艦隊これくしょん―コンコルディアの落日―   作:GF-FleGirAnS

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ウルカヌスの天秤(前篇)

 悲しいことに海では強い艦娘でも、(おか)に上がればただの人である。食べて眠って風呂に入って、普通に日常生活を送っている。コケれば膝を擦り剥くし、ぎっくり腰になるときだってあるのである。

「で?」

「えへへ。ちょーっとやりすぎた、かな?」

 時にはこうやって出撃もしていないのに生傷を作ってくることもある。当然、傷には手当が必要だからこそ、一通りの治療施設が用意されている。彼女がそこを訪れたのは陸上でのスケジュールで、丁度昼休みにあたる時間だった。

「どうやったら安全地帯の基地内で引っかき傷をこさえてくるんだい、君は」

「だって、間宮アイスをとられたら怒るじゃん?」

「だからってなんで取っ組み合いになるほどヒートアップするんだ。とりあえず消毒するから座ってくれ、駆逐艦娘、深雪」

「了解っ、天羽月彦軍医中尉!」

 豪胆に笑う女の子が()()用の丸い椅子にどっかりと座る。それを見て軽くため息をつきながら天羽は滅菌済の脱脂綿と消毒用のヨードチンキを取り出す。惜しげもなく脱脂綿を濡らしてそれをピンセットで掴んだ。

「滲みるよ」

「……やさしく、してね?」

「そんな取ってつけたような猫かぶりは必要ないし、喧嘩をするような子に保証はできない」

 丸い眼鏡越しに深雪を見ると少し緊張気味だ。それもそのはず、消毒に使う希ヨードチンキは昔ながらの滲みる消毒液だ。滲みにくいタイプの用意もあるのだが、お灸も兼ねればこれぐらいでいいだろうとかなり遠慮なく脱脂綿を押し当てた。

「天羽先生……滲みるぅ……」

「私は滲みない」

「そりゃぁ天羽先生は毛抜きでやってるし、怪我してないじゃん」

「喧嘩をする方が悪い。あとピンセットと言いなさい」

「一緒じゃん」

「用途は別だ」

 とっさに体を逸らして逃げようとした深雪を左手でがっちり押さえると、半分涙目の深雪が腕を払いのけようとする。

「ほら、逃げるな」

「なら優しくしてよ」

「断る」

「ひどい」

 そういう間にも一通り消毒を終えた。一応女の子であることを考慮して、ヨードチンキの汚らしい褐色を落とすようにエタノールの脱色剤を塗布しておく。手早く絆創膏を貼って処置自体は完了。

「はい、お疲れさま」

「えへへ、ありがと」

「けがはしないようにしなさい。一応は国の守り神みたいなもんですからね、君たちは。かしこまって言うなら『もっとご自愛ください』です」

「天羽先生は守り神だなんて思ってないくせに」

「まさか」

「それはダウトでしょ」

 深雪はそう言って真顔で首を傾げた。そのまま天羽の顔を覗き込む。椅子に座ったまま覗き込むので、結果的に上目遣いで天羽を見上げることになる。天羽は一瞬言葉に詰まらせた。

「……どういう意味だ?」

「だってさ、ずっと距離取ってんじゃん。あたしだけじゃなくて、みんなから。仲間としては実は見てない。違う?」

「……私にとっては、仲間ではなく患者だよ、皆」

「ふーん。深雪様もその一人って訳なんだ?」

「あぁ」

 そう言った瞬間にふくれ面を作る深雪。昼下がりの気怠い日差しが、彼女の外側にはねた黒髪を光らせる。

「……なにか不満か?」

 カルテがぎっちり詰まったラックから深雪の個人ファイルを取り出して、天羽がそう問いかけた。

「別にぃ」

「ならいいんですが。他に具合の悪いところはあるかい?」

「別にぃ」

「ならこれで治療は終了。明日明後日で腫れたり、化膿ができてたら来なさい。あと、君はここに来すぎです。一人だけここに入り浸るのはやめといたほうがいい」

「天羽先生が主計科とかいろんな人から毛嫌いされてるから?」

 天羽はそれには答えない。ただひたすらペンを走らせる。

「あたしはさ、気にしないよ、そういうのは。今の司令官はいい人だし、司令官もあんまりそういうのには……なんというか、ズボラ?」

「君に言われるなら相当だね」

「なんだよ、あたしがズボラで大雑把って言いたい?」

「よくわかりましたね」

「そういうのは先生らしくないよね」

「そういうのを余計なお世話って言うんです」

 そのやり取りに少し笑う深雪。天羽はどこか面白くない。

「ねぇ、天羽先生」

「どうしました」

「天羽先生は、どうして海軍に来たの?」

 ペンが止まる。軽く変わった空気に深雪は機敏に反応した。

「……聞いたら駄目だった?」

「いや。理由が必要なのか考えてました」

 そう言ったきり、天羽は言葉を切る。

「そういう深雪はどうなんだい? 戦う理由とかそう言うのを気にするタイプだったりするんです?」

「んー、どうだろ」

 そう言って軽く空中を見つめるように視線を泳がせる深雪。しばらくそのままだったが、どこか照れたようにニカリと笑う。

「あんまりわかんないや、そういうの」

「……そうか」

 そう言うと天羽は一言二言カルテに書きつけて、パタンと閉じた。

「なら、どうして深雪はそれを聞いたんでしょう」

「え……?」

 深雪がきょとんとして黙る。その彼女を真正面から見据えて、天羽はゆっくりと言葉を紡いだ。

「深雪、君は————」

 どこまで自分が()()()いるんだい。

 そう、きいた。

「どこまでって……どういうこと?」

「少し含意が広かったかな」

「がんい?」

「質問が大きすぎたなってこと」

 天羽はそう言って目を伏せる。

「私もいろいろ考えるのさ。医官として、軍人として――――という程崇高でもないんですが――――いろいろ考える。なんでここにいるのか、これからどうするのか。何が本質で、何が違うのか。色々考える」

「ふぅん。……頭いいんだ」

「悪くはないつもりだよ。深雪もバカに体を調整さ(イジら)れたくはないだろう?」

「そりゃぁ、ねぇ?」

 嫌味を言うには朗らかすぎる深雪の笑みに苦笑して肩を竦める天羽。掛けた丸眼鏡に室内灯の光が一瞬反射した。

「だからこそ、わからなくなる。何をしたいのか、何をするべきかを見失いそうになる。……いや、これは誤謬(ごびゅう)だな。医官である以上は軍務を全うするべきだし、そうであらねばならない」

「ごびゅう?」

「論証の過程に論理的または形式的な明らかな瑕疵があり、その論証が全体として妥当でないこと」

「ますますわからないんだけど」

「いつかはわかるようになるよ」

「天羽先生、普段からそんなこと考えてるの?」

「君は考えないのか?」

「全っ然」

「……そうか」

 どこか開き直ったようにそういう深雪。その顔にはどこか笑みまで浮かんでいる。天羽はそれをどこか不思議そうに眺めた。

「でさ、なんでそれが深雪様への質問に繋がるわけ?」

「君が不思議だった」

「なにそれ」

 どこか天羽を胡散臭そうに見る深雪。天羽は言葉が足りないことに気が付いたのか、すぐに口を開いた。

「戦場に毎日ように出て、帰ってくる。凄惨な現場だって見てきている。でも君は笑って、間宮アイスの為に名誉の負傷をしたりする。かと思えば、夜中に私の所で泣いたりする」

「うえっ……」

 あの時のことは忘れてほしいんだけど……とバツが悪いのか、照れ隠しなのか、少しおどけたリアクションでそう言った彼女だが、天羽は取り合わず続ける。

「私には、君が艦娘をやめる理由を欲しがっているように見えた」

「私が?」

「君が」

 天羽の言葉に、深雪はどこか刺されたような表情をする。

「……やめたくない、って言ったらウソになっちゃうけど、やめるつもりはないよ」

「……」

「だって、私が選んだんだから、艦娘になるって。いまさら辞めるなんて言えないし、みんなは好きだし」

「それでいつか君は死ぬかもしれないとしても、かい?」

 深雪はそれを聞いて、言葉を刹那の間だけ詰まらせた。

「その時にそうなっちゃうんだとしたら、それは深雪様の運命ってやつだったんだよ。つらいし嫌だし怖いけど、私が深雪でいられるうちは、深雪でいたい」

「……そうか」

 天羽は目線を伏せたままそう言うと、視界の端にちらりとローファーのつま先が見えた。

「ありがとね、天羽先生」

 そう言って、深雪は少しだけ背伸び。僅かに踵を浮かせて天羽の頭に手を乗せた。

「何をしている?」

「なにって、頭を撫でてる?」

「なんでだ」

「撫でたいから?」

「なぜそうなる」

「なんでも」

 深雪はそう言って天羽の髪からぱっと手を離した。

「少し楽になった。天羽先生すごいや」

「何もしてないんだが」

「それでも楽になったのは楽になったからいーの! 天羽先生のおかげ」

 そう言って深雪は部屋の外に出ていこうとする。時間を見れば午後の始業まで時間はあまりなかった。

「そうだ、天羽先生」

 部屋のドアを開けて、顔だけで振り返る。

「お礼できてないけど、もしなにかあったら、この深雪様が守ってあげる!」

「……ありがとう」

「むー、期待してない顔だなー。これでも大分強いんだぞ」

「よく知ってるよ」

「ほんとうにぃ?」

「本当に」

 そう言えばこれまでで一番いい笑みを浮かべて、深雪が出ていく。残された天羽は、小さくため息。

「いかんな」

 そうだけいってカルテを取り出す。艦娘の治療は些細なことであっても記録することが必要だ。

 海軍 聯合艦隊 特種兵装開発実験団 医学実験部 医学実験隊 佐世保方面分遣隊 研究調査班。天羽月彦はその班に特種兵装専任医系技官として所属している以上、実地での試験サンプルとなる個体データはどれほど些細なものであっても収集する義務がある。

 損壊の発生日時、状況を記録。損壊理由に「僚艦と甘味をめぐって騒動」という項目は存在しないため、その他の理由にチェックを入れ、個別に記載。傷の種別や範囲、深度を記録し、処置の内容を記載。その際に使った脱脂綿などは所定の処置を施し、横須賀への輸送の手筈だ。そこに付着した体液や微細な細胞片などのデータ解析は横須賀の医学実験隊施設でなければできないのだ。

 手を止めて、ため息

「……悪い兆候だ」

 思考が変な方向に回り始めている。顔でも洗ってリセットしようと思い、部屋を出る。

「……不満そうね、天羽君」

 

 

 部屋の外に出ればいきなりそう声をかけられた。落ち着いた女性の声。

「疲れているだけ……ではなさそうね」

「あなたほどじゃないですよ。雅軍医大尉」

「管理職になる前からこれじゃぁ、先が思いやられるわね」

 雅柚穂軍医大尉がそう言い、軽く肩を竦めた。

「丁度よかった。渡しておきたいものがあるの」

 雅はそう言って背を向けて歩き出す。ついて来いと言うつもりらしい。天羽は黙ってついて行く。階級は向こうが上、従わない理由もない。

 無言のままについて行くと、雅の診察室まで行き着いた。部屋に入るとカルテかなにかの整理をしているらしい大鯨が会釈してくる。

「それで、渡したいものと言うのは?」

「先日の襲撃で艦娘以外にも被害が出ていてね。その治療に艦娘治療技術が使えないかと思って、レポートをまとめたの。目を通しておいてくれるかしら」

「……本題は?」

 天羽はそう言って眼鏡を外す。

「御見通しね」

「昼休みとはいえ、それを渡すだけなら、あの時に資料を持ってくればいいだけの話でしょう。ここに呼び出す必要はない」

「やっぱりあなた不満そうね」

 どこか几帳面に丸眼鏡を拭く手を止めた。部屋には大鯨がカルテを書き込むボールペンのノイズとアナログ時計の音が響く。それを聞きながら、天羽は口を開く。

 

 

「いえ、別に不満などありませんよ」

「全くもって不満そうな顔をして言うもんじゃないわよね。それ」

「しいて言うなら昼休みの間にしっかり休めるかどうかが心配ですかね」

 

 

 かなりの近眼なのか、眼鏡をかけると顔の輪郭が変わる。

 

 

「……深雪ちゃんのことが心配?」

「なぜ深雪が出てくるのでしょう?」

「やたらと気にしてたじゃない。あの子が部隊で孤立気味なのを知っているから、違う?」

「そんな情で動けるほど軍組織が甘くないことは貴女の方がよくご存じでしょう」

 

 

 そう言うと小さく笑う雅。

 

 

「それもそうね。でも感心したわ。そうやってちゃんと艦娘のそばに立てる人間が医者で。最近はほんと艦娘を使い捨ての兵器としか見てない人が多くてね、嫌になる」

「そうですか」

 

 

 天羽の声はいたって淡泊だ。冷たく見える言葉だが、誰の心を逆なですることなく過ぎていく。

 

 

「陸軍畑出身のあの監査官、天羽君はどう見た?」

「北の艦隊の艦娘を連れたあの士官ですか」

「そう、あの人」

 

 

 年相応の落ち着きに満ちた声で雅がそう言うと天羽が逡巡するだけの間を空けた。

 

 

「聞きたいのは、正解ですか?」

「まずはあなたの個人的な見解を聞かせて頂戴」

「あの短時間なのでなんとも言えませんが、優秀で厄介なタイプでしょうね。軍学校でもおそらく優秀。歩くときの重心の運びは常に母指球の位置に重心を持ってくる歩き方は軍事訓練で叩き込まれる基本の動作です。左腕を体に密着させないところを見ると、脇にかなり大型の拳銃を吊っている。少なくともこの基地に快く思わない人間がいるんでしょう」

 

 

 さらさらとそう言うと大鯨はどこか驚いた顔で振り向いた。天羽の言葉はまだ続く。

 

 

「かなりの自信家。少なくとも仕事に関しての苦手意識はない。艦娘とのコミュニケーションの取り方を見る限りリーダーシップを取るタイプとは違うものの、指揮を取るには十分な能力を持っている自負を持つボス的意識……現状はこんなところでしょうね」

「……さすがね。天羽君」

「心理学は専攻外なんですが」

「そこまでできれば十分よ。なんで佐世保に配置されているのかが不思議なぐらい優秀だと考えているわ」

 

 

 雅の称賛を前に天羽は何の反応を示さなかった。

 

 

「それで、ちなみに正解はどんなものだったのかしら?」

「『艦娘を道具として利用する傾向がある。艦娘を副官として置いておくには適切ではない。少なくとも海軍基地に置いておくには危険な可能性がある』……少なくともあなたはそう言ってほしそうに思いましたが?」

 

 

 雅はそう言われ、飛び出しかけた言葉を飲みこんだ。大鯨の目線が険しくなるが、天羽はどこ吹く風だ。

 

 

「まるで私にゴマをするのが正解みたいな言い方ね、天羽君」

「真実と正解は一致しない。それだけのことでしょう」

 

 

 ゴマをすることは否定しない天羽。大鯨が腰を浮かせようとしたのを雅は目で止めた。

 

 

「貴方もあの陸軍士官と同じクチかしら。艦娘を単純な兵器として扱う彼女と」

「陸軍のスタンスはあくまで艦娘に依存する現システムの刷新でしょう。容姿だけとはいえ幼子を前線に送る末期戦に追い込まれている海軍よりはよっぽど人道的だ。海軍がなければ陸はとっくに壊滅してるのはありますが、それを差し引いても陸軍の発言力が高まっているのも頷けます」

 

 

 バイオエレクトロニクス素子が海軍医療実験施設で実用化されたころ、対深海棲艦戦線は海軍の独壇場だった。艤装と呼ばれる専用兵装群を背負い、海を往くには生身の身体は弱すぎる。それを体構造から書き換え、生きながら深海棲艦の砲撃に耐え、作戦行動をとり続けることが出来る『艦娘』が海を切り拓いた。艦娘は確かに革新的だったが、二世代から三世代も前の技術のアップデートしかできない状況では陸軍に追いつかれても仕方がないと言える。

 

 

「それでも海軍がいなければ姫級などはどうする気?」

「さぁ、それは参謀かだれかが考えてくれるんじゃないですか?」

「中尉、いうに事欠いて……!」

「大鯨」

 

 

 雅の一言が大鯨の感情的な大声を叩き切った。今は感情的になったほうが不利なのだろう。渋々黙り込む大鯨。天羽はどこかつまらなさそうにその様子を眺めていたが溜息を一つついて立ち上がる。

 

 

「……貴方は、艦娘が使い潰される現状をどう思っているの?」

 

 

 その問いを鼻で笑う天羽。そして吐き捨てた。

 

 

「同情することはできますけど、したところで救えないでしょう」

「ダブルスタンダードね。深雪ちゃんには別のことを言っていたようだけど」

「子供に見せていい顔と悪い顔があるでしょう。問答無用で戦場の只中に居る深雪にその事実を見せつけて何になるんです。それに私の任務である『艦娘の機能維持と医療技術的課題に対する情報収集』を遂行することが必要である以上、仮面を被ることもやぶさかではありませんよ」

 

 

 天羽はそう言って続けた。

「目の前の命を救うのは間違いではないでしょうが、軍医は医者である前に軍人です。あなたはそれを誰よりもわかっているのでは? 雅()()

「……懐かしいことを覚えているのね、もう捨てた役職よ、それは」

 

 

 雅の纏った空気が異質なものに代わる。それを機敏に感じ取る柳は眼鏡をそっと直した。廊下に続くドアに手を掛け、開く。それを見ながら雅は言葉をひねり出す。

 

 

「森だけを見ては木を救えないでしょう。そうして残るのは荒涼とした土地だけよ。それでは意味がないのではないかしら? それが見えないうちは誰も救えないわ」

 

 

 その言葉を聞いて天羽は足を止めた。半身を向けて雅を見る。とっさに大鯨が雅を守るように飛び出して臨戦態勢をとった。それほどに天羽の目は鋭い感情を湛えている。嘲り、それよりも強い、憤怒。

 

 

「エゴですね、ただの」

「なんですって?」

 

 

 天羽につられるように雅の声のトーンが下がった。

 

 

「目の前の命を救いたい。大いに結構でしょう。私だって救える限り救っている。だが、貴女はそれを勘違いしている。救うといいながら、目の前の患者しか見ていない。それは正義でも何でもないただのエゴでしょう。あなた個人のエゴだ。それをあなたはあたかも正義のように振りかざす。それは滑稽ではありませんか?」

 

 

 その言葉が大鯨の堰を叩き壊した。天羽の左耳を脅かすように大鯨の右腕が掠めた。背後のドアが大きく鳴る。眉一つ動かさず、天羽はそれを受けた。

 

 

「……何も知らないまま、雅大尉を愚弄しないでください。天羽中尉」

「私は確かに司令官とやらの葛藤は知らないし、理解していないでしょう。それでも、少なくとも大尉と少将ではどちらが守れる権限が大きいかは火を見るよりも明らかなはずです。守る力を自ら投げ捨てておいて、皆を救った? 目の前の人を救えたら満足? 寝言は寝てから言っていただきたい。今この瞬間に見えないところで何百人という戦死者を重ねる現状がある。だのに雅大尉は目の前のたった一人を救って微笑んでいる。それを偽善と言わずに何と言うんです?」

 

 

 悔しそうに天羽を睨みながら大鯨は涙を流す。それを天羽は涼しい顔で眺めていた。

 

 

「あなたに……! 中尉に柚穂さんの何がわかるというんですか……!?」

「わかりませんよ。私にわかるのは、切り捨てる覚悟ができない人間に、軍医は務まらないという事だけです。切り捨てられた人間の嘆きや怨嗟を投げられる覚悟のない人間にどうして軍医が務まります?」

 

 

 天羽はそう言って、ドアに叩きつけたままの大鯨の腕を押して、ドアから離させる。怒りのせいなのか、震えた手は天羽が力を入れなくともするりと外れた。改めてドアを開ける。

 

 

「その覚悟ができないならば、あなたのその小さな箱庭を守っていればいい」

 

 

 そう吐き捨てて部屋を出る。雅も大鯨も追ってはこなかった。そのまま廊下を曲がる。天羽の眼鏡に室内灯の光が反射した。

 

 

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