色々あって、ジスタードの七戦姫、アレクサンドラ=アルシャーヴィンの使用人になった、同じく七戦姫、オルガ=タム。
その翌日の早朝。彼女は早速、使用人としての仕事を始めていた。服は勿論、使用人の服である。
「レナータ、そこを」
「はい!」
偽名であり、再生の意味を持ち、一からやり直すという意味を込めて付けた偽名、レナータを呼ばれたオルガは使用人長の指示に従い、自分がいることとなった組の同僚達と共に小柄な身体を慌ただしく動かして作業をする。
乾いた布巾で壁や窓、家具を丁寧に拭いて埃を取り除いていく。汚れがあれば勿論、取れるまで拭く。
オルガは小柄な身体からでは想像できないほどに力持ちのため、傷付けないようにしっかりと加減する必要があり、少し手こずっていた。
「終わりました!」
オルガがそう言うと同時に他の使用人達の作業も終わったらしく、長が使用人が部屋を素早く確かめる。
「充分よ。次に行くわ」
オルガを含めた全員がはいと答え、道具を持つと次の部屋に移動。そこでも清掃を完了させると、また次を。一つ一つ済ませていく。
――想像よりもきついな……。
速さと正確さを求められるため、気がまったく抜けない。常時身体を動かしているのと、慣れない作業で気が張っているせいか、思いの外体力を消費していた。
それでも、オルガは使用人長の下でこなしていく。その数が十に到達し、十一箇所目の部屋でも清掃を進めていると、一人の男性が入ってくる。
「すいません。ここにレナータはいますか?」
――マサト?
作業の邪魔にならないよう、入ってきたのは自分と共同生活している青年、マサトだった。
「ここにいます。何か御用ですか?」
「今から、アルシャーヴィン様の診察に向かいたいのですが、レナータには自分の補佐をお願いしたくて」
「なるほど」
マサトが自分達の主人の医師であることは知っている。昨日からは、臣下になったことも。
レナータ――オルガは彼と親しい関係であり、同じ部屋で共同生活しているのも。
「けど、貴方一人でも良いのでは?」
「アルシャーヴィンは女性。そして、自分は男性です。配慮の為にも、レナータには補佐をお願いしたいのです」
レナータには、組の一人してまだまだ作業をしてもらいたいが、主の医師に診察の補佐をして欲しいとお願いされれば、そちらを優先せねばならない。理由にも納得出来た。
「分かりました。レナータ、行きなさい。勿論、診察の時間が終わり次第、直ぐに戻るのよ」
「ありがとうございます。皆さん、ごめんなさい」
使用人長と周りのペコリと頭を下げ、オルガはマサトの元に駆け寄り、一緒に廊を歩いていく。
「……長、あれで良いんですか?」
「ちょっと特別過ぎません?」
二人が去ると、数人が不満を使用人長に溢す。
「仕方ないでしょう? あの子は戦姫様の医師に補佐を頼まれてるのよ?」
「でも、補佐するだけなら、侍女長や女官の人達の方が数倍良いじゃないですか」
「そうですよ。あの子である必要はありません」
特に、侍女長のその下者達は戦姫の世話する立場の人間。使用人達の言う通り、オルガよりも遥かに補佐には適任だろう。
「その辺りには、医師の彼の考えや事情や立場が関係しているのでしょう。上手く進めるために親しい相手を選んだとも考えられるわ。私達が一々口出ししても邪魔になるだけ」
使用人達ほど露骨ではないが、オルガの特別扱いには思う所はある。マサトが診察の補佐に選んだのもだ。
しかし、マサトがどうやろうが、上手く行きさえすればそれで良いのだ。逆に、成果が出ないのであれば、その時に口を出せば良いだけである。
「それよりも、手や身体を動かしなさい。作業はまだまだあるのよ」
使用人達はすみませんと頭を下げながら謝罪すると、まだまだ不満はあるが、気持ちを直ぐに切り替えて作業に集中する。
リーダーに言われたからとはいえ、これが直ぐに出来る辺り、彼女達が公宮に勤めることを許されただけの人物であることが分かる。
個人のことは後回し。今は速やかに仕事を済ませていった。
一方のオルガ。消毒や手洗い、着替えを済ませ、マサトと一緒にアレクサンドラの部屋に入室しており、今から診察を始めようとしていた。
「では、今日の診察を始めます」
「お願いします」
二人の質問の受け答えをオルガは聞いていく。マサトとアレクサンドラは二十日も続けているので慣れたものだが、オルガは当然ながら今日が初めて。こうするのかと、理解していく。
――しかし……。
マサトがアレクサンドラの医師であることは、正直言ってかなり驚愕していた。
かなり若い上に、そんな素振りがまったく無かったので当然の反応だろう。
だが、患者であるアレクサンドラがその事に言及していないので、自分が口を挟む理由は無い。
――ただ、一つ気になるのは……。
見たところ、マサト一人で問題無さそうだった。補佐として呼ばれたが、自分は必要あるのかとオルガは感じた。
「瞳を」
「どうぞ」
マサトはアレクサンドラの瞼に指で優しく触れ、上下に開いて瞳を確かめる。その次は舌、竜具の光を利用して喉の状態も見る。専門家では無いが、出来る限りの知識はあるので何とかはなる。
「レナータ、アルシャーヴィン様の心音――心臓の鼓動の音、数を確かめます。だから、道具の中の一つの……それです。それを使って聞いてください」
マサトが指差したのは、大きさが違う金属の面と、合間から伸びた筒らしき物がくっついた何かだ。
「……どう使えば?」
とりあえず手に取るも、当然ながら初めての代物の為、オルガは用途を尋ねた。音を聴く道具らしいが、使い方がまったく分からない。
「すいません。端である細いの場所が二つあるでしょう? そっちを両耳に軽く入れてから、面を心臓に当ててください」
「こう、でしょうか?」
少し抵抗はあるが、言われた通りにそのヶ所を耳に入れる。そして、面をアレクサンドラの心臓のある所に押し当てた。
「あ……」
音が、道具越しにはっきりと聴こえる。病弱の身体からは想像も付かない程に力強い、アレクサンドラの心臓の鼓動が、自分の耳に。
心音だからだろうか。その音のリズムが不思議と心地よく、オルガは思わず聞き入ってしまう。
「レナータ、診察中ですよ」
「す、すみません」
呼び掛けられ、オルガはハッとしてアレクサンドラに謝罪する。聞き入っている場合ではない。
「別に構わないよ。心地好い音だった?」
「は、はい」
「それは良かった」
微笑むアレクサンドラに、オルガは何と言えば良いのか分からずに戸惑う。
「つ、づ、き、で、す」
「は、はいっ!」
強めに言われ、オルガは気を引き締め直す。
「一定の音が聞こえてると思いますが、今から自分が良いと言うまで聞いて、その中に違う音が雑ざっているかどうかを調べてください。しっかりと、集中して、ですよ」
釘を刺されたオルガは、耳に届く音に全神経を集中させて、違う音があるかどうかを確かめていく。
――六十、六十一、六十二、六十三……。
一方のマサトも、目を閉じた状態で深く集中しており、ある数を数えていた。それが一定数に到達する。
「――終了。どうです?」
「特に妙な音はありませんでした」
最初の音が一定のリズムで鳴っていただけで、雑ざっているのは無かった。
「なら、今度は鼓動の数を数えてください」
オルガは頷くと、また集中して数を数えていく。
「終了。幾つですか?」
「八十七でした」
「やっぱり、少し多い……。次、今の箇所から少しずらした所に」
――一ヶ所だけでは無いのか。
てっきり、そこを調べたら心臓は終了かと思いきや、少しずれた場所も聴くらしい。
慎重なのか、それぐらいは当然なのかは不明だし、さっきの多いという言葉の意味も気になるが、自分はマサトの指示に従うだけだ。
オルガが指示通りに心音とその数を確かめ、マサトはその情報を紙に記していく。
「次は肺です。そこが終わったら――」
指示通りに、複数の臓器の音を聴いていく。音を確かめるだけの作業ではあったが、一つの臓器で複数箇所を聴くために予想以上に時間が掛かる。
――しかし、凄いな、この道具……。
見た目は得体の知れない何かだが、密着しなくても臓器の音をしっかりと聴ける。かなり優れた医療器具であるのは疑いようもない。
「最後に、アルシャーヴィン様の脈を測ります」
「分かりました」
これについては知っているため、オルガは左手首に指を軽く押し当てて測り、数を伝える。
「次は触診です。これは自分が主に。ただ、一部はお願いします」
女性の大切な部分である胸や股付近などは、異性の自分よりも、同性のオルガの方が適任。なので、其処らは彼女に頼んだのだ。
異界人と戦姫のコンビが代る代るアレクサンドラの身体を確かめ、それが済むと診察は漸く終わった。
「今日の診察は終わりです」
「ありがとうございました。さて、今からは話にしようかな?」
「なら、わたしはこれで……」
診察が終わったのだ。急いでチームに戻り、清掃を手伝わなければならない。
「先輩として、僕の経験の話をしようかなと思ってるんだけど」
「有難い言葉ですが、わたしは特殊な事情で入れた新人。一日でも早く、この公宮で働く人達に認めてもらう為にも、頑張らねばなりません。――失礼します」
とことこと歩くとオルガは一礼。素早く退室して行った。
「あらら、折角の君の配慮も無駄になっちゃったね」
「あれがあの子の性分なのでしょう。一理ありますし」
マサトがオルガを補佐に選んだ理由は、女性で他の人よりも信用できる。そして、アレクサンドラと話をさせることで彼女の経験にするためだった。ただ、しばらくは無理そうだ。
「気に掛けてるね、御優しい異界人さん。そんなに気になる?」
「誰の事でしょうか?」
仏頂面で、マサトはそう返す。自分は手伝いをしてあげているだけ。優しいと言われる筋合いは無い。
「じゃあ、面倒見の良い異界人さん?」
「話は聞かないのですか?」
聞かないのなら、自分も退室する。マサトはそういう意味で言っていた。
「つれないなあ。聞きたいけど」
アレクサンドラもそれを理解したため、聞くことにする。マサトからの話は初日から楽しみにしている時間。それが無くなるのは嫌である。
「なら、さっさとそう言ってください。無駄話は好きでは無いので」
「本当につれないね。まぁ、良いや。今日はそうだね――」
アレクサンドラの気分からの要求に応え、それに合った話を語る。そうして、男女の時間は過ぎていった。
――――――――――
夜、オルガは自分が寝泊まりする部屋で一息付く。中にはマサトもいて、本に目を通している。
「ふう……」
「疲れた?」
「……かなり」
診察が終わった後、直ぐに自分の組に戻って作業をしていたのだが、そこからは食事時以外は常に働きっぱなしだったため、もうクタクタだった。
「……使用人とは、こんなにきつい仕事なのか」
昼の始め辺りまでは周りと同じペースで作業が出来たのだが、それから半刻後からは徐々に作業のスピードが下がりだし、最後に至っては完全に足手まといと化していた。
「そりゃ、主人の屋敷の清掃をきっちりとこなさなきゃならないしな。楽な仕事な訳無いだろ」
塵や汚れ一つが残るだけなら、まだ使用人の責任で済む。しかし、それらが客人に見つかれば、主人までに恥をかかせてしまう大失態となる。
しかも、ここは国王に次ぐ地位を持つ戦姫が住まう公宮。その影響も大きく、清掃は完璧に行わなければならない。
そして、戦姫が住まう公宮だけあって、平民の家や並みの貴族の屋敷とは比べ物にならない程に大きい。そうなれば、当然ながら作業も増える。
「……他の人達は、毎日これを平気でこなしているのか」
「でないと、お払い箱だ。平気でこなせないと行けないんだよ」
「……凄いな」
慣れない作業とはいえ、ここまで疲れる作業を組や他の人達は平気でこなす。毎日頑張らねば到底不可能だろう。オルガは素直に賞賛する。
「と言うか、お前は清掃とかしたことが無かったのか?」
オルガの発言にマサトはふと気になった。子供とはいえ、手伝いの一つぐらいはしてそうだし、生きていればだが、一番見本になるだろう母親の単語が一切出ないのが引っ掛かる。まるで、無縁だったかのようだ。
「……わたしは騎馬の民で、現族長の孫にあたる」
――騎馬民族の出だったのか。
オルガの戦姫となる前の素性を知り、マサトはさっきの態度に納得する。民族の身内なら、家事とは無縁であってもおかしくない。
「何時かは次の長の補佐する者か、もしくはその次の長になるか。皆もわたしもそう考え、一生懸命学んでいたのだが――」
「昨年、竜具が自分の元に現れ、戦姫に選ばれた、か」
「あぁ、昨年の夏だった。夜、急に光ったかと思うと、その中にムマがあった」
ちなみに、そのムマはこの部屋にちょっとした工夫で隠してある。
「そして、国王陛下に謁見したあと、正式にブレストの戦姫となり、治めることとなった。……家族や皆は応援してくれたし、官僚達はわたしを暖かく受け入れてくれたのだが……」
「耐えきれずに出てしまった、か。けど、話を聞いた限りは、家族や皆の応援や、臣下の支えもあったんだろ? そんなに重かったのか?」
「……それも無いと言えば嘘になる。しかし、一番の理由は――怖かった」
「怖い……?」
「……さっきも言った通り、わたしは騎馬の民だ。しかし、私の生まれ育った場所に比べ……ブレストはあまりにも大きすぎた」
「……上手くやって行けるか、不安になったのか」
オルガはこくりと頷く。あの時の感情は今もしっかりと残っている。自分が暮らしてきた場所とブレスト。その二つは、あまりにも差がありすぎた。
その現実を目の当たりにした時、どうしようもなく恐怖してしまったのだ。小さな世界で培ったものが、想いが、こんな大きな世界で通用する訳がないと。
「……なるほどな」
差というのは、人を奮い立たせることがある。しかし、時には逆に意志を消沈させてしまう。オルガは後者だった。
だが、オルガは当時、十二。応援や支えがあっても、そんな年で生まれ故郷と規模が違いすぎる公国を背負うことになったのだ。彼女を弱い、臆病者と評するのは間違いである。全員が強者ではないのだから。
自分だって、その時は己の道を進み出した頃。そんな時期に桁外れの重圧を受け止め、役目を果たせと言われても無理にも程がある。余程強い意志が無ければ潰されるだけだ。
しかも、オルガは応援されたから、支えられたから戦姫になった。つまり、本人は戦姫に対しての何らかの想いが強くない。これも出てしまった要因だろう。
――やっぱり、もう数年待つか、試練の一つぐらいは課すべきだろ。これ……。
そうすれば、結果はまた違ったはずだ。竜具に選ばれただけで戦姫になるというのは、やはり異常でしかない。
「未だに竜具を持っていたのは?」
「……正直分からない。戦姫への未練か、若しくは旅をしている最中に見捨ててくれれば諦めが付くと何処かで思っていたのかもしれない」
しかし、時に身を任せるその考え自体、中途半端と言わざるを得ない。今だからこそ、オルガはよく自認できた。
話を聞き終え、マサトはこう呟く。
「……何でお前だったんだ?」
戦姫になる過程もそうだが、人選もおかしい。オルガは十二。アレクサンドラは十五でしかも病気持ち。どちらにしても、二十歳にも満たない相手を選ぶなど、常識で考えてあり得ない。
「……それはわたしにもよく分からない。先代の戦姫についても、わたしの元にムマが現れる二ヶ月前に戦死したとしか知らない」
その事を聞き、マサトの両目が見開く。本を動かす手も止まった。
「……はっ? つまり、先代の戦姫が亡くなってから、お前も選んだのか?」
「ま、まぁ、そうなる」
「……馬鹿だろ」
「ば、馬鹿?」
今度はオルガが目を開いた。マサトは前に竜具を無能と言ったことがあるが、だからといって慣れるかと言えば否なので当然の反応だろう。
「……選ぶにしても、もっと意欲に溢れた次の候補者を事前に決めるとかあるだろ。そうすりゃ、補佐とかにして経験を学ばせれる。聞いた話だと、竜具の選択が絶対らしいし、そういう対処もやろうとすれば出来る筈だろ、まったく……」
マサトは心底呆れた表情で、深い溜め息を溢す。不安定過ぎる地位がよくも、四百年も続いたものだ。仮に自分が王なら、とっくに変えているだろう。
「も、尤もな話だが……竜具にも考えがあるのではないのだろうか?」
「その選定の結果が、今のお前なのに?」
そう言われると、オルガは何も返せなかった。
「……何かもう、呆れしか出てこなさそうだし止め止め。この話は終わりだ」
呆れた表情で、掌をひらひらと振って話を止める。
「そんなことよりも、身体はしっかり休めろよ。作業は明日もその後も、ここを出るまでずっと続くんだからな」
「……申し訳ない。鍛錬はしばらく出来なさそうだ」
昨日、鍛えると約束したのだが、予想外の疲労のせいで数日は難しそうだった。
「他にもやることあるだろ。――これとか」
一冊の本を取り、オルガに見せる。これは政治に関する本で、彼女に勉強させるためのだ。他にも、兵の運用――要するに、軍事関連も学ぶ必要がある。
「うっ……。やることは多いな……」
「そういう事。だから、鍛錬は余裕が出来てからだ」
オルガが騎馬の民だと知り、もう一つ頼みたいことが増えたが、それは後回しにした。
「あと、教えてやろうか?」
「何を?」
「清掃のコツ。まぁ、どこまで参考になるか分からないけど」
「……得意なのか?」
「それなりに自信はある」
マサトは向こうの世界で十八から寮暮らしをしていたが、こちらの世界では主に女性が行う、料理を除いた家事のほとんどを一人で済まさねばならないのである。
その料理だって、指示の際はすることもあるし、何らかの理由で一人暮らしになれば、スムーズに行なうためのスキルは必須。少しでも知識を得るための時間を確保するためにもだ。故に、家事能力は高い。
「……お願いする。今のわたしでは、追い付こうとすることも精一杯だ」
男性のマサトがどうして清掃が上手いのか少し引っ掛かったが、手伝いでもしていたのだろうとオルガは判断し、マサトに教わることにした。
「素直で宜しい。あと、身体はまだ疲れてる?」
「……結構」
「じゃあ、ベッド」
疲労の残りをオルガが感じたと言うと、マサトはベッドを指差す。
「……ベッド?」
その指に釣られ、オルガは自分が寝させてもらっているベッドを見る。ちなみに、マサトは昨日からもう一人分が来るまで床に布団を敷いて寝ていたりする。
「ベッドに腰掛けろ。良いことしてやる」
「……分かった」
ちょっと怪しさを感じる発言だが、少女はその通りにベッドに腰掛ける。万一の時は、対処するだけだ。
オルガが腰掛けたのを見ると、マサトは今行なっている作業を中断。立ち上がり、彼女の近くで膝を曲げる。
「――ちょっと痛いぞ?」
――――――――――
「今日は初日だったけど、彼女はどうだった?」
自室でアレクサンドラは、手にある本を一ページずつ丁寧に見ながらも素早く把握していく。話している相手はザウルだ。
「意欲はありますが、どうやら不慣れな仕事のせいか、後半からは疲れだし、最後の方は疲労困憊だった様子。使用人達も、早く慣れて欲しいとの声が」
「そう。まぁ、それはこれからの彼女次第かな」
オルガが家事をしたことが無いと把握したアレクサンドラだが、だからといって積極的に助けるつもりは無い。
依怙贔屓と判断され、今後の彼女の悪影響になるのを避けるのもあるが、そもそも自分とオルガはそれほど親しくも無い。
自分は彼女の保護者でもないし、恩や借りを作る意味でならともかく、善意で一々助ける理由も無いのだ。
とはいえ、先輩として少なからずはしてあげるつもりだが、あくまでそこまでである。
「彼は?」
曖昧だが、誰の事かはザウルには直ぐに分かった。マサトだ。
「何時も通りです。毎日ほぼ同じ時間に起床し、食事を摂り、戦姫様の診察が終わると鍛錬や勉強などを時間を費やして行います」
はっきり言って、見本になるような規則正しい日々を過ごしている。賭けなどは一切しない。
「真面目」
「自分もそう思います」
「怪しい素振りは?」
「今のところ、皆無です」
規則正しい生活をこなし、疑わしい点も無し。ここまでなら警戒する理由は零に等しいだろう。
だが、マサトは異界人だ。この為、確実な証拠や保証が出ない限りはどうしても警戒せざるを得なかった。
「ザウル、君は彼を――向陽雅人をどう見る?」
アレクサンドラはマサトのフルネームを言い、ザウルに意見を求める。この公宮で一番彼と触れ合っているのはザウルだ。その彼に意見を聞くのは当たり前だろう。
「……純粋で真面目、でしょうか?」
会談の時に誤魔化しや隠し事こそしていたが、命に関わる場面である以上は仕方ないだろう。それに、嘘だけは一度も言っていない。
普段は一生懸命に鍛錬し、勉強する様を見てもそう称して間違いではないだろう。
もっとはっきり言うなら、複雑さを宿した純粋さ、か。矛盾しているようにも思えるが、これ以外にぴったりなのは無い。
「全て演技という可能性は?」
「彼に肩入れしているようですが、そんな様子は微塵も感じません」
特に鍛錬中や勉強中の彼の意志に満ちた瞳には、演技の要素が欠片も感じない。
「ただ、無いとも言い切れません」
何しろ、証拠が無いのだから。さっきのも、上手く隠している可能性は充分にあった。
「報告、ご苦労様」
二人に関しての報告をしてくれた騎士に労いの言葉を掛ける。主の言葉に嬉しく思うザウルは一度頭を深く下げ、上げる。その時、主が持つ本に視線が集中する。
彼女が持っていたのは、この部屋や他の場所にある本ではなく、マサトが所持していた鞄にあった本だ。
「彼から借りたんだ。ある程度の意味を理解したからね」
ザウルの視線にアレクサンドラは何故持っているかを話す。ちなみに翻訳、説明したのは主にマサトである。
「内容は?」
「農業。レグニーツァは交易に依存している面が強いから、頼らずとも何とかなるようにしていきたい。だから、先ずはこれからってこと」
レグニーツァは海に接した公国。その為、交易で得られる利益はとても重要だが、それだけに上手く行かない時が危ない。なので、他にも手を付けようと本を借りたのだ。
「参考になる点は御座いましたか?」
「逆だね、参考になる点ばかりが記されてる」
ただ、向こうとこちらの技術差から、どうしても実用不可能な物が圧倒的に多い。
百ある内、数個使えれば上出来なぐらいで、導入から立派な形にするには数年は要するだろう。
しかし、それでも充分過ぎるほどの益が得れそうなのだから、恐ろしいものである。
「これらを全て、普通の平民である彼が知っている。向こうの凄さが分かるよ」
「確か、インターネット……でしたか? それで様々な情報を容易く調べたり、他にも数千や下手すると数万の多種多様な本があり、誰でも簡単に読めて借りれる図書館とやらも沢山あるとか」
本の数や種類もそうだが、誰でも簡単に入れるのも凄い。
「こっちじゃあ、かなりの身分の者じゃないと入れないだろうね」
一つ一つ向こうの世界を知る度に、差を思い知らされる。
――数百年、だっけ?。
マサト曰く、こちらとあちらの世界にはそれだけの差が有るらしい。
どれだけ時の流れなのか想像も付かないが、何十億をも優に超える人々が様々な障害に立ち向かい、必死に文明を発展させたことだけは分かる。
だからこそ、高度な文明を築き上げたのだろう。決して、無条件でそうなった訳ではない。
「こっちも数百年すれば、向こうと同じになるかな?」
「それは分かりませんが……一つ確かなのは、その頃には我等は全員おりませんな」
「確かに」
仮にこの世界がマサトの世界のように発展したとしても、自分達がその世界を見ることは叶わないだろう。
「まぁ、折角の見本があるんだ。存分に活用させてもらわないとね」
「その通りで御座いますな」
自分は他の戦姫と違い、病気で満足に動けない。そんな中での発達した異界の知識と理解出来る人物。
しかも、竜具同様に特殊な力を宿す武器まである。これらは圧倒的なアドバンテージだ。存分に活かさせてもらおう。
「この後、二人に勉強を教えるんだったよね?」
「はい」
「無理はしないように」
「勿論です」
「今後ともお願い」
「お任せください」
報告を済ませると、騎士は主に一礼し、退室する。
「さて、二人は部屋に戻っている頃か……」
すれ違う者達に挨拶をしながら、廊を歩む。彼は今、マサトとオルガが寝泊まりする部屋に向かっていた。勿論、二人に会うためだ。
「しかし、益々面倒と言うか、厄介と言うか……」
騎士は困った表情を浮かべる。アレクサンドラの前ではああ言ったが、正直結構きつい。
何せ、片方は異界人で、もう片方は戦姫である。公宮に勤めてはいるが、一介の騎士である自分には荷が重すぎないだろうか。
かといって、二人の素性上、簡単には周りに言えないため、今知っているのは自分と主人、マドウェイの三人のみ。
主人は病があるので、積極的に二人とやり取り出来ない。信頼の厚いマドウェイは公宮勤めではないので頻繁には会えない。そうなると、残るは自分だけだった。
――気を引き締めねばな。
大変な役目だが、これも主やレグニーツァの為である。自分に強く言い聞かせ、しっかりとした歩調で向かう。数分後、二人の部屋の前に着いた。
「……ん?」
何か聞こえる。二人で他愛の無い話でもしているのだろうか。そう思い、一度ノックしようとした時。
『あ、あぁ! 痛っ……!』
抑えきれなかったのか、少女の悲鳴らしき声が上がった。今のはオルガの声だろうが、問題はどうしてそんな声が出たのかだ。
念のため、話を聞こうとザウルは扉に耳を当てる。
『大丈夫? 痛かった?』
『だ、大丈夫だ……。初めてだったから……』
「…………はっ?」
初めて、痛かった、そしてさっきのオルガの悲鳴。
「い、いや、まさか、そんなはずは……」
額の脂汗と共にある考えが浮かぶも、ザウルは即座に却下する。非常にあり得ないが、そうなるとしても『それ』は深い仲の男女が行うものだ。
二人がそれをするには、色んな意味で早すぎる。早とちりだろうと、ザウルは思おうとした。
『なら、少し優しくしてやる。俺に任せろ』
『た、頼む……。くあっ!』
しかし、次の会話とまたのオルガの悲鳴にザウルは更に平常心を欠き、冷や汗の量が増す。
その後も、優しく声をかけるマサトと苦悶の声を上げるオルガのやり取りは続き、その度にザウルの冷静さは猛スピードで削られていく。
『そろそろ……』
『わ、分かった……』
数度のやり取りの後のこの会話から、ザウルは終わりが迫っていることを推測。居ても立っても居られなくなり、扉を荒々しく開ける。
「お、御二人共っ! 何をしているーっ!?」
「……ん?」
「……は?」
騎士が焦りながら入室すると、気の抜けた二人の声が聞こえる。
次に、ベッドに腰かけたオルガと膝曲げた体勢で彼女の足を掴むマサトが見え、ザウルの頭に疑問符が浮かぶ。
「何ですか、いきなり」
「失礼だと思います」
「あっ、いや……。申し訳ない……」
ジト目で睨む青年と少女に、騎士は咄嗟に謝る。
「ところで、二人は何を……?」
「按摩、とやらをしてもらってます。何でも、手で身体を解して疲労回復を促す効果があるとか」
「按摩……?」
「マッサージ、マサージュという名に聞き覚えは?」
「いや……」
――こっちじゃ、まだそんなに一般的じゃないのかな。
自分の世界でも、十六世紀の終盤まではそんなに日の目に当たらなかった療法。それを考えると、ザウルが知らなくても無理はないかもしれない。
「今は、それの足裏を刺激する型のをしてます。こんな風に」
「くっ……。き、効く……」
マサトがオルガの足裏の一ヶ所をちょっと強めに押す。指圧により発生した痛みに、オルガは表情を歪める。
――さ、さっきの声はこれか……。
完全に早とちりだと理解し、ザウルは自分が恥ずかしくなった。
「し、しかし、痛いのであれば、逆効果なのでは……?」
「身体を良くする為の痛み、と言ったところです。薬だって、良薬は苦いでしょう?」
焦りを抑えながら疑問を尋ねるザウルだが、マサトの返しに納得する。良い薬というのは苦いものだ。それと同じだと考えれば、おかしくはない。
「とりあえず、こんなものでしょうか。気分は?」
「ふう……悪くはありません。不思議と気分が楽になりました」
最初は痛みが率先していたが、その中にも不思議な楽さがあった。それはこうして終わると、強く実感できる。
「はぁ……効果があるのですね。それはアレクサンドラ様にも?」
「いえ、血の病がどのようなものか分からない以上、これは迂闊に出来ません。癒すための療法が、傷つけることになっては洒落になりませんから」
それに、今まで調べた情報から、マッサージが逆効果になる可能性が高い。なので、しっかりと把握し、大丈夫と確信するまではしないと決めている。
「簡単には行かない、と」
「簡単に行く世の中なんて、ありませんよ」
「……それもそうですな」
マサトが発達した世界の知識を持っているとはいえ、所詮はそこまでだ。大体、まだ一ヶ月も経ってない。そんな大それた成果が出る方が異常だ。
「……情けないが、わたしも同意だ」
何でもかんでも上手く進む世界なら、自分は今ここにいやしない。無様だが、自分の存在がマサトの発言の正しさを証明していた。
「そんな世界だから、必死に努力せねばならないんですよ。進むために」
「……確かに」
「正論で」
世界は早々、自分の思惑通りに事が進むことは無い。故に、必死に力を絞ら無ければならないのだ。
「さてと、何のようですか? ――様子見とか?」
「……相変わらず、はっきり言う人だ。まぁ、そんなところです。他にも、頼まれた勉強もありますが」
今日は二人の仲や、マサトのさっきの発言で自分なりに二人を知れた。これ以上は警戒もしてそうなので、様子見についてはここで切り上げることにし、ここからは二人に頼まれた勉強を行おうとする。
「その事なのですが、今日は彼女が予想以上に疲れているので、自分だけで」
「マッサージをしてもらった。まだ頑張れる」
意欲に満ちているのか、オルガはまだ頑張れると告げる。
「少しだけです。マッサージはあくまで、治療の効果を高めるだけで、直接回復させる訳では無いのですから」
「……分かった」
それ以上は絶対に駄目だと、マサトの目が強く訴えていた。渋々だが、素直に聞くことにする。
「あと、折角なので、貴方にもマッサージしましょうか?」
「私にも? ……では、折角なので」
少し疲れはあるし、マッサージがどんなものかを知ろうと、ザウルはマサトの提案を受けることにした。
十数秒後、想定を超える痛みにより、騎士の悲鳴が上がることになったが。
――――――――――
「ふっ!」
「甘い」
暗くなった広場に金属のぶつかる音と風が切れる音、そして、男女の声が響く。
それらは十数秒間鳴り続けると、突然止んだ。
「またわたしの勝ちだ」
「……また、負けました」
「お疲れ様です」
息一つ乱さずに淡々とした少女、乱れた呼吸を整えようとする残念そうな表情の青年、労りの言葉を掛ける騎士の、計三人の声が出る。
ここは兵士や騎士が鍛錬に使う広場、その端の方で、オルガ、マサト、ザウルの三人がおり、今はオルガがマサトを鍛えていた。ザウルは二人が鍛錬をするためにいてもらっている。
オルガが働いて数日目。作業の繰り返しやマサトの指導もあって、ある程度慣れて余力が残ってきた彼女はマサトを鍛えていた。服は、汗を描いて汚れてはならないので旅をしていた時のを着衣している。
ちなみに、こんな時間帯で鍛錬している理由は簡単。オルガに時間に余裕があるのが夜だからだ。
場所が端なのも、オルガは使用人として公宮にいるのに、桁外れの強さを見せ付けては面倒になる。なので、見つからないようにこっそりと鍛錬していたのだ。
「傷は無いだろうか?」
オルガが心配そうな表情でマサトに近付き、様子を見る。その手には、斧型の竜具ムマがあり、淡い桃色の光を放っていた。
出会った時のマサトに無能と言われた事から彼に対して苛立っており、使い手のオルガにもっとやってしまえと伝えていたのだ。
勿論、オルガにはそんな気は一切無い。仮にあっても、マサトは喜んで戦うだけだろうが。
「大丈夫……ですよ」
全力で挑んだため、呼吸は荒れてるし、細かい傷はあれど、大きな怪我はまったくない。それを確認し、オルガはホッと安堵する。一方、ムマはチッと言いたげに光る。
「しかし、本当に強い……」
さっきから、数回試合を行なっているのだが、一度も勝てない所か、一撃も掠りすらしていない。
相手は自分よりも一回り年下の少女で、しかも本人はまだ全力を出してないのだから驚きである。
十三とはいえ、オルガは戦姫の称号を持つに相応しい強さを所持している。それを実感させられた。
「……強い、か」
その単語を聞き、オルガの表情が少し曇る。自分は確かに強いのかもしれない。
しかし、それは戦闘面だけ。精神面では、マサトやザウルの方が強い。オルガはそう思っていた。特に、今鍛錬しているマサトは。
「……どうしました?」
「いや、何でもない」
今度はマサトが心配したが、オルガは曇りを消すと何でもないと告げる。
「それよりも、わたしはまだまだやれるが」
羅轟はもっと痛め付けてやれと主に伝えるも、オルガはこれも無視する。
「では、次もお願いします」
呼吸が安定してきたのか、マサトは構えと共に強い意志の光が込められた眼差しを自分に向ける。
――そうだ、この目だ。
こちらを強く見据える、黒の瞳。その中には、思わず息を飲むほどの意志を宿している。
もう何度も負けているにも拘わらず、その意志の輝きは鈍るどころか、寧ろ増しているようにさえ思えた。
その瞳を前に、無意識に力を込めたオルガも構えを取り、今日十度目となる試合が始まる。
マサトが地面を蹴る。両手に持つ黒き銃を振るうと同時に、砲口から生命で構築された塊が刃の形状へと変化していく。
刃が銃とは対極の白の色をした丸みを帯びているもので、殺傷能力は皆無だが、まともに食らえば怪我は避けられないだろう。
その刃をオルガは身体と脚捌きのみで、軽々かわす。マサトの斬撃――というよりは打撃に近いが――は慣れない武器ながらも、並みを簡単に上回る一撃だが、戦姫足るオルガは容易く見切っていた。
上下左右の払い、前後の突き、動作を駆使し、フェイントも絡めてマサトは様々なパターンの攻撃を放つ。更に、蹴りも加えるも、オルガにはどれも当たらない。
全ての攻撃が、たったの十三の少女に。だが、それに対して苛立たせることは無い。あっても直ぐに飲み込み、思考していくだけ。
どうすれば、この若き戦姫に攻撃を当てれるのか、勝てるのかを。幾つも考え、実行していくが決して届かない。
「――そろそろ、こちらから行かせてもらう」
少女の言葉が冷たくなる。纏う雰囲気が一変すると共に、オルガは加速。羅轟ムマを荒々しくも的確に振るう。
その一撃は鋭く、重い。マサトには反撃する余裕がまったくない。全力で回避や防御するのが精一杯で、動く度に呼吸が荒くなり、防ぐ度に腕が痺れる。
これで加減されてるのだから、実力の差を痛感される。マサトは思わず、苦笑する。
「――とどめだ」
数度の攻防の後、オルガの一撃によりマサトはで弾き飛ばされる。直ぐに体勢を整えて応戦するも、あっさりと見切られて武器を弾かれ、目の前に竜具を突き付けられた。
「終了」
「ふう……。またまた敗北、と……」
オルガは流した汗を拭き、マサトを見る。マサトも同様の行動を取り、休憩の間に深呼吸を繰り返し、次の試合に備えての体力回復と呼吸の整えを行なっていた。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
ザウルから水筒を受け取り、冷やした水で発汗で流した水分を補う。
水を飲み干し、次の試合まで休んでいると、足音が聞こえる。この場所に自分達以外の誰かが近付いている証拠だ。
無意識の内に、三人が警戒。ここに迫る来訪者を待ち構える。
「やたらと警戒されてますな」
「そなたか」
「マドウェイさん」
――……誰だ?
二人は知っている様子だが、オルガは初見の人物に疑問符を浮かべる。
「……知り合い?」
「えぇ。まぁ、マサト殿は前に一度会っただけですが」
「初めまして、レナータ殿。――素性や事情はアレクサンドラ様から聞いております」
オルガは思わず息を飲む。このマドウェイは、アレクサンドラから自分が月姫だと知らされている。焦りを抱き、警戒を更に高めてしまう。
ちなみに、マドウェイはマサトの事もアレクサンドラから聞いてたりする。
「大丈夫ですよ。戦姫様の深い信頼を得ている者ですので」
ザウルの台詞により、警戒を薄め、オルガは冷静を取り戻す。
よく考えれば、そんな人物でも無ければ自分の素性を明かしたりはしないだろう。
「マドウェイ殿もここで働く人ですか?」
「ははっ、貴殿から敬語とは恐れ入ります。私は公宮ではなく、リプナの港町で働く船乗りですよ」
「船乗り? そんな人が何故ここに?」
前に会った時に同じ話をしたので、マサトは少し共感を抱いた。
「ブリューヌの様子見、と言ったところです」
「様子見……もしかして、ブリューヌとの戦いがあるからですか?」
放浪中に村や町で聞いたことがあり、オルガは知っていた。
「担当は我等ではありませんが、戦場はこのレグニーツァに近い所です。万一の事態に備え、調査は怠れません」
ライトメリッツが負けた後の場合や、勝った後でもどうなるか分からない。だからこそ、対策を取るためにも調査は必要不可欠なのだ。
「……そうですか」
その時か、もしくはそれ以外で危機が訪れれば、自分は戦えるだろうか。オルガはそんなことを考えていた。
「何れにしても、自分達に今出来るのは、有事に備えて行動するだけです」
勿論、アレクサンドラの治療も怠らない。
「なので次――と行きたいところですが、今日はここまでに」
今日は初めての鍛錬。それにオルガは作業に慣れ出しはしたが、まだ長時間の鍛錬は可能な程の体力は残せてない。勉強もせねばならないし、短めに切り上げた方が良い。
「分かりました」
「では、ザウルさん。また後で」
「失礼します」
騎士と船乗りに挨拶すると、オルガはカルガモの子供のようにてくてくとマサトの後を追い、一緒に部屋に戻った。
「風呂に入りたい」
「同意見。さっぱりしたいなー」
濡れた布で身体を拭きはしたが、汗で濡れた身体を洗い、すっきりしたいところ。
しかし、風呂は大量の薪を使う贅沢な代物のため、公宮でも気軽に行えるものではない。なので、決められた日や時間でないと入れない。
「吸収。――完了」
マサトは黒銃を手に取ると、目を閉じて集中。数秒後目を開き、銃を仕舞う。
――何をしたんだ?
身体には異常は無い。しかし、マサトが何かをしたのは確かだった。
これは、マサトが自分やオルガに付いている雑菌の命を身体ごと吸い取った。
極上の存在なので、沢山吸っても量は微々たるものだが、それでも補充は可能だし、清潔にもなる。
「マサト、今のは――」
「身体を綺麗にするための作業。お前の分もやって置いた」
「それはそんなことが出来るのか?」
見た限りは、やはり得体の知れない何かだが、色々と使えるらしい。
「拭くことや風呂も大事だけど」
色々と便利な力だが、所詮はそこまでである。出来ないことだって多い。
「それよりも、これ」
棚から本を数冊取り出し、机に置く。政治や軍事関連の本で、オルガだけでなく、自分も読む。
「迷惑が掛かるから、疲労が残ったり、倒れたりしないように。頑張るのと無理をするのは違うぞ」
張り切ろうとしたオルガだが、マサトの忠告で抑える。自分が無理をするのは勝手だ。しかし、そのせいで周りに迷惑が掛かっては行けない。
「じゃあ、お互い頑張ろう」
「あぁ」
互いのこれからのため、年が一回り近く離れた男女は違う本を手に取る。一生懸命にページを捲って文字を読んでいく。そうして、夜は静かに過ぎていった。
この数日後、ジスタードの戦姫、エレオノーラ=ヴィルターリアが率いる五千、ブリューヌのレグナス王子が率いる二万五千が戦った。
結果は、エレオノーラが五倍の差を覆し、ジスタードの大勝。
しかも、ブリューヌは次期国王と目されていたレグナス王子が戦死するという、とてつもない損失を被ったのであった。
そして、この戦いから、運命が一気に動き出す。その先にある未来がどうなるかは、まだ誰にも分からない。
何しろ、舞台に役者はまだ揃いきっていないのだから。