京への帰還を果たし、数年ぶりに館に戻ってきた俺はかつての、そしてこれからの生活の場を眺めて回り、庭に出た。数年間、まともに手入れをしていなかったため、荒れ果て、草木が蔓延っているかと思っていたのだが、これといって変わったところはなかった。
おそらく、誰かが気を利かせて管理してくれていたのだろう。この家の管理そのものは父上がしている事なので、俺にはあまり馴染みがない。
それにしても、薄らと記憶の糸を引っ張りながら、家を一周してみたが、ときおりこんなところがあっただろうか、とか懐かしさの中に、新たな発見があって童心に返ったかのように心が浮き足立ったのも無理のないことだろう。
「こんなんだったかな?」
かつては届かなかった梁。松ノ木で作られた、味のある梁に手を伸ばす。
手の平まで簡単に届いてしまった。京を離れていた年月を感じさせ、一抹の郷愁の念がこみ上げてくる。俺は過ぎ去った時間を思う。
五年という月日が史実とどれほどの整合性があるかわからない。俺は専門家ではなかったし、このあたりの事情は齧った事がある程度だ。上杉や武田などの有名どころはまだしも、近畿地方などそう押さえられているはずもない。
だから、俺にはこの時期に義輝がどういった行動をとっていたかなんて知識はないし、あったとしても役には立たないだろうと思う。
この時代というか世界は、俺の知るものとは違う。歴史の流れこそ似ているものの、かといってまったく同じに進むとは限らない。
思い込みで進めるわけにはいかないということだろう。
「これを足がかりにとはいえ、これからはまたしばらくは雌伏しなければな」
京へ戻り、横領されていた土地を、雀の涙ほどではあるが取り戻した。
収穫としてはまずまずだろう。
安定した収入を得るのであれば、土地は非常に有用な代物だ。河内十七箇所と榎並城を接収したのは大きい。軍事拠点としても優秀な土地だ。後々大いに役立つだろう。
「光秀、藤孝が榎並城に入った今、これまで以上にお前を頼らねばならない。気を引き締めておいてくれ」
「はい。お任せください」
頼れる仲間がいるのはいいことだ。
最も信頼できる家臣として藤孝を榎並城に入れて河内十七箇所と榎並荘の代官とした。軍事、民政に明るく、常に側にいてくれた彼女をおいてあの土地を任せられるものはいないだろうという考えだったし、藤孝の実父と養父はともに和泉、山城の二箇所に拠点を持ち、高い軍事力をもっている。こうした背景も手伝って彼女の統治はうまくいくと踏んだ。
「心配ですか?…藤孝殿のことが」
光秀にそう言われて、俺は顔をしかめた。思っていた事が顔に出ていたのだろうか。
「心配か、そうだな。たしかに心配はしているよ」
「藤孝殿ではダメだと?」
「まさか。アイツならできると思って城を任せた。任せたからには、最大限の信頼をするさ。でもな、やっぱりいつも側にいた藤孝が遠くに行ったんだ。心配くらいはしても罰は当たらないだろう」
それは、俺の偽らざる本心だった。長年共に過ごした友人にして家臣。彼女が側にいるのといないのとでは、大きく違うのだから。
光秀は、笑って羨ましいです、と呟いた。
「なにがだ?」
「藤孝殿が。義藤様にそこまで信頼を寄せていただいていることが、羨ましいです」
「何を言う。光秀のことだって信頼している。羨むことなどないよ」
「あ、ありがとうございます…」
さて、京に戻ってから早十日。そろそろ本格的に仕事をしなければならないわけで、まあ、俺は将軍ではないから仕事量も少なくて済んでいるが、だからといって楽というわけでもない。
将軍家の帰京を祝う祝宴が長々と続けられておかげで、余計な時間を食ってしまったが、これから身辺の整理などもしなければならない。
今は安定しているものの、これから畿内を中心に大きな戦いが起こることは、皆わかっている。
そのために様々な準備をしておく必要もあるだろう。
金、兵 兵糧、何をとってもまったく足りていない。将軍家単体で用意できるものなど高が知れている。
周囲の大名たちに動員をかけることもできるが、結局それは晴元のやり方とほとんど同じだ。
倒すべき勢力よりも強い勢力を雇ってぶつけたとしても、戦が終わった後は雇った勢力が畿内で幅を利かせかねない。将軍家の現実的な力は変わらないまま、ただ上から入れ替わり立ち替わりする諸勢力の争いを眺めている事しかできない。
それでは、意味がないのだ。
尊氏公以来の室町幕府の弱点-----------将軍家固有の軍事力の低さを、俺の代でなんとかしなくてはならない。
まったくままならないものだ。
室町幕府の制度は、将軍家が他の大名家に支えられる事によって成立している。
代表格は細川京兆家だが、もともとは他にも中心的な大名がいて、それらを総称して二十一屋形と呼んでいた。彼らは、在京を基本とし、有事の際には将軍家の戦力として一揆などに対処する幕府の軍事力となっていたのだが、応仁の乱以降の下克上の世界で京を離れ各々の国へ戻ってしまったものだから、畿内に本来の領国のある細川家や六角家が相対的に強い発言力を持つ事になったわけである。
まずは山城国から和泉、河内、摂津の三カ国を押さえる。そのためには、ある程度の大乱が必要になる。
戦が近いうちに起こることは間違いないので、それまでに周囲を固めておく事にしなければ。
「若様…」
背後から声がかけられた。
「ん?ああ、義政か」
「は」
いつの間にかそこに現れ、しかも平伏していた少女は仁木義政といった。
突然の訪問に、警戒していた光秀だったが義政が顔を上げると息を呑んだ。
「…義賢殿?」
そう言葉にしてしまうのも無理はない。
義政の顔は、六角義賢と瓜二つだったのだから。
「光秀は初めてだったか。彼女…義政は義賢の従姉妹にあたるんだ。前六角家当主氏綱殿の御息女だ。今は伊賀守護家の仁木家を継いでいる」
とはいえ、実質的には六角家の一員として動いているようだが。
「仁木義政です。以後お見知りおきを」
「これはご丁寧に、明智光秀と申します」
互いに律義な性格から、丁寧に挨拶を交わしている。
「それで、義政。なにか、あったか」
「は。叔父上…定頼様が明朝観音寺城より軍を発しました」
「な!?」
光秀が血相を変えるが、俺はそれを手で制す。定頼が動く事は大体予想できていたことだ。それに、俺たちには関わりがない。
「狙いは近江の本願寺門徒衆だな。堅田辺りか」
「なぜ、それを?」
図星か。
俺は頷いて、自分の予想が当たっていたことを確信した。
「伊達に近江で生活していたわけじゃない。近江国内の本願寺勢が妙に活発に動いている事も、定頼殿が頭を痛めていたのも知っていたさ。後はいつ動くのかということが気になっていた」
宗教的な集団というのはとにかく厄介だ。
死んでもあの世で幸福になれると考えているのだから、死を恐れることもない。はじめから死兵となって襲い掛かってくるのだから、多少の武器、兵力の差を覆す事もできるし、なによりも参加者は農民などが主体だ。倒してしまえば、自国の生産力にも影響するし、その他多くのつながりある諸宗教勢力ににらまれる形になりかねない。
「しかし、本願寺勢と戦うとなれば石山の御堂はどうするでしょう」
「今回、石山は六角についているはずだ。さすがだよ定頼殿は!俺たちを京に戻したのも石山に一押しするための方便を作るためだったんだろう!」
やはり六角家は侮り難い。
定頼がいる六角家は、隙というものがない。
六角家が今のまま将軍家との仲を維持してくれている限りにおいて、これほど心強い家もないだろう。
俺は、今再び義政に情報の収集を命じた。
□ ■ □ ■
堅田は古くから琵琶湖の水運で栄える滋賀郡にある地名である。
ここは、鎌倉以来寺社の支配下にあり、かつては延暦寺、現在は本願寺の庇護下にあった。
承久の乱後、佐々木信綱が堅田の地頭に任じられたが、延暦寺や下鴨社がこれに対抗するために、延暦寺は堅田に湖上関を設置して他所の船を排斥し、下鴨社は堅田の漁民・船主に漁業権・航行権を保障する事で堅田の経済的・交通的特権を保証した。以後、彼らと近江守護に任ぜられた佐々木氏は、堅田とその漁業権・航行権を巡って激しく争うことになる。
佐々木氏は後に北は京極、南は六角に分裂したが、堅田を巡る戦いは終焉を迎えることなく今に至っている。
堅田はどちらかと言えば北近江に属し、京極家のほうが領地としては近い。山城との国境にも近く、すぐ南には延暦寺とつながりの強い坂本がある。
京極家の力が著しく衰えた今、安定した統治を行っている南近江の定頼には太刀打ちできないだろう。また、将軍家には多大な恩があり、北近江侵攻に関しては目を瞑ってもらえることになるだろうと定頼は見ていた。
事実、現将軍義晴も、管領晴元もこの攻撃には苦言を呈することもなく、義藤に関しては面白がっている節もある。
「義藤様は暗に堅田を攻めろとおっしゃったようなもの。何も問題はあるまい」
管領家との仲裁を依頼されたときの言い回しから、義藤はこの件に関して干渉しないということを匂わせていた。
定頼は堅田攻めに際し、本願寺や延暦寺に使いを送っていた。
本願寺には堅田門徒衆の破門を要求し、延暦寺にも道中の坂本の破門を要求していた。
破門された門徒衆を攻撃したところで、他の門徒は非難することができない。破門されるということは、その宗派にとっての悪であるということだからだ。
本願寺も延暦寺も今の六角家を敵に回す事ができない。なぜならば、その背後には将軍家がついているからだ。
散々自分達を利用してきた晴元たちならばいざ知らず、将軍の『御敵』とされてまで一荘園を救うわけにもいかない。
いまだに多くの戦国大名は敵対者を将軍家の御敵に指定してもらった上で決戦しようとする。それは、誰の目から見てもわかりやすい大義名分を得るということになるからだ。
敵は自分達の敵なのではなく、将軍家の敵なのだとすれば、味方の士気は上がり、敵の士気は挫ける事になる。
本願寺など、義晴からの献金要求を一度は蹴っておきながら、将軍が激怒したと知ると御敵にされるのは困るとして献金に応じている。そういった情報から、本願寺は今現在将軍家の意向には逆らわないという方針だということはわかったし、何よりも山科から移って日が浅い。大規模な戦いは避けたいだろう。
延暦寺もまた同じ。明応の頃に当時の管領によって焼き討ちを受けた傷跡はすでにないが、今の時点で将軍を敵に回せる力があるわけでもない。
六角家は、将軍家との深い交わりによって諸勢力の中でもとくに強い発言力を得ていたのだ。
「坂本と堅田、この二つを攻め落とした後は直轄とし、水運を掌握する」
軍議の席で、定頼が示した方針だった。
また、これらに関しても関所を廃し、楽市を施行する。
観音寺城から坂本までは、中山道でつながっていて、この中山道には道中で八風道と東海道が接続する。
東から京に至るには、この近江を通るのが一番であり、これが近江商人が発達する由縁であった。
であれば、積極的にこの商人を誘致する策を講じるべきであり、その一端が関所や座を廃止する楽市である。これまで坂本や堅田は水運に関して税を徴収していた。これは、彼らの収入源になると同時に、流通を妨げ不必要な物価の高騰を招くことになっていた。
今回の進軍で、この二つの都市を制圧した後は、そこを足がかりに北近江を攻略したい。
そのために、堅田衆などを徹底的に圧倒する必要があり、楽市によって経済を押さえ堅田衆の反撃を未然に防ごうというのだ。
坂本の反撃は凄まじいものだったが、後藤賢豊、蒲生定秀を先鋒とする三千と本隊七千の計一万の大軍勢には為す術がなく、頼みの綱の延暦寺もこの件から手を引いてしまったので一刻ほどで壊滅した。
陥落した坂本に兵を一部残し、定頼はさらに北上。
堅田との戦闘はその日の正午には行われ、頼みの本願寺からの援軍がやってくる事はなく、そのまま殲滅された。
この戦いで、本願寺や延暦寺は南近江での勢力基盤を失い、六角家は交通と流通を完全に抑えることに成功した。