「「……………………」」
午後四時。物理準備室。
絶対にミスしてはいけないギャルゲ特訓の開始から、早九日。
機械に囲まれた狭い部屋の中は、差し込む西日によって黄金と漆黒のコントラストが生まれ、幻想的な美しさに彩られている。
「「……………………………………………」」
数えきれぬ程試練を乗り越え、数えきれぬ程苦汁を飲んだ。
「「………………………………………………………………………………」」
その度に深くなる、心の傷と二人の友情。
共通の痛みを味わい、いつしか僕たちはお互いを相棒と認め合っていた。
――そして、今。
この数日間僕たちが向き合い続けたパソコンの画面には、紆余曲折を経て、ようやく恋人同士として結ばれた青年と抱き合う、幸せに満ちた笑顔の少女と、静かに浮かび上がった“Fin”の文字が映っている。
そう、終わったのだ。ついに終わらせることができたのだ。
「「………………………………っくぅ……」」
嗚呼、嗚呼、嗚呼。
涙が、止まらない―――
「思ってたより時間かかったわね」
「……ああ、想定より一日遅れての第一段階クリアだ」
「あぁぁぁぁっ!琴里!」
「あぁぁぁぁっ!村雨さん!」
「「何で今喋っちゃうんだ(ですか)!!」
もおおう! 折角の余韻が!
「二人とも何でそんなに夢中になってんのよ!」
「だって……だって! お前だって見てたろ!すっげぇいい話なんだよこれ!」
「予想通り……いえ、予想の遙か上を行くクオリティの高さでした!! 村雨さんこれ売ってください! 言い値で買いますのでッ!」
“恋してマイ・リトルシドー”は想像以上に面白いゲームだった。
最初の方こそペナルティを恐れてストーリーを楽しめなかったが、物語が進むごとにその奥深さに魅了されて、いつの間にかポエム朗読とか
どうでも良くなっていた。結果としては二十通近いポエムを読んだ(中二士道さんのポエムコレクションはまだあるらしい。どんだけ痛かったんだこの人)し、それは確かにトラウマ物ではあったけれど、そんな負の記憶を塗りつぶして余りある感動がこのゲームには存在したのだ。
〈ラタトスク機関〉恐るべし、である。
「ものすごくどうでも良い方向で私たちが評価された気がしたわ、今」
「……何はともあれ、クリアできたのだろう? なら、次の段階に移行したいのだが」
どこまでもドライに村雨さんが言う。僕たちにゆっくりと神ゲーの余韻を楽しませるつもりは毛頭ないようだ。
正直、ミスをしてはならないという特訓のルールのせいで、まだ全ての選択肢を選びきっていないので、個人的にはクリアとは言いがたいのだけど、それは我慢しよう。後日村雨さんから買い取らせてもらった後のお楽しみである。
「で?次の段階って、今度は何をやらせるつもりだ?」
余韻の踏ん切りが付いたのか、士道さんが率先して質問する。
いかにも気の進まなさそうな表情をしているが、だんだんこのノリにも慣れてきたのだろう。
第二段階……順当に考えれば、画面の中の女性の次は生身に行くのだろうか……なんだか嫌な予感がしてきた。
「ナンパよ」
「……ん?」
「ナンパ」
「………はは、そんなまさか――」
「生徒でも教師でもいいわ。この学校の人間をナンパしてきなさい」
デスよねー。
嫌な予感はすぐに当たるもの。いい勉強になった。
「お前は俺に社会的に死ねってのか!?」
「精霊相手のデートでミスしたら物理的に死ぬわよ?一回くらい予行をしなくていいのかしら」
「士道さん、諦めましょう」
「智也はもっと抗おうぜ!?」
HA HA HA そんなことをして一体何になるというのだね。
人生諦めが肝心なのだ。
「士道、忘れたの? 予想されていた精霊の出現周期は一週間、もうとっくに過ぎているのよ。今すぐに精霊が現れたとしても不思議じゃないの。もうこれ以上猶予はないのよ。少しでも精霊と話せるようにしたいなら、つべこべ言わずに従いなさい」
「っぐぅ………わかった……」
言い出したのが自分である手前、“精霊と話す為”と言われると士道さんも素直に命令を聞くしかない。
色々と悟ったように一つ頷いた彼を見て、村雨さんが無数のモニターを前に言った。
「……なら、彼女らはどうだろうか」
村雨さんの選んだナンパの相手は、僕らのよく見知った相手達だった。
__________
一時間後、再びの物理準備室。
既にナンパの特訓は終わり、疲労困憊で屍のようになった僕と士道さんが、パイプ椅子にもたれかかって休憩を入れている。
より精霊相手の実戦に近づける為、村雨さんから支給された小型のインカムを用いて、奥で隠れている僕の通信によるサポートを受けながら士道さんが口説くという形式で行われたそれは、苛烈を極めるものとなった。ナンパのターゲットになったのは二人。大人の余裕を期待されたタマちゃん先生と、失敗しても言いふらさないであろう鳶一さんである。以下、ダイジェストでお送りします―――
1, VSタマちゃん先生 作戦:弱点を狙う
『二十九歳独身の女性にとって、結婚というのは確定で急所に当たる八倍ダメージ攻撃です。これで攻めましょう』
『俺ずっと前から、先生と――』
『い、いけませんよぉ。そんな、教師と生徒の間柄でなんてぇ……』
『――先生と、結婚したいと思ってました!』
『……………本気ですね?』
『え』
『いいんですね!? 私でいいんですね!? ちょっと待っててください、いま婚姻届取ってきますから!!』
『ああと、先生……』
『あ、でも士道君まだ結婚できる歳じゃないですね……よし、血判状作りましょっか! 一緒に彫刻刀もらいに行きましょう!』
『士道さん逃げて。超逃げて』
『すいませんでしたぁぁ!!』
結果:敗走 原因:効果がバツグン過ぎた
2,VS鳶一折紙 作戦:共通点を探し、親近感を持たせる
『鳶一さんの好きなものを聞き出しましょう。それに話を合わせて、会話を盛り上げるのです』
『鳶一って、最近ハマっているものとかはあるか?』
『あなたを見ること』
『……へ?』
『…………とりあえず同意して、打開策を探しましょう』
『りょ、了解――その……鳶一。実は俺も……』
『あなたも?』
『ああ』
『あなたも、私を見つめていた?』
『あ…ああ……』
『あなたも、体操服を嗅いだりしていた?』
『ああ。………ああ!?』
『これからは、名前で呼んでもいい?』
『……お、おう…』
『士道』
『なんだ……?』
『今からお茶をしない?』
『…………逆ナンッ!?』
『………なんだか嫌な予感がします。断っておきましょう』
『わりぃ、この後はちょっと野暮用があってな』
『そう、残念。……なら、明日私の家に――』
『士道さん、カムバック』
『済まん!急用ができた!』
結果:またも敗走 原因:まさかの変態さんだったでござる
以上、回想終わり。
失敗の全部を人のせいにするつもりはないが、これだけは言わせて欲しい。
「この学校にはこんな人達しかいないんですか!?」
「……智也の立てた作戦も悪くはなかったと思うが、少々対象が個性的すぎたようだね」
「体操服を………いつの間に……」
「先が思いやられるわね……」
全員面持ちが暗い。狭い部屋の中はもはや死屍累々の惨事である。
僕の提案する方法がことごとく裏目に出る。こんな調子で本番は大丈夫なのだろうか。
と。
ウゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥ―――――
未だ準備の整っていない僕らをあざ笑うように、前触れなく空間震警報が鳴り響いた。
間髪入れずに、村雨さんが数あるパソコンの一つを操作し始める。
「令音」
短く名前を呼んだだけの琴里さんの問いに、村雨さんは迷うことなく返した。
「……余震の規模からして、やはり“彼女”だろう。出現予想地点は――ここだ」
言いながら、村雨さんは真下を指さす。
つまり――来禅高校。そして“彼女”とは、あの名無しの少女のことだ。
「なんてバッドタイミング……いえ、これはこれでグッドタイミングなのかしら」
おあつらえ向きとさえ思える、精霊の出現。否。これでも待ってもらった方なのだろう。当初、精霊は一週間で再び現れると予想されていたところが、それより三日も長く猶予があったのだから。
「全員、一度〈フラクシナス〉に戻るわよ。――士道、智也。覚悟はいいわね? 返答は“イエス”か“はい”よ」
「………ああ。大丈夫だ」
「無論、僕もOKですよ……いっちょ、やりますかねぇ」
__________
程なくして、〈フラクシナス〉艦橋。
僕らが見上げるスクリーンに映し出されるライブ映像の中には、ついさっき発生した空間震によって、かろうじて校舎の形を残してはいるものの無惨に崩壊した来禅高校がある。
精霊――名無しの少女は今、廃墟の学校の内部で静寂を貫いていた。
「この状況……こちらとしては好都合ね」
「攻めるなら今、でしょうか」
僕と琴里さんは互いにそう呟く。
僕と士道さんが精霊との初邂逅を果たしたのは、巨大なクレーターの中心部。すなわち、視界の開けた場所だった。それは敵見必殺の行動を取る精霊の側に圧倒的に有利な地形であり、会話のできる距離までこちらが近づけないことを意味する。遠距離斬撃を躱し、その上で相手に接近してもらえるなどという前のようなラッキーは、そうそう起こるものではない。それに対し、今現在少女が居る校舎は倒壊寸前ではあっても壁が存在する。遮蔽物に身を隠しながら相手に近づけるのだ。
加えて、建造物の中というのも大きい。精霊と話すことの障害となるのは、何も相手の警戒心のみではない。ASTによる妨害もあり得るのだ。その点で言えば、建築物の内部という環境はバーニアで飛び回る彼らが本領を発揮できないであろうエリアだ。いくらアナーキスト軍団でもそう簡単には踏み込めない。
「何が好都合なんだ……?」
「士道君、それはですね―――」
いまいち分かってなさそうな士道さんに、アルティメットマゾヒストの神無月さんが現場の説明をする。
仮にも〈フラクシナス〉の副司令だけあって、アレはアレで有能な人物なのだろう。淀みなく、しかし分かりやすく、この戦況がどれだけ攻め込むのに適しているかを解説していた。
「成る程な……。じゃあ、もう行くってことなのか?」
不安が滲み出している顔で、士道さんが琴里さんにそう訊く。
「司令。彼らを実戦投入するのは、まだ時期尚早では……」
「何あなたまで日和っているのよ神無月。何の問題もない、そう言ってあるでしょう? それとも、この私の言葉に異を唱える気? 随分偉くなったのねぇ、図に乗っているのかしら。罰として、そこの床でしばらく“水揚げされたイワシの物真似”をしてなさい」
「は、はい!」
厳しく言い返された神無月さんは一秒以内にその場で床に寝転がり、手足をピンと伸ばしてビチビチと跳ね始める。ものすごく目障りである。
「いや……神無月さんの言うことも間違ってないと思うんだけど……」
「士道まで口答えするなんて、そんなにイワシの物真似がしたいの?」
「誰がなんと言おうとやらんぞ俺はッ!!――って、そうじゃなくてだな……」
「大丈夫だって言ってるじゃない。そんなに不安がらなくても、この〈フラクシナス〉の優秀なクルー達が士道を全力で支援するわ。安心なさい」
「優秀……」
士道さんが、自分の真横で一心不乱にイワシになりきっているビチビチ副司令を見る。
「うん……士道さんの気持ちも分かりますね。能力は高いと知っていても、これを見てると……ちょっと」
「ほ…他のクルーはどんな人達なんだ!?」
不安材料は可能な限り減らしたいのだろう。少し大きい声で尋ねる士道さん。
「ふっふっふ……よくぞ訊いてくれたわ! そこまで言うなら紹介してあげる!」
上着を優雅に翻しながら、琴里さんは司令官席から立ち上がる。
「まずは!」
そうして、艦橋の下段にあるクルー席の右端を真っ直ぐに指さして、言った。
「五度もの結婚を経験した恋愛マスター。〈早すぎた倦怠期(バッドマリッジ)〉川越!」
「いやそれ四回離婚してんだろ!!」
「あるいは既に五回離婚した可能性も……」
「救えねぇ!!」
「夜のお店のフィリピーナに絶大な人気を誇る。〈社長(シャチョサン)〉幹本!」
「金の魅力以外の何物でもない!!」
「世界一の浪費家に与えられる称号ですよね、シャチョサンって」
「貯金は大事だぞ!!」
「恋のライバルに次々と不幸が。午前二時の女、〈藁人形(ネイルノッカー)〉椎崎!」
「絶対呪いかけてるよなぁ!!」
「今度やり方教えてください」
「誰にやるつもりだお前!?」
「百人の嫁を持つ男。〈次元を超える者(ディメンションブレイカー)〉中津川!」
「その嫁ちゃんとZ軸あるか!?」
「まさか、あなたがあのゲームを……?」
「お前かディメンションブレイカー!!」
「その愛の深さ故に、意中の彼に近づくことを法で禁じられた女。〈保護観察処分(ディープラブ)〉箕輪!」
「純度百パーセントのストーカーじゃねぇか!!」
「今のところ頼りになりそうなクルーいませんよね」
「〈ラタトスク機関〉の人選に抗議を申し立てるッ!!」
「そして、〈フラクシナス〉副艦長にして至高のマゾヒスト。〈女王様私を踏んで(クイーンズドアマット)〉神無月!」
「ハイッ!」(ビチビチビチビチビチ)
「不安要素しかないことはよく分かった!!」
「最後には、完成されたロリコンホイホイである〈対兄専用妹型決戦兵器(グレイテストリトルシスター)〉琴里さんが来るんですよね分かります」
「俺の妹をオチにすんじゃねぇ!!」
「……皆、腕は確かなんだがな…」
後ろの方から、〈消え失せた睡眠薬(ロスト・ザ・グッドナイト)〉村雨さんの小さな嘆きが聞こえる。
ほとんど人の話を聞かないマイペースな彼女なりに苦労は多いようだ。思わず合掌を捧げてしまう。
「……? 何故私を拝んでいるんだ?」
「いえ、お気になさらず」
「さあ士道、わかったらさっさと行きなさい。ASTだっていつまでも待機しているわけじゃないでしょうし、事は一刻を争うのよ」
「ったく……文句言ったって聞きゃしないんだろ?」
「よく分かってるじゃないの。その調子よ」
「ああ――行ってくる」
午後五時二十分。
いよいよ、作戦開始だ。
__________
〈フラクシナス〉の転送装置は、直線上に遮蔽物がなければ、瞬時に真下まで移動させられるという代物である。明らかに常識の範疇を逸脱しているSFアイテムだが、一般人の知らない世界の裏側では、この程度の技術はもう当たり前の事らしい。アナーキスト軍団も平然とバーニアで自由飛行していたし、ましてやビーム撃ってたし、今の世界の本当の技術レベルは一体どうなっているのやら。思春期の健全な男子として興味が尽きない。
「こちら百目鬼。作戦区域に到着。ターゲットまでのナビゲートを求む。オーバー」
ほんの少しの浮遊感の後、種も仕掛けも理解できないオーバーテクノロジーによって、視界が一瞬で〈フラクシナス〉の転送室から夕暮れの校舎裏なったことを確認した僕は、すぐに右耳に装着してあったインカムに指を添えて通信を入れた。
若干のノイズを挟んで、琴里さんの声が聞こえてくる。
『了解したわ。精霊がいる教室は三階。近くの階段を上がって、手前から四番目の部屋よ』
「分かりました」
返事を終え、左隣に立っている士道さんの方を向く。彼は、パニック映画のセットのようになってしまった来禅高校の校舎を見上げていた。
「実際見ると、ホントとんでもねぇな……」
今までにも何度か精霊に破壊された建物は見てきたが、こうしてまじまじと観察するのは初めてかもしれない。士道さんの言うとおりで、確かに“とんでもない”ものだ。
壁があったはずの場所は大きく穴が開いて、中の廊下や教室が丸見えだ。傷だらけの床には割れたガラスが散らばっており、足の踏み場もない。遮るもののないそよ風が、ぎりぎりのところで窓際にぶら下がっているカーテンを淋しく揺らしていた。
この光景を見た人間は、十中八九理性を持たない怪物か何かの仕業と考えるだろう。実のところは、諦観に囚われた可憐な少女の所行であるなど、きっと誰一人想像もつかない。想像がつく訳がない。それほどに暴力的で理不尽な破壊。
「……うし。それじゃ行くぞ、智也」
僕にとっては精霊への畏怖を持たせるだけだった目の前の校舎も、士道さんにとっては何か別の感情を抱かせたようだ。それが一体何なのか。決意か、覚悟か、はたまた優しさか。どこまでも打算的な考えしかできない僕には分からない。唯一つ、僕なんかよりは遙かに高尚だと言うこと意外は、察することもできなかった。
そして僕達は外壁の大穴を身をかがめて通り抜け、校舎内に侵入する。
一歩、また一歩と進んでいく度に、心臓の鼓動が加速するようだ。十日前、名無しの少女から感じた悪寒が、妖艶な虜美人の指のように僕の背筋をなぞりあげる。あの時と同じ、第六感の警鐘。僕の存在価値が脆くも崩れてしまいそうになる感覚。本能に近い部分で理解した、自分たちは今、確かに“彼女”に近づいている、と。
ほんの一分程度の、けれど、永遠のようにも思えた移動の時間の後、僕たちはついにその教室にたどり着く。
そこで――
「……?」
僕の思考回路は、何かに支配された。
「て――ここ、二年四組。俺たちのクラスじゃねぇか」
『へぇ、そうなの、なら尚更好都合ね。地の利って訳じゃないにしろ、全く知らない土地よりは緊張しなくて済むでしょう』
士道さん達の会話が、耳に入ってこない。
これは、何なのだろう。
これで何度目かになる、全身を駆け回る悪寒。多少は慣れてきたからだろうか、それとも自分から精霊に近づいているからだろうか。この感覚を冷静に診断できるようになった僕は、ある違和感に気づいた。
存在が消えそうな感覚に陥る“これ”はしかし、“死の恐怖”ではない気がするのだ。
もっと、大きな物。もっと広い物。
僕の全て。
あえて言葉にするなら、魂だろうか。
それが、痛むのだ。
魂に響く、悪寒。
分からない。
分からない。
――知りたい。
この痛みの伝えんとするところを、その真意を、知りたい。
思考の全てを塗りつぶすような程に強い探究心を前に、僕の自慢の理性はあまりに無力だった。体が、自然と前に動いていく。
「………智也? おい――」
士道さんの一歩前に出る。教室の扉まで後二歩。
『智也、止まりなさい。智也?』
琴里さんの指示を無視して、もう一歩進む。教室のドアの取っ手に指を掛ける。
「智也!」
『士道、止めて!』
士道さんが僕に手を伸ばす。それより早く、ドアを開け放った。
知りたい。ただ、知りたいんだ。
この“虚無感”の正体を――
――瞬間。
猛烈な探究心は消滅し、僕の頭に理性が戻ってきた。
その風景に、脳の中がリセットされた。
「あ――――――」
昼から夜に切り替わる、その直前の黄昏時の紅い光に抱かれた教室の、一角。
前から四番目、窓際から二番目の場所。ちょうど士道さんの机に、彼女は、片膝を立てて座っている。
割れた窓から入り込む微風に艶やかな黒髪を揺らし、人の文明など足下にも及ばぬドレスを纏って、不可思議な輝きの瞳を半眼にし、目の前の黒板を憂鬱そうな顔で見つめていた。
「――ぬ?」
目が合う。
彼女は、半眼であったその目蓋を見開いて、僕らをその視界に納めた。
「待てって、智……や……」
僕を止めようと教室に入ってきた士道さんも、遅れて彼女と視線を合わせる。
なんて神秘的なのだろう。逢魔が時の空に、崩壊した教室。そこに佇む一人の少女。彼女がいると言うだけで、恐ろしげな廃校舎も主役を引き立てるだけの存在に変わってしまう。
「……ッ! や、やぁ――」
だが、そんな映画のワンシーンのようなひと時は、他ならぬ主役の少女の手で切り捨てられた。
士道さんが右手を挙げて挨拶をしようとした瞬間、彼女が無造作に手を振り、一条の黒い光を僕と士道さんの間に走らせる。同時に、僕たちの背後から何か木材がへし折れるような音が響いた。さっき通ってきたドアが粉砕されたのだろう。
「動くな」
それだけ言って、少女は右手を上へと向ける。開かれた手のひらには闇色の奔流が集まっていた。
一目見ただけでも、その黒球がおぞましい質量を孕んでいるのだと察せられる。
『いけない! 士道、智也! 回避を――』
「ちょっと待って頂けませんか?」
闇の収束が、止まる。
「……なんだ?」
「“ああ失礼、あなたには名が無いようですが、一応の礼節としてこちらは名乗っておきましょうか。僕は百目鬼智也と申します。”……この台詞は二回目ですね。お久しぶりです、僕らのことを覚えておいでですか?」
今はもう無くなった、さっきまでの衝動。あれが何だったのかは分からないが、僕の行動のせいで彼女がここまで警戒しているのは間違いない。もっと上手くやれたはずなのだ。なら、自分の失敗くらい自分で尻ぬぐいしなければ。
「………? ………おお、思い出したぞ。なにやらおかしな事を言っていた連中だ」
「あぁ、それはありがたい。なら――」
僕が続いて口を開いた瞬間、彼女の右手の上で球状になっていた黒い光から、僕達に当たらない軌道で何発かビームが放たれる。今度は、窓ガラスの割れる音がした。
「そのままでいろ。お前達は今、私の攻撃可能範囲内にいる」
「……穏やかじゃありませんね」
話を聞く気はあるようだが、迎撃態勢を崩しはしない。その目には未だ、警戒の光が色濃く残っていた。けれど、人間全てを敵と認識している彼女の立場からすれば、相手を脅すことなど全くの無意味の筈である。なのに、すぐにこちらを撃ってこないということは、会話の意思があることの裏返しだ。それが脅迫であれ示談であれ、話をする糸口さえあればいい。
「ご安心を。僕らは丸腰ですし、近くに隠れている仲間もいません。あなたに危害を加える気はありませんよ」
「信用ならんな。そのような言葉に騙されるか」
「信用できないならそれでも結構。それに、あくまで僕はただの付き添いですからね」
「付き添いだと……?」
「ええ、こちらの彼の付き添いなのです。なにやらあなたに用事があるそうなんですが、一人では怖いとのことで……」
士道さんが「ここで俺に振るのか!?」と言わんばかりの顔を向けてきた。
この期に及んでまだ腰が引けているらしい。
「おい、そっちのお前」
「お、俺か?」
「そうだ……確かお前は、私を殺すつもりはない――とか、言っていたか」
無事士道さんが会話の相手に選ばれたようだ。まだ安心できる流れではないが、彼女の方から話しかけられたのは悪くない。士道さんにはなんとかここでイメージアップをしてもらいたい。
「………ああ、そうだ。俺は――」
「フン、見え透いた手を」
「――え?」
だが、僕のそんな思惑は上手くいく事は無かった。士道さんの、真っ直ぐな思い。彼の正義感に溢れた彼女への気持ちは、当の本人に欠片も届いていなかったのだ。
彼女の表情に変化はない。だが、彼女が掲げる黒球からはまたも光線が撃たれる。しかも、今度は士道さんの頬をかすめ、彼の顔に赤く血の軌跡を残して。
「一体何が狙いだ? 私を懐柔し、後ろから撃ち殺す腹づもりか」
「………ッ!!」
その言葉を聞いた瞬間。士道さんの表情から怯えが消え、眉根が大きく歪む。
本人は無意識だろうが、両の拳には次第に力が入り、歯ぎしりまで聞こえていた。
理不尽に怒りを燃やすかのように、不条理に悔しさを噛み締めるように。
「……前にも、言った筈だ…!」
「――ッ!」
唐突に士道さんから沸き上がった、敵意でも、害意でもない、だが何より激しい感情。それを正面からぶつけられた少女は、これまでの経験則からか、あるいは反射的にか、右手を振り下ろして黒球を投げつける。サッカーボール程の大きさのそれは、僕達の立っている場所から少し前の床に着弾し、衝撃波を発した。
爆発音と共に、教室のタイル張りの床に大きな穴ができる。
「っぐぅ……」
直撃していないとは信じがたい威力に、僕は思わずうめき声を上げて後ずさってしまったが、士道さんは少しだけよろめいただけで留まり、少女に激情を向けるのを止めようとはしなかった。
「言った筈だ……そんなの……間違ってるって……!!」
『士道、落ち着きなさい』
「いえ、琴里さん……このまま士道さんに任せましょう」
『このままでは危険よ、一旦頭を冷やすべきだわ』
「大丈夫だと思いますよ……彼なら」
大して長いつきあいでもないけれど、なんとなく確信が持てた。士道さんなら、彼女の心を開ける。底抜けに直線的な彼の感情論は、名無しの精霊の作り出す拒絶という障害を吹き飛ばせると思うのだ。
「あなたのお兄さんはそういう人だ……違いますか?」
『………ふん。そんなの、妹の私が一番分かってるわよ』
士道さんは、もう、止まらない。どっちみち、僕らの声は聞こえていない。
その勢いのままに、少女の魂に肉薄する――
「人間はッ、お前を殺そうとする奴ばかりじゃないんだ!」
「……違う。……今まで私が見てきた人間達は皆、私に刃を向けた。皆、私は死ぬべきなのだと言っていた……。言葉で、凶器で――視線で。私に死ねと言ってきた」
「それでもッ……俺は、違う! どこの誰が何言ったかなんて知った事かよ!」
「……嘘だ」
「嘘じゃない!」
「黙れ――不快だ」
無理矢理に士道さんの言葉を遮って、彼女は“距離を殺した”。初めて彼女に会った時にも見た、音も無く、気配も発さず、瞬く間にこちらに詰め寄る移動法。
テレポートとしか言えないそれで士道さんの目の前に立った少女は、士道さんの前髪を鷲づかみ、力ずくで押さえつけた。
「うっ……!」
「どうせ、私を殺そうとするんだろう? その為に私の元へ来たのだろう? 言え。貴様はその為にここに来たと」
「……話を、する為だッ……」
「――何?」
「俺は……ッ、お前と話をする為に、ここに来た!」
どうして、士道さんはあそこまで必死になれるのだろう。化け物と言って差し支えないような相手に、頭を掴まれ、押さえつけられ、あまつさえ脅迫までされているのに、士道さんの思いは変わらない。
その想いは揺らがない。
世界を救う英雄のように、剛毅に満ちた念いは壊れない。
何か信念のようなものがあるのだろうか。それとも、理由など無いのだろうか。
だがしかし、例え前者と後者どちらであったとしても、彼には関係ないことだろう。
「内容なんてどうでもいい……気に入らなければ無視されたって構わない……」
なぜなら、彼は“救いたい”だけだから。
どんな理由、考え、背景があったところで、突き詰めればその一点にたどり着く。
僕は、それを知っている。
《……好き好んで世界をぶっ壊す奴は、絶対にあんな顔、しねぇんだよ……》
「けど、これだけは分かって欲しい………俺は――」
届かなくとも、通じなくとも、彼は愚直に、救おうとし続けるのだ。
「――俺はッ……お前を否定しない!!」
さあ、精霊よ。名無しの少女よ。
あなたは、彼の救いを受けるのか。