蝋の翼   作:水野希

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1-1 十香ロールアウト

『……まして』

 

 ……………

 

『………目を覚まして』

 

 …………聞いたことなど一度も無い、けれどどこか懐かしいような声。

 

『……あなたは、これから始まるのだから』

 

 どこから響き、なぜ僕に訴えかけるかもわからないその声が

 

『………さぁ、もう起きる時間よ……』

 

 僕を、優しく追い立てる。

 

『………さぁ』

 

 せめて、嗚呼せめて

 

 

 

 

「後……五分…だけでも…」

 

 四月十日。

 

 一年の中で唯一嘘が許される日からしばらく経った月曜日

 

「…………むにゃ……………む?」

 

 暖かかくも少し肌寒い三月が終わり、新しい日々がやってくる年度変わりの季節。

 多くの学校や企業では、四月に入ってしばらく経ったこの時期がある種の区切りとされる。

 この日を境にして次のステップへ進む人々は、まだ見ぬこれからに胸を膨らませていることだろう。

 

「むむ?…………むむむ?」

 

 僕こと、百目鬼智也もまたそんな人達同様に新生活を心待ちにしていたが。新年度の記念すべき一日目の朝。その心境は、決して麗らかではなく。

 

「………あぁ……………あああああっ」

 

 それどころか

 

「寝過ごしたぁぁぁぁぁっ!」

 

 むしろ、最悪だった。

 

 

 今年で築三十年を迎える鉄筋コンクリート造りの賃貸マンション「フローリスト天宮」の101号室。まだ一昨日に諸々の手続きを完了させ晴れて我が城となり引っ越してきたばかりなので、生活感は欠片も無い。当然家具家電の類いは皆無。ミニマリストもかくやの質素ぶりだ。

大通りから少し離れた場所にあるため少々交通面に難があるが、浴室乾燥機付きの風呂場。最新ウォシュレットのトイレ。東と南に二つある大窓。梯子で登れるリフトのある12畳のリビング等々。なかなかの好条件で家賃が7万だったので即決した物件である。しかし、未だその真価を発揮できてはいない。

 

 決め手の一つになったものの、まだカーテンのひとつも付いていない窓から、まぶしい黄金色の日の光が何に遮られるでもなく降り注ぎ、高い位置から無機質な枠を通って燦々と顔面に差し込んでいる。

 薄く開いた目蓋からナイフのように鋭く瞳孔に刺さった直射日光が、未だ微睡みの中にいた僕の意識を覚醒へと導き、昨日立てた計画が破綻していることを知らしめた。

 季節は花々の咲き誇る春真っ盛り。冬から次第に日の出の時間が早くなっているとはいえ、今の太陽の位置は真上に近い。これだけ陽が高いということは、予定していた起床時刻である六時四十五分をもうだいぶ経過していることの証左だ。

 

 窓と同じく無機質なフローリングのままの部屋の真ん中に直接敷いてあった布団からガバッと体を起こし、窓と反対側の壁のフックに掛けてある百均の小さな紫色の時計を急いで確認する。短針が指し示していたのは、12より少し手前。長針は左に真っ直ぐ。すなわち、午前11時45分。

 大遅刻であった。

 

「っ!そんな………いいや……まだ間に合う………!」

 

 昨日、今期の深夜アニメの初回放送をリアルタイムで見ようとしたのがいけなかったか。

 一流のオタクならそれが当然、などと粋がったことを考えたが故の失策だ。それもこれも、今期から始まる「運命~零~」の期待値が高すぎるのがいけないのだ。

 尚、その作品は大当たりだった模様。

 作画が神っていた。

 

 閑話休題。

 

 都立来禅高校。

 

 それが、僕がこれから通うこととなる高校の名前である。

 

 僕が居を移した天宮市は、今から約三十年前に巨大な空間震に襲われた街だ。

 空間震とは、読んで字の如く空間に作用する震動災害のことで、三十年前にユーラシア大陸中央地帯で初めて発生し、それ以降日本を中心に世界各国で頻発している。発生するタイミングの推測は完全に不可能。原因も全くの不明。地球温暖化の影響の一つだの、宇宙人の攻撃だの、果てには神の裁きの鉄槌だのと、非常に様々な憶測がなされているがどれも眉唾ものの域を出ないままで、はっきりしているのは唯一つ。原因がなんであれ、空間震が起きるたびに街は崩壊し、そこに住む人々は命の危機に直面するということ。それだけでも、空間震が迷惑極まりない現象であるのは明らかだろう。

 

 天宮市は、そんな天災である空間震に対する防衛能力が非常に高い。三十年前に一度更地になってから、最新鋭の技術を大量に用いて再開発がなされたためで、空間震から身を守るための地下シェルターもほぼ一家にひとつは備わっている。

 

 来禅高校はそういった再開発計画の一部として作られた学校なのだ。地下シェルターは全校生徒を収容してもまだあまりある程巨大で、それ以外の設備も都立とは思えないレベルで充実している。ある意味、日本一安全な高校と言っても過言では無いだろう。当然、それまでに恵まれた環境の学校であるなら入学倍率も相応に高くなっており、平均偏差値も決して低くはないのだ。僕も決して頭が悪いわけでは無く、どちらかと言えば良い方ではあるのだけど、それでも入試テストでは冷や汗をかく場面にもいくつか遭遇した。無事合格していたと解ったときは思わずガッツポーズをしたほどだ。

 

 僕は今日新たな一歩を踏み出す。人生の転換期を迎え、大人への階段を上るのだ。高校生活と言えば多くの物語の舞台となる時期である。前世における高校生活はずいぶんと乾燥気味だったが、今の僕は全力で楽しむつもりでいるのだ。友人を作って歓談し、授業に真剣に取り組み、出来れば異性との出会いなんかも。想像が膨らみ、否が応でも胸が高鳴るものである。

 しかし、現実は非情だ。その高校のホームルームが開始されるのは午前8時15分。既に3時間以上経過しており、しかも今日の予定は半日。今から行っても帰り際に少し顔を出すだけに終わる。

 否。絶望的な現在時刻に諦めてしまいそうになるが、だからといって自主休校にするわけにもいかない。たとえ昼になってからでも登校した方がまだましだ。初日から遅刻も大概悲惨だが、初日から不登校の方が遙かに酷いことになるだろう。僕の夢見た華の高校生活をこんなことで終わらせてはならないのだ。

 

 パン!!と両側の頬を平手で叩くことで寝起きの頭に活を入れ。僕にできうる限りの最高速度で思考を回転させ、シミュレーションを開始。

 朝食(いや、もう既に昼食か)を抜き、洗顔と着替えを洗面所にて同時進行で済ますのに約3分。昨日までに入学式やガイダンスを終えて今日からいよいよ授業が始まるが、幸いホームルームやレクレーションが主な予定であり教科書などはまだ必要ないため、荷物は少なくて済み身支度には手間がかからない。

 すぐに家を飛び出してバス停に……いや、家の前にあるバス停は本数が少ない。自分の足で走って学校に行く方が早いだろう。

 大通りを渡り、住宅街を抜け、坂道を上って校門に至るまでの10km弱の道のり。歩いていては時間がかかるが、走って行けば問題ない。たかだか10kmの全力疾走、僕にとってはそれこそ朝飯前で何の苦でもないのだから。

 

 そこまで自分がとるべき行動を決定するのにかかった時間は、実に一秒以下。しかし今の状況ではそれさえも惜しい。

 

「そうと決まれば!」

 

 やることさえわかっているなら簡単だ。布団から跳ねるように勢いよく立ち上がり、廊下を移動しながら寝間着の甚兵衛を脱いで手に持ち、洗面所へ入る。

 洗面所の鏡に映った僕の顔はいつも通りの三白眼だ。163㎝の低身長。ショートカットにした猫っ毛の髪。モデル並みに小さい顔。無駄な脂肪は無いが必要な筋肉も無い体つき。今時の言い方をするなら小動物的であるとさえ表現できる程、全体的に小柄な体躯の持ち主である僕だが、そのイメージとは裏腹なこの目つきのせいで周りから敬遠されてしまい、昔から友人作りが苦手だった。

 

 いつになってもあまり好きにはなれない自分の目に少しばかり気分が陰鬱なものになりかけるが、そのストレスを振り切るように脱いだ甚兵衛を洗濯機へと突っ込んで蓋を閉め、若干乱暴気味に洗濯開始のスイッチを押す。

 

 洗面台の隣でハンガーに掛けてあったブレザータイプの制服一式を手に取り、シャツ、ズボン、ベルト、ネクタイの順に身につけて、残った上着もきっちり前のボタンを閉める。今一度鏡の方へと目を向けると、そこには少し大きめの制服に着られている男子生徒の姿があった。最後に軽く顔を洗い、出発の支度が完了する。

 

 廊下の片隅に置かれていた、前日までのガイダンスのプリントが入ったままの学生鞄の持ち手を左手で引っ掴みながら進み、開いている右手で素早く玄関扉のドアノブを回す。

 

「行ってきますっ」

 

 誰が聞いているわけでも無いが何とは無しにそう挨拶をして、僕は力一杯に地を蹴って学校の方向に駆けだした。

 今日の空は、つい何かいいことがありそうだと思ってしまうくらい、美しい青色に晴れ渡っていた。

 

 

 

 あ、玄関の鍵閉めんの忘れてた。

 

__________

 

 一体何分間走って居たのだろうか。体感ではだいたい三十分くらいだったが、実際のところはもっと長かったかもしれない。商店街や住宅地といった街並みを横目に駆け抜け、ついに坂の上に高校の校舎が建っているのが見えてきた。来禅高校は市街地から少し離れた台地に建てられている。よって、通学路の最後には長い坂道が待ち構えて居るのだが、ここまでずっと50メートル走レベルのスピードでノンストップだったというのに、まだ坂道を駆け上るのかと思うと少々億劫だ。

それでも、もうすぐゴールだと自分に言い聞かせてラストスパートをかけようとした、その刹那。

 

ウゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥ――――――

 

「………………っ!?」

 

 大音量のサイレンがけたたましく街中に響き渡った。

 

「これ……空間震の警報か………?」

 

 遠くの電柱にとまっていたカラスの群れが一斉に飛び上がり、青一色の快晴だった空に不吉この上ない黒い模様を描き出す。

 突然の事態に僕も思わず足を止めて、周囲に意識を集中させた。

 

 天宮市に来て日が浅い僕は実際に“本物”を耳にしたことはまだあまり無いが、それでも現代の若者であれば間違いなく訓練やニュースで聞いたことがある。

 

 空間震警報。

 空間震には、一般的な地震と同じく前震が存在し、その揺れが観測された際に発令されるのがこの警報だ。通常このサイレンが鳴らされた直後に避難指示が放送され、さらにその数分後かに空間震の本震が到来する筈である。それもまた避難訓練などで習ったことだ。

 

 と、鳴り続けていたサイレンが途切れて、代わりに女性の音声が一泊送れて聞こえてきた。

 

 『これは訓練では、ありません。これは訓練では、ありません。前震が、観測されました。空間震の、発生が、予想されます。近隣住民の皆さんは、速やかに、最寄りのシェルターに、避難してください。繰り返します――』

 

 聞き取りやすいように一言ずつ区切られた声は、その冷静な声音とは真逆に緊迫した現状を街に知らせた。最寄りのシェルターと言うと、ここからならまず間違いなく来禅高校のシェルターだろう。本震がやってくる前に一刻も早く移動しなければ。

 

 学校へと急ぐ理由が登校から避難に切り替わり、今度こそ学校に続く坂道を駆け上ろうとした、そのときだった。

ふと気づくと、目の前には鬼気迫る形相の青年が学校の方からこちらに全力で坂を駆け下りていて。

 

「「!?!?!?!?」」

 

 躱すことも出来ず、激突した。

 

「がぁっ!!」

「うおっ!?」

 

 衝突したことで左手にあったバックが数メートル宙を舞う。僕自身も大きく体制を崩し、僕が下敷きになって彼もろとも二人で重なるように地面に倒れた。反射的に閉じていた目を開いてみると、視界一杯に映ったのは僕が着用しているのと同じブレザーだった。察するに来禅高校の男子生徒だろう。

 体格は僕よりも少し大きい。身長は170cmくらいか。小柄とまでは言わないが僕よりも大きいのはたしかで、そんな彼に乗られているのは中々苦しい。

 

「ってぇ………あっ、わりぃ!すぐに退く!」

 

 僕の上から飛び退いたことで見えるようになった彼の顔は、とても端正なつくりだった。草食系という奴か。少し長めのショートの頭髪に、どことなく女性らしさもあるような顔立ち。その中心には凜々しい瞳が輝いている。しかし、彼のその目には異常なまでの焦りの感情があるように見えた。

 

「ウチの生徒………?いや、それよりほんとにわるかった!けど今俺急いでるんだ。それじゃぁな!早く避難しろよ!」

「ちょ、ちょっとまってください!あなたはどこに行くんです!?すぐ避難しないといけないのはあなたも同じでしょう!」

 

 彼の焦燥の仕方は尋常では無かった。空間震が来ると解っているのに、言うが早いか、立ち上がった途端すぐにどこかへ向かおうとしているようだ。

 このまま行かせたら彼の命が危険だ。どう見ても今の彼は冷静で無いと解る。見ず知らずの他人だが、まずこちらに謝罪したことから良識を持った善人のようだ。初対面なのは見捨てて良い理由にはなるまい。そう思った僕は、すぐさま立ち去ろうとする彼を引き留めた。

 

「何にそんな焦っているか知りませんが、命あっての物種ですよ。一緒にシェルターへ――」

「避難している場合じゃ無いんだ!妹が街中で逃げ遅れてんだよ!すぐに迎えに行ってやらないといけないんだ!!」

「んなっ………!?」

 

 しかし、その僕の忠言に対し、戻ってきたのは予想の遙か斜め上。彼がどうしてこれ程までに急いているのかを理解させるには十分すぎるもので。

そして、見て見ぬふりが出来るものでもなかった。

 

「それじゃ、もう時間が無いから行かせてもらうぞ!」

「あ、ちょっと!」

 

 しかし、止める暇も無く、彼は坂を下り街の方へと走り去ってしまう。

 彼を追おうにも行き先が分からず、僕は困惑して立ち尽くすばかりだった……が、さっき吹き飛ばされたバックに視線を向けると、その上に見覚えの無い携帯電話が開いた状態で乗っているのが見えた。

 

「……これは…?」

 

 ぶつかった拍子に走り去った彼のものが落ちたのだろうか。バックがクッション代わりになっていたようで、本体に傷は無い。

 何の気なしにその画面を見ると、GPSか何かか、街の地図の中心にマークが付けられている画像が映し出されていた。

 その時、彼の言っていた“妹が逃げ遅れている”という言葉を思い出す。

 地図が表す場所は街中のファミリーレストランの前。ちょうど彼が向かった方向だ。

 

「……!!」

 

 それに気づいたとき、僕は思わず走り出していた。

 何故かは分からない。自分は元々率先して人助けをするような性格ではない。こんな状況下、自分の命が関わるのならそれは殊更だ。

 

 けれど、あの青年を放っておいてはならないような気がしたのだ。

 

 なんだか、誰かに急かされているかのような不思議な気分で、そして、何かが始まるような、そんな予感がしていた。

 

 さあ、もう起きる時間だ。

 

 僕は、これからはじまるのだから。

 

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