「苦労をかけるな」
将軍宣下に関わる手続きや祝宴などで、しばらく顔を合わせることのなかった父親との対面は、思いもよらない形で実現された。
「……少し、痩せましたか?」
「かもしれぬ」
父上は、布団から身体を起こして苦笑した。
彼が、祝いの席に顔を出さなかったのは、老いと心労からくる体調の急変が原因だった。
長年、苦労を重ねてきた結果がここにある。俺への将軍位の禅定も、今のままでは政務を採ることもできなくなるのではないかという不安からだろう。
この上ない好機でもあった。
俺が武を以て反乱を鎮圧したという風に世間が受け止めてくれる間に将軍位を移すことで、極めて落ち着いた将軍宣下が行われた。
幕府が力を取り戻しつつあるのでは?
そのような希望的観測を、公家たちがしている隙をついたといえばいいのか。
「父上。後のことは若い者に任せて、ゆっくりと養生してください」
「ふん、ワシとてまだまだいけるわ。義藤、いや、義輝か。そなたこそ半ばで倒れることのないようにするのだぞ」
「ええ。それは、もう」
死亡フラグでしかないこの身体に生まれた時に、すでにその未来は迫ってきていたのだ。今さら、言われるまでもないことだ。
「そなたは、ワシにはできぬことをした。今さら、ワシからそなたにかけるべき言葉はないのかも知れぬ……」
遠い目をした父上には、何が見えているのだろうか。
彼が送ってきた激動の半生は、俺のおよそ二十年の人生とは比べ物にならないくらいの戦乱だった。
なんといっても、父上が生まれたころには将軍位そのものが安定せず、複数の候補者でこれを争うという時代だ。応仁の乱からの体勢弱体化に加えて両細川氏の乱による幕政の崩壊が足利義晴の生まれた時代だった。その中で、晴元を味方に引き入れ、敵を討ち、幕府権力を収束しようという試みを続けてきたのである。
父上の努力の大半は、晴元との対立や軍事力の弱さなどによって阻まれてその都度京から逃れる羽目になった。それだけを見れば、世の人の目に弱い将軍と映っても仕方がない。
しかし、それほどまでの敗戦を重ねながらも幕府を守り、俺にバトンを回したということ自体が、もはや奇跡なのだと俺は思う。
ならば、彼の半生に無駄なところなど何一つもなく、そのすべてが、俺の今後に濃縮されることとなろう。
「父上の事跡を汚さぬよう、精進します。必ずや、この戦乱の世を終わらせてみせます」
父上の前でそう宣言するのに、何も躊躇うことはなかった。
彼が繋いできたものを受け継ぎ、先に渡すのが俺の役目だというのなら、それを阻むものを排除するのもまた、俺に与えられた使命に他ならないからだ。
□
――――左馬頭源朝臣義輝
将軍宣下といっても、前将軍が譲りますと言って、はいそうですかとはならない。
大体はそのようになるが、対抗馬の有無などでも変わる。武力のない朝廷は、武力に屈することが多いので、実質武力を持っている側が将軍を定めることになる。そうして将軍に昇り詰めた代表格が前将軍の足利義晴なのである。
そして、その跡を継ぐ俺には、嬉しいことにこれといった対抗馬がいない。
妹は出家しているし、対抗馬になり得る義維・義栄父子は今の俺に対抗できるだけの力がない。俺が将軍になるために壁となっているのは、資金の問題だけだった。
そして、その資金も、数ヶ月前までは四苦八苦していた財政がわずかにでも持ち直したことで掻き集めることができた。
木沢長政が蓄えていた財産を接収したからである。一国を支配するほどの財産を木沢家が持っており、北河内の畠山家も同様に資産を抱えていた。それらを取り込んだために、将軍宣下に必要な財源を確保することができたのである。
こうして、無事に将軍になることができたのは、すべて木沢長政の反乱を治めたからである。
それでも、やるべきことは目白押しだ。
なんにしても資金である。木沢長政と畠山家から奪った資金は莫大であるが、それだけで万全というには程遠い。
継続的に安定した税収を得る必要がある。
幕府の収入源は大きく分けて二つ。
御料所からの収入とその他現金収入である。
御料所は幕府の直轄地であり、河内十七箇所などがそれである。軍事力などはこの直轄地から徴集するので、これが少ないのは幕府の軍事力低下に直結する。
かつては百七十近かった御料所も、今ではめっきり数を減らしていた。御料所が全国各地に散らばっていたこととで、幕府の管理が届かなくなり、簡単に横領されてしまうという結果を生み出した。
やはり江戸幕府のように、要所要所を抑えた後は、自分たちの土地の近くに直轄地を配するべきなのだ。
そういった御料所の中でも、用途が定められたものもある。
例えば「御服料所」はその名の通り、衣服料のための土地である。今のところは摂津富田荘が残るのみだが、これも有名無実となってしまっている。要するに、御服料所はもうないのだ。
そのほか、俺たちの食料を提供する「供米料所」。指定された村々が月ごとの持ち回りで収めている。かつては月九石から十石を要求していたが、現在では集まりが悪く二石ほどになっている。将軍だけでなく、側近たちの食事もここから支給される。
そして、厩に勤める者には「厩料所」から、侍女たちには「行器料所」から支給される。ただし、後者は納銭方に余裕がある時に限られるので、現在は残念なことになっている。
そういった土地からの収入以上に、幕府が頼っていたのが現金収入の方である。
日本史の教科書にも載っている「土倉役」や「酒屋役」である。
土地の少ない幕府にとって、この課税対象は非常に重要であり、今までにこれらが傾きそうになった時は何度もこちらから支出して助けている。
この時代、酒の消費量はかなりのものになる。貧乏な公家ですら、ほぼ毎日のように酒は消費していたし、戦国大名たちも当たり前のように飲酒している。そのため、醸造業は大いに栄えている。天文法華の乱でかなり壊滅的打撃を受けたが、それも十年近い年月のうちに復興しつつある。
幕府の課税対象は壷単位で行われる。
そして、酒屋が繁盛すれば、その酒を扱う小売業者が現れるのは自然な流れである。彼らはそこで得た利益を運用して高利貸しを始める。土倉とはつまりは金融業者である。彼らが課税対象に選ばれたのは、たとえ課税されても倒れないくらいに利益を上げていたからだろう。
しかし、それも残念ながら収入として頼っていけるほどにはなっていない。
応仁の乱前、幕府は政所の経常費として六千貫文を支出していたが、この費用は酒屋と土倉からの税金で賄っていた。しかし、近年、ここから得られる収入は極端に低下している。具体的に言えば、応仁の乱前に六千貫文を酒屋役・土倉役で補っていたとすると、月五百貫の収入があったことになるが、近年の例で言えば天文八年では月額七貫文である。
目から汗が出てしまう
やはり復興を推し進めていかなければならないわけだ。
「あのさ、将軍になってから真っ先に税金で頭を悩ませないといけないってなんなん?」
「それ、あたしに言われても困るんだけど」
正式に俺の祐筆となった孝高がため息をつく。
「でも、税に頭を悩ませられるのは、まだいい方だよ。政局が落ち着いているからこそだからね」
「む……」
俺は、書状の束を見て眉根を寄せる。
新しく将軍になり政務をすることになった。古参の老臣たちのほか、三淵藤英なども正式に幕政に参画するようになった。
「いずれにしても京は米を育てるには向かん。商業で税を取るしかないだろう」
「どうすんの?」
「んー……関所を取っ払うとかかな。よし、俺の政策第一弾は関所の撤廃にしよう」
「はぁ? いや、関所撤廃って……関銭は!?」
「関銭は……惜しいけど、仕方ないだろう。この惨状だぞ。まずは、ここに商人を誘致することから始めないと」
孝高は絶句したように口をぽかんと開ける。
「た、確かに、そうかもしれないけど。かなりの賭けだよ?」
関所から得られる関銭は、唯一確実な収入と言ってもいいものだ。しかし、関所は幕府以外にも寺社や公家らが設置し、その都度関銭を取っている。流通を阻害する大きな要因になっているのである。
孝高が言っているのは、この関所を取り払うことによる危険を含めてのことだろう。寺社や公家との対立は避け得ないと。
「だから、今しかできないだろ。俺が将軍に就任して、上手いこと安定させられているのは、武力を見せ付けたからだ。侮られる前に、多少の無茶はやっといたほうがいい」
「……」
「それに座まで取っ払うわけじゃない」
迂闊に楽市を施していろいろと敵に回すわけにはいかない。あくまでも、一部の関所を取り払い流通を改善することで、商工業の発達を促進するのである。
「うーん……まあ、確かにそれなら敵は少なく済むかもしれないけど。それに、近江の観音寺城下では楽市楽座が行われているって言うし、そこから商人を吸い上げられれば、可能性はあるかも」
失敗すれば、それまで。ただし、成功すれば、商人の行き来は自由になる。これは、座そのものの力を弱めると同時に、寺社を弱体化するためのものでもあるのだ。
「まあ、どちらにしても人の出入りが増えれば、それだけ経済も回る。今の幕府は重商主義でやるしかないんだ」
農地が少ない状態では、商人から利益を上げるのが一番だ。
農地改革も進めるが、重要な土地がないのでは進めようがない。北河内を取れたのは、そういう意味でも大きい。軍事力で、ちょっとした大名と同格になったに等しいのだから。
「難しい話は終わりましたかね?」
小休止というところで、小次郎が声を挟んだ。
「あんたも少しは手伝ってよ」
「んぃ? あたしがやってもいろいろと引っ張るだけだと思いますけどねぇ」
「ぐ……」
ぐでっと脱力している小次郎を睨む孝高。小次郎は基本的に剣を振るう以外に能がない。あらゆる才覚が、すべて剣に吸い取られたような少女だ。必然、政治の話などできるはずがない。何せ、自分には管理できないからと褒美は土地ではなく現金で、身分もいらぬという始末なのだ。激務に曝されている孝高からすれば、働けと言いたくなるだろうが、残念ながら、彼女に期待できるものがない以上は、押し黙るしかなかった。
「ねえねえ、義ちゃん。お仕事終わったんなら、あたしと一戦しましょうよぅ」
小猫のように膝に纏わりついて上目遣いで甘えてくる小次郎は、童顔もあいまって非常に可愛らしい。出会ってこの方、暇を持て余しては剣(木刀)を打ち合わせるのが習慣化していた。それでも、最近は暇がなかったので、小次郎の相手をする時間もなかったのであるが、せっかくだし少しくらいならと思えた。断じて、小次郎の可愛さに屈したわけではない。
「って、ちょっと待ちなさい!」
そこに割り込んできたのは孝高だ。
「何を勝手に話を進めてんのよ! これが終わったら将棋をすることになってんのよ!」
「え?」
「なってんの!」
強い口調で孝高は言う。自分の後ろから包みを持ち上げ、中から将棋版を引っ張り出した。どうやら、本当にそのつもりで来たらしい。
頭を使った後に、君を相手に頭脳戦をしろというのか。それはそれで、かなりしんどいのですが……。
「えー、夜にすればいいんでは?」
「よ、夜は夜で忙しいからダメ」
「ふぅん」
小次郎はさして興味がないと言わんばかりの空返事をする。それから眠そうな目をこちらに向けた。
「じゃあ、同時にしますかね」
「自然な流れで無茶なことを言うんじゃねえ。それから、そろそろ膝から頭をどけろ」
がしゃがしゃと乱暴に俺は小次郎の頭を撫でる。
のそのそと起き上がる小次郎はぼさぼさになった髪を手櫛で整える。
「とりあえず、今回は小次郎の試合に付き合うことにするよ。孝高のはまた後でもできるだろう」
「むぅ」
孝高は唇を突き出して不満げな様子である。
一方の小次郎は珍しく目を輝かせた。
「それじゃあ、義ちゃん。すぐに広場に出ましょう。木刀はいつものでいいで……」
小次郎の言葉はそれ以上続かなかった。
突如現れた女性が、小次郎の言葉を打ち消す大音声で叫んだからだ。
「あなたは義輝様になんて言葉遣いをしているんですかーーーーーーーーーッ!!!」
ドン、と踏み出す少女は小次郎の細腕を絡め取り、間接を極めた上で廊下側に大きく投げ飛ばした。
細身の少女とはいえ、人間一人が宙を舞うほどの投げ。小次郎が勢いをつけていたわけでもなく、純粋な力技でこの奇跡をなしたのか。
投げられた小次郎は、これまた空中で身体を捻り、まるで体操選手のような身軽さでストンと体勢を崩すことなく着地して見せた。
「な、何事!?」
文官の孝高には一連の動きが目で追えなかったらしい。立ち位置を入れ替えた両者は改めて向かい合った。
闖入者は短い茶髪で、どういう原理か頭の上にある二本の触角が天を突かんばかりに逆立っている。
「藤英。どうした?」
彼女の名は三淵藤英。細川藤孝の実の姉で、俺にとっても姉貴分の女性だ。
「義輝様。突然、押しかけてしまい、申し訳ありません。実は、三条西家の方から仲介を頼まれまして」
「三条西家?」
三条西家は、有力な公家の一つである。
藤原北家閑院流嫡流転法輪三条家の分家である正親町三条家の分家である。三条家の中では最も力があり、本家である正親町三条家を勢力で上回り、転法輪三条家には養子を度々出したために、これは血筋の上では三条西家に取り込まれているといってもいい。
現当主の三条西実枝は、和漢に秀でた秀才である。
この三条西家は一子相伝の古今伝授を伝えていることでも有名だ。これは確か、日本史の教科書でも触れられていたような気がする。
「何かあったのか?」
「はい、それが……」
「義ちゃん、試合は?」
「なんですかそのふざけた呼び方は!」
藤英が小次郎にジャブを繰り出した。小次郎はこれを楽々と避ける。凄まじい反射神経だ。
ひょいひょいと避けていく小次郎に藤英は追いすがり、部屋を出て廊下で戦い始めた。
部屋の中には藤英の拳が風を切る音と、それをかわす小次郎の足音が聞こえるだけだ。
「ねえ、公方様」
「なんだ」
「あの人って、いつもああなの?」
「いつもじゃない。けど、時々な」
藤英は俺のことになると激しく感情を露にする。それが昔からの彼女の悪癖だった。
□
「えーと、あなたはどなたですかね?」
「そういえば初めまして。わたしは三淵藤英と申します。義輝様に一番最初にお仕えした者です」
拳を繰り出しながら、藤英は自己紹介をする。
「はあ、そうですか。あたしは、津田小次郎です。義ちゃんの弟子だったり護衛だったりします」
藤英の攻撃はまったく小次郎を捉えられない。すべて紙一重でかわされている。当初、感情的になっていた藤英も、さすがにこれは慄然とせざるを得ない。紙一重なのは、藤英の攻撃をギリギリで避けているということではない。完璧に見切り、最小限の動きで回避しているからできる芸当だ。
義輝が見出したという剣術の天才。噂には聞いていたが、まさかこれほどとは。
「しかし、その言葉遣いは許せません! 修正してあげます!」
「んぃー。でも、今さら変えろと言われても困るんですが」
本当に困ったような表情を浮かべて小次郎は言った。
正しい言葉遣いは教養の基礎。将軍の近くに仕えていながら適当なことをさせるわけにはいかないと藤英はまた一歩を踏み出した。
「何を言っているんですか。あの方は恐れ多くも征夷大将軍。わたしたち武家の頂点にいらっしゃるお方です。どこの馬の骨とも分からぬあなたが触れ合うことすら憚るべきだというのに!」
「?」
小次郎は首を捻る。
藤英が言いたいことはなんとなく分かる。いくら小次郎が政治に疎くても将軍が何者なのかは正しく理解している。その立場、重責も分かっている。だからこそ、小次郎は公の場に姿を見せることはないし、政治的な話を義輝にすることもない。小次郎は傍目からすれば、何も考えていないように見えるが、実のところそうではない。自分と義輝の関係を主と家臣。あるいは剣士と剣と規定し、彼に使われるためだけに存在するとしている。だからこそ、その規定からはみ出す行為には極力関わらないのである。自分には能力もないし、その点に関して彼の助けになることはできないからである。
つまり、戦以外の『公』に於いて小次郎の出番はなく、義輝が無防備を曝す『私』の部分にその働きが期待されていると解釈している。
「でも、身近な人間にまで堅苦しくされるのは、辛いことですが?」
「ぐ……!」
藤英は弱所を貫かれたというように目を見開く。
短い期間ながらも義輝の側に控えてきた小次郎は、彼の性格を理解していた。天然であり、『公』の縛りを気にしない小次郎だからこそ、感じ取ったことを感じ取ったままに行動していたのである。それは歴史や伝統に縛られた古い血筋にはとうていできないような、常識はずれの発想であった。
「む、ぐ……」
だが、藤英は歴史や伝統を重んじながらも、その思考は基本的には義輝のためという部分に根を下ろしたものだ。
小次郎への攻撃の手が止まった。
ここで小次郎の義輝への軽口を見逃すのは幕臣として問題がある。だが、一個の義輝という人物を重んじるのであれば、それは許されてしかるべきではないか。小次郎の一言で、藤英は思考の渦に巻き込まれてしまった。
「し、しかし、いくら身近な人間とはいえ、あのようにべたべたとする必要はないはず!」
「あのようにとは?」
「あれです。わたしがお伺いするまで、義輝様の膝にすがっていちゃいちゃとッ」
「別にいつものことですが?」
「いつッ……!?」
喉を詰まらせたように、藤英は咽た。
「で、では、あなたは義輝様は義、よ、ぐ、あ、そ、その妙な呼び方で呼ぶだけでなく、た、た、体温を感じるような真似を何度となく繰り返してきたと?」
「ああ、義ちゃんはあったかいですね。冬の間は布団がぬくぬくとしてます」
「 」
戦慄した藤英は壁に頭を打ちつけた。そして、ゴンと壁を拳で殴りつける。凄まじい力を受けた壁が衝撃でミシリと音を立てた。
「な、なな、なんてことを。あ、あああああったかい? なんですかそれ、日本語? え? こ、こっちが書状に義輝様を感じて慰めている間に、馬の骨がご本人としっぽりと……? なんてうらやましけしからん……!」
「?」
小次郎はぶつぶつと呟き始めた藤英を見て、再び首を傾げる。
生気のない目で藤英は小次郎を見た。
なるほど、よくよく見れば、小柄で童顔で目は大きく髪は癖があるがさらさらとしている。色も白く、線も細い。その一方で上半身の一部の盛り上がりは身長に対して妙に大きい。おそらく、自分や藤孝と同格だろう。
おまけに剣の腕は義輝に比肩する。
剣術を愛好する彼にとっては同好の友というわけだ。
「まさか、これは……かなり、厄介……?」
想定外の強敵の出現に、藤英は背筋が粟立つのを感じた。
「おい、藤英」
なんとしてでも決着を、とまで追い詰められていた藤英を止めたのは、義輝だった。
「はい、義輝様!」
とりあえず、小次郎のことは水に流して義輝の方を見た。
藤英と小次郎を追ってきた義輝は、藤英に尋ねた。
「小次郎とじゃれるのはいいんだが、三条西殿からの用件を言ってからにしてくれないかな」
「あ、そ、そうでした。申し訳ありません。つい、小次郎殿に気を取られてしまって……」
藤英は顔を赤くして己を恥じた。
小次郎の行為を前にして冷静さを欠いてしまったが、結果として義輝の前で粗相をした挙句、職務の遂行に支障をきたしている。これでは、小次郎を責めることなどできない。
「うう……」
「とりあえず、部屋に来い。三条西殿を持ってきたからには、大切なことなんだろう?」
義輝に促される形で、藤英は義輝の部屋に戻った。
□
落ち着きを取り戻した藤英は俺の前に座って、話を始めた。
「簡単に言いますと、青苧座で問題起きていまして」
「青苧座か……それで三条西家が動いたのか」
「はい」
俺は腕を組んで、青苧座のことを思い返す。
青苧というのは、衣服の原料となる植物のことだ。そこそこ高級品で、青苧から作られた着物は丈夫で涼しく夏場には持って来いだ。庶民から武士、果ては公家までお世話になっている。
青苧座は、そんな青苧の流通を握る座である。そして、その青苧座の本所が三条西家なのである。およそ二南北朝末期から、彼らは本家から青苧座の権利を手に入れ、収入源としていた。
「青苧座で何が起こっているんだ?」
「実は、座を無視した取引が盛んに行われているとのことで」
それを聞いて、俺は眉根を寄せた。
座を無視した取引というのは、自然な流れで楽市を形成しつつあるということである。座から収入を得ている公家にしては堪ったものではない。しかし、この問題とは別に、座と公家との繋がりは俺の頭を悩ませることになるわけだが、今は置いておこう。
「その取引は、京ではないな? ということは越後か?」
「はい、そのようです」
越後府中は青苧の一大生産地である。京の天王寺苧座は越後府中に赴き、独占的にこの原料を買う。そして、下請けのような形で坂本苧座や京中苧座に独占的に売る。こうして越後から近江坂本を経由して京まで至る販売ルートが確立され、それが座という形で独占されているために競合する者もなく、青苧自体の需要が伸びているために大きな利益を上げているのである。
三条西家はそれらの本所だ。青苧座は、三条西家に年間百五十貫の苧公事を納入する代わりに独占販売権を得るという相互扶助の関係を作っている。
その関係が崩れかかっているということか。
「もともと、越後の長尾家が出てきた頃からずっとそうだっただろう?」
「はい、それは、そうなのですが……」
「その座を無視した商人がかなり幅を利かせてきたということか」
藤英は頷いた。
座の優位性が失われるのは、時代の流れというものだろう。三条西家の力の衰えや、下克上の風潮、なにより、生産地が越後というのが致命的だ。京から遠すぎる上に、海運に強い地理。作れば儲かる商売を座だけに任せておくのはもったいないと商人たちが思うのはむしろ当然である。
「そうか。なるほどね……」
「三条西家としては利権を守っていただきたいとのことですが」
「完全には無理だろう。甘い蜜を知った連中が多い上、越後はここから遠い」
「そうですね」
無論、放置するわけにもいかない。
このままでは青苧座は完全に崩壊してしまう。そうなれば、三条西家の財政にも罅が入る。
「確か、越後の国主は今……」
「長尾景虎殿ですね」
「ああ、そうだ」
心臓がどくんと高鳴ったような気がした。
それはそうだろう。なぜなら、あの上杉謙信だ。戦国時代でも特に有名な武将の一人。義に篤かったとも伝わる名将だ。
「青苧に関しては、こちらだけでは話にならん。越後の方から取り締まってもらう必要がある。孝高とも話して決めることにする。すぐに越後側の話が聞きたいな。誰かいるか?」
「それでしたら、長尾殿の家臣、神余親綱殿が在京していらっしゃいます。青苧のこともよくご存知です。お呼びしましょう」
「ああ、そうしてくれ」
藤英はすぐに神余親綱の呼び出しに向かった。
青苧は越後の重要な収入源でもあるが座の崩壊は越後側にとっても負の側面しか生まないはず。自由すぎる商取引は管理が難しいのだ。楽に課税できる座はそういう意味ではありがたい存在だった。
座の力をそぎ落とした上で、三条西家の顔を立て、そして越後側に利するようにする。
これは難しい問題に直面したことになった。
紛争解決は重要な仕事の一つでもある。気合を入れて取り組まねばならないと、俺は気持ちを引き締めた。
かんべえちゃんが公式でメインヒロインを張ると聞いて