艦隊これくしょん~コクチョウは消えた~ 作:海軍試験課所属カピバラ課長
「ん……」
もぞもぞと榛名が身じろぎする。今まで閉じられていた双眸がぱっちりと開いた。
最初に視界へ飛び込んできたものはまっ白な天井だった。そうして自分が今、横たわっていることに気づく。
首を動かして周囲を確認していく。ふかふかとしたベットに寝ていて、周りは同じように白いカーテンで区切られている。差し込む陽光がいやに紅いのは夕方だからだろうか。
次に榛名は記憶の糸を手繰っていく。ここはおそらく、というよりほぼ確実に医務室だ。ならば何が起きて自分は医務室にいるのだろう。
たしか昼食にほとんど手をつけずに残した後、コップを割って指先を切ってしまった。だからお手洗いに行って、手を洗おうとしたはず。廊下を歩いていて……
「ああ、そうでした。榛名は倒れたのでしたね」
どこか他人事のように榛名がつぶやく。心音でもモニターしているのか、機械的な電子音が一律のテンポを刻んで鳴っていた。
「たしか声が……ああ、やっぱり。目が覚めたんですね」
「明石さん……」
「体調はどうですか? ……って聞くまでもありませんでしたね。まだ顔が真っ青です」
そうなのだろうか。鏡がないからわからないが、そうなのだろう。ずっと誤魔化すために使っていたファンデーションは切れてしまった。
「話せそうですか?」
「……はい」
「無理だと思ったら遠慮なく言ってくださいね。ではまず、倒れられる前のことを覚えてますか?」
「急に変な音が聞こえて……頭がグラグラして……あと景色が歪んだり、です」
「ふむふむ……耳鳴りに頭痛っと。あとは目眩ですか。うーん」
明石が難しい表情でメモを取っていく。もう聞くことは終わったのだろうか。ひとまず榛名は起き上がろうと手をついた。
「あっ、だめですよ! まだ安静にしていてください」
「でも執務が……お昼から夕方までだとしても4時間近く空けてしまっては…………」
「榛名さん、重大な勘違いをしているようなのではっきり言っておきます」
真剣味のこもった瞳で明石が榛名を見つめながら丁寧にベットへ寝かせる。抵抗しようと榛名はしたが、うまく力が入らずなされるがままに寝かされる。
「榛名さんが倒れられたのは
「え」
「症状を見たところ、完全に過労ですね。あとは栄養失調と睡眠不足の様子もあります。しばらくは絶対安静ですね」
「そんなはずは……」
「視界がぼやけたりしませんでしたか? 派手に出血したりしたことは? 栄養失調の典型的な症例です。睡眠不足は言うまでもありませんね。とにかく療養してください」
栄養失調を起こすと視神経に障害が発生したり、血小板が足りなくなり、出血が止まらなくなることがある。そんな明石の説明をどこか遠い話のように榛名は聞いた。
一日以上も執務室を空けてしまった。その事実が榛名の胸に重くのしかかる。
「ーーーーということです。榛名さん? 聞いていますか?」
「えっ? え、ええ。聞こえています。大丈夫です」
「そうですか。提督、大丈夫だそうです」
「そうか」
カーテンの隙間から勇が姿を現すと、榛名のベッドの傍に寄った。そしてスツールを引き寄せると腰を下ろした。毛布の下で榛名の身がピシリと固まるが、気づく様子はない。適当な相づちを打つのではなかったと後悔したがもう遅い。
「いいですか、絶対に手短にしてください」
「わかってるよ。10分で話は終わらせる。これでいいだろう?」
「……これでも私、妥協しているんですからね?」
「約束は守る。それにあんまり不知火を放置しておくわけにもいかないだろ。このところなんでか不知火の機嫌が悪くなりやすくてな」
前までは感情なんて欠片も見せてくれなかったんだが、と勇がおどけるように肩を竦めた。深い深いため息を残しながら明石が医務室を立ち去った。気を使って2人になるよう計らったのだろう。余計なことをとしか榛名は思わなかった。
「さて、まずは事後報告になる。金剛型三番艦榛名は昨日付けで提督代理権を剥奪された。今後は佐世保第三鎮守府の運営に関わることはできない」
「どういうことですか」
「どうも何もない。体調管理のできない奴に任せておくわけにはいかないだろう」
有無を言わさぬ口調で勇が言った。しかし、榛名も言い返すことはできなかった。顔色は悪く、輸液と思われるチューブが繋がれてベッドに寝ている人間をとても健康体とは言えないだろう。
「体調が完全に快方するまでは医務室で謹慎だ。栄養のあるものを食べてしっかりと寝ること。以上だ」
「大人しく言うことを聞くとお思いですか?」
「聞くしかないんだよ。榛名、お前はこの鎮守府において行使してきた権利の大部分を失った。いや、そもそもお前に運営権はなかったものを、まるであるかのように振舞っていただけだ。だから俺の命令には逆らえない。これは決定事項だ」
言うべきことをすべて言い切ったのか、勇がスツールから立ち上がる。病人の榛名には止めることなどできなかった。
「ゆっくり休め」
心から気を使って言われた言葉に違いはない。そのはずなのに白々しく榛名には聞こえた。
勇が医務室から出ていく。明石を呼びに行くのだろうか。だが榛名はその前に言いたいことがあった。
「そんなの……そんなの認められません」
ふらふらになりながら、点滴の支柱に体重の一部を預けて榛名がベッドから起き上がる。
言わなくては。自分がやらなければいけないのだと。そんな采配は絶対に認められない。
だが現実は無情だ。榛名がなんとか立ち上がろうと不断なき努力を続けるものの、勇は医務室からすでにいなくなってしまっていた。
「まだ……まだ廊下に…………」
震える膝を叱咤して榛名が進む。支えにしている点滴の支柱が軋んだ。急いで追いかければなんとかなるはずだ。こんなことは認められない。何がなんでも撤回させなくては。
ーー何をそんなにがんばっているんですか?
「うる、さい……」
ーーああ、そうです。偽りの提督業務、お疲れ様でした。
「だまれ……」
ーーよかったですねえ。これで肩の荷が降りましたよ?
「そんなもの求めてない」
頭の中の声が高らかに嘲笑した。
ーーじゃあ何が欲しかったんですか? よくがんばったでちゅねって褒めて欲しかったとか? もういない
またしても笑い声が頭の中で響く。医務室のドアまでが変に遠い。いや、違う。榛名の進みが遅いだけだ。
ーーあはははは! 榛名、あなたはなんて滑稽なんでしょう!
「何も……何も知らないくせに……」
ーーいいえ、知っていますとも。だって私は
榛名の芯を抉りつけるように声か囁く。呼吸が乱れ、全身から嫌な汗が吹き出す。それでも榛名は必死になって足を前へと出し続ける。
ーーいないものにすがり続け、消え去ったものに許しを乞う。ああ、なんて愚かで甘美なんでしょう!
「榛名は……はる、なは…………」
体を半ば引きずるようにして、ようやく医務室のドアまでたどり着いた。
「はあっ、はあっ……ううっ」
口からもどしそうになるのを堪えた。もう声は沈黙していた。言いたいことを言って満足したのだろうか。
しかし榛名は満足できていない。こんな処置は認められないと抗議し、それを通さなくてはいけない。
寝巻きはすでに汗でぐっしょりと濡れ、肌に張り付いて気持ちが悪い。だが止まるわけにいかない。ふらつく体を医務室のドアへ預けて息を整えようとした。
そしてドアへ体を預けた瞬間、廊下から声が漏れ聞こえてきた。
「これで満足か、霧島」
「ええ。こうも早く完了するとは思いませんでした」
「俺もだよ」
なぜ霧島がこんなところに。そんな当然の疑問が榛名の中で鎌首を持ち上げる。そもそもどうして勇と霧島が話しているのか、榛名には皆目検討がつかない。
「見事な手際でしたよ、司令」
「俺は何もやってねえ。偶然こうなった。ただそれだけだ」
「けれど決定を下したのはあなたです。とにかく改めて……」
何を妹である霧島が続けるのか。榛名はドアに耳を密着させた。一言たりとも聞き漏らすまいと、耳をそば立てる。
「榛名姉さまを提督代理から引きずり下ろしていただく件、ありがとうございました」
ガツン! と頭部をハンマーで思いっきり殴られたような衝撃が榛名に走った。霧島が榛名を提督代理から引きずり下ろすように勇へ依頼していた。あまつさえ礼さえも言った。
「はは……あははは…………」
乾ききった笑い声と共に榛名がゆっくりと崩れていく。最後にはペタリと医務室の床に座り込む。
続きは聞きたくなかった。ぶるぶると震える両手で耳を塞ぐ。
「ああ……なんだか疲れました」
諦観のこもった声で榛名が言った。あまりに細くて今にも途切れてしまいそうだ。
もう、涙の一滴だって落ちなかった。
はい、榛名は大丈夫です(棒読み)
まあ、こうなるな。絶対に大丈夫じゃない榛名さんでしたね。とまあ、やばそうな雰囲気だけ残してまた次週とさせていただくわけです。
榛名を提督代理から引きずり下ろすことは成功しました。でもまだ終わりません。初めからコクチョウの最終回は想定しているのですが、まだ続くのでよろしくお願いします!