破裂音にも似た、軽快な音が庭に響いた。
俺は、今、額を押さえてうずくまっている。派手に叩かれたのでおそらく、赤くなっていることだろう。
目の前には、すらりとした長身の女性。
竹刀をぶらりと下げた様子は、完全に全身の力を抜いていながら、自然体を維持し、四方から不意を打たれても、軽くあしらってしまえる実力があることを伝えてくる。
塚原卜伝の名は、剣術を志すのであれば、誰もが耳にするビッグネームだ。
生涯に二百十二人を斬って捨てた、日本史を代表する大剣豪。
俺も、足利義輝となった以上は、剣術を修めなくてはならないだろうと思っていたところに、その塚原卜伝が武者修行で京に立ち寄ったという情報が入り、接触を試みた。
弟子入り志願は簡単なことではなかったが、紆余曲折の末に、こうして、一時ではあるが、屋敷に滞在し、俺に剣術を叩き込んでくれているということだ。
これ以外にも、一応、弓、馬、槍、礼儀作法など、覚えることはたくさんある。それこそ、一日が二十四時間では絶対に足りないと感じるくらいだ。
弓を引くには、まだ力が足りないので基本だけ、槍を振り回すのも同じ、馬は去勢されていないので気性が荒く、なかなか難しい。剣術ならば、何とかなりそうという打算も込みで、打ち込んでいる。
最も、史実どおりに行くならば、俺の命は残り二十数年。まったく、死期を知っているということが、これほどまでの重圧になってしまうとは思いも寄らなかった。
明日をも知れぬ、とまでは行かないまでも、十分に早すぎる死であることは間違いない。
第一、戦時の武家、という時点で、命の危険はかなりある。もちろん、この時代は、どの家に生まれようとも、命の危険があることに変わりないのだが、それでも、平和な日本を知っているだけに、その事実がなかなか実感として理解できないでいるのは確かだった。
「今日はこのくらいにしましょう」
「まだ、一刻ほどですよ」
「その歳で一刻も動けば大したものでしょう。これ以上は身体に障ります」
言われて俺は口をつぐんだ。
確かにその通りなのだ。まだ俺の身体は、激しい運動ができるほどに成熟してはいない。精神は二十を超えていても、身体はまだ十に届かない子どもなのだ。そのあたりの加減を誤れば、取り返しのつかないことになりかねなかった。
「わかりました、先生」
「うん。よろしい」
俺は、先生に一礼し、屋敷の中へ戻る。
季節は、夏に近づきつつあり、気温の上昇に伴って、僅かな運動でも大量の汗をかくようになっていた。
身体は汗でべとべと、このまま部屋に戻っても、室内に篭った熱気で余計汗をかくことになりかねないと判断し、俺は、部屋の障子を全開にして、空気を入れ替える。
熱い空気が入ってくる風を混ざり合って散っていく。
その間に、俺は、ぬれた手ぬぐいで身体を拭く。平成の世であれば風呂に直行もあったかもしれないが、残念なことに、この時代、湯を湛えた湯殿はめったなことでは使えない。
将軍家の俺は使えるが、それでも、昼間から使うようなことは自重すべきことだろう。
「そういえば、萬吉は弓の稽古をしていたんだっけ。ちょっと見てくるか」
思いたったが吉日と、俺は即、部屋を出た。
武家の棟梁の屋敷だけあって、弓の修練をするための場所も完備されている。
修繕には多額の金が動いたらしいが、その金は、諸大名からの献金で賄われたらしい。特に、大内や大友なんかは、つながりが深く、これまでにもなんどか口利きをしてきた経緯があって、毎年多くの金を送ってくれる。
弥四郎であれば、またこうして出歩いていると文句を言ってくるものだったが、萬吉はそのあたり割りとゆるい。むしろ、一緒になって出歩くことも多く、完全に遊び仲間のような立ち位置にいる。
しばらく歩いていると、目的地についた。
十間ほどの距離にある的に、弓を引いて、狙いを定めている。
萬吉がまだ子どもなためか、弓も一回り小さいものを使っている。
張り詰めた緊張の中で、放たれた一矢が、的の中心に突き刺さった。
「おお」
思わず、感嘆の声が漏れる。
鎌倉より、武士の道は弓馬の道だった。萬吉はあの歳でもう武道の何たるかを肌身で感じ取っているのだろうか。
萬吉は、やはり天才肌の人間だ。
才気煥発という言葉がこれほどぴったりと当てはまる人間はそうそういるものではない。
弥四郎といい、三淵の家は、ずいぶんと才能のある遺伝子をお持ちのようだ。
ちなみに、この時点で、萬吉と俺が実は姉弟なんじゃないかという疑惑が出てきていたりするのだが、あまり気にしないことにする。
今はもう、細川の人間なわけだし。
萬吉が、息をついて、こちらを見る。
「あ」
それまで集中していたから、俺の存在に気づいていなかったのだろう。
弓を担いだまま、こちらにやってきた。
「菊童丸様。塚原様とのお稽古はいかがしました?」
「今日は終わった。だから、萬吉の様子を見にきたんだけど、邪魔だった?」
「いえ。わたしも今終わったところです」
息を整えて、萬吉が言った。
見たところ、汗もそんなにかいていないようで、剣術ほどに身体を動かさないからといっても、太陽光もあれば、この高い気温もある。それで、汗がこの程度ということは、萬吉の身体が常人をはるかに上回る機能を持っていることを物語っている。
「そういえば、弥四郎はどうしている?あれから、顔を合わせることもなかったからな。なにか話を聞いていないか?」
「姉上ですか。大法寺城にて、父上とともに、政務に励んでおります。ただ・・・」
「ただ?」
「最近は、機嫌のよろしくない日が多いそうで。兵の鍛錬に参加しては、槍を振るっているそうです」
それは恐ろしい。
弥四郎の豪槍が、何の罪もない兵を空高く舞い上がらせている光景が浮かんでくるようだ。
「なんでだろうな」
「それは、おそらく」
そこまでで、萬吉は言葉を切った。
それ以上は言わないほうがいいだろうと判断したのか。
解を知っていそうな口振りに、俺は眉根を寄せるが、このことは三淵の問題だ。あまり口出しして、根堀り葉堀り聞き出すのは礼を欠く。
俺はその件には、それ以上踏み込まないことにした。
「でも、機嫌が悪いのは、体調が優れないからなのかもしれないし、そうだな、近況報告も兼ねて手紙でも書くかな」
「それがいいと思います。姉上も喜ばれるかと」
「そこまで大げさなものじゃないきがするんだけど」
将軍家に生まれてからの生活は、当然のことながら、それ以前の平成の世での常識ではありえないことの連続で、精神が擦り切れそうになる。
とくに、傅かれての生活は、いまだに慣れることができない。
ものすごく、残念極まりないことだが、俺の前世は、人の上に立つ立場ではなかったのかもしれない。
そうでなければ、こんなにも精神的に辛い思いをするはずがない。
そういう観点で見れば、一線を守りはしたものの、あたかも姉弟のように接してくれた弥四郎は貴重な存在だったといえよう。
萬吉を引き連れて、部屋に戻ると、部屋の中の熱気は完全になくなって、日も傾き始めたので、過ごしやすい気温になっていた。
俺は、文机に向かい、紙とすずりを用意。弥四郎へ、手紙を書きはじめた。
夜、あまりにも月が綺麗だったので外に出た。
太陽が沈んでからは、ポツポツと見える篝火と月光だけがわたしの視界を保証してくれる。
しばらく、屋敷の外縁を歩いていると、
「おや、貴殿は塚原卜伝殿ではありませぬか?」
驚いた。
このわたしが、気配を察することができなかったということに。
常から気を張っているというほどではないが、ただの人ならば、近づかれただけでそれとなく分かるもの。この声の主は、おそらく武芸者。それも、わたしと同じか、それ以上の存在だろう。
視線を向ければ、わたしよりも少しばかり年上の男がこちらを見ている。
「いかにも、その通り。あなたは?」
「これは失礼を。先に名乗りを上げるべきでしたな。ああ、そのように警戒せずとも、害意はありませぬよ。それがしは一宮随波斎と申すもの。以後お見知りおきくだされ」
「なんと。あなたがあの」
さらに驚いた。そして、納得した。
一宮随波斎の名は、武者修行の旅の道中に、嫌というほど聞いた名だ。
わたし、が不意を突かれるのも不思議なことではなかった。
彼の得手は、弓。剣のわたしとは土俵が違うとはいえ、一流の武芸者が目前にいるとなれば、武者震いが止まらない。
「一宮随波斎の名。これまでも幾度となくわたしの耳に届いておりました。一度、お会いしたいとも。まさかここでお会いできるとは思っておりませんでしたが」
「それはこちらも同じこと。気まぐれに訪れたこの京で、殿下のお屋敷に招かれた上に、卜伝殿にお会いできるとは奇縁のここまできますと恐ろしいですな」
彼の言葉から、物腰柔らかい印象の内側に、剛毅で実直な性を感じることができた。
「して」
わたしは、彼の不思議な圧に飲まれないように、気を練った。
「あなたは、なぜこのようなところに?」
随波斎殿は、ゆっくりと月を見上げて、
「なに、月が美しかったものでね」
つまりわたしと同じということか。
この男は、武芸だけでなく、風流も解するということだろうか。
そんなふうに考えていると、随波斎殿は、ポンと手を打って、何か閃いたという顔をした。
「そうだ、せっかくの機会を見逃す手もありませぬな。どうです、一つ勝負してみるというのは」
彼は、どこからか取り出した酒瓶を振って笑いながら言った。
結論を言えば、随波斎殿は酒が飲みたかっただけだったようだ。
凡そ二刻、わたし達は話込んだ。普段、人と話すことの少ないわたしだけれども、相手が自分と同じ道を進む同業者であり、その中でもとくに名の知れた大人物だけに、会話の内容は実に興味深いものにだった。
お互いに、京に上るまでの武勇伝を語り合い、兵法に対する見解をぶつけ合った。
「それで、卜伝殿は、菊童丸様の剣術指南をされているとか」
「ええ。その通りです。お耳の早いことで」
「いやまさか。この話、少なくとも、この京にいて、武を志すのであれば、そのくらい知っていて当然のこと。これといって隠しているわけでもありますまい」
随波斎殿はまた酒を煽る。
わたしも負けじとそれに続いた。
「それで、菊童丸様は剣術のほう、どれほどのもので?」
それを聞いて、わたしは言葉に詰まる。
いままでの鍛錬を思い出し、随波斎殿にどのように告げるべきか思案する。
「天才、いや、鬼才と言ったほうがいいかもしれないですね。あの方は」
「ほう、それほどまでに」
「これまで、何人も弟子を取ってきました。真壁氏幹、北畠具教、松岡則方、諸岡一羽、この者たちはわたしが特に才があると見込んだ者ですが・・・それでも、菊童丸様には及ばないでしょう」
彼は驚いたように眼を見開いている。
それも当然か。
戦場で一騎当千の活躍をする猛者ばかりなのだから。
「それが真であれば、惜しい」
「ええ、本当に」
ただ、わたしたちのように、武芸のみの道に生きていたのなら、どれほどの傑物になっていたことだろう。
あの子の立場では、それは決して望むことのできないことだから、つい、そういうことを想像してしまう。
「わたしにできることは、この剣をただ叩き込むことだけですからね」
後どれくらい傍にいることができるのかわからないが、決めた。
あの子には、わたしの持つ技の全てを教えよう。