義輝伝~幕府再興物語~ 《完結》   作:山中 一

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第三十四話

 三好長慶。

 戦国時代の中頃に活躍し、織田信長よりも前に日本最大勢力を築き上げた戦国武将である。

 その勢力は阿波国に始まり幕府の時の将軍義輝を傀儡とする事で畿内一体を支配下に置くまでに至った。

 長慶の死後、その勢力は内輪揉めによって衰退し、織田信長という希代の英傑によって駆逐され消滅していった。

 戦国時代の後半に活躍する戦国武将達のような輝かしい戦歴や伝説に彩られた武将ではない。

 決して日の当たるポジションにいるわけではなく、幕府を揺るがせたという意味で悪名高くもある。

 しかし、それでも。

 幕府という縛りがある中で畿内一円を支配するまでに成長したというのは紛れもない事実であり、名将と呼ぶに相応しい偉業であると言えよう。

 おそらく、それ以上を得ようとすれば信長のように幕府を滅亡させねばならないはずである。となれば、あくまでも幕府の下に就く形で物事を動かそうとした長慶は、ある意味ではこの時代の限界を証明した人物でもあるのだろう。

 当初、俺が知っていたのは足利義輝という将軍が三好長慶に苦しめられ、そしてその配下――――松永久秀らの暴走によって殺害されるという史実だけであった。

 この世界がある程度歴史をなぞる部分があるとはいえ、様々な面で知識と異なる部分もあり一概に長慶を敵視する理由もない。

 むしろ、長慶を味方に引きずり込むことができれば、それだけ自分の命の危機を減らすことに繋がるはずであった。

 今の時点では、史実に比べて長慶の勢力は小さく影響も少ない。

 阿波一国と摂津国の一部が長慶の指図できる範囲となっている。もちろん、それだけを見ても畿内の武将ではかなり大きな勢力ではある。

 故に、敵対という選択肢は取れない。

 実のところ、俺がこれまでに取ってきた行動の多くは長慶と敵対しないようにするものであった。

 河内十七箇所を何世代かぶりに幕府の直轄地にしたのも、池田家に手を差し伸べたのも婉曲的に長慶との衝突を避けるためであった。

 それほどまでに、警戒すべき相手ではあったということである。

「こうして話をするのは木沢の一件以来だな、長慶殿」

 城内の見物を切り上げて、長慶を私室に招きいれた俺は、手早く茶と茶菓子を用意して長慶に振る舞った。

 御所であればこちらも色々と用意できたのだが、ここは義政の城であり、今は戦に向かう途中にある。すぐに用意できる物は限られていた。

 ちなみに、「三好殿」では他の三好家の者と被ってしまうため、名で呼ぶことにした。本人からも了承を得ている。

「は、その節は大変な御無礼をしまして、申し訳ありませんでした」

 俺のとりとめもない言葉に、一々長慶は畏まって答えた。

 艶やかな黒髪が下げた頭に釣られて零れる。

 長慶と初めて対面した時、どちらかと言えば緩やかな敵対状態にあった。それは、晴元と俺が半ば反目しかけているという状態にあった頃のことで、晴元の配下にいた長慶もまた俺に対して晴元の意を伝えるという厳しい役目を帯びていたのであった。

「はは、君の事情もある程度は聞いている。ずいぶんと苦労を重ねたようだが、今となっては知る人ぞ知る名将にまでなったのだ。御父君もさぞお慶びだろう」

「わたしなど、まだまだ若輩者です」

「偉大な父を持つと、目標が高くなって大変だな」

 長慶は複雑そうな顔をする。

 嬉しそうな悲しそうな表情だった。

 父親が晴元やその手勢に追い詰められて殺害されたことは、彼女にしこりとなって残っているのであろう。

「父と言えば、殿下。御父君のお加減が優れぬという話を伺いましたが……」

「ああ、まあ噂にはなるだろうな。確かに父の具合はいいとは言えない。風邪が妙に長引いているからな。まあ、若い頃の無理が祟ったのだろう。しばらく、養生に徹していればいい」

 前将軍の体調については、すでに広まってしまっている。

 将軍の命に比べれば幾分か軽くなるとはいえ、戦乱の時代に於いてその価値は計り知れない。

 ありとあらゆる目と耳が将軍家の周囲に放たれているのである。長慶の手の者もあるいは出入りしているのかもしれない。

 長慶は茶を味わってから、ゆっくりと吐息を漏らし、黒い瞳で真っ直ぐにこちらを見た。

「――――先日の池田殿の件、殿下が管領様と交渉したと伺いました。わたしは池田殿とは旧知の仲ですので、殿下の采配には感謝しております」

「そうか。こちらにとっても池田殿は重要な人だった。言い掛かりで失うのは惜しい」

「ごもっともです」

「しかし、その結果として君たち摂津衆には負担を強いることになってしまった。偏に俺の不甲斐なさが招いたことでもある。申し訳ない」

 池田信正の切腹を撤回するために、様々なカードを切らざるを得なかった。

 晴元が不信感を抱いている摂津の国人達を最前線で戦わせるというのも、交渉の中で持ち出さねばならなかったので、結果的に池田家の問題の煽りをほかの摂津国人たちが受ける羽目になった。

「いいえ」

 と、長慶は首を振る。

「武士たるもの戦働きで功を為すのが最も分かりやすく、重要な奉公です。となれば前線での槍働きの機会を頂けるのはむしろ喜ばしいのです」

「そう言ってくれるのはありがたい限りだ。とりわけ、名将と名高い長慶殿が共に戦ってくれるというのは心強い」

「そのようなことは……わたしは、弟や家臣に支えられていたからこそ、ここまでやってこれたのです。わたしの力などほんの一部に過ぎません」

「それを言うならば俺もそうだ。皆、誰かに支えられてやって来た。困ったことに、それが分からず、好きなように振る舞う者もいる」

「はい……」

「畠山を討つ。この戦はそのためのものだが、その先に繋がるものでもある。実現するためには、味方が一致団結しなければならない。内紛などしている場合ではないからな」

 もしも、あの時晴元の横暴を許していれば、今頃目の前の少女は敵になっていたかもしれない。阿波国や摂津国の国人達が畠山家と手を結び、細川氏綱を旗頭にして京に攻め上ってくるという最悪のシナリオが考えられた。

 孝高の考えすぎとは思えなかった。

 これまでの晴元が積み上げた所業とそれを恨む者の数と分布を考えれば、十分にありえる話だと思えたのである。

 それを思えば、あの一件を未遂に抑えることができたのは僥倖以外の何物でもないだろう。

「殿下、お一つよろしいでしょうか」

「うん、なんだ?」

 改まった長慶が、背筋を正してこちらに視線を向けている。

「殿下は只今、此度の戦が先に繋がるものであると仰いました」

「ああ、言ったな」

「では、その先とは一体、どのようなものなのでしょうか」

「俺が目指す先、か。なるほど、それを聞いてくるか」

「申し訳ありません、不敬とは思いましたが……」

 それでも、長慶は視線を外してくれない。

 こんな美人に真っ直ぐ見つめられるとはそれはそれで緊張する。婚約したばかりだというのに、困ったものだ。尤も、それは別にして彼女の問いには意味がある。これから先、無為な戦をしないために、その目的はきちんと定めておかなければならないはずだ。戦のための戦ではなく、反対者を潰すための戦でもなく、その戦の先を見据えた戦でなければ国は何れ滅びる。

 そんな中で俺が目指すもの、それは至極簡単だ。

「俺が求めるのは安定した国だ」

 漠然とした目的ではある。

 大雑把に言えば、戦のない世界だ。

 しかし、将軍という立場にあるとは言っても、それを実現するにはあまりにも無力である。畿内ですら、俺の声掛けで収まるわけではないのだ。

 言うは安し、しかして実現は極めて困難を伴う。

 応仁の乱から百年が経とうとしていながら、実現の兆しはなくむしろ悪化の一途を辿っているようにすら思える始末である。

「安定した国……」

「国と言っても山城とか摂津とか、そんな小さな範囲じゃない。日ノ本全土から戦を消す。長期に渡る安定した社会の礎を築くことが将軍である俺の使命だ。そのために、まずは畿内を踏み固める。この戦はそのためのものだ」

「戦を消すために、戦をするということですか。お言葉ですが、それは――――」

「分かっている。だが、俺は無力だ。義満様であれば、一声で国中を治めたかもしれない。しかし、生憎と俺には戦を以て火種をもみ消す以外に手がない。矛盾は理解している。しかし、それはやがて矛盾ではなくなるだろう。ある程度まで将軍家の力が蘇れば、それ自体が抑止力になり得る。これは、他の誰でもない、俺だからできることだ」

 よって、俺は将軍家を復興する。

 力を付けて下克上を成し遂げても、それだけで世の中を支配する力は得られない。

 平清盛や織田信長の歴史が物語っている。

 この国の人間は正当性を求めるものだ。

 力だけでは押さえつけることはできても、長期に渡って安定的な政権を維持できない。反乱の火種は常にどこかで燻っている。

 その点、将軍家に生まれた俺は産まれながらに国中に指図する正当性を有していると言える。

 幸いなことに将軍家の利用価値は未だに高く、地方の武将ほど実は中央の権力者の動向を気にしている。畿内で将軍家が勢力を盛り返し、独自に戦力を保持するに至れば、その影響は瞬く間に地方に波及するであろう。

「この過程で旧来の慣習を打破する必要に迫られるかもしれん。時代は常に前に進んでいるからな。温故知新とはそういうものだろう。よりよいものは取り入れる姿勢は大事だ。長慶殿にも色々と教えを請うこともあるだろう。その時は助けてくれるとありがたい」

 俺に教えを請われることがあるかもしれないと言われて、少々驚いた様子の長慶は恐縮したように身を縮まらせた。

「はい、わたし如きが殿下にお教えできることがあるかは分かりませんけれども、お力になれることがあれば、何なりとお申し付けください」

 呟くように長慶は言った。

「そうか。それは……本当に心強い。池田殿もそうだったが、摂津は粒ぞろいでいいな」

「わたしたち三好家は元は阿波の国人。摂津に来たのも最近のことで、古くから摂津に根を下ろしていた池田殿に比べれば遙かに底の浅い歴史でしかありません」

「それでも、力ある者が揃うのはそれなりの理由があるのだろうな。それが何かは俺は与り知らぬところだが」

 長慶の越水城は、阿波国との海に面した地にあり三好家の本拠である阿波国との連絡に都合のよい土地である。長慶の父の代に晴元と共に奪い取って以降、三好家の前線基地としての性格を帯びるようになっていったようである。

「そうだ、長慶殿の一族と言えばだ。十河一存殿は、長慶殿の弟君だったか」

「一存ですか。確かにその通りですが、それが何か?」

「いや、大層な猛者だとは以前から伝え聞いていたが、話をする機会があったわけでもないからな。是非、この機会に顔を合わせてみたいのだが、この場に来ていたりするかな?」

「はい。今は兵の様子を見るために表に出ておりますが……」

「そうか。なら、すぐにとは言わないが、いずれ機会を設けたい。一存殿によろしく伝えておいて欲しい」

 そう言うと、長慶は微笑みを浮かべて頷いた。

「承知いたしました。一存も喜ぶことでしょう」

 

 

 

 翌日、太陽が南中する少し前のことだ。

 俺は飯盛山の中腹付近に建立された慈眼寺にいた。

 寺ではあるが、城へ続く山道を塞ぐように建っていることからも有事の際の防衛拠点として機能する仕組みになっているのが窺える。

 この山城と寺は共生関係にあった。

 緊急時の要塞として、寺の構造は非常に効果的なのである。

 そして、城に近い寺院は度々接待にも利用される。

 将軍一行が宿泊先として宛がわれたのもこの慈眼寺であり、俺は夜をこの寺で過ごした。

 そして、一晩が明けた今、表に出た俺の目の前には一人の青年が立っている。

 鼻筋の通った精悍な顔立ち。

 無駄な肉のない、引き締まった肉体。

 身長は俺と同じくらいだが、肩幅はあちらのほうが広いかもしれない。

 名は十河一存。

 三好長慶の弟であり、阿波十河家当主。

 三好家最大の武勇を誇る青年であった。

「いいんですか、殿下」

「応とも、十河殿。戦場で鳴らした武勇のほどを、是非体感させてほしい」

 投げ渡した袋竹刀を受け取った一存は、少々やり難そうに視線を彷徨わせた。

 ギャラリーは少ない。

 小次郎と孝高、義政らは俺の旧知。そして、それに加えて長慶とその家臣の松永久秀が観戦に訪れている。

 本来であれば、将軍の前で行われる御前試合という形で一存と誰かが試合をするのだろう。

 しかし、俺はこれでも剣を習っている身であり、普段は小次郎を相手に稽古をするばかりだ。せっかく三好家の中でも特に武勇で名高い一存がいるというのだから、一勝負してみたいと思うのは当然ではないか。

 もっとも、あちらは相手が将軍だということで非常にやりにくいだろう。

 その態度や言葉遣いから実直な好青年だということが見て取れる。

 一存は脇を締めて袋竹刀を構えた。

 その先端が真っ直ぐこちらの喉元に向けられている。隙のない真っ直ぐな構えだ。普段から小次郎の相手をしている俺からすれば、正道の剣術は久しぶりだ。思わず頬が緩む。

 一存の袋竹刀が足元に向かう。と見せかけて先端が跳ね上がり一気に俺の頭蓋を目掛けて振り下ろされた。

「うん……?」

 だが、その一連の流れは実に見事なものであったが、思ったよりも遅い。

 半歩引いて一太刀を躱し、こちらの袋竹刀を一存の袋竹刀の上に乗せ、さらに手首を返して籠手を打つ。

「ッ……」

 パン、という乾いた音が響く。

 一存が俺から距離を取り、驚いたと言わんばかりに目を見開いた。

「剣を落としてやろうと思ったが、そう上手くはいかないな」

 俺はブン、と袋竹刀を振って調子を確かめる。

 この撓りに慣れてくれば、もっと上手く決まったのかもしれない。

「相手が将軍だからと加減するのはむしろ不快だぞ、十河殿」

 俺はあえて挑発するように言った。

「それとも、負ける理由があったほうがいいのか?」

 この挑発に、一存はむっとした表情を浮かべた。

「そこまで仰るのでしたら、全力でお相手いたします」

 武士の道を真っ直ぐに突き進む快男児。ちょっと挑発すればすぐに乗ってくる性格は可愛らしいものがあるが、実に単純で大丈夫かとも思ってしまう。

 とはいえ、古来猛将の類は挑発に弱いものだ。

 たとえ、つまらぬ手合わせであったとしても、矜持を傷付けられるのは堪らないのだろう。

 一存の顔つきが変わった。

 構えは大きく変わっていないにも拘らず、重厚な威圧感が押し寄せてくる。

「十河一存……参ります」

 小さく宣言して、一存は俺との距離を一歩で詰める。

 かと思えばすでに眼前に袋竹刀の先端が延びてくるではないか。

 こちらは声を出す間もなく、首を振って回避する。それと同時に、喉笛を狙って刺突を放った。カウンター狙いの一撃だが、これは頬を掠めるだけで終わる。

 両者共に踏み込みすぎた。

 剣を振るうにも近すぎる。

 一存は仕切り直しに一歩引く。

 その動作を見て、俺は逆に踏み出した。

「ッ……!」

 一存の胸に肩から体当たりを加える。

 鍛えられた筋肉の鎧は軽い体当たり程度では小揺るぎもしないが、それでも後退しつつあったところに加わった衝撃が彼のバランスを僅かに乱す。

 そこに思い切り切り上げの斬撃を叩き込む。

「く、ぬ!」

 苦しげな表情を浮かべる一存は、身体を捻り自分の袋竹刀を楯にした。

 さらにそのまま俺の袋竹刀を抑え付け、刀身を滑らせるようにして、こちらの胴体を横薙ぎに狙う。

「お……!?」

 鼻先を掠める先端。

 軽く身体を引いて躱したのである。

 しかし、この一瞬の攻防で一存は体勢を立て直していた。

「セイッ!」

 体重を乗せた突きが襲い掛かってくる。

 避けるには姿勢が悪い。

 袋竹刀の切先はこちらの胸を狙っている。伸びてくるように見える刀身。その形状から細やかな動きの仔細までが良く見えた。あたかも時間が静止したかのような錯覚。身体は考えるよりも先に動いていた。

「ぐ……」 

 一存が驚いたように目を見開く。

 一存の動きが止まる。

 袋竹刀の切先は俺の鼻先で止まっている。

 俺の袋竹刀の切先が一存の袋竹刀の鍔を押さえつけていた。

 一存は俺から三歩ほど距離を取って、こちらを凝視した。

「とんでもないことをされますね」

「運がよかっただけで、二度目をしろと言われてもできないかな。まあ、一存殿の突きも恐ろしい威力だというのは分かる。俺の袋竹刀が、折れそうだ」

 ぶんぶんと振るってみると、袋の中で軽い音がする。

 今の無茶な使い方のために袋竹刀の骨のどこかが折れてしまったのだろう。

「まあ、もう少しは持つか」

「そのままでいいんですか? 持ち替えなくても?」

「まだ大丈夫だ」

 わざわざ新しいのを持ってくるのも面倒である。

 これならば、袋竹刀ではなくきちんとした竹刀のほうがよかったかもしれないが、ここに常備していないので仕方がない。剣術など、それほど重要視される武芸ではないからそれも分かる。おそらくは一存も剣を振るうよりも槍を振るうほうが得意なはずだ。

 ならば、剣を振るってきた俺が一存に負けるのはやはりよくない。

 彼は、かなりの使い手であり、そこらの雑兵では歯が立たない猛者なのは、最初の一合目から理解できた。

「それじゃ、一層気を引き締めていくぞ。準備はいいな、十河殿」

「無論です。いつでもどうぞ」

 にやりと不敵な笑みを浮かべた一存。

 やっと、肩の力が抜けたらしい。

 それでこそ、と思う。

 共に踏み込み、袋竹刀を打ち込む。

 互角の打ち合いがしばらく続き、やがて拮抗が崩れ、そして俺の方が優勢になる。

 得手不得手で言えば、そもそも俺に分がある。一存は剣術に特化した剣士というわけではないのだから。

 


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