十年ほど前に法華宗と延暦寺が衝突して以来、大規模な合戦は京都近辺では起きておらず、比較的安定した状態が維持されてきていた。
政治的には非常に危険な綱渡りが幾度となく繰り返され、将軍と管領の対立に始まり、国人同士のにらみ合いに至るまで様々な対立がある事は事実だったが、民間レベルではそのようなことは関係がなく、戦場になっていない京においては復興が進み、大通りでは活気も戻ってきている。歓迎すべき事であるし、民の生活が向上しているということは為政者の立場からすれば喜んでいいことなのだが、同時に政治が迷走していながらも民たちは自立して生活しているということが、なんとなく虚しさを感じさせてならない。政治家など、だれがなろうが変わらないというのはいつの時代にも言えることなのだろうか。それでも、税や兵役を領主の一存で決める事のできるこの時代の統治者のほうが民に与える影響は大きいのだからそういうわけではないはずだが、戦争で統治者が変わっても、その人物が以前の統治者よりもよい政治を行えば、彼らは喜んで、その為政に手を貸すことだろう。
力が物を言う時代だ。領地を切り取るにせよ、治めるにせよ、軍事力と財政力は必須だ。
逆に言えば、それらさえあれば、統治者となることはできるのである。
「なんにせよ、まだ力が足りないか」
三好長慶は自室から物憂げに外を眺めながら呟いた。
みどりの黒髪が、まるで濡れているかのように美しい。生まれ持った美貌に、智勇を備えた武将であり、大器といっても過言ではない人物ながらも、その半生は激動の色に染め上げられていた。否、むしろそんな激動が彼女を強くしていったのかもしれない。
細川晴元が彼女の主君だ。管領にして畿内最大の権力を持つ、名実共に天下人である男の重臣の一人として、軍事的な側面で重用されている。が、長慶と晴元の関係はとても危うい。先の呟きからもわかるとおり、長慶は清廉潔白な人柄ながらも、虎視眈々と晴元からの離反を狙っている。晴元もそんな長慶の動きを警戒しているのだから、この二人の間に君臣の交わりが結べるはずもなく、諸人が思うほどに京の政治が安定していないことの証左ともなる問題だった。
晴元は、長慶の父の仇である。
もちろん、それは長慶の父が晴元に仕えていながらも叛旗を翻した事によるものだし、長慶は謀反人の娘ながらも助命され仕えることが許されているということだから恩がないというわけでもない。この戦乱の世だ。そういうことがあるのも仕方がないとわかっているし、長慶自身も晴元への恨みを忘れて奉公しようとしたことも一度や二度ではない。
しかし、
(このままでは、いずれわたしは管領様と長政に潰されてしまう)
という思いをどうしても払拭できずにいた。
潰されないためには力が必要だ。力を得れば対抗できる。そのために晴元のもとで戦い、所領を得て軍事力を蓄えている。長慶には摂津に越水城があり、親族は四国に根を張っている。彼女が号令すれば、彼女に合力してくれる勢力は多い。そういった経緯がより晴元たちに疑いを抱かせている。
互いに疑心暗鬼になっているのだ。
長慶は手元の本に目を戻した。
兵法書ではなく、漢文の物語だった。明の時代に入って物語としての小説は成熟期を迎えたといってもいいだろう。六朝時代の志怪小説、唐代の伝奇小説、宋代の話本を経て、それらを踏襲し、ジャンルに囚われない物語となったのはこのころだ。
彼女を囲む事態は緩やかに危険域に迫っている。差し迫った危難こそないものの、戦乱の時代ゆえに何が起こるかわかったものではない。それでも、長慶は精神的な余裕を捨ててはならないと考えているし、それを実践するに当たって、虚構の世界を利用するというのが一つ、有効な手立てであることにも気が付いた。
ふと、頁を捲る手が止まった。部屋に差し込む日差しを大きな影が遮っていたからだ。
「姉さん、また本を読んでいたのか?」
部屋の入り口で太陽を背にする青年が苦笑しながら立っていた。短くかった髪が上を向き、ハツラツとした好青年という雰囲気を強く主張している。
「一存…わざわざ讃岐から来たのか?」
長慶は実の弟が突然訪れたことに目を丸くして驚いた。
十河一存は三好元長の四男としてこの世に生を受けた長慶の弟だ。幼いころから武勇に秀で、槍も馬も軽々とこなしていたことを長慶は昨日の事のように覚えている。
一存は、数年前に讃岐十河城主の十河景滋の養子として十河城を継いだ。
以降、長慶は戦の際に讃岐の兵も旗下に加える事ができるようになったのだ。一存が十河城を継いだのも、讃岐に根付く細川の勢力を内側から奪い取っていくための布石だったのだ。
しかし、それ以上に、弟が城持ちとなって飛翔するさまを見るのは、なんとも心強く、嬉しい事だ。
「しばらく見ない間に、また背が伸びたか。男子三日あわざれば刮目して見よというが、本当にそうなのだな」
「なに恥ずかしいこと言ってんだよ、姉さん。一月前に会ったばかりじゃないか。そんなに早く変わらないって」
「まだ一月だったか。もうずいぶんと会っていないような気がしていたのだが……。積もる話もあるだろうが、まずは中に。今、茶を用意するから」
長慶は微笑を浮かべて立ち上がり、戸棚へ向かう。長慶が使う茶器や茶菓子がしまいこまれているところだ。
一存が部屋の中に入ろうとしたその時、彼の背筋を悪寒が走り抜けた。
武将としての勘が警鐘を鳴らしている。山で大猪と遭遇したときにも感じたことのない危険な存在が近づいてきていると!
危機感と共に、振り返る。
この気配は、間違いない。
「出たな魔も…ぬおっ!」
思考に先んじた反射がそれを回避させた。
大きく反った上体の上を彩り豊かな紙で飾られた棒が横切った。一存の動体視力はそれが閉じあわされた扇であることを一目で見抜いていた。用いられている和紙は上物で、骨も漆塗りの高級品だ。
反った上体をもどして襲撃者をにらみつける。
「久秀!いきなり何をしやがる!」
怒鳴りつけられた少女はまったく意に介さぬ風で扇を広げて口元を隠す、が、その目は明らかに笑みを浮かべていた。
「いえ、廊下を大きな岩が塞いでいたものですから、つい」
「だれが岩だ!!」
「あら?いろいろと鈍いところなんか岩にそっくりですよ。そのうち苔むしていい感じになるんじゃないかしら。そのほうが見栄えがするし目出度いでしょう?」
「目出度いわけあるか!」
目一杯の警戒心で一存は久秀に迫った。
「だいたいお前が何故ここにいるんだ?」
「ふふ、長慶様の家臣であるわたしがここにいて何かおかしなことがあるのかしら?」
「ぬ」
一存は口を真一文字に結んだ。久秀の言っていることは、どこにも不自然な事はない。長慶に仕えている人間がこの場にいることは至極当然のことだからだ。
「むしろ、それはわたしの台詞よ。なぜ、讃岐にいるはずのあなたがここにいるのかしら?」
「そうだ、それだ」
久秀に気をとられて、本題に入るのをすっかり失念していた。一存は姉の下に遊びに来たわけではないのだ。向かい合っていた久秀を無視して、一存は部屋の中に入った。すでに長慶は準備を終えて待っていた。
長慶の正面に座った一存は声を荒げた。
「姉さん。河内十七箇所が晴元の手から離れたというのは本当なのか?」
長慶は、それを聞いて眉尻を少しだけ上げた。
河内十七箇所は、長慶と一存の父元長が代官職に任命されていた土地で、元長の死後政敵の政長が治めていた。長慶は政長とともに晴元に仕えながら、この河内十七箇所を父の遺産として自分に継承させて欲しいと晴元に何度も嘆願してきたのだが、聞き入れられることはなかった。
長慶にとって特別な土地であり、政治的闘争の根幹とも言える荘園の名を聞いて、無反応でいられるはずもないだろう。
「事実だ。今は将軍殿下が直接治めていらっしゃる。代官として細川藤孝殿が入られた」
将軍の土地。即ち幕府御領所だ。それが意味するところは、姉弟の念願の地はこれで手に入らなくなったということである。長らく京を離れていた将軍が帰京したのは半月ほど前のことだ。その際に対立していた管領家との間に結ばれた和議によって、河内十七箇所は正式に将軍側に譲り渡されることになった。
「武功を上げて報奨を得ようにも、我等が主君は十七箇所を持っていない。これが下賜されることはないだろう」
長慶は沈うつな表情で言った。
将軍の土地となった以上は、それを下賜されるには陪臣の身ではならない。晴元に渡った上で、晴元から下賜されるというプロセスを経る必要がある。だが、晴元は長慶に河内十七箇所を渡す事はないだろう。
「方法がないわけではないですが…」
「うお!?」
気配を消して隣に座った久秀に一存は驚いた。またしても、久秀はクスクスと笑っている。一存をからかっているのがそんなに楽しいのか。一存は不機嫌そうな仏頂面になった。
「言ってみろよ、その方法ってやつを」
「あくまでも方向性ですが。独立してしまうのが手っ取りばやいということだけですよ。そうすれば、兵を動かすのも自由」
「久秀、滅多なことをいうものではない」
長慶が久秀の意見を遮った。
長慶も独立というところには反論は無い。もちろん、それを誰かに聞かれてしまえば非常に厄介なことになるために表向きは否定するが。
だが、それは晴元からの独立ということだ。久秀の意見とは根底からして違う。
「荘園を得るために兵を動かせば将軍家を敵に回す事になる。そんなことはありえない」
「ええ、当然です。そのようなつもりは毛頭ありません。ただ、いざというときの覚悟は必要かと思いまして」
不信感も露に一存が久秀をにらみつけた。
「姉さんは将軍家とは敵対しないと言っているだろう。第一、そんなことでは三好家は潰れる事になる」
「ですが、相手が殿下を担ぎ上げないともわかりませんし。そのときは、戦いもせずに引くことはできませんでしょう?いざというときというのは、こういう場合のことです」
普通ならば、一存の視線に晒されて震え上がらない者はそう多くない。きたえ抜かれた武士ですら萎縮させる凄みをこの青年は持っているからだ。
しかし、久秀は余裕の表情を崩さない。まるで、はじめから一存など眼中にないとでも言うように。
「それで、今回の経緯にはどのようなことがあったのだ?」
長慶が久秀に尋ねた。
どうやら、長慶は久秀に将軍と管領の間に結ばれた和議が如何にしてなったのかを調べさせていたようだ。確かに、そういった情報収集に関しては松永久秀の右に出る者はいないと言ってよいだろう。
数多くの情報がもたらされる中から、これは確実といえるものはかなり少ない。それを見極める目を久秀は持っている。
おそらくは、人の心というものに恐ろしく精通しているからなのだろう。
久秀は、自分が調べあげた情報を長慶に報告した。
■ □ ■ □
「そういうことか」
久秀の報告を聞いた長慶は納得した表情で茶を口に含んだ。
将軍義晴と管領晴元との間に六角家が関わり、これを調停した。それが大まかな出来事であり真実だ。河内十七箇所を交渉の材料に使ったのも妙手だ。あの土地は火薬庫のようなものだ。三好政長が保有しているところにさらに長慶達が権利の主張を行っているのだから、いつ爆発してもおかしくはない。それを合理的な理由で長慶たちの手の届かないところに棚上げしてしまった。長慶たちからすれば問題はまったく解決していないのだが、少なくとも晴元からすれば問題そのものが自らの手を離れたのだから一息ついたといった感じだろう。
「将軍殿下としても、土地を手に入れることができたのだ。管領様だけでなく両者ともに得るものはあったわけだな」
「管領様の政治は日々後退するばかり。目に見えたところには影響が出ていませんが、燻るものは、やはりあります。それを押さえる上でも殿下の帰京は必要不可欠でしたから、足元を見られた感はありますね。ふふ」
久秀の目には晴元へ向けられたあざけりの念が浮かんでいる。謀反を起こした事への義憤というよりは、中途半端な行動によって逆境に追い込まれていることへの憐憫がある。
もう少しうまく立ち回ればいいものを、と。
「それと、今回この和議の裏で動いていた方たちの影を捉えましたわ。彼らのことも、今後は調べていく必要があるかと思います」
「それは?」
「足利義藤様と細川昭元様です」
どちらも、見過ごす事のできない名だ。
「殿下の御子息と管領様の御息女か。裏で動いていたと?」
「はい。この和議。表向きは将軍殿下のほうから打診があったとされていますが、どうやら内実は違うようで、和議の話が持ち上がるよりも前に、義藤様の元へ昭元様が直接訪ねておられたとか」
「まさか、昭元様が六角殿をお尋ねになったとき、か?」
長慶は、昭元が六角家に使者として送られたことが以前にあったことを記憶していた。思えば、和議の話が持ち上がったのはそのすぐ後のこと。なるほど、そこでなにかしらの密談があったとすれば時期的にも矛盾は無い。
「その話、どこで知りえたのだ?」
長慶の疑問も持っともだろう。表向き将軍家から打診されたとしている和議が、実は管領家からのものだったとすれば、この情報の改ざんは晴元の面子を保つための方便だったということになる。つまり、和議を結んだ側としては表に出してはならないものだ。
長慶に尋ねられた久秀は扇を開いて口元を隠す。
「ふふ、当時将軍邸の門番をしていた者に直接尋ねただけです。思いのほかあっさりと話してくださいましたよ」
「そうか」
長慶はそれ以上の追及をしなかった。なんとなく踏み込んではならないような気がしたのだ。
なんにせよ、その手法がどうあれ、情報源には信憑性があるようだ。
「義藤様と昭元様か……」
ノーマークだったわけではない。二人とも次代の権力者であり、長慶の上役に当たる存在になることが現時点で決まっている存在だ。その動向には注意してきたつもりだった。
とはいえ、二人とも、これまでは政治的な行動をほとんどとることがなかった。他の大名達とは一線を画す立場にある二人だから、周囲を取り巻く環境は長慶とは異なっているのだろう。両者共に父親に振り回されているような立場である、二人の関係は非常にデリケートだ。軽がるしい接触は、厳禁とも言える。それが、今回の和議の裏でなんらかの接触があったとすると、彼らもついに表舞台に出てくることを示す変化ということになるだろう。
可能性としては、この和議を主導したのがこの二人という見方もできる。
「わかった。久秀。このお二方に関しては、今以上に情報を集めるようにしておいて欲しい。趣味嗜好から人間関係まで、だ」
今後、接触するべきはこちらになるかもしれないのだし、そのときに送る宝物もどのようなものにするのがよいかを探る機会になる。
長慶の指示を聞いて、久秀は恭しく頭を下げた。