瞬、何かの見間違いかと思った。

でも、何度瞬きをしても変わらない。

そこに、確かに「俺たちの名前」が刻まれていた。

 

……勝った。

 

「瑠璃先輩!!」

「瑠璃!」

「瑠璃!!」

 

飛び込むように声が届く。

水面から顔を上げた俺に、蛍、銀次先輩、そして剛先輩が手を伸ばしてくる。

その手を、俺は迷わず掴んだ。

 

ぐいっと力強く引き上げられ、プールサイドに引っ張り上げられた瞬間、

全身から水が滴り落ち、世界の音が一気に鮮明になる。

 

「よくやった!瑠璃!」

 

銀次先輩が俺の頭をわしわしと撫でながら、目尻を下げて笑った。

 

「……俺!感動しました!!」

 

蛍は子供みたいに顔をくしゃくしゃにして泣いていた。

その目の奥に、誇らしさと喜びと、全部があって。俺も、こみ上げそうになる。

 

そして――剛先輩が、一歩前に出た。

 

「瑠璃……本当にありがとう」

 

無表情だったはずのその顔が、今は確かに涙で濡れていた。

右肩をかばうように、力が抜けて下がっている。

 

「……肩、大丈夫ですか?」

「めちゃくちゃ痛い」

 

剛先輩はそう言って、苦笑した。

でもその顔は、痛み以上に、嬉しさで歪んでいた。

俺たちは――このチームで、やりきったんだ。

 

「瑠璃」

 

背後から呼ばれた名前に、俺は振り返る。

和也がいた。

 

さっきまでレーンで競り合っていたあいつが、今はプールサイドに立っている。

その顔は、どこか陰っていた。

いつもの自信に満ちた覇気も、強さを誇示するような笑みもない。

 

後ろには、和也と同じチームのメドレーメンバーたち。

誰もが言葉を失ったように、あたふたと所在なく立ち尽くしていた。

 

「……負けたよ」

 

和也が静かに言った。

その目は、俺をまっすぐに見ていた。

俺は、ほんの少しだけ息を吸い――そして、答える。

 

「――ああ」

 

たったそれだけ。でも、それだけでよかった。

今日のすべてが、そこに詰まってた。

 

「お前なら叶えられるかもな――」

 

和也がそう呟いた声は、小さくて、風に紛れそうだった。

 

「……近いうちに、また会おう」

 

とだけ言い残して、和也はくるりと背を向けた。

その後ろ姿は、敗者のものではなかった。

むしろ、何かを託すように。何かを見届けるように。

ただの悔しさや怒りじゃなく――少しだけ、安堵にも似た何かがあった。

 

チームメイトたちが戸惑いながらも和也の後を追っていく。

彼らの足音が遠ざかるなか、俺は立ち尽くしたまま、その言葉を反芻する。

 

――近いうち?

何のことだろうか?

 

わからない。ただ、ひとつ確かなのは。

 

あいつはまた、俺の前に現れる。

そのときに胸を張って会えるように、俺は――まだ、泳ぎ続けなきゃならない。

 

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 

閉会式も終わり、無事にインターハイは幕を閉じた。

歓声と拍手の余韻だけが、まだ耳の奥に残っている。

 

剛先輩はあの後、先に沼津に帰った。

「マジで痛い。冗談抜きでヤバい」なんて言ってたから、そのまま病院に直行だろう。

それでも、俺たちには「お前ら、最高だったな」って、最後まで笑って言ってくれた。

あの笑顔は、絶対に忘れられない。

 

そして、俺たちは無事に沼津に帰ってきた。

行きと同じく貸し切りバスに揺られて、疲れきった体を引きずりながら、ひとりひとりがバスを降りていく。

 

俺は、荷物を抱えて校門をくぐったとき、ふと立ち止まって空を見上げた。

濃い青と、やけに高く感じる雲。

この4日間、本当に濃かった。

泳いで、叫んで、悩んで、ぶつかって、笑って――

全部が青春の一ページ、なんて言葉じゃ片づけられないくらい、心の奥に焼きついている。

 

明日からまた、いつもの日常が始まる。

でも、俺の中の何かは、きっともう昨日までと違う。

 

だって俺たちは、やりきったんだ。

誰に誇るでもなく、自分たちに胸を張って言える。

――これが、俺たちの夏だったって。

 





インターハイ編、これにて終了!
次回、剛先輩視点で1話分書きます!
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