現在の将軍家の状況は、客観的に見れば右肩上がりである。
経済力がそのまま土地の広さに直結するものではないものの、河内十七箇所を直轄地とし、さらに城代として光秀を信貴山城に、昭元を二上山城に置いている。そこから得られる収入が、幕府経済を立て直しつつあった。
不穏分子がいないこともない。
特に北河内は、旧畠山家の残党勢力が木沢家残党と結ぶ可能性が高い。いや、十中八九そうなるだろう。その際に注意する必要があるのは南河内の動向ということになろうか。
だが、北河内には光秀と藤孝もいる。義政の影響力が確実に届く範囲とあわせても、北河内の大部分を領有している状況にある。また、義政と敵対するということは、その背後にいる幕府と明確に敵対するということに繋がる。一向一揆などの一揆衆ならばまだしも、義政の統治を快く思わなくとも、幕府に仇為すことはできないのが道理である。
おまけに木沢家と畠山家は結んでいたことも事実である。その木沢家と畠山家が幕府の敵として処断された今、反抗勢力に勢いがあるはずもなかった。
「ということで、北河内は三ヶ月で完全に降ったか」
「思ったよりもかかったね」
報告書を読みながら、俺は孝高と会話を交わす。
「だが、これで北河内がこちらのものになった。上手く行きすぎな気もするな」
「そうだね。正直、幕府にここまでの力があるなんて、あたしも思ってなかったし」
孝高の力とは権威ではなく権力のほう。特に、武力を背景にしたそれだ。自前の軍事力が貧弱なのが、室町幕府の欠点であり、広義的に見れば応仁の乱を押さえ切れなかった要因でもある。
「だが、これで畠山家の影響力はざっくり半減。文句言ってくる連中もいるが……」
「それは、適当に追い返しておけばいいよ。こっちには大義名分がある」
「如何なる大義も、使い方を誤れば暴君と化すだけだ。その辺りは慎重にしないといけない」
「うん、ここからが正念場だしね」
孝高は頷いた。
「さて、と。これからすべきことは?」
「もちろん、商業活動の奨励。農地の改革。そのほかにもたくさん。藤孝殿のところで、生糸の生産をしてたよね。まずは、あれを北河内全域に広めよう」
「農家の副業には最適だが、時間がかかる。一年二年では浸透しきらないだろう」
「そうだね。でも、あそこは堺に近い。貿易にも使えるし、川もある。河内十七箇所を押さえたのだって、そういう利便性も加味しているからでしょ?」
「確かにな」
最大の理由としてはそこではなく、三好長慶と三好政長の対立構造を崩すことだったのだが、別の視点からではそのようにもなる。
「藤孝殿は、今回の戦に同行できなかったことを悔やんでたよ」
「細川元常殿と晴貞の軍に同行させていたのだから仕方がない」
細川元常は元和泉国守護で、現勝龍寺城の城主である。専ら晴元の補佐に務めており、守護職はすでに息子の晴貞に譲っている。この二人と藤孝の関係だが、元常は藤孝の義理の父親なのである。藤孝の旧姓を三淵といい、父は元常の弟である。そうした繋がりから三淵家から養子に出されているのであった。つまり、晴貞と藤孝、加えて藤英はいとこ同士ということになる。
対木沢戦線では、和泉国側から晴元を支援すべく、藤孝と協力体制を取っていた。結果として、藤孝は幕府軍に加わることができなかったのである。
「藤孝の気持ちは嬉しい。が、それにかかずらってもいられない。なんといっても手が足りん」
問題は、人手不足。
義政や光秀が幕府を離れて領地を得たため、俺の元で働いてくれる者が減ったのである。武勇に秀でた者は離れていても困らないのである。だが、政治ができる者ともなると話が変わる。
「北河内のことは彼女たちに任せておけば問題はないだろう。だれか手隙の者がいないかなぁ」
管理すべき領地が増えると内政の充実が急務となってくる。今回の件で、俺の直轄地に光秀と昭元を派遣したわけで、そこは彼女たちがきちんと治めるだろうが、そこから上がってくる諸々の案件などに対応するための人手がないのである。
「この人材不足。どう対応すべきか」
そんな風に悩んでいると、じとー、とした目で孝高がこちらを睨んでいた。
「ちょっと、若様。あたしじゃ満足できないっていうの!?」
「いきなり何を言っている!?」
反射的に言い返した。
「だって、人が足りないとか言ってさー!」
「そりゃ、そうだろ。大体、お前だけ頑張っても意味ないだろうが。組織だぞ」
「わーかってるけどぉ。なんかヤダ」
孝高は、ぶす、と頬を膨らませる。
「孝高ほど有能なヤツが早々出てくるとは思ってない。ただ、お前が作業に忙殺されすぎるのも問題なんだよ。これからのことを考えても、孝高には余裕がないと。お前は主力なんだから」
孝高が仕事に忙殺されるということは、これから発生するであろう諸問題に対応する者がいなくなるということでもある。
名実共に、孝高は俺の知恵袋なのである。
だから、そのように告げると、
「主力ね。うん、当然よ。このあたしに勝るヤツなんてこの世にいないもんね!」
顔を上げてニカニカと笑い出す。調子のいいヤツだ。そう言った直後に、孝高は訳知り顔になって頤に指を当てて、思案を始めた。
「どうした、いきなり」
「あ、いや。実は、あたし、心当たりあるなって」
「何に」
「あたし並、ううん、もっとできる娘に」
自分が誰より一番発言の直後だけに、俺はびっくりして孝高を見る。この、唯我独尊というか、自信に満ち溢れた少女をして認めさせる才覚の持ち主。――――大体予想できるが。
「ちなみに、それは」
「竹中半兵衛って娘。あ、半兵衛は通称だからね」
「お、……おう」
それしか言えなかった。
予想通りとはいえ、場合によっては孝高よりも有名な天才軍師の名前が出てきた。
「竹中。確か、美濃の斉藤家に仕える一族に見える名だな」
いかにもな理由で、話を続けようと試みる。
「あ、そうそう。よく知ってるね!」
「光秀が美濃の出身だからな」
斉藤家の動きは、織田家の動きと関わりを持つ。俺の天敵とも言うべき存在。織田信長。うつけ姫は、未だに家督を相続していないという。
「その半兵衛殿は、こちらに来てくれると思うか?」
「うーん、どうだろう。正直、忠誠心は結構高いから、少なくとも自分から斉藤家を抜けることはないと思う」
「なんだ。ダメじゃねえか」
がっかりだ。
半兵衛さん。来てくれませんか。
「ちょっと。ダメとは言ってないじゃん!」
「ダメじゃないの?」
「自分からって言ったでしょ。要するに、斎藤家から追い出されれば話は別でしょ」
「それこそ、無理だろう。お前に匹敵する天才なら、早々手放したりもしないはず……」
「誰も彼も若様みたいには考えないわよ。佞臣暗君は、自分の地位が脅かされることには聡く、諫言を疎むものでしょ」
「なるほどね」
半兵衛の置かれている立場がまさしくそれだという。
だが、斎藤道三は暗君でも愚君でもない。あれは、蝮だ。才ある者を的確に重用するだろう。
「それでも、斉藤道三は長くない。歳もそうだし、娘との確執がある。近く、美濃は荒れる」
「呼べるか?」
「折を見て、書状を出すよ」
「ああ、頼む」
□
大和国平群郡。かつては島家、曾歩々々家、椿井家などが入り乱れ、覇を争った地である。応仁の乱後、それぞれの勢力は衰退して、筒井家に組するなど、強者の風下にたち、ついには島家以外はほぼ没落して名前を消してしまった。
「やはり反発は起きますね」
光秀はため息をつきながら馬に揺られる。
光秀が領しているのは平群郡。石高はおよそ六千石。環境の整備次第では一万石にも届くかもしれない土地である。かつて三つの勢力が争うことができたのも、その土地柄故であった。
「仕方がないことです。姉さんの所為ではありませんよ」
「ありがとう、秀満」
三宅秀満。光秀とは従姉妹の関係にある。本当の姉妹ではないものの、顔立ちは光秀とよく似ており、色素の薄い髪を後ろで束ねている。俗に言う総髪である。
「それにしても、姉さんが将軍家にお仕えし、さらには城を任されるまでになるとは。感涙が止まりませぬ」
「また、その話。もう、いいでしょう」
過剰なまでの反応に、光秀は初め戸惑い、そして最近は少々鬱陶しく思えてきていた。それでも、心からの祝福なので苦言を呈すこともできず、嬉しいという気持ちもあるので、苦笑して曖昧に流す。
すると、馬上にも関わらず、秀満は声を潜めて光秀に耳打ちした。
「後は、義藤様にお情けをいただけば完璧ですね」
「ぶふっ」
瞬間、沸騰したように顔を赤くした光秀が咽た。
「な、何を言って……!」
「何を驚いてるんですか。将軍家の若様は、今、時の人ですよ。しかも姉さんに至っては歳が近くて側近。近づきたくても近づけない者たちよりも優位に立っておられるのです。明智家のためにも、床を同じくする努力をされるべきです」
「あ、なたは何を言っているんですか。わたしなどが、容易く口にしてよい話題ではありません」
「まあ、確かに、将軍家の跡継ぎとなれば様々な障害があるでしょう。しかし、明智家の跡継ぎという形ではどうでしょう」
「どうでしょうって、いい訳ないでしょう!」
光秀が叱りつける。
対して秀満は、
「じゃあ、他の方とするんですか?」
聞かれた光秀は、ぐ、と口篭り、視線を逸らす。
「その聞き方は卑怯でしょう」
「嘘がつけませんねえ。相変わらずで安心しましたよ」
ニヤニヤしながら、秀満は笑う。光秀は苦虫を噛み潰したような表情となる。
「まあ、姉さんが一人で誘惑する度胸がないっていうのでしたら、わたしが代わりに……ひぅ!」
「今何か?」
「……なんでもないっすぅ」
冷や汗を垂れ流し、秀満は目を逸らした。
夏も近いというのに、寒気がした。光秀の凄まじいまでの無表情。口元は笑っていたが、目が本気だった。
光秀はコホンと空咳をして、
「左近殿。椿井城に篭る敵兵は五十ほどでいいのですね」
「はい。しかし、椿井城は戦のための城とも言うべきもので、これを落とすとなれば一筋縄では行きますまい」
椿井城は、平群郡内にある山城だ。光秀の居城である信貴山城があるのは生駒山地であるが、大和国内にはこの生駒山地と平行して矢田丘陵という丘陵が南北に走っている。光秀の治める土地はこの矢田丘陵と生駒山地の間の地域がほとんどである。
そして、目的地である椿井城だが、ここは古くから在地豪族の椿井氏が居城としていた城である。椿井氏そのものは、同じく在地豪族の島氏によってほぼ駆逐されているのであるが、木沢長政の蜂起に便乗して椿井城を奪還に成功。光秀の降伏勧告にも従わず、少数精鋭で今日まで抵抗を続けているのである。
「先鋒は地理に明るいあなたにお任せします。秀満には鉄砲隊を率いて敵の狙撃に努めるように」
「承知しました」
「はい、姉さん」
島左近。本名を島清興という。信貴山城下の平群郡に根を下ろす島氏の当主である。木沢長政に従ったために没落したが、その才を光秀に見出されて配下になった。明るい髪の、細面の女である。
「わたしたちの総勢は千五百。少々、無理をしていますが、椿井城を落とせばしばらくは大規模な戦いはないでしょう。ここが、踏ん張りどころです」
光秀は丘陵の上にある城を見上げて言った。
戦いは蹂躙とも言うべきものだった。
もとより、援軍の可能性絶無の状態での篭城戦。およそ二ヶ月に渡って、光秀による封鎖を受けていたために、じわりじわりと真綿で締め上げられるように椿井勢は衰弱していった。五十の精鋭も、人間の枠からはみ出すわけではない。結果、光秀の怒涛の攻城に耐え切れず椿井家は血の海に沈んだ。
すべてが終わってから、光秀はため息をついた。
「姉さん。どうかしましたか?」
「いえ、これで一段落ついたなと思いまして」
領内の反抗勢力はほぼ駆逐した。島左近を取り込めたことは、非常に大きい。新参者の光秀と異なり、左近はもともとこの土地の豪族である。顔が広く、領民とも昵懇の仲である。統治するには、その土地をよく知っている者がいると心強い。
「左近殿」
「はい、光秀様」
左近が光秀の下に跪く。
「この椿井城をあなたたち島家にお預けします」
「はッ! 謹んでお引き受けいたします!」
光秀の領国は生駒山地と矢田丘陵に囲まれた土地。天然の要害である。そして、この椿井城はその南端に位置する。つまり、左近にここを任せたということは、最前線の守りを任せることになるのである。
「この城の重要性はわかっています。だからこそ、あなたにお任せしたいのです」
光秀にとって、島左近は扱いきれるか分からないほどの高い能力を持つ武将だ。正直、城一つを任せるだけでは足りないようにも思う。
「は、仮に領内に敵が忍び寄ることがあれば、このわたしが先陣を切って打ち払います」
「はい。お願いします」
光秀は微笑んだ。
左近にとっても、没落し明日をも知れぬ身に落ちた直後に手を差し伸べてくれたのが光秀である。しかも、平群郡を任された光秀は、自分の家臣のみならず、島家のような新参にも同じような待遇を約束してくれた。それが、もともとこの地に住んでいて影響力が強いと言うことも勘案したのだろうが、敵対勢力の一員だった島家である。この扱いには驚いたし、感謝もしている。
島家は明智家の傘下に入ることとなったが、それも家を守るためには仕方がなかった。考え得る限り最もよい選択だったと思う。
そして、左近を手に入れることがで来た光秀としても、これは棚から牡丹餅だった。
左近の有能さは想像以上。武勇に秀でていながらも猪武者ではなく、書類仕事までできるのである。内政に関して負けるつもりはないが、武芸に関しては一歩譲ることになろう。
文武両道。義藤が聞けば悔しがるに違いない。何れにせよ、島左近の加入によって、光秀の領内統治は想像以上に円滑に進むことは明らかであった。
□
木沢長政の討伐で生じた諸問題が片付き、この件に関しては一応の終息を見た。
光秀の領地も昭元の領地も反抗勢力の駆逐に成功し、義政は藤孝と連絡を取り合い、北河内全域に目を光らせている。地理的な関係上、光秀・昭元・義政・藤孝がいる北河内はほぼ将軍家の傘下に入ったに等しく、これによって将軍家の力が大幅に膨らんだのは事実である。
そうして、膨らんだ業務にも、孝高とその仲間たちが切り盛りすることで落ち着きを取り戻し、論功行賞後のごたごたを乗り越えて、夏に入るころには以前からそうであったかのように、普通の生活が送れるようになっていた。
畿内全体で戦が小康状態となり、仮初の平和が訪れていたその時、誰もが驚愕する報が日ノ本中を駆け巡った。
――――足利義藤、名を義輝と改め将軍位に就く。