ずっしりとした灰色の天蓋から、さらさらと雪が舞い降りてくる。
妙に冷えると思っていたが、まさか雪がちらつく季節になっているとは思いもよらなかった。
いつの間にか紅葉の季節が終わり、黄金色の穂をつけた稲が刈り取られて寂しくなった田園を眺めながら、俺は馬に揺られて東高野街道を南進する。
人が歩くごとに、鎧が音を立てる。一人二人ならばいざ知らず、街道を進む人員は実に五〇〇〇人に達するために、その音は極めて騒がしく耳に毒だ。
古から続く街道は、多くの戦に於いて軍道として利用されてきたこともあり、周囲の住民たちは図ったように姿を消す。こちらの部隊に徴発された者もいれば、巻き込まれまいと隠れた者もいる。乱暴狼藉は厳禁なのは当然ながら、末端が暴走する可能性は捨てきれないのが悲しいところ。監視カメラもないのでは、闇に潜れば遣りたい放題できてしまうので、最後は個々人のモラルに任せるしかない。しかしながらこの時代に農民にまで情操教育が普及するはずもなく、治安を維持するというのは頭に思い描く以上に難しい問題なのである。
農民たちからの協力が得られなければ戦はできない。
禁令などを出して、狼藉を諫めることも兵を率いる者の責務なのだ。戦以外のことに配慮するのは、気が疲れるにもほどがあるのだが、将軍という立場にある以上は顔に泥を塗られるわけにもいかない。
街道を進むと、田園風景の左手に一際大きな街が現れる。
飯盛山城の城下町である。
義政の統治が行き届いているのか、街は活気に溢れている。軍勢を街の外に控えさせ、上層部の人間で街の中に入る。
飯盛山の東側の支脈に野崎城という城郭がある。
以前、飯盛山城を攻めた際に義政や光秀らが蹴散らした城であり、飯盛山の頂上に鎮座する飯盛山城への河内側からの登城口を守る形で配置されている。東高野街道から飯盛山城に向かうとなると、この野崎城と相対することになる。
義政は戦火に曝された野崎城を修繕し、再び飯盛山城の出城として機能させると共に平時はこの城を自身の屋敷として生活しているのである。
俺は、野崎城の本丸に向かい、義政が用意した茶室で再会した。
本来ならば軍議の間や広間でほかの家臣たちと共に顔を合わせるべきだが、その前に個人的に義政と話す時間が欲しかった。人目があると、昔のように取り留めのない話をすることもできない。
「義輝様、遠いところをご足労戴きましてありがとうございます」
久しぶりに顔を合わせた義政は、どことなく大人びた雰囲気を醸し出していた。やはり、少し髪が伸びたのが原因だろうか。肩の下程度にまで髪が伸びているのである。
「ずいぶんと長い間、この地を任せきりにしてしまったな、義政。苦労をかける」
「滅相もありません。義輝様に任された地を守ることは、わたしの生き甲斐です」
「そうか。だが、あまり無理はしないでくれ。義政に倒れられると、俺も困る」
「あ、りがとう、ございます」
恥じらい俯く義政に、こちらも妙な気分になる。それではならんと、頭を振り改めて義政と向き合った。
「義輝様が御自ら出馬されるとお聞きして以来、こうしてお会いできる日を一日一日指折りお待ちしておりました」
「大袈裟な。書状のやり取りも大分しただろう」
「それでもです」
義政は嬉しそうに笑った。
「書状では、お声は聞こえませんから」
そういうことを面と向かって言われると、気恥ずかしい。
「その髪」
「はい?」
「その髪は伸ばしているのか? 以前、見たときよりも少し長いように思うんだが」
「あ、はい。何と言いますか、義賢と差別化したいと思いまして」
「差別化って」
「か、顔立ちが似通っていますので髪型を変えようかと。ただ、短いとあまり髪型に幅がありませんので、の、伸ばしてみようかと、思った次第です……」
しどろもどろになりながら、義政はそう言った。
未来風の言い方をすれば、ショートカットよりも長くセミロングよりも短い――――確か、ミディアムヘアと言ったか。それくらいの長さだ。以前がボブカット程度だったので、三、四センチは伸ばしたのだろうか。
「あの、おかしいですか?」
「いや」
俺は首を振って否定する。
「とても似合っていて、驚いたくらいだな。雰囲気が落ち着いた感じになって、いいんじゃないか」
「そ、ですか……では、今度からこの長さにします」
義政は髪の長さを確かめるように毛先を弄った。
「俺の意見だけで決めて大丈夫か?」
「義輝様のご意見だからこそ、大切なのです」
「そういうものか」
「そういうものです」
くすり、と義政は笑みを浮かべる。
「あの、わたしも義輝様にお聞きしたいことがあるのですが、よろしいでしょうか?」
「どうした、改まって」
「あの、噂が立っております」
「噂?」
「義輝様が祝言を挙げられるとの噂です……あの、昭元殿がお相手の可能性が高いと」
む、と俺は眉根を寄せる。
昭元との祝言の話は内々に進めていたものである。それこそ、盗み聞きしていた小次郎と祐筆として傍に置いている孝高くらいしか、俺の周囲で知っている者はいないはずである。
しかし、その一方で晴元が将軍家に昭元の輿入れを打診していたのはずいぶんと前からだ。それを思えば、水面下の動きを察した誰かが情報を流したとも考えられる。
「その噂、どの程度広がっているんだ?」
「まだ、わたしの手の者が探らなければ出ない程度ですが、大商人らの間には実しやかな情報として流れているようです」
「なるほどな」
俺は頷いた。
「将軍家の祝言となればかなりの金が動く。彼らが敏感に反応するのは、まあ当たり前か」
金の動きに聡い連中だ。戦と祝言は金になるので、俺の結婚話を仕事を取る絶好の機会と踏んでいるのだろう。
「すぐにという話ではない。とにもかくにも、目の前に戦がある状況で祝言はできないからな」
「お、お話はあるということですか?」
「ああ。俺も歳だからな。いつまでも独り身というわけにはいかない立場だ」
「それは、確かにその通りですが……」
「すべては戦が終わった後のことだ。畠山と氏綱をどうにかしなければ、将軍家そのものが立ち行かないからな」
畠山家と細川氏綱の繋がりは明々白々であり、放置すれば将軍家に害を為すことは火を見るよりも明らかなのだ。
後顧の憂いを取り除き、機内一円を抑えるためにもここが勝負どころなのだ。
「この戦が終われば、義輝様に目立った敵はいなくなりますね」
「そうでもない」
「まだ、何かご懸念が?」
「いろいろあるさ。世の中、戦乱に明け暮れる者ばかり。かく言う俺とて、こうして戦に臨んでいるんだ。機内を押さえたところで、決して戦が終わるわけではない」
将軍というブランドに拘らない勢力が出てくれば、それはそのまま敵となる。自らの手で政治権力を手に入れるためには、将軍家の存在そのものが邪魔だからだ。そのため、機内を治めたところで安心安全とはならない。
「それでも、最初の頃に比べたらずいぶんと落ち着いてきたけどな。義政の働きのおかげでもある。これからも頼むぞ」
「はい。この義政、誠心誠意お仕え致します。わたしの力、存分にお使いください」
大袈裟な、と俺は笑う。
大袈裟ではありません、と義政は言う。
彼女の働きに応えるためにも、俺は一刻も早く畠山家を打ち倒さなければならない。
義政と談笑した後、俺はこの日のうちに摂津国から駆けつけてくれた将と語らう時間を設けなければならなかった。
摂津国は晴元の影響力が極めて強い国。
その国の国人が晴元ではなく俺の味方になってくれるのであれば、それほど心強いことはない。そして、表立って彼らと語らう機会を取れるのは、対畠山で晴元と利害を共有している今しかない。
俺の前には、真っ先に駆けつけてくれた池田家の当主信正が平伏している。
「そう畏まらないでくれ、池田殿」
「は……」
晴元からの切腹命令を直前になって取り消された池田信正は、その裏に俺が動いていたことを知っている。惟政を使いとして送ったことで、俺が信正の切腹に反対していると知っていたからだ。信正は晴元に目を付けられている。今回の一件でそれが明確になったことで、彼が生き残るにはこちらに就く以外の選択肢がなくなった。
彼には申し訳ないが、彼の立ち位置を利用させてもらうことになる。
「摂津国に国人は多々いるが、その中でも真っ先に俺の呼びかけに応じてくれたのがあなただ。感謝している」
「滅相もございませぬ。殿下に拾っていただいた命でございますれば、このご恩をお返しするのが武士の勤めにございます」
信正は四十を越えたくらいの壮年の武将だ。
質実剛健を絵に描いたような身体つきに、こざっぱりとした身なりが好印象である。
「あなたが木沢の一件で大いに活躍したことを伝え聞いていてな、失わせるのは惜しいと思ったまでだ。どこぞの雑兵であれば、わざわざ管領殿に意見することもなかっただろう。あれはあれで、緊張したぞ」
俺は薄く笑みを浮かべた。
晴元との交渉は結構な橋渡りだったのだ。今でこそ、こうして笑い話にできるが、一歩間違えば再び流浪の生活に戻っていたかもしれない。そうでなくとも、今の状況での管領とのいざこざは他勢力が付け入る隙を生み出し、将軍家と管領家が共倒れする未来へと驀進しかねなかったのだ。
「お手数をおかけ致しました」
「それに見合った成果はあったと思っている。相対して分かる。池田殿のような歴戦の猛者が此度の戦で駆け参じてくれたこと、本当に心強い。――――何かと頼りにすることになると思うが、面倒がってくれないで欲しい」
「はッ。この私にできることであれば、何なりとお申し付けくださいませ」
それから、俺は用意していて一振りの刀を取る。
石目塗りの黒鞘を金の組紐で飾った陣太刀は、手の中でずっしりとその存在感を露にする。
「信頼の証と思い、受け取ってくれ」
そう言って、信正に陣太刀を差し出す。
「は、……はは。ありがたく頂戴いたします」
信正は陣太刀を両手で受け取り、平伏する。
信正とはその後もしばらく話し込んだ。彼は、氏綱と一時は繋がったこともある人物であり、氏綱について俺よりも詳しいからだ。
書状でのやり取りがあった程度だというが、それでもどのように氏綱が国人たちを説いたのかという点などは興味があったので、無駄にはならない。
最後まで信正は固さを崩しはしなかったが、後半になると相好を僅かに崩す様子もあり、多少は打ち解けられたかと思う。
信正が自分の陣に戻った後で、俺は孝高と共に城内を歩いた。
「この前城攻めしたときよりも固くなってていいね、ここ」
「お前から見てもそうか」
「うん。義政は、ここを十分に戦える拠点として整備したみたいだね」
「そうか。孝高が言うなら、間違いはないな」
ところで、孝高は以前から義政を呼び捨てにしていただろうか。二人が一緒にいるところを見る機会もあまりないので気にしたことがなかったが。――――まあ、いいか。気にしても仕方のないことだ。
「てか、いいの?」
「何がだ」
「将軍たる者が、こんな風に勝手気ままに出歩いているってこと。義政が知ったら卒倒ものだよ?」
「大丈夫大丈夫。城内だし、護衛いるし」
「あたしは戦力外だよ」
「知ってる。小次郎を侮るなよ孝高」
「どこにいんのよ、小次郎が――――」
小次郎の姿を探す孝高が視線を彷徨わせる。そして、すぐ左隣にいた小次郎と視線が交差して、固まった。
「どーも、孝高さん。小次郎です」
「ぎゃああああ!」
孝高が腰を抜かして悲鳴を挙げた。
その悲鳴を聞きとがめたのか、ドタドタと足音が聞こえてくる。
「城中で何をしている!」
廊下を曲がって現れた黒髪の少女が、険しい視線を向けてくる。
「何をしていると聞いて、いる、の……で、殿下?」
「ああ、久しぶりだな。また、この地で逢えるとは思ってなかったな。三好殿」
「は、はッ。申し訳ございません。お見苦しいところを!」
見た目通りの堅苦しさで、長慶とお供の者はその場に平伏した。
以前、飯盛山城を攻略したときに会話をして以来、名を聞く機会はあっても直接に話をする機会がなかった武将だ。おそらくは、現状でも最上位に位置するであろう能力を有する武将でもある。
「騒がせてしまってすまない。悪ふざけが過ぎただけでな。気にしないでくれ。それと、廊下で平伏されても困る。普通にしてくれ」
腰を抜かした少女と平伏する武士たちが廊下を塞いでいる。
この状況は、目立つだけで俺も困る。
それに、当代屈指の武将と語らう機会も欲しいところ。都合のいいときにやって来てくれたと思い、俺は長慶と話をすることにした。