―――――当然、日本でも大流行している。
どういう最後を選ぶのか。これは一人の少女を描く物語。
この小説はpixiv様及び小説家になろう様でも公開させていただいております。
「貴女の余命は、一か月です」
突如、医者から告げられた余命宣告。それと共に一枚の紙を手渡される。丁寧に四つ折りにされている紙には入院日時などの情報が洩れなく記入されていた。少女はそれを見て愕然とした。医者は少女とその母の方に椅子を向け、頭を垂れている。
「申し訳ございません」
医者はただ、その言葉だけを口にした。髪をポケットに押し込んだ際に起こった硬い音だけが部屋を回っていった。
少女に割り当てられた部屋はS-8号室。毎日のように入退者が入れ替わり、名前を覚えるのもままならないところだ。明日には、だれが消えて誰が入ってくるのか、想像もつかないところだ。
その日から、一か月と三日経った。今日は、二〇三四年の八月十九日。
■
「ん、んんー……んっ」
まだ朝も早い時分にもかかわらず、大きな総合病院のすぐ傍を通る国道を走る車の喧騒を目覚まし時計代わりにして、『九重(ここのえ) 美里(みさと)』は目をこすりながら体を起こした。
大きなあくびと伸びを一つして、見慣れた病室―――――S-8号室を見渡す。いつも通り、と言えばそうなるだろう。まだ寝ている人が多数を占めている中、どこからかせんべいをかじる音が嫌に大きく聞こえてきた。
ベッドの数は十台。美里のベッドは扉から見て右側の一番奥に置かれている。全ての台に番号が割り振られており、扉側から見て手前の右側から一番、二番、三番……といった具合になっている。つまり、美里のベッドは五番台だ。最大十人が入れる、大きめの病室である。
入院者は七人。現在は二番台と三番台、九番台が空いている。特に、二番と九番はこの数日で相次いで亡くなっていた。しかし、空いている台にはすぐに別の人が入ってくる。明日、二番も九番も埋まるらしい。
美里は年齢こそ病室内で最年少だが、入院してからで見るとかなりの古株だ。明日にでも生命の炎は燃え尽きるかもしれない、と一日に数回はどうしても考えてしまう。
そんな時美里は、「考えても仕方ない。命は―――本当にあと一日あるか無いかなのだから、一瞬でも無駄にしてはけない。大切に使おう」と自分に念じこむように心の中で繰り返し呟く。この一か月で何度も繰り返したそのフレーズは自然と美里の脳に記憶されていた。
S、と付く病室は十部屋あり、そこに入院している人はすべて媒介ガンという病気の患者だ。毎日のように誰かが亡くなっていき、喪に服している。黙とうを捧げるのももはや日課となりつつあった。
媒介ガンは約二年もの長期間体内で潜伏し、高熱を発症させて一気に暴れだす、エイズの新種に当たるガンウイルスだ。その、致死率百パーセントの名は伊達ではなく、正真正銘の『不治の病』だ。しかも、何から人に媒介してくるのか全く分かっていない。一説では白血球が共食いを起こして、その一部がガン化するらしい。また一説では未知のダニが媒介しているという。
高熱を発してから死亡するまで約二日。その間にタミフルを改良した強力な薬を投与すれば、死亡までを約一か月遅らせることができる。副作用が懸念されているというのが少々気になってしまうが、それほど重度なものは出ないそうだ。
美里が高熱でこの病院に救急搬送されたのが三十三日前、らしい。らしい、というのは、入院した日から二日ほど意識がなくて記憶が飛んでいるからである。薬を投与しなければその二日間で死亡すると聞いたことがあった。
極論、美里の命は風前の灯という状態である。今は体調が安定しているから今日は大丈夫、今日は生きられる、と自らに暗示をかけるがごとく心の中で繰り返す。これも、何度も繰り返したフレーズだ。
また、真実を話していないとはいえ自分に生きててほしい、と言ってくれる人もいるのだ。その人たちの期待を早々に裏切ってはいけない、と美里は自分に言いつけた。
「おはようございます、九重さん」
少し憂鬱な思考に陥りかけた時、左側から優しげな声が聞こえてきた。ずっと自分に暗示をかけていた美里はその声で我に返り、やや焦り気味に声のあった方向へと顔を向けた。
「おはようございます、草津さん」
美里の右、四番台の入院者、『草津 千代』はもう七十歳の高齢者だ。高齢者の特徴とも言える柔和な笑顔を浮かべて美里に語りかけた。なんのことは無い、ただの世間話だ。しかし、千代にとって美里は孫の様な年齢である。美里にとても親身になって接していた。
もちろん、美里からすれば千代は祖母のような存在であり、一緒にいるととても落ち着く。入院直後の美里をよく慰めていたのも千代である。
「あら、いけない。朝食の時間だわ。九重さんは食べた後、外に出るのでしょう? 行ってらっしゃい」
「行ってきます」
実際、美里はかなりの部分で千代に助けられているという実感があった。軽く一礼して食堂へ移動し、看護師にお願いしていたメニューがテーブルの上に並べられているのを見て目を輝かせた。
千代は足腰が弱く、病室で食事をとる。梅干しが好きだと言っていた。美里も薬の副作用で右足が麻痺してしまっているが、食堂まで行けばテレビを見ることができる。スマートフォンでゲームをするなどして暇を潰すことはできるが、テレビも捨てがたいというのが美里の理論だ。
今日の朝ごはんにお願いしていたのは和食。久しぶりに見る味噌汁を見つけて素早く、と言っても、右足が麻痺していしまっているせいで移動は松葉杖が必須。体重をうまく乗せ、少しでも早く着くために大股で移動して椅子に座った。
薬を投与してからの最後の一か月は強力な薬の効果のおかげでかなり体調が安定する。食事のメニューも普通の病院食ほど神経質になる必要がないので朝食と夕食はオーダーすることができるほどだ。美里は時折和食だったり洋食だったとオーダーをしている。
楽しみにしていた味噌汁が体に染みわたり、一時の大きな満足感から現実に戻った後に再び松葉杖を手に取って食堂を後にした。今度は階段を下りて一階へ移動する。
階段では、落ちないように気を付けながら一段ずつ確実に降りる必要がある。最初の内に友達と一緒に練習した甲斐もあってか、特に危なげなく三階から一階までたどり着いた。
実際には、誰かが傍にいてくれるのが最善である。しかし、そこまでの贅沢は言えない。看護師も人員不足なのだ。
一階に着いたらすぐに受付へと足を運び、外出する旨を伝える。そうしないと外には出られない。面倒くさい、と感じたことは一度や二度ではないが、すでに慣れきった。動きの一部として自然に方向が定まっている。幸い、受付には誰もいない。
しかし、今日は少し違った。松葉杖をついて移動していると、病院に勤務している看護師に呼び止められた。
「ええと、お友達が待合室で待っていますよ?」
「あ、そうですか。ありがとうございます」
普段であればこの時間の来客は無く、スムーズに散歩に出る手続きを済ませることができていたが、今日ばかりは多少の方針転換の必要性を感じている。
美里に会いに来たという友達が誰であるか、大方の予測はついているのだ。先程とは反対方向に松葉杖をつき、長い廊下を直進した。
会談のそばで右に曲がり、突き当りの左側に待合室がある。何故受付から遠いのかは院長ですら知らない。歴史の古い病院だから元は違う目的で作られたものだろうか、と思ったこともある。
扉の前で立ち止まり、形だけのノックをして相手の反応を待つことなく扉を開けた。
「やっ、久しぶり」
「やっぱり和樹だった。久しぶり」
美里の幼馴染で、小学校から高校までずっと同じ学校に通っていた親友の『二条(にじょう) 和樹(かずき)』が待合室に備え付けられているソファーに浅く座って目の前のテーブルの下に足を投げ出していた。生まれつきの茶色の髪は帽子で隠れてあまり見えないが、人のよさそうな顔立ちは相変わらずである。右手を上げるしぐさも、カッコいい、というよりは愛嬌があると言った方が正しいかもしれない。
美里も返事代わりに右手を小さく上げた。
和樹は手を一度下げた後、すぐに目の前にある紙袋の中を探り始めた。数秒探した後、目的の物を見つけたのか紙袋を床に置き、両手で箱を取り出してテーブルに置いた。大きめのプレゼント箱だ。
「開けてみて」
箱は包装されている上からリボンが施されている。それらを丁寧にほどき、箱を開けた。
中に入っていたのは、首元に赤いリボンのあしらわれたテディベア。可愛いのだが、美里には見覚えがあるような無いような程度の記憶しかなかった。
「何、コレ?」
「お土産。欲しいって言ってたろ?」
ああ、と美里は軽く頷いた。学生時代に美里が零したわがままを和樹は覚えていたらしい。病気にかかる前に、一度だけ美里は和樹にテディベアが欲しい、と言ったことがある。それを思い出したのだ。
今となっては完全に忘れていたが。何せ、もう二年も前の話だ。むしろよく覚えていたものだ、と美里は少しだけ感心した。美里の視線の先では和樹が僅かに嬉しそうな笑みを浮かべている。
右手で抱きかかえたテディベアを見つめる。二年前に見たときは、絶対に欲しいとまで思ったのだが、最近は完全に忘れていた、そんな状態でも思い出は蘇ってくる。
「ありがとう」
少なくとも、ここ一か月の間では最高の笑顔で和樹に礼を言った。和樹はソファーから立ち上がり、ドアを開けて手招きで美里を呼んだ。
「外、行くんだろ? 自転車で来てるから乗っていくか?」
「いいの? じゃあ乗せて」
「オッケ、じゃあどこ行きたい?」
うーん、と美里は人差し指を顎にあててひときしり考える仕草をしてから、その指を上にあげて「見晴らしの良いところ」と答えた。
「じゃあいいとこ知ってるから、そこに行こう。……松葉杖、どうしようか」
「そのくらい自分で持つよ」
美里が恥ずかしそうに俯きながら言うと、和樹は美里の手を軽く握った。美里の頬がさっと赤くなったが、和樹は気づいていないのか、それとも気づいていないふりをしているのか、先導するような形は変わらなかった。
和樹に手を引かれながら、美里は病院から外に出て、和樹の自転車のそばまで来た。いつの間にやら倒れてしまっていた自転車を起こし、サドルに軽くまたがる。その後ろに美里も乗り込み―――――右足が使えないので、和樹に助けてもらいながら―――――和樹の腰に両腕を回した。
「準備はいいかな?」
「うん、オーケーだよ」
左足に体重を乗せた状態で振り返った和樹に向かって、美里は和樹の腰に回している腕に力を込めて小さく頷いた。
和樹も同じように頷き、優しい笑みを浮かべて前へ向き直る。左足で地面を二回蹴って助走をつけ、ペダルを踏んだ。
ギアを最大にしているので、最初はペダルを踏む速度もやや緩慢だったものの、少しした後にはスピードも出てきて、美里の長い黒髪が小気味よく風になびいた。
交通量の極端に多い国道は避け、静かな脇道を選んで和樹と美里はゆっくりと進んでいった。
出発してから数十分は経っただろうか、不意に美里が和樹の背中に体を預けて顔を押し付けた。和樹が自転車を止め、美里のほうを振り返る。
「……どうした?」
「ううん、何でもないよ」
和樹の質問を適当にはぐらかし、美里は顔を離した。頬がほんのりと紅に染まっているのだが、和樹にはその事を知る余地もない。
そのまま会話が途切れ、どちらとも話し出せないままに高台に到着した。
「うわぁーっ、綺麗だね!」
環境の変化は人の精神を一新させるのかどうかは分からないが、海を見渡せる高台に到着した時から美里のテンションは最高潮にまで上がっている。松葉杖で大股の移動をして木製の柵の傍まで来た。
「ホントに、いい眺めだ。天気もいいし……眠くなってきそうだよ」
柵にもたれかかって大きな欠伸と伸びをする和樹を見ていると、気づかない間に美里も眠たくなってきていることに気付いた。大きく伸びをして備え付けのベンチに座り込む。
和樹は今も眠そうな目を擦っては欠伸をしているという、今にも寝入ってしまいそうな状態だが、それが周りに眠気オーラでも出しているのだろうか。心なしか近くにいる人たちも眠そうな目をしている。
しかし、美里はいくら眠くなっても寝ることはできない。時刻は昼の一時。お腹の虫が盛大な存在主張をしているのだ。
(先に食べちゃおっかなー……)
美里が持ってきたカバンの中にはサンドイッチがいくつか入っている。元々は散歩の途中で食べようと思っていたものだが、一人で食べるにはやや多いうえに、昼食は和樹が奢ると言っている。
「っと、眠いな……。へばったのか?」
「わ、わっ? え、えっと……お腹すいたから」
不意に和樹が座ったことに驚きつつも、美里はは右手でサンドイッチが入っているバスケットを取り出した。バスケットの蓋を開けてレタスとツナマヨを挟んだサンドイッチを一つ、和樹に手渡す。
「おおお、旨そうだ」
目を輝かせながら、サンドイッチを両手で恭しく受け取った和樹は、一秒ほど美里とサンドイッチを交互に見つめ、それから大きくかじりついた。全体の三分の一を一口で口の中に収め、しばらく無言で食べ続けた。数十秒後、最後に残った一口を飲み込む。
「美里……」
やや小さい声で和樹が呟く。声のトーンは低いが、実に楽しそうな表情だ。―――――例えるなら、無垢な子供、というところか。
「スッゴク美味しい! も、もう一個頂戴……」
「はいはい、じゃあ次はこれね」
サンドイッチの出来を褒めちぎって、和樹がバスケットに手を伸ばしてきた。美里は嬉しそうな呆れ顔を浮かべて、和樹の手にカツサンドを持たせる。美里も卵サンドを掴んで頬張った。
美里が三つ目を和樹に渡そうとバスケットに手を伸ばしたが、もうサンドイッチは入っていなかった。もともとひとり分しか持ってきてないので、当然と言えば当然の結果だ。
しかし、こんなこともあろうかと―――――実際は食べ足りなかった時用の物だが―――――もう二つだけ別の物を持ってきている。持ってきたバッグの中から小さめのバスケットをもう一つ取り出し、そのふたを開けた。
「はい、これが最後だよ」
そう言って、美里はベーグルサンドを和樹に手渡す。しかし、何やら形がおかしい。それは、ベーグルというドーナツ型のパンをスライスする際にちょっと手元が狂って形が歪になってしまった失敗作だ。二つ持ってきているのうち、失敗したのは片方だけで和樹にはうまくいった方を渡すつもりだったのだが、見事に失敗作を手渡してしまった。そのことに気づいた美里の顔が真っ赤に茹で上がる。
和樹はそんな美里を見て、目元に涙を浮かべながら堪えきれない笑いを浮かべている。
「あ、あわわっ、えっと、それは、ちがっ……」
「はは、まあこれはこれでいいさ。美里らしい」
そう言って、ベーグルサンドにかじりつく。口元を抑えているのはまだ笑いが残っているからだろうか。それを見た美里がムッとした表情になる。和樹はそれすらも笑って返した。
■
時計は午後五時半を指している。いつの間にか四時間も外に出ていたようだ。時間を忘れる、とは正にこのことを示しているのだが、美里にはそれが複雑だった。
まず、時間を忘れるほど楽しんだのは久しぶりであること、それを喜ばしく感じると同時にもっと有効的に使えなかったかと不安を覚える。一秒でも無駄にしてはいけない、と今朝考えたばかりの事も、もはや完全に忘れていた。
そんな折、美里のスマートフォンに着信のコールが鳴った。発信元は病院。恐る恐る耳に当てる。
不安は、的中した。
「九重さん、本日午後一時、ごろに、草津さんの容体が、悪化しまして、先程……お亡くなりに……」
今朝方美里に和樹のことを知らせた看護師が嗚咽を漏らしながら千代の死を知らせた。その瞬間、美里の視界が真っ白になって足元が崩れ去るような感覚に襲われた。
通話を切り、スマートフォンをポケットに突っ込んだ後、美里は呆然として何も考えられなくなっていた。しかし、足が大きく震えていることは気づいている。否―――――そのことしか分からなかった。
次は自分ではないか、と現実味を帯びて迫ってくる恐怖に美里は抗う手段を持たない。隣で和樹が慰めの言葉をかけているのも、今はまったく届かない。焦点の合っていない目で海を眺め続けていた。
そうやって、無駄な時間を過ごしてどのくらいの時間が経ったのだろうか、日が沈み始めて青色だった空がオレンジに染まった頃にようやく美里は正気を取り戻した。しかし、自分が泣いていることに気づいて、すぐに体を九十度回転させた。
「美里、大丈夫か?」
「見ないでよ…………。泣いてなんか……」
和樹から視線を逸らし、肩を震わせる。和樹が差し出した手を払い、海側に視線を固定させたように動かなくなった。涙を堪えるためか―――――下唇を強く噛んでいて、そこから血が出ている。しかし、意識が何処かへ消えてしまっているような美里はそのことにも気づいていない。
「泣けよ」
右手側に立つ美里の右肩を手で和樹の方へと引き寄せる。その瞬間に美里は我に返ったらしく、少し赤くなった顔で和樹を睨みつけた。虚勢、という言葉しか出てこない偽りの睨みだった。
「独りで我慢してて……辛くないのか? そんなわけないだろ」
「でも! …………」
美里の反撃は声こそ張り上げたものだったのに対し、強さは微塵も感じられなかった。和樹の視線は少しも揺るがない。
じゃあ、と美里は細々とした声で言い、直後に頭を振った。松葉杖を使わずに、木の柵に体重をかけて二歩、歩み寄る。
手を伸ばせば和樹に届く。そこで和樹の言うとおりにするのも―――――極論、平手打ちだってできる距離だ。そこまで来てから、美里はズボンのポケットから一枚の紙を取り出した。媒介ガンの幹線日時などを記したカルテのコピーである。
「わたしね、もうすぐ死んじゃうんだ。媒介ガン、知っているでしょう? わたしはあれに三十三日前にかかったのよ」
ごくり、と唾を飲む音が嫌に大きく聞こえた気がした。和樹は絶句していて何も言うことができない。
媒介ガンの最後に残った寿命は、表向きで最低一か月。気のせいか、美里の額に汗が浮かんでいるように見える。
「和樹には分からないわよ!! 毎日のように、話していた人が突然いなくなる感覚なんて! いつ……!!」
美里が心のうちに溜め込んでいたような、絶叫に近い叫び声をあげる。目元には堪えきれなかったのだろう、涙が浮かんでいる。
しかし、和樹も懐から一枚の折り畳んだ紙を取り出す。丁度、美里のそれと同じくらいの大きさだ。
まさか、と美里がさっきとは打って変わって両手で口を覆う。その次の言葉は和樹の口から出てきた。美里の予想通りの言葉であり、限りなくあってほしくなかった可能性だ。
「俺も、媒介ガンにかかっているんだ。高熱で病院に運ばれたのが、四十日前」
今度こそ、美里の表情が凍りついた。和樹のカルテコピーを奪い取り、細部までよく確認する。
「和樹……。嘘でしょう…………?」
凍りついたまま、美里は四十日前の決め手となる入院日の日付を発見した。不意に眩暈に襲われて倒れそうになり、背中から和樹に抱きかかえられる。
「何で……こんな、こと……!」
和樹の方に向き直ると、和樹の屈託のない笑顔を見るのも最後のような気がしてきた。この場でカルテを破って捨ててしまいたい―――――と思うも、手に力が入らない。
四十日も生きているなど、半ば奇跡に等しい。最低限保証されているという一か月すらも延命できない人も多いからだ。ましてや、一か月を超える人などせいぜい一割がいいところだろう。
美里はカルテから視線を離し、和樹の顔を見る。和樹は屈託のない笑みの中に、どこか悲しそうな表情を浮かべている。
最早、何もかもが手遅れだと美里は心の内で理解した。取るべき選択肢は失われ、後に脱け殻だけが残る。そんな姿が脳裏に鮮明に映った。
「―――――馬鹿ッ」
気づくと、美里は和樹の服を掴んでいて、引き寄せていた。
美里の目元からは涙が零れている。視界が歪んで目の前にいる和樹もろくに見えないほどだ。
「もう訳分かんないわよ! もう、涙なんて枯れ果てたって思ってたのに……! 和樹が死ぬって分かってから……、涙を抑えきれない! 和樹のことが頭から離れない!!」
美里は息が苦しくなるまで一息で言い切り、和樹の胸に顔を押し付ける。
「だから、せめて、最後は一緒にいてよ……」
遠回しな告白。ここで和樹はようやく美里の言わんとしていることを理解した。美里の背中に手を当てようとして、直前で踏みとどまる。
「なんでだろ、今さら、死ぬのが……怖いよ……。和樹……!!」
「……俺でいいなら、最後まで付き合うよ。美里、どうしたい?」
和樹の手が美里の背中に当てられ、恰好は和樹が美里を包み込む形となった。美里はその温かさに暫し身を預ける。程よい温もりが美里に若干の眠気を引き起こしていた。
美里を包み込んだまま、和樹はベンチに座り込んだ。直後、美里の体がぐらりと傾き、和樹の膝の上に落ちる。美里の体調が異変を起こしている。美里の呼吸は荒く、顔が赤くなっていた。額に手を当てると、普通の風邪ではありえないほどの高熱が掌に伝わる。当の和樹自身も息苦しく、命の灯が消えかかっているのを自覚していた。
そんな中、和樹は立ち上がる。
「さっき聞いたばっかりの所すまないけど、病院へ戻るよ。自転車で戻るから、俺の背中にしっかりつかまっていてくれ」
うん、と美里は小さい返事をした。脂汗がこめかみを伝うが、和樹はそれを服の袖で一度拭っただけで自転車を走らせた。美里は全力で和樹の腰にしがみついている。
和樹がペダルを踏むごとに美里の体が悲鳴を上げる。しかし、それは和樹も同じのはずだ。「止めて、苦しい」と言う声が喉まで出かかったが、和樹を無駄に心配させるだけだと思い直してその声を押し殺す。
和樹の腰は僅かに浮いていて、自転車を飛ばしている。和樹も、苦しいはずなのに。と、そう思うと美里の胸が病気の物とは比にならないくらいに痛む。がんが体を蝕む際の鈍い痛みとは違い、心臓に直接届く鋭い痛みだ。
吐き出そうになる嗚咽を喉の奥に押し戻し、和樹の背中に体重を乗せた。汗で服が湿っている。
そんな状態が何分続いただろうか、急に和樹がブレーキをかけて自転車を止めた。美里を下し、鍵もかけずに早歩きで移動する。既に美里の歩く力も限界だった。足は震え、和樹の支えがなければすぐに転倒してしまうだろう。
「すみません! 美里が……急に、体調が悪くなって……」
「九重さん!? それに、君も顔色悪いわよ!!」
顔なじみの看護師が数人の同僚を呼んで美里と和樹を病室に連れて行く。同時に、二人の両親への連絡も済ませた。
最初に、検査を行う。ガンは体中に感染していてどこが暴れだしたのかも見当がつかないからだ。ある薬を飲んでレントゲンを撮る。
結果は、最悪と言うべきものだった。
和樹のガンは肝臓と肺を侵し、肺炎も引き起こしていた。無理な運動をしたのも原因の一つだろうという指摘もあった。
しかし、美里は話が違う。
美里のガンは―――――心臓を侵していた。余命、と言うほど時間も残されていない。血液にも感染してそれが全身に駆け巡って、体中がガンを発症していた。病気の巣が体中にできていて、それから逃れる術は既に、完全に失われていた。
医者から告げられた言葉……和樹と美里が一緒にいられる時間は、あと二時間。
「美里、無理してたんだな……。ゴメン、君の大切な命を奪ってしまうなんて……」
場所は変わって美里の病室。室内のベッドに美里が横たわり、人工呼吸機を付けられている。目は半開きで少し赤くなっていた。そのベッドの脇に置いてある椅子に深く腰かけている和樹とその右に座っている美里の両親は、目元に涙を浮かべている。
美里の目はしっかりと開いているものの、焦点があっていない。投与された薬の副作用で意識が混濁しているからだ。
和樹はベッドの上の美里の手に触れようと右手を伸ばしたが、寸でのところで寒気を感じてその手を引っ込める。
もし美里の手に触れて、その手が冷たかったら、と一瞬考えてしまったのだ。心電図が動いている以上、それはあり得ないはずだが、媒介ガンの未知数さを考えるとそれすらも想定の外ではない。また、和樹自身も死の恐怖に怯えていない、と言えば完全なる嘘になる。
美里も、死ぬのが怖いと和樹に告白している。なら、せめて最後まで傍にいるのが責任の取り方だと和樹は考えた。
「美里は……起きますよね? 今は、ちょっと寝ているだけですよね……?」
同伴している医者に和樹が問いかける。何かしら絶望した、小さい声だ。
「酷な事を言いますが……おそらく九重さんは目を覚まされないと思います。午後九時。それまでに回復の兆しが無ければ、九重さんは『死亡』という扱いになります。最後の姿としては、私共としてもいささか不本意ですが……」
やはり、と和樹は誰にも聞こえない声で呟いた。
和樹の予想と医者の答えは殆ど同じだった。―――――ただ、一度も目を覚まさない可能性がある(・・)と高い(・・)の違いが刃となって和樹の心に突き刺さる。
「そうですか……。美里、君はこれで良かったのか……?」
今度こそ、美里の手を握りながら問いかける。手にはまだ僅かに温もりが残っていて、それが最後の灯であるという現実を和樹にむざむざと知らせていた。静まり返った部屋の中にやや小さめの心電図の音が鳴る。音の間隔は一秒よりも少し遅く―――――美里の命の灯が順々に消えつつあるという事実を受け入れざるを無かった。
心電図の音の間隔が僅かながら、本当に僅かながらに延びた。和樹の背筋がひやっと冷たくなり、両手で美里の手を取って声をかける。
「生きろよ。まだ……死んでいいはずがないんだ! 美里は……美里は……これから、まだ……!!」
心臓の奥から絞り出すような声。その言葉を言い終わることは無く、祈るような格好で美里の手を握りしめる。美里の両親が声を出さないのは―――――否、声も出ない、と言う状態なんだろう。ショックを隠し切れないという点では和樹以上のはずだ。
心電図の音の間隔は秒ごとに延び、二秒に一度という感覚になりかけていた。和樹が握っている手には汗がにじみ、その目も固く閉じられていた。
美里の目は閉じることも無く、動くこともない。和樹はその目に焦点を合わせて呼びかけてもみた。しかし、これでも反応は無い。
「時間が来ました……。元時刻をもって九重さんは『死亡』と扱われます」
腕時計を見ながら医者が沈痛な表情で呟く。さらに、医者の言葉が終わるのと同時に心電図の音のリズムも止まった。
起伏の無くなった心電図の音だけを鳴らして、部屋の中が静寂に包まれる。
「何やってんだよ……美里。生きたいって、死にたくないって言ったんじゃないのか……」
和樹の手が美里の手を握りしめる。まったく手加減していないせいで美里の手がギリギリと音を立てている。その手に残る温もりも、少ししたら消えてしまう。
そう思うと、耐えきれるはずもなかった。しかし、半面で奇跡というのもこの世に実在する。
「い……痛い、よ……。和樹……」
「美里!?」
僅か、本当に僅かだが、美里の目と口が動いた。口元に耳を近づけないと聞き取れないほどのか細い声だが、和樹は美里の唇の僅かな動きを見て言わんとしていることを理解する。いつの間にか心電図も動き出していた。
(わたしの、ベッドの、傍のナイトテーブルの引き出しの中、そこに、手紙が、入ってる……。わたしからの、最後の手紙……。約束よ、絶対、返事書い、て、よね……)
美里の唇が微かに動き、傍にいる和樹だけに伝えられる。
「もちろんだ。必ず書くよ」
和樹が今度は優しく美里の手を包み込み、美里に声をかける。それを聞いた美里は安心したのか、笑みを浮かべて口を開いた。
―――――良かった、大好きだよ―――――と。
もう声を出す力も残っていない。そっと目を伏せ、ふうっ、と吐息を漏らす。
力を失った和樹の手から、美里の手が滑り落ちた。美里の表情からは苦しみや悲しみと言ったものは一切消えており、反対に安心に包まれた穏やかな表情を浮かべていた。
その翌日、まるで美里の後を追うように和樹も息を引き取った。彼の枕元にあるナイトテーブルの上には二枚の手紙が置いてあり、一枚は美里が和樹に宛てたもの。もう一枚は―――――その返事。きれいな文字で書かれた文章を記した紙(レター)は途中から水玉模様に濡れていて、文字が滲んでしまっていた。
美里のベッドの脇に残されたはずのテディベアはいつの間にか和樹のベッドの脇に移動しており、静かに、黙祷するように鎮座していた。
看護師の『二川(ふたがわ) 恵子(けいこ)』はその手紙を、美里の棺に一緒に収めた。それが、和樹の最後の願いだったという。
雲の上では今頃、美里がテディベアを抱きかかえながら和樹の手紙を読んでいる頃だろうか―――――。