艦隊これくしょん~コクチョウは消えた~ 作:海軍試験課所属カピバラ課長
簡易的な梱包を破く。コップに注がれていた水を注ぎ込むと熱反応が起こり、瞬時にレーションができあがった。
「いただきます」
食事を取る前の挨拶を厳かに済ますと榛名はプラスチック製のフォークで水分を多く含んだ米を口に運ぶ。どろりとしたターメリック色のシチューをすくったが、口元まで運んでからトレーにフォークを戻した。
まだほとんど手をつけていないレーションをゴミ箱に榛名は入れた。食欲なんてこれっぽっちも湧かなかった。無理やり一口は胃に入れたが、それですら体があまり受け付けようとしていない。せり上がってきそうなものを榛名は無理やり押さえ込んだ。
机の引き出しを開けるとファンデーション缶を取り出す。力をこめて蓋を開けるが、ついに底にこびりついていたあまりもなくなっていた。
「……もう、なくなってしまいました」
空っぽの缶に蓋をすると引き出しへ戻した。なくなってしまったのならばしかたがない。新しく入手する経緯もなければしようという気概も生まれなかった。
「うっ……うぐぅ」
咄嗟に榛名が口を押さえる。机にもう片手をついて体を支えようとするが、よろめいた拍子に執務机からガラス製のコップが床に落ちて砕けた。
「ああ……壊れてしまいました」
かん高い悲鳴だけを断末魔に残したコップの破片がキラキラと執務室の明かりを反射する。屈みこんでコップだったものを榛名が拾い上げた。
「っ……」
痛覚が右手の人差し指に走る。思わず手を引っ込めると、指先から血液が垂れていた。コップの破片で切ってしまったようだ。ぱくっと人差し指を咥えるが、渇いた口の中ではまともに唾液がなく、指先をうまく湿らせられなかった。
「お手洗い、行きましょうか」
血が流れたままにしておくのも気になる。書類に赤いシミをつけてしまうわけにもいかないだろう。トイレの手洗い場でさっと血だけ流してしまったほうがいい。椅子の背に手を乗せると、それを支えにして榛名は立ち上がった。
執務室の扉を肩と怪我をしていない方の手で開ける。コップの破片はあとから片付けることにして、先に血を止めることにしたのだ。
思いの外ぱっくりと切れていたようだ。血が滴り落ちないように気をつけながら廊下を進む。どうせ誰もいやしないだろうと思っていたが、廊下の先に
「あ……こ、こんにちは…………」
「……」
無言で榛名はおどおどと挨拶してきた艦娘を一瞥する。目が合うことを避けるようにさっとその艦娘は俯いた。挨拶も止む無くした、といったところか。通り過ぎていく影をなんとなく目で追いながら榛名は漠然とそう思った。
「ふぅ……」
榛名が詰めていた息を吐き出した。まだ執務室から出て少し歩いただけだが、妙に体が上手く動かない。肩も関節も凝り固まってしまったようだ。
「ん……」
眉根に怪我をしていない方の手を当てて揉んだ。唐突にキーン、という甲高い音が聞こえてきた。警報かと思って周囲を榛名は見渡すが慌しく人が動き回るような様子はない。どうやらただの勘違いらしい。
「早く、手を洗わないと……」
榛名が手洗い場へ一刻も早く行こうと足を前に出そうとする。しかし、踏み出そうとした瞬間に鈍痛が脳髄へ叩き込まれた。
「っあ……!」
ふらりとよろめくが榛名は壁に手をついて体を支える。中腰で屈むような姿勢になると榛名は体を支えていた手で壁を思いっきり殴りつけた。
動悸が激しくて耳障りだ。さっきからキンキンと鳴るこの音も。
「ああ……うるさいうるさいうるさいうるさい!!」
榛名が床に向かって怒鳴った。またしても胃から何かが喉元までせり上がってくるが、わずかな口内の唾液と共に飲み下す。
「嫌な音です。ええ、とっても嫌な音。不愉快です。たいへん不愉快です!」
張り裂けそうなくらいに榛名が苛立ちをぶつけるようにして怒鳴り散らす。誰もいない廊下に榛名の怒鳴り声が響くが、ガンガンと頭の中で鳴り響く音もキンキンとなる甲高い音も消えようとはしてくれない。
苛立ちまぎれに榛名が再び壁を殴りつけて立ち上がろうとした。震える膝を叱咤するように叩くと背筋を伸ばして右脚を前へ踏み出す。
瞬間、榛名の世界がぐるりと反転した。
「陽炎型2番艦の不知火、これより司令の護衛任務へ戻ります」
ぴしっと不知火が勇に敬礼した。それに対して勇もきちんと返礼をする。
「怪我の調子は大丈夫か?」
「はい。もう問題はありません。残っていた痛覚も完全に消えました」
大丈夫ですよ、と不知火が勇へ語りかけるように体を柔軟に動かした。滑らかなその動きはつい3日前に大怪我を負って高速修復材を投与された上で医務室に搬送されたとはとても思えない。
「まだ病み上がりだし、無理はするなよ」
「司令は心配性が過ぎます」
「ついこの間までベッドにいた人間を酷使できるか」
仕事に真面目なのはとても助かることなのだが、病み上がりにやる気で満ち溢れられても困る。勇としては軽めの仕事から少しずつこなしていってもらうつもりだった。
だから勇がいちばん始めに不知火へ手渡したのは薄い書類の束だった。
「これを榛名に届けてくれ」
「書類ですか。すべてサイン済みですよね?」
「もちろん。とりあえず今日中に出すのはそれだけだ」
「……ずいぶんと少ないですね」
怪訝な目で不知火が勇に渡された書類の束を見る。かなり軽いので不審に思っているのだろう。気持ちは勇もわかるつもりだった。
「本当にこれだけなんだ。最近、日に日にサインしろって榛名から送られてくる書類の数が減ってきていているんだ」
「司令がそんな嘘をつくような人には見えませんし、実際にこれだけなんでしょうけれどそれにしても少ないですよ」
「内容を見ているかぎり必要最低限がギリギリってところだな」
「ギリギリですか」
「ギリギリだ。とにかく執務室まで頼む。それだけ運んでくれたら今日は上がりでいい」
「早すぎませんか?」
じとっと不知火が勇を睨む。あまりに早すぎる終業が気になるらしい。だが事実として書類の量はあまりない。そして普段から不知火のやっている仕事は執務室への書類運搬と榛名から命令された勇の護衛だ。つまり書類の数が少なければ不知火の仕事が少なくなるのは必然ともいえる。
「とにかく頼めるか」
「わかりました。すぐに行って帰ってきます」
「ゆっくりでいいからな?」
「できるかぎり気をつけます。それでは」
厚さにして5cmほどの紙束を不知火が両手で抱えなおすと勇の部屋から出ようとする。手が塞がっていてはドアを開けるのも難儀だろうと勇はドアを開けて、不知火を通した。
「ありがとうございます」
「大したことじゃねえ。ほら、行って来い」
「はい、いってきます」
不知火を見送ってから勇は椅子に腰を下ろした。今日中にサインすべき書類はすべて不知火に運んでもらった。せいぜいやることといえば食堂のシフトを組んでおくことくらいだ。
「とはいえ出撃シフトも遠征シフトも榛名から来てないんだから組みようがないんだけどな」
とりあえず予想でシフト表を埋めていく。とはいえできることは複数の名前を入れておくことですぐに完成できる段階にまで進める程度だろうか。
あとは現状で使用可能な装備のリストアップをしておくくらいだろう。どうも電探の類が足りない気がする。やはり建造よりも開発を優先させるべきだ。艦娘の数は十分にいるのだから。
霧島からのオーダーに応えたとして、今後の鎮守府を担っていくことになるのは勇だ。きっちりと運営するためにも戦力を把握しなくてはならない。
「この問題も厄介だよなぁ……」
いざ榛名を提督代理から引きずりおろせと言われたところで、勇側についてくれる艦娘と榛名側についている艦娘が同数であるのならば無理やりな手段を使うのは悪手だ。
勇は深くため息をついた。ここまでもかなり難題だったがさらに難題を突きつけられた気分だ。しかしどのみちやらなければならなかったことだ。タイミングが少し早いか遅いかの違いに過ぎない。
「おっと」
強く握りしめすぎたらしい。ペンが手からすっぽぬけてしまった。くるくると回転しながらペンが落ちて、床面とぶつかる────
前にドアが大きく開け放たれた。
「司令!」
「し、不知火!? どうした、そんなに慌てて?!」
息も絶え絶えに不知火が勇の部屋に駆け込んでくる。いつも冷静沈着な不知火にして本当に珍しいことだ。珍しすぎて勇が驚いてしまったほどだ。
「なにがあった? 敵襲か? いや、警報は鳴ってないし……」
「違います、司令! 提督代理が、榛名さんが……」
「榛名が?」
勇の声に緊張が走る。榛名がなにかしたのだろうか。場合によっては相当な事に繋がりかねなない。どんな事態が舞い込んだかと勇は思わず身構えた。
だが不知火の持ってきた報せは想像以上だった。
「榛名さんが倒れて医務室へ搬送されました!」
「搬送だと!?」
事態は拗れていく。誰もがまったく想像だにしなかった方向へと。
榛名編、ようやくスタートを切ったような感じですね。前回がのんびりとした会話だったのでほんのちょっぴり激しくしてみました。でもこれだと始まりって感じですね。まだ話は大して進んでいるような感じもありませんし、ちょっと動いたかなーくらいです。
どれくらい続くか、予定は未定! でも完結はさせますよっ!