吾輩は、否。僕は人である。たぶん。
名前は本来まだないのだが、この情報社会において名無しはあまりに不便なので、便宜上、百目鬼智也<どうめきともや>と名乗って、戸籍にもそう記している。
どこで生まれたかは見当をつけるまでもない。何の変哲もない地方都市の小さな病院でオギャアオギャアと産声をあげたのをはっきりと記憶している。
僕はここで初めて母というものを見た。酷く華奢な体つきだったが、美しく、力強い笑みを湛えた女性だった。
然しその母は僕を産んですぐに命を落としたそうだ。それを僕は、普通の赤子のふりをして狸寝入りしている最中にわかに騒がしくなった病室の空気と、僕を抱きしめていた細腕が脱力したことから察した。
この世に僕を誕生させてくれた偉大なる母を早々に喪失し、その事実にギリギリと心を痛めながらも、僕は自分が置かれた現状の把握に努めた。
まず行ったのは記憶の整理である。
僕にはかつて僕であった者の記憶が、俗にいう前世の記憶があった。
その記憶の中における僕は高校生だった。美食に舌鼓を打ち、心地よい惰眠を貪り、学校で友人と雑談し、女性に好かれることを夢見る、一般的な思春期の男子高校生だ。今の僕が名乗っている百目鬼燈也という名は、元々この前世の彼のものである。
彼の記憶の古いものから順にたどってみたが、百目鬼氏が何らかの要因で死んだという内容のものは残念ながら存在しなかった。
前世の記憶において最新のものだったのは高校の卒業式の時で、そこから先はそもそも覚えていない。赤子になったショックで記憶に混濁が見られるのか、卒業式中に自覚する暇もなく命を落としたのかは自分で考えてみてもよくわからないけれど、とりあえず今僕が生まれ変わっている理由の参考になりそうな情報はみつからなかった。
記憶の整理は不発に終わったが、気を取り直して、次の確認に移ろう。
自分の肉体性能の確認だ。
普通、生まれたての乳児というのはすべての能力が未発達だ。
目蓋は開くことができず、無理に開けたとしても碌に見えないし、動体視力は皆無。自分の腕を持ち上げるので精一杯の脆弱な筋肉に、体重を支えられない骨。感情の種類が興奮一つだけしかない脳。成人と比べれば、それらはあまりにも未熟。
現在絶賛赤ん坊の僕もその例からは漏れないはずなのだが、そうだとすると、こうしてあれやこれやと思考ができているのはどう考えてもおかしい。あくまでも僕の主観でだが、この思考能力は記憶の中における最後の時期である高校生当時に匹敵している。おそらくは百目鬼氏の記憶を引き継いだことが原因だろうか、どうやら僕は見た目は子供頭脳は大人的な状態なようだ。
こうなってくると、ある一つの懸念が新たに生まれる。すなわち、百目鬼氏から受け継いだのは思考能力だけなのだろうか、というものである。
結果から言えば、その心配自体は杞憂ではあったものの、やはり転生の代償は存在していた。看護師たちによって行われた身体検査で、色々と常軌を逸した結果が出たのだ。
とは言っても、成長期を終えた高校生並の筋力やら骨格やらを有していた訳ではない。一般的な新生児に比べれば遙かに強固であったのは確かだが、その肉体の検査結果にとは別に精密検査をしたことで、一つの事実が明らかになった。その事実こそが看護師たちを最も驚かせた。
僕の肉体を形作る細胞は、一つ残らず不死化を起こしていたのだ。
そも、細胞には不必要な増殖を抑える能力があるのだが、その能力が制限されてしまうことを不死化という。
細胞と言うのは、テロメアという物質によりその分裂できる回数に限りが設けられてある。細胞分裂の回数制限は、細胞にとっての寿命と言い換えてもいいだろう。
しかし僕の細胞はあらゆる機能が異常活性しており、本来は消耗しては修復されるというサイクルを繰り返し次第に短くなっていくテロメアが、一切消費されなくなっているのだ。
不死化した細胞は際限なく増殖するようになり、それがいわゆる癌細胞に変化したりして体を蝕むものなのだが、どういうわけか僕の細胞は不死化こそしているが、悪性に変化する可能性は低いらしい。盗み聞いていた医師たちの会話いわく、無秩序に分裂していてもおかしくない僕の細胞はしかし、まるで理性を持っているかのようにその活動を「自粛」していて、今後も暴走の危険性は無いとみていいのでは、とのことだった。
医学知識の無い僕に理解できた話はここまでで、それからも医師たちの議論は続いていたのだけど、少なくとも死の危険はなさそうだと安心した僕は次の思考を開始した。
つまり、今後のことについてだ。
この時すでに母が天に召されてから数時間が経過していたが、未だ父親が現れる雰囲気は無く、看護師たちの会話にも父は登場しない。となれば、僕には父親が居ないとみるのが妥当だろう。もちろん、それだけの根拠で父親がこの世に居ないと断じる気はなく、しばらくは様子を見るつもりではあったのだけれど、数日後、僕の予想が間違っていないことが思わぬ形で判明した。
僕は、親を持たぬ子供として養護施設に入ることとなったのだ。
僕としては突然変異した希有な人間としてモルモットにでもなるのかと戦々恐々としていたが、どうやら僕の母は余程の人格者であったらしく、看護師たちが僕に向かって母の冥福と僕の幸せを願ってくれていたのが聞こえていた。もしかしたら、彼女らが色々取りはからってくれたのかもしれない。確証は何も無いけれど、きっとそうだと信じたい。
とにかく、だ。
そうして僕は施設で生きていくことになった。今後のことについての問題は解消した。
人として通常あり得ない状態で生まれてきておきながら、普通の人として生きていくことを許されたのだ。
狸寝入りをしつつ心の中でもうこの世にいない偉大なる母や、二度と会わぬであろう優しき看護師たちに感謝の念を捧げ、僕は病院から養護施設へ運ばれたのだった。
前世の記憶があることをひた隠しにし、精神年齢の高さを偽り、与えられた幸せを享受し続けること、十五年と少し。
今年から高校生となる僕は、今までの生活に区切りをつけ、世話になった施設を離れて新天地へ旅立つ。
華やかな青春を、薔薇色の未来を、二度目の人生にもたらすため。周りを欺き続けた平凡で窮屈な日々に別れを告げて。
かつて大災害に見舞われ瓦礫の山となり、最新技術を以て実験都市へと進化を果たした町。
僕の新たなる居場所、
天宮市に。