艦隊これくしょん―コンコルディアの落日― 作:GF-FleGirAnS
雅は佐世保鎮守府において自らに与えられている個室がある。だが、あまり個室にいることはない。傷病人はいつ出るかわからないのだ。深夜に来るかもしれない。早朝に来るかもしれない。だからこそ、いつ人が来てもいいように雅はたいていの場合、医務室に常駐していることが多かった。そして、今日も今日とて珍客が姿を表した。
「やっほー!」
「隼鷹さん? 医務室で騒ぐのはやめてもらえないかしら?」
「やー、ごめんごめんっと」
隼鷹が手刀を切って詫びる。適当なこと極まりない謝罪に半目で雅が隼鷹を見つめて、ようやくバツの悪そうな顔で隼鷹が頭を下げた。
「まあ、いいわ。で、何の用? 見たところ怪我はしてないみたいだけど。酔い覚まし?」
「いやだなぁ、私は酔ってなんかないってぇ。あ、でも雅先生もこれからいっぱいやらない?」
「消毒用のエチルアルコールがお望みかしら?」
「じ、冗談だってば」
「はあ……休肝日くらいは設けなさい、まったく。飲むなとまでは言わないけど、飲みすぎは体に毒よ」
飽きれた口調で雅が忠告するが、隼鷹はタハハ、と頭をかいて誤魔化した。どうせ真面目に言ったところで取り合わないと知っているのでこれ以上、追及することは早々に切り上げた。
「で? こうやって私に説教を食らうってわかっているのに医務室に来たってことは何か用事があるんでしょう?」
「あ、やっぱりわかっちゃう? あのさ、大鯨さんいない?」
「大鯨? ……そういえば見ないわねぇ」
「部下じゃないのかい?」
遠まわしに隼鷹が、どうして大鯨の居場所を知らないのかと問いかけてきた。それに対して雅は小さく肩をすくめることで答えとする。
「違うわよ。私の近くにいてくれるのはただ単に大鯨の好意よ。そもそも大鯨は艦娘よ? 私は医務室勤務なんだから指揮系統が違うわ」
「へぇ。じゃあ、大鯨さんはどこにいるか知らないと」
「知らないわ。私の助手ってわけでもないから。でも、どうして?」
「それがさぁ。この間、バッカーーーーいや、吉井中尉と飲む時にツマミを作ってもらったからそのお礼にって思ったからさ」
隼鷹が手に提げていた紙袋を持ち上げる。わざわざちゃんとお礼を用意してくるあたりはしっかりしているのだから、少しくらい禁酒するなり制限するなりすればいいと雅は思うのだがそう簡単にできることではないらしい。
「でも大鯨さんいないのかぁ。んじゃ、雅先生が渡しといてくれよ」
「まあ、いいわよ」
大鯨が来ることは義務ではない。あくまでも大鯨が好んで医務室を訪れ、彼女の意思で雅の指示に従っているだけなのだ。
隼鷹から受け取った紙袋をデスクの上の端に置いておく。これで忘れるようなことはないはずだ。
「それにしても本当に珍しくないかい? いっつも大鯨さんは医務室にいるイメージだけどねえ」
「まあ、否定はしないわ。今日はなにか大鯨に予定があったかしら?」
「雅先生、知らないのかい?」
「だから私は大鯨の直属の上司じゃないのよ? 予定までは把握してないわ」
大鯨に何かしらの命令でも降りたのかもしれない。仕事、ということなら雅に口を出す理由も権利もない。
そもそも艦娘と医務室では関係がなさすぎる。それでもしょっちゅう顔を出してくれるのは大鯨の個人的な動機だけだろう。いつも時間があるときは手伝ってくれる大鯨に雅は本当にありがたいと思っていた。
雅はぽんと手を叩く。この話は終わりだ。
「……さて、お茶でも淹れようかしら?」
「お、気が利くねぇ」
何にしようか少し悩む。雅の個人的な趣味の問題で、医務室には無駄に飲料の種類が豊富なのだ。煎茶を始めにして、基本のコーヒーはモカ、コナ、ブルーマウンテンやキリマンジャロなどが置いてあり、紅茶もアールグレイやアッサム、ダージリンにディンブラなどと茶葉の取り揃えが非常に多い。それだけではない。お茶も、玉露、烏龍茶、ハス茶、ジャスミン茶、ハーブティーなど多種多様な取り揃えがある。もちろん軍の経費は使わずに、雅のポケットマネーから出ているので何も問題はない。それぐらいの良識はあるつもりだし、その程度の金額を払っても痛まない給金はもらっている。
「梅昆布茶にしようかしら」
「梅昆布? なんだいそりゃ」
「あなたのようなヒトに良いものよ」
練り梅と粉末状にした昆布を湯呑みに入れると、電気ポットから湯を注ぎ込む。時間が経つにつれ、梅の酸味ある香りがふわりと湯気と共に雅の鼻をくすぐった。
「なんで梅昆布茶?」
「梅に含まれるクエン酸は疲労回復に効果があるのよ。それに胃腸の粘膜を保護する働きもあるから二日酔いに効くの」
「へえー」
「あとは昆布のビタミンB1とマグネシウムがアルコールの分解を助ける効能があるから、二日酔いの日やお酒を飲む前に飲んでおくといいわよ」
2つ目の湯呑みにも同じように練り梅と粉末状の昆布を投入。湯気の沸き立つお湯を流し入れて、軽くスプーンでかき回す。きれいに溶けきってから、湯呑みを隼鷹の目の前に置いた。
「そりゃいいねぇ! これで心置きなく飲めるわけだ」
「……そのために淹れたんじゃないけどね」
「いやぁ感謝してるよ雅先生。ありがとねっ」
そういいつつ湯飲みを手に取り、匂いも味わうようにゆっくり飲む隼鷹。くい、と湯呑みを傾けると、爽やかな梅の酸味と昆布の旨みが口の中で交錯しながら広がった。嚥下すると温かいものが胃の腑を満たしていく。半分ほど飲んだところでちょっと彼女は手を止めた。
「ちょっとつまみでも持ってくるよ。お茶、ちゃんと取っといてよね」
「分かってるわよ」
立ち上った隼鷹はそのまま出口へ。扉が閉まる。
医務室にいつも通りの沈黙が訪れた。珍しく誰もいない医務室はまさに平穏。時計の秒針が進む音すら聞こえる。
だからこそ、無駄なことまで考えてしまう。考えるのは先ほどのこと。いやにつかえる言葉。
「小さな箱庭を守っていればいい、ね……天羽君も厳しいことを言ってくれるわ」
少数の命を救うことですべてを助けたような気持ちになっている偽善者。まさにその通りだ。多数の命を救うためには、力が必要だ。そして権力というのは立派な力だ。
「雅
苦虫を噛み潰した表情で雅が言った。天羽がどこで知ったのかはわからない。だが確かに雅は少将だった。けれど少将であったのにも関わらず、今は大尉。階級は大きく下がってしまっている。つまり持っていた権力は縮小し、今では佐世保鎮守府医務室の長でしかない。
「確かにその通りよ。大尉より少将の方ができることが多い」
そんなことわかっている。雅は人を救うという信念を果たすなら、大尉に身を落とすのではなくて少将に居続けるべきだった。その努力をするべきだった。
「私のやってることが偽善だってことくらい自分でわかってる。手のひらに掬える水だけで、こぼれ落ちていく水から目を背けている私は間違っている」
そんなこと、この道に入ることを選択した時になんども問いかけたことだ。
「でもね、もう戻れないのよ」
梅昆布茶の入った湯飲みを傾ける。昆布の出汁の中に混ざる梅の風味が口の中で淡く溶けた。
◇◆◇◆◇◆◇◆
「柚穂さん……あなたは間違ってなんかいません」
雅の名前を大鯨はゆっくり呟く。つい黙って聞いてしまった。医務室の扉を隔てている雅がこちらに気付いた様子はない。いまさら部屋に入る気になれず、大鯨はもたれていた背を離しその場から立ち去る。
うつむきがちにゆっくりとした足取りで目指すのは宛がわれている自室。
「お、大鯨じゃん。先日はありがとねぇ。あとで雅大尉からブツを受け取ってくれなー」
どこかに向かうらしい隼鷹とすれ違うが、軽く会釈を交わし逃げるように大鯨は歩みを早める。
大鯨は知っていた。雅は大尉になるしかなかったことを。少将という立場を引くしかなかったのだということも。
そして、それでも雅は戦うことをやめずに医務に従事してきたことも。
「柚穂さん……だから私はあなたに付いてきたんです」
大鯨はそこで足を止める。やっぱり納得できない。彼女の想いを偽善の一言で切り捨てられて黙っていることなんてできない。足が天羽の部屋へと向けられる。さっきは言い返せなかった。今度も言い返せないかもしれない。それどころか門前払いをくらうかも。
でも、どんな言葉を出せばいいのか分からないけど、このまま部屋に帰ってしまうなんて出来なかった。
天井に取り付けられた蛍光灯は節電のために半分に減らされている、どこか暗くなりがちな廊下はどこまでも続いていきそう。
そこでふと、大鯨の中で引っかかるものが。
「そういえば……天羽中尉はなんで柚穂さんが少将だったことを知っていたの?」
あの時は冷静じゃなかったから気づかなかった。でもどうしてだろう、妙に引っかかる。
別にそれは一級機密というほどのものではない。だがそう簡単に知ることができる内容でもないはずだ。少なくとも中尉という階級では知り得ない情報だということは間違いない。ましてや佐世保に来てまだ日の浅い彼が知るはずがないのだ。
そんなことを考える内に天羽の部屋についてしまった。ノックをしようとして、ドアが僅かに開いていることに気付く。
「あれ……天羽中尉?」
呼びかけて見るも返事はなし。隙間から覗く部屋の中は黒く塗りつぶされていて、まるでどこまでも続く穴の入り口のよう。
「誰も……いない?」
天羽の部屋の戸を中の様子を伺いつつ、大鯨がこっそりと押し開ける。そのまま廊下に誰もいないことを確認して、電気のついていない部屋にこっそりと滑り込む。カーテンも引かれているせいか、真っ暗だ。
「ずいぶんと殺風景な部屋……」
暗闇に目が慣れてきてようやく部屋の全貌がきれいに見えるようになった。質素、とはまた違うが飾り気があるというわけでもない。ただ必要なものが置いてある、という感じだ。
「さっきの言葉……やっぱり引っかかる」
天羽月彦という人間はなぜあそこまで敵意をむき出しにする必要があった? 雅に対してその思考が理解できない、もしくは反対していたのだとしてもあそこまで反抗的な態度を取る必要性はなかったはずだ。
ぐるぐると頭の中でさっきの会話をリピートしているところで、急に電子音。
「ひっ!」
驚いて大鯨は飛び上がった。警報が作動したのかと思ったが、飛び込んできたのは警備ではなくぼんやりとした光。どうやら見つかったわけではなさそうだ。
「驚かさないでよ……」
さっきまであんなに静かだった部屋で、天羽の机の上にあったパソコンが音を立ている。ようだ。さっきまで光がなかった部屋に、コンピューターのブルーライトが混ざった。
そろり、そろりとコンピューターに忍び寄る。慎重にコンピューターの画面を大鯨が覗き込んだ。
《<ers:mbean name="ERS2:name=Unkoown"》
《<ers:property name="User">○○○△△△@◇××#ne.jp》
《<ers:property name="Password">eottpy</ers:property>》
「どういうこと……?」
よくわからないコードが天羽のコンピューター画面に流れる。だがあまりにも早すぎて内容までは読み取れなかった。だがよくわからないプログラムが走っていることだけはわかった。
「えっと、いい旅を? 幸運を祈る? どういうことなの……?」
大鯨が首を傾ける。どうしてこの状況下でこんな言葉が天羽のコンピューターに流れているのかわからない。
ポン、とウィンドウがポップ。小さなウィンドウにあるバーは左から緑色に染まっていく。完全に緑色になった後に、[Sending]の文字が浮かぶ。
「送信? これってメール?」
じっとコンピューターを見つめる大鯨の顔をブルーライトの光がぼんやりと照らし出す。これで終わりなのかと思っていると急に新しく文字が浮かび上がる。
「なに、これ?」
と、その時。大鯨は、一瞬意識を失いかけるような衝撃を受ける。
文字通り雷に撃たれたような錯覚。目をしばたいて、自身の状態を確認する際にも違和感。数刹那か数時間か。その把握すら判断できないように間が空く。再び考え、動き始めるころにはどれだけ経過したことだろうか。
ピントが合わない仄明るい視界。僅かに体を動かそうとして、微動だにしないことに気が付いた。スタンガンか何かを使われただけではない。物理的に結束バンドで、両手の指を結わえられたかのようだ。
「……!」
「お寝坊ですね。しかし、こちらとしても想定外だ。君のおかげで、曙の頃合いだというのに花火を打ち上げる羽目になるとは」
その言葉に意識が強制的に引き戻される。上官にあたる雅軍医大尉とは異なる声、男の人の声だ。大鯨は飛びかけた思考をかき集め、この部屋の主の名を口から突き出す。
「……天羽月彦軍医中尉」
「フルネーム階級付きで呼ばれるほど他人行儀は必要ないと思っていたんですが、まぁ、仕方ないでしょう。後ろ手に縛られてベッドに転がされている状況で、目の前に縛ったらしい男がいたら、警戒されるのも当然ですからね」
丸眼鏡の向こうの目はいつも通りだ。几帳面過ぎるほどに折り目正しくプレスされた白衣もいつも通り。無造作ながらも不潔感はない髪もいつも通り。――――それでも、目の前の天羽月彦の雰囲気は、大鯨から見る限り、どこか異なっているように見えた。
「……あなたがアナキストだとは、知りませんでしたよ」
「なるほど、あなたから見たら私は
そう言って肩を竦める天羽。その背後にはPCの明りが灯っているのが見える。大鯨は素早く視線を走らせた。天羽の部屋。どうやら拘束した大鯨の処遇は、ここに放置することを選択したらしい。あやしまれずに自室から運び出す事は無理だと考えたようだ。大鯨は目の前に居る男に向かって口を開く。
「愛国心とは、卑怯者の最後の逃げ口上である……という言葉はご存知ですか?」
「文豪サミュエル・ジョンソンの言葉でしたか? 確か18世紀イギリス、英語辞典の編纂者だったはずです」
天羽が即答。大鯨の何がおかしかったのか、彼は喉の奥で笑った。
「愛国主義でジョンソンが出てくるあたり、大分皮肉が入っていますね。普通ならジャン=ジャック・ルソーあたりが出てくるものだと思ったのですが」
「私の考え方には合わないので」
「フムン。では、アメリカ南北戦争の話もお嫌いですかな?」
天羽はそう言うと朗々と何かを読み上げるように諳んじる。
権利が奪われているものとして自らの国を見たがる人物は、愛国者たりえない。したがって、アメリカに対する権利侵害などという馬鹿げた主張を正当化する者は愛国者ではないのだ。彼らはわれわれ自身の植民地に対する自然かつ合法的な権威を国民から奪おうと試みている。それら植民地は英国の保護のもとで安定し、英国の憲章によって統治され、そして英国の武力によって防衛されてきたのだ。
「……為政者の為の安寧、それを謳うつもりですか?」
「君は嫌いなんでしょう? 私もです。しかしながら私はこれに学ぶべきところがあると考えているんですよ」
天羽はそう言って両腕を広げた。
「人間が社会を構築し、貨幣経済を成立させて以来、価値のない物に価値を認め、それらを交換することを覚えました。その最たるものが時間であり、労働であり、命であるわけです。その価値をお金に変え、権威に変え、権力に変え……そして富めるものと富まざるものを生み出した」
「資本主義者がきまりきった所だけの利潤では行き詰り、金利が下がって、金がダブついてくると、『文字通り』どんなことでもするし、どんな所へでも、死者狂いで血路を求め出してくる……ですか」
「小林多喜二『蟹工船』ですね」
その声にどこかムッとしたような視線を向ける大鯨。
「社会主義の話をしに来たわけじゃないんですが」
「私も社会主義の話をしたいわけではないんですがね。まぁ社会主義というのは、学のない労働者の中で言語化されていない思想として脈々と続いてきたという意味において、根源的な思想と言えます。……なかなか面白い引用をしますね、大鯨」
「褒められてもうれしくないんですが」
「なるほど」
不機嫌な大鯨と比較しても天羽は上機嫌だ。
「話が逸れましたね。南北戦争において、アメリカは最終的にイギリスの植民地から外れ、独立を勝ち得ます。為政者や権力者の言葉に対しての勝利とも取れるわけです。そうして生まれたのが
天羽が何を言わんとしているか大鯨にはわからなかった。
「では私から質問です。この国は自由の守護者たることができるでしょうか?」
天羽はそう言って大鯨を指さした。
「その体、その言葉、その仕草、その思考……それらすべてを規定するナニカ。それを疑ったことはありませんか? 自らが戦う必要、自らがまるで滅私奉公のようにしてこの国体を守る必要、それらを疑ったことは?」
カーテンが閉め切られた部屋で天羽の声が響く。軍事機密の権化のような代物である艦娘を扱う都合上、この部屋に入れるのは艦娘およびそれに関わる人物の出入りに限られる。外の誰かに聞かれることを考えていないのか、天羽はどこか興奮気味に続ける。
「自由の名に値する唯一の自由は、われわれが他人の幸福を奪い取ろうとせず、また幸福を得ようとする他人の努力を阻害しようとしないかぎり、われわれは自分自身の幸福を自分自身の方法において追求する自由である――――――J・S・ミルはご存知かな?」
天羽はそう言って笑った。
「この国は今死に絶えようとしています。それは、深海棲艦が攻め寄せているから
「よく言いますよ。あなたは今前線がどうなっているかを知っているんですか? 硝煙の匂いを嗅いだことがあるんですか? 腕や足がちぎれる感覚を覚えたことはありますか?」
「そう、それが問題だと私も考えています。私もできることなら最前線に立ちたかったのですが、前線に出ることができないんじゃどうにもなりません」
そう言って天羽は肩を竦めた。
「国を守る役目は君達が負ってしまいました、私はぬくぬくと後方で暇を持て余すしかできない訳です。なので、まぁ、頭でっかちと言われるとなにも言えないところがありますが……それを問わねばならないと思っていますよ」
「無責任じゃないですか。あなたの愛国に付き合わされて私は縛られているのは不条理じゃないんですか?」
「それについては後々補填があるでしょう。それこそ、政府や権力があなたを見捨てるはずがない。私もあなたを拘束することが目的ではない。もうすぐ解放しますよ。時間は十分に稼げた」
そう言った声に大鯨は僅かに目を細めた。
「あのコード……」
「起動する前にコトが露呈してはさすがに意味がありませんからね。ウィルスは使い捨ての兵器とはいえ、使う前にバレてはお話になりません」
「……それで、何をする気なんですか」
「話す必要がありますか?」
天羽はそう言って後ろのPCを操作し、電源を落としたらしい。画面がブラックアウトする。
「どうも自分はいま機嫌がいいらしいので、少しだけ先ほどの質問にお付き合いしましょうか。……コンコルディアという女神は知っていますか?」
「コンコルディア……?」
「ローマ神話に出てくる女神です。紀元前370年ごろ、時の大国であった共和制ローマはフォロ・ロマーノに和平と協調を司る女神コンコルディアを祭る神殿を建立した。
天羽はそう言って白衣の襟を正した。
「コンコルディアは
そう言って笑った彼の目に初めて、狂気が浮かんだ。
「もし、その杯に毒が注がれていたら。もし、その角飾りに詰まっているものが腐った林檎だとしたら。もし、その杖が導くものが子羊ではなく悪霊だとしたら。それらの協調により守り導かれるこの世界の安寧は、何処に向かうのでしょう。私は、それを危惧している」
天羽が部屋の扉を開けた。廊下からは薄暗い中でも日差しが飛び込んでくる。
「すぐに迎えが来るでしょう。その人たちに伝えてください。カドゥケウスは預かった。取り返したくば追ってこい」
双眸に、夜明けよりも遥かに禍々しい光が見えた。