戦国時代。
室町幕府という統制機構が機能せず、全国各地の大小様々な武将たちが日夜領土争いを繰り広げる殺伐とした時代である。世には暗雲が立ち込め、罪のない民草が貧窮に喘ぎ、数多の命が無念の中に消える。それが、この時代の在り方である。
しかし、それは全国各地で行われる戦を平均して見た時の話である。
大きな戦があった直後などは、概して一時の平穏が訪れるものである。
例えば、畿内一帯を見ると現在小競り合いこそあれ、戦と呼べるほど大きな争いは起こっていない。小康状態にあると言えるだろう。それは、畿内で大勢力を築いていた木沢長政が討ち取られたことと、将軍が代替わりを果たしたことによって、畿内の勢力図が塗り替えられたからである。弱小勢力は勝ち組に就きたがるものであるし、何よりも将軍が力を示した以上、明確な権力構造が固まるまで積極的な動きが取れないのである。
こうした事情に重ねて、将軍家の家臣たちによる北河内や大和西部での旧勢力の迅速な駆逐作戦があった。今、小勢力がそのままで動くのは下策。大勢力であっても表立って動けない。互いに牽制しあいながら、様子見に徹しているのが畿内の現状だ。
遥か未来の言葉で表現すれば、それは冷戦状態ということになろう。
訪れたのは仮初の安息。
次の争いに向けての準備期間に過ぎない。しかし、僅かであっても安息というものは心に余裕を与えてくれるものである。
細川藤孝は、真っ青な空を見上げて背筋を伸ばした。
畿内の動乱が収まったことを祝う宴が、花の御所で前日まで開かれていたのである。公家や諸将を招いての大掛かりな宴は、三日三晩続き、歌や舞、豪奢な食事が繰り出された。
夜が明けて、公家や領地が近い者たちは去った。
今、この場に留まっているのは、義輝に近い位置にいる家臣だけである。
「藤孝殿、どうかされましたか?」
ぼんやりと庭を眺めていた藤孝に、光秀が声をかけた。
「明智殿」
「何か、考え事でも?」
光秀は落ち着きがあり、頭もいい。藤孝ほどではないにしても、光秀もまた教養人として知られている。そして、この二人は互いに文のやり取りをするほどに、仲がいいのである。
藤孝は頭を振って、笑った。
「いいえ、なんでもありません。宴が長かったものですから、少し疲れただけです」
「なるほど、それは確かに。藤孝殿は特にお忙しかったでしょうし、お疲れなのも分かります」
藤孝は歌人でもある。非常に優秀で、公家からの評判もいい。歌会に出れば、必然的に標準以上の作品が求められることになる。立ち居振る舞いにも気をつけねばならない環境でもあり、それが三日も続けば参ってしまうのも当たり前のことだろう。
「それでも、小まめに休憩は取りましたし、どうなるというわけでもありませんが」
「疲れは見えないところに溜まるものです。目一杯楽しんだ後に目一杯休むというのもおかしいかもしれませんが、それでも身体は大切にしなければなりません」
その光秀の言い回しが面白かったのか、藤孝は微笑んだ。
「確かに、楽しんだ後に休息というのも奇妙ですね。宴を仕事と捉えれば別ですが」
「仕事という面があるもの事実です」
にべもない言い方だが、こうした宴席は方々の勢力の代表が集う場でもある。顔を売り、人となりを知り、力関係を整理するために利用できるのである。
「ですから、休むべき時は休まなければ」
「そうですね。一段落したら、休息を取ることにしましょう」
藤孝は頷いた。
気を張る必要もなくなった。ならば、多少羽を伸ばしても構うまい。
事件が起こったのはそんな折だった。
□
「下着泥棒?」
碁盤を挟んで対峙する黒田孝高が、唐突に妙な話題を出してきた。
白い碁石を指で玩ぶ孝高は、軍師だけあって情報通だ。それが、いきなりそんな話を振ってきたのだ。
「そ、なんか町で流行ってるみたいだよ」
「そんな流行病みたい言うなよ。たかが下着泥だろ」
町の治安を乱しているのはいただけないが、その程度の罪ならわざわざ将軍が動くまでもない。
「まあ、そうなんだけどね。なんでも、女物の下着ばかり狙う悪党だとかで、妻帯者やら遊郭やらはかなり警戒してるみたいだね」
「そりゃ、男物を狙うヤツはあまりいないだろうよ」
可愛い女ならば許す。男なら笑い話にはしてやろう。そして、後々どこぞの寺にでも放り込んでやる。坊主には衆道が流行っているらしいからな。
「下着泥棒なんて、可愛いものじゃないか。どうせ、盛ったおっさんだろ」
「それが、目撃証言なし。恐ろしいことに履いている下着をいつの間にか奪い取っているらしいよ。眉唾だけどね~」
「ほう、それはまた……」
ありえんだろう。履いている下着を奪うだなんて、そんなことは。そんな神懸かった技術があるなら、見せてもらいたいものだ。
しばらく無言になって手を動かし、碁石を並べていく。
それから、一旦休憩して茶菓子に手を出したとき、開け放っていた障子戸から一匹の猿が室内に飛び込んできた。
「ひやっ」
不意を突かれた孝高の肩がビク、と跳ねた。
「な、なによ。ただの猿じゃない。脅かさないでよね」
「ただの猿ではないだろ。首に風呂敷が巻いてあるぞ」
若草色の「ぬ」の風呂敷を首に巻いている。飼い主がいるのであろうか。
よくいるニホンザルだ。山に行けばいくらでも会えるので、別段珍しくもない。それでも、ここまで近くで見るのは初めてのことであるが。
「なんで、こんなところに飛び込んできたんだ?」
「さあ。もしかして、お菓子の臭いに誘われたのかな」
孝高は自分の芋羊羹を小さく切って、紙切れに乗せ、猿の前に置いた。
「おいおい、人間の食べ物の味を覚えさせるなよ。癖になるとまずいぞ」
「大丈夫だよ。これくらい」
猿は孝高の差し出した羊羹の欠片を一口で食べた。それをみた孝高が面白そうに笑う。まるで好奇心に憑かれた子どもだ。
そして、キッ、と一鳴きして猿は部屋を飛び出していった。
「なんだったんだ、アイツは?」
「さあ……」
孝高が首を捻る。僅かな邂逅ではあったが、妙に人に慣れた猿だったことは分かる。あれは、人に飼われたことがある猿だ。あるいは、今も飼い主がいるのかもしれないが。
変わった猿もいるものだ、と俺は芋羊羹を口に運んだ。
ドタドタと慌しい足音が聞こえてきたのはその直後のことだった。
「失礼します。義輝様」
駆けてきたのか、軽く息を荒げて藤孝がやってきた。その後ろには光秀と藤英がいる。
「なんだ、お前たち。騒々しいな」
「申し訳ありません。お尋ねしたいことがありまして」
「尋ねたいこと?」
「はい。今ここに猿が来ませんでしたか?」
藤孝の言葉に、一瞬だけ思考する。
俺が言葉を発するより前に、孝高が答えた。
「来たよ。羊羹だけ食べて出てったけど?」
「チィ、逃がした」
孝高の答えに藤英が露骨に舌打ちをする。
どうやら、この三人はあの猿を探してこの部屋まで来たようだ。
光秀は深刻な顔で、
「その猿が昨今巷を騒がせている下着泥棒なのです」
「はあ? あの猿が? 光秀、あんた、大丈夫?」
「わたしとしては、すでに被害に遭われているのにこうして落ち着いている黒田殿を心配したいところですが……」
と、光秀は視線を細めた。
「何言ってんのさ、光秀」
呆れたような孝高の表情。彼女は、光秀と向き合うべく腰を軽く上げ、それから小さな悲鳴を上げてしゃがみこんだ。
「……なんで、どうして……いつの間に……?」
南蛮渡来のすかあとを抑えて、ぶつぶつと言っている。
「まさか、本当に?」
「ええ、おぞましいことですが」
「あんたたちも、やられたわけ?」
孝高の問いに、光秀も藤孝も藤英も眉根を寄せて怒りを露にした。
「不覚を取りました。分かっているだけでも、この屋敷にいる女性の半数が被害にあっています。初めは女中だけだったようですが、我々にもあの猿は手を出すようです」
「なんて、こと……」
ぐぎぎ、と孝高は恨みがましい表情となり、叫ぶように言った。
「殿下! 勝負は預けるわ。あたしはあの猿をとっ捕まえに行くから!」
すかあとの裾を押さえながら、孝高は飛び出していった。後に三人が続く。見えないところで、聞き覚えのある女中たちの雄叫びが上がっている。これはまた、とんでもない騒ぎを持ち込んでくれたらしい。
「義ちゃん」
スッと、背後に小次郎が現れる。
「どうした」
「黒ちゃんの下着、黒でしたね」
「そうだな」
思わず、相槌を打ってしまった。
「……やっぱり、見てたんですね」
「…………………………………………………………」
「ちなみにあたしは……」
「言わんでいいぞ」
□
そこは、普段この屋敷にいる武将が剣を鍛え、弓術の腕を競い、馬を乗り回すための広場である。最近は義輝と小次郎の剣術試合を中心に利用されているのであるが、この日ばかりは毛色が違った。
集まったのは二十人ばかりの女性たち。鉢巻を締め、木刀や木製の薙刀を手にし、目を怒らせている。
将軍家に仕える女中や女将たちである。
「お集まりいただいた皆様は、すでにこれから為すべきことをご理解いただいているかと存じます」
集団の前に出た藤英が、じろりと全体を見回した。
「本案件の主犯を早急に見つけ出し、相応の処置をせねばなりません。我々が味わわされた恥辱を雪ぐのです。では、明智殿」
藤英が隣に立つ光秀に後を促した。光秀は、神妙な面持ちで一枚の紙を取り出し、そこに書いてある文章を読み出した。
「本件の犯猿は昨月から京の町で噂されている下着泥棒と同一犯であると思われます。遊郭などを中心に犯行を重ねておりましたが、警戒が厳しくなったために、不敬にも室町殿を襲撃したと見られています。たかが猿とはいえ、将軍御所で狼藉の限りを尽くした下郎を放置するわけには参りません。また、放置することで帝や公家の方々が被害を受ける可能性もあります。以上の理由から早々にあの猿めを捕らえ、然るべき報いを受けさせなければなりません。そこで、猿を捕獲した者には、殿下より以下の報奨が与えられることとなりました。
一、八坂神社前腰掛茶屋「柏屋」のお食事券一年分
二、唐物の天目茶碗
三、天皇陛下直筆「源氏物語」全巻」
どよめきが広がった。
それを、光秀は視線で制止する。
「また、捕らえた猿は湯起請にて裁くこととする。以上になります。何か、質問はありますか?」
特に、答えがあるわけでもなかった。
「本件は京の安寧のためにも素早い解決が望まれます。時間をかけていると、男性も捜索に乗り出しかねません。みなさん、それがどういう意味か分かりますよね?」
下着泥棒の猿を捕らえる → 下着の在り処が分かる → 第二の下着泥棒現る。
そういった方程式も考えられる。
この問題に関して、男の信頼度は極限まで引き下げられるのである。
そして、一通り光秀が概要を話し終えた後、藤英が拳を振り上げて叫んだ。
「殺る気はあるかァーーーーーーーーーーー!?」
「おおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!」
「総員、かかれェーーーーーーーーーーーー!!」
こうして、史上希に見るドキ☆乙女だらけの下着泥棒殲滅演義が始まったのである。
□
それぞれの武器を持ち、猿を探す一同。
屋根の上、軒下、壷の中。敵は神出鬼没。しかも身体の小さな猿だ。人では入り込めない小さな隙間にも潜り込むことができるだろう。
猿が屋敷を後にしている可能性もなきにしもあらず。そうなっては、人手を増やし、文字通り草の根分けて探し出さねばならなくなる。
「せっかく、義輝様とお会いできたというのに……」
ため息をつきながら義政は廊下を歩く。
下着泥棒の噂は以前から聞いていた。彼女は伊賀国と北河内の守護を兼ねることからも分かるとおり、保有する領土面積は将軍家内でも随一である。しかし、それ以上に伊賀国との繋がりから忍を多く召抱えており、彼女自身も率先して情報収集に当たるなど、情報戦に特化した能力を持っている。もっとも、下着泥棒の情報はそれほど重視していなかったので、まさか犯人が猿だとは思わなかったが。
ともかく、光秀が先ほど語ったように、下着泥棒の騒動はさっさと終わらせなければならない。義輝が将軍に就任して早々、下着泥棒程度に対処できないのかという悪評を出すわけにはいかない上に、あの猿が御所に入ってしまえば大騒動だ。間違っても帝が被害に遭うことがないようにしなければならない。
「いたぞぉぉぉぉぉぉッ! いたぞぉぉぉぉぉぉッ!」
「エロザルめぇぇぇぇッ!」
雄叫びにも似た声が響く。
害獣駆除は経験したことがないのだが、報奨には興味がある。どういう理屈で天皇陛下の私物が出てきたのか分からないが、天皇陛下直筆の源氏物語写本となれば、手に入れたくなるのは当たり前のことで、義政は声がした方に向かって歩を進めていくのであった。
「む……いや、これは……」
しかし、敵も相当場慣れしているらしい。
もともと猿の運動能力は人よりも上だ。捕獲するのは難しくて当然である。それでも、敵の機動力は異常に過ぎた。
義政が現場に辿り着いたときには、発見者とその友人の計四人が反撃にあって悔し涙を流していた。
「あの、大丈夫ですか?」
「仁木様。申し訳ありません……わたくし、もうここまでです……替えの下着を取られました」
がっくりと項垂れる女中その一。女中服の上からどのように脱がしたのか皆目見当が付かないが、恐るべき手管である。
「して、猿は?」
また別の女中に尋ねる。彼女は天井を指差した。
「あちらの穴から天井裏に……」
「あの穴ですか」
それは天井板が一枚分だけ外されてできた空洞であった。最近まで続いた長雨によって、一部が朽ちてしまったために取り替える作業を、今日、行う予定だったのだ。
「さすがに、この状況で上に上がるわけにもいかず」
「確かに、それは無理でしょうね」
下着が取られた状態で上に昇ればどうなるか。それを考えれば、羞恥心を感じない人間か、羞恥心に特別な感情を抱く人間くらいしか進んで上に行こうとはしないだろう。
「分かりました。では、わたしが行ってきます」
ならば、この場で天井裏に乗り込めるのは義政だけだ。
義政は邪魔になる太刀を外し、女中に預けてから、小太刀のみを佩いて天井の穴を目掛けて跳んだ。伊賀国の守護たる彼女は、伊賀者を味方に引き入れるために彼女自身が忍の技を学んだのである。人の頭を飛び越えるくらいは余裕でできる。義政は、懸垂の要領で上半身を天井裏に潜り込ませる。
天井裏は埃っぽく、薄暗い。光源は義政が入り込んだこの穴だけだ。空気が篭っていて、どんよりとした重苦しさがある。
全身をするりと天井裏に入れて、目を凝らし、周囲を探る。
「いた」
視線の先に、動くモノを発見する。
暗闇の中に黄緑色の光が二つ。件の猿は、義政を待っていたとでもいうように堂々と我が身を曝している。
「よし、そのまま動くな」
義政は片手を小太刀の柄に据え、ゆっくりと立ち上がった。
「う゛」
ごす、と鈍い音が響いた。
後頭部を角材に打ち付けた音である。
脳天に重く響く一撃で涙目になりながら、義政は自身の失敗を悟った。
ここでは、義政は身を屈めなければならない。必然的に機動力は大きく削がれる。その一方で、敵の猿にその制限はない。
猿と目が合った。
どういうわけか、笑ったように見えた。
□
「義政様がやられたああああああ!」
「おのれ、害獣の分際で御頭を!!」
「クソケツに唐辛子ぶち込むぞ、ワレェッ!!」
「おら、それよこせや、ダボがァッ!!」
「あの御頭が紐だとォ!」
女中の声に混じり、不参加組の男性陣からも非難の声が上がる。
「みんなバカなんだから……」
呆れたような顔をして、孝高は茂みの中に身を潜めていた。
「そもそも、猿相手に追いかけっこで勝てる訳ないでしょうに」
人間は知恵の生物であり、身体能力では野生動物に大いに劣る面がある。熊に殴り合いを挑める猛者はそうそういないし、馬と競争するだけ無駄である。また、猿の俊敏性を相手に人間にできることなど高が知れている。
故に、用いるべきは頭なのだ。
今、庭には猿を仕留めるための罠が仕掛けられている。古典的ではあるが、堅実な罠だ。
「未だに被害に遭っていない昭元殿の下着なら、絶対に食いつくはず」
「だから、なんでそうなるんですかーーーーーーーーー!!」
同じく茂みに身を隠していた昭元が孝高に食って掛かった。
「これも調査の結果から見えてきたことなの! あの猿は基本的に同じヤツは狙ってないのよ。反撃で下着を取ることはあっても、自分からは取りにいかない。信じがたいことだけどね」
「だからって、わたしのじゃなくても……」
しくしくと啜り泣きながら、罠の様子を眺める。猿はどうでもいいが、自分の下着が白昼堂々庭の真ん中に置かれているのがあまりにも恥ずかしい。
一応、これでも武士の中では将軍家に次いで高貴な細川京兆家の跡取りなのに、何故猿狩りに参加せねばならないのか。まして、下着を衆目に曝しているのか。
「あの猿が帝や公家に手を出したらそれこそ一大事なんだからね。幕府が現状を把握していながら対処を怠ったなんて風聞が立ってみなさい。せっかく高まった評判に傷が付く」
「そんなくだらないことで幕府が揺らぐかもしれないなんて……」
呆れるべきか、悲しむベきか悩みどころだ。
「くだらないことほど話の種にされやすいし、人は面白がって脚色を加えるよ」
昭元はため息をついて自分の憐れな下着に視線を戻した。
「あ……」
すると、そこに近付いてきたのは一匹の猿である。
首に風呂敷を巻いた姿は、まさしく下着泥棒を繰り返す下郎に相違ない。
猿は周囲を見回し、人の気配を探る。幸い、昭元と孝高は風下にいたので、匂いで見つかることもなかった。
「よし来た、手を伸ばせ、イケイケ」
「お願いだから、無視して。お願い」
二人の相反する願いを他所に、猿は恐る恐る下着に近付いていく。そして、ぴょんと飛んだ猿は、昭元の下着に思いっきり飛び込んだ。
「来たあああああああッ」
孝高が罠を発動する。
「いやあああああああッ」
昭元が悲鳴を上げる。
猿はこの時初めて二人の存在に気が付いたらしい。だが、時既に遅し。振り向く時間が逃れるための時間を浪費させた。真上から落ちて来る籠が、猿に覆いかぶさった。
「ヒャッハーッ! これが人間様の力ってものだよ!」
得意げに孝高は茂みから飛び出し、後を追うように昭元が続く。
「どうだ、色ボケ猿。茹でダコになりたくなかったら、あたしのヤツさっさと返しなさいよ」
そう言って、孝高は編み籠の隙間から中を覗き込んだ。
「え……」
しかし、驚いたことに、そこにあったのは風呂敷だけだ。猿の姿はない。
「なん……だと……?」
「黒田殿。あそこです!」
昭元が先に猿を見つけた。
その猿は下着が詰め込まれた風呂敷だけを籠の中に残し、屋根の上に飛び上がっていたのである。
「まさか、あれが俗に言う変わり身というものでしょうか」
「そんな猿がいてたまるか!」
しかし、現実に孝高の罠をすり抜けた猿は、依然として健在だ。
「孝高殿、昭元殿!」
駆けつけてきたのは光秀と藤孝だ。共にこの御所内では初期の被害者である。
「ごめん、逃がした」
「おのれ、不届きな猿め」
猿は屋根から飛び降り、挑発するように甲高い声を上げる。それが笑い声のように思えて、尚一層苛立ちが募る。
光秀が睨み付ける前で、猿はぴょんぴょんと飛び跳ねる。挙句、猿は手持ちの二枚の下着を空に翳した。右手には桃色の下着、左手には水色と白の縞パンである。
「あ、わ、わたしの!」
昭元が目を見張り、
「その手を離せ、下郎ッ!」
光秀が自身の下着を取り返すべく木刀を振りかざす。
猿は器用に光秀の木刀をかわし、空中で右手の下着を履くという神業を披露した。
「もう止めてええええ!」
昭元が紅くなった顔を隠して、その場に座り込んだ。
キーキーと猿は笑い、光秀や藤孝の反撃を飄々とした態度ですり抜ける。終いには光秀の下着を頭から被ってしまうくらい余裕がある。
「ぬああああああああ!」
雄叫びを上げる光秀。しかし、怒りに我を失った光秀の剣は猿を捉えることができない。
「昭元の下着を履いて、光秀の下着を頭から被るなんて、いったい何を考えているの、あの猿は?」
孝高は猿の変態力が理解できず、半ば自失してしまう。
ちょこまかと走り回る猿を前にしては、暴れ牛を正面から受け止め、投げ飛ばす藤孝の怪力も意味がない。
猿は小ばかにするように攻め立てる光秀や藤孝の間を走り抜け、追従していた乙女たちの下着を華麗に剥ぎ取ると、それらを両の腕に通して跳ぶ。色取り取りの下着を纏う姿は、さながら蝶のようですらあった。
猿は庭を横断し、松の木をよじ登る。
「あ、……まずい、外に出る気だ!」
「逃げられるぞッ」
「逃すなッ!」
しかし、木に登った猿に勝てる人間がいるだろうか。地上戦ですら、ここまで猿が翻弄し続けてきたのだ。まして、樹上は猿の領域だ。木の上に昇り、枝を伝えば悠々と外の世界に逃れることができる。乙女たちは、自らの下着とそれを辱めた犯人を捕らえることなく、みすみす取り逃がすことになってしまう。
もはや、これまでか。
誰もがそう思った瞬間、一条の光が世界を両断した。
「キ……」
余裕の笑みを浮かべていた猿は、何が起こったのか理解できなかったようだ。笑みを顔に貼り付けたまま、白目を剥いて木から真っ逆さまに落下した。それに遅れて、一本の矢は木の幹に当たって地面に落ちる。
「六角殿!」
光秀が射手の名を呼んだ。
色素の薄い髪を持ち、どこか自信なさげな表情をする少女は、南近江の大名である六角家の跡取りだ。名は義賢。身の丈ほどの弓を持って、立っていた。
「あ、あのう……お猿さん、逃げそうだったので射てしまいましたけど、大丈夫でしょうか?」
「いえ、問題ありません。むしろ、ありがたいくらいで」
光秀の言葉に、皆がうんうんと頷いた。
それから、藤孝が物言わぬ猿の足をむんずと掴み、持ち上げる。
「これ、生きてますね」
「あ、はい。鏃は外したのを使いましたから、刺さってはいませんよ。ここで殺生するわけにはいきませんから」
義賢は、将軍の膝元で血を流させるわけにはいかないという配慮をしたらしい。
「ですが、それでは確実性がないのでは? いえ、実際に射落とされたので問題はないのですが、もしもこの猿が気絶しなかったら」
藤孝の疑問に、義賢は俯き加減で答える。
「で、ですから、確実に落とすために、顎を掠めるように射たんです。胴に当てるよりは確実に意識を飛ばせるので」
「は?」
藤孝は、思わず呆然と義賢を見た。
義政と同じ顔ながら、かなりひ弱そうな印象を受ける少女だ。しかし、素早く動き回る猿の顎を掠めるように射て、脳震盪を起こさせて確保するという神業的な弓術の持ち主だったのだ。
「それを狙ってやったのですか?」
「え、は、はい……あの……すいません」
誰も触れることすらできなかった猿を仕留めた腕前は見事と言う他ない。
この捕り物の勝者は義賢ということで決まりだ。
「では、この猿の処遇を決めますか」
かねてよりの予定通り、猿の罪は神の意を受けて決定される。
ぐつぐつと煮えたぎる湯に腕を浸し、火傷をしなければ無罪という古くからある神明裁判だ。
この猿がどうなったのか、その後の行方を知る者はいない。関係者は皆一様に口を閉ざし、事件は史書はおろか日記にすら記されることなく歴史の闇に消えていくこととなったのである。