柴田明家は天下統一を成し遂げた。ついに応仁の乱から続いていた戦国時代に終止符を打ち、大坂幕府初代将軍となった。その後も積極的に働いた。蝦夷との交易で現地人であるアイヌの人々が蠣崎氏に不当な弾圧を受けていると知っていた明家は蠣崎氏を本州に移動させて、蝦夷には幕府の代官所だけおき蝦夷地すべてをアイヌ人に返却したのである。
二代将軍の時代に完全に蝦夷は統治の都合上日本に併合されるが、弾圧は二度と行われず蝦夷は農業と漁業の盛んな国となり幕府と交易をして、現在の北海道の礎となっていく。アイヌの人々は蠣崎氏の理不尽極まりない弾圧から開放してくれたうえに土地も返してくれた柴田明家に深く感謝し、北海道には明家が御神体の神社仏閣が多く建立され、現在も尊敬と思慕を受けている。
そして明家の天下統一後、キリスト教が禁止され、宣教師たちは残らず追放され、奴隷商人に関わっていた場合は処刑された。これに激怒した欧州列強が連合艦隊で日本に攻めてきた。世に云う『日欧の役』である。帝より日本軍元帥に任命された柴田明家、全国の大名を率いて迎え撃ち見事に撃退した。
皮肉な事に捕虜交換を含めた戦後処理の際に明家への全権大使となったのはルイス・フロイスで副使はアレッサンドロ・ヴァリニャーノであった。戦勝した明家は賠償金請求と羅針盤や大砲などの文化の導入、交易の開始を条件に和睦。もう昔に戻れない明家、フロイス、ヴァリニャーノであるが和議の握手の時、再会の喜びも同時に噛み締めていたのではないか。三人の笑顔に嘘はなかった。
だが一難去ってまた一難、今度は大陸の明を滅ぼした清が攻めてきた。皇帝ヌルハチ率いる大軍が攻めてきた。『日清の役』である。元帥明家は九州の名護屋に巨大な城を築城し、迎え撃った。九州勢は故郷を守るため必死である。
しかしこの合戦で毛利輝元が功を焦り明家と黒田官兵衛の作戦を台無しにしてしまうと云う大失態を犯す。吉川元春と小早川隆景の毛利両川がすでに故人であったのが輝元には不運であった。一歩間違えれば清に日本が蹂躙されていたほどの失態であった。結果日本軍は清を撃退するが明家は毛利の領地を五分の一に減らしたうえ、輝元養子の秀元を当主にして輝元に切腹させると云う苛酷な処分を断行したのである。秀元の妻は明家の娘、娘の事を思うと断腸の思いであったが明家は決断したのだった。
しかし、この日本の戦国史を締め括る二つの大戦も悪い事ばかりではなかった。清とは和睦し大戦から五年後に交易が開始され、そして二度の日本軍としての戦いは明家を盟主とした国家を作る礎となった。日本中の大名が明家のもと一致団結して戦ったと云う事は、まさに戦争なれど貴重であった。欧州連合軍、そして明を倒して勢いがあった清を討ち破った事は世界中を驚かせ、東の果ての国ジパングは侮れないと思わせるに至る。
平和となった日本。明家は元帥の称号を帝に返還し、再び将軍に戻った。そして大坂幕府の長き天下泰平の礎を築く。
柴田竜之介は『日欧の役』が初陣だった。明家は妻のさえに『竜之介に初陣はない』と言ったが、国内の合戦が終わった後、よもや外国が攻めてくるとは当時に思いもよらなかったろうから無理もない。
名は柴田勝明、才覚は父には及ばず、彼の息子の三代勝隆が弟の保科正之の補佐を得て、祖父さながらの名君になったためいまいち影の薄い二代将軍であるが父に信頼され、息子には尊敬されており、治世の賢君として現在に伝えられている。幕府創始者の柴田明家は息子の勝明と孫の勝隆や正之に
『統治者こそが民の下僕なのである』
と云う言葉を徹底して聞かせた。父の勝家の元で民心掌握などの仕事をしていた明家には民の支持が何より不可欠と云う事を骨身で知っていた。何より柴田の軍旗『歩』の心はそれであった。幕府と云っても単位が大きくなったに過ぎない。明家は子と孫に“民に仕えよ”と云う事を教えた。そして勝明、勝隆、正之もそれを子孫に教えた。
大将軍柴田明家、激務に追われ父の勝家、母のお市の臨終にも間に合わなかった。二人とも病で伏せているのを将軍に知らせてはならないと家臣たちに述べていたからだった。自分を見舞うよりも、そして看取るよりも民のために働いて欲しい。そういう願いからだった。勝家は臨終のさい、嫁のさえに
「今後も息子を頼みましたぞ、あれは妻のそなたがいなければ何にもできぬ男よ。支えてやって下されよ」
と頼んだ。勝家はさえの命の恩人、父の景鏡の死と朝倉家の滅亡で死の誘惑に負けたさえが東尋坊で身投げしようとした時、それを止めて城に連れ帰ってくれた。あの時に勝家の優しい計らいがなければ今の自分はない。さえにとってはもう一人の父も同じ。そして最愛の夫の父でもある。さえはその勝家の手を握り泣いて何度も頷いた。勝家は家族に看取られ、安らかに逝った。勝家の死を遠い江戸の地で知った明家はその夜一人で泣き明かした。母のお市もそれから数ヶ月後に天に召された。息子の沢栄と嫁のさえ、娘三人に看取られ、
「さえ…明家殿を頼みますよ。天下人だなんて言ってもあの子は貴女がいて踏ん張れる。たとえ一日でもいい。あの子より長生きしてね…」
「はい義母上様、絶対にあの人より長生きします」
「万福丸…。先に参ります」
「母上、手前もあと何十年後に参ります。ろくに孝行もできず申し訳ございません」
「あなたの元気な姿こそが何よりの孝行です…」
「「母上!」」
「茶々、初、江与、兄上と義姉上、そして夫の言う事をよく聞くのですよ…」
そしてお市は逝った。満足そうな笑顔だった。とうとう両親の臨終に立ち会えなかった明家。この時も江戸にいて関東の土地を視察していた時だった。江戸の千代田、開発予定地を歩く明家と息子勝明。
「偉い身分になぞなるものではないな…」
「父上…」
「勝明」
「はい」
「お前も俺や母上の臨終に立ち会えると思うな。そういう者なのだ将軍とは」
「お言葉、肝に銘じます」
「ふむ、なあ勝明」
「はい」
「この江戸だが、冬は空気が乾燥し火災の危険が大と云う負の条件はあるが北国と違い雪害もなく、気候も南に比べ過ごしやすい。また河川も多く水運が容易だ。俺はここに大坂に続く大都市を作ろうと思う」
「東の政庁ですか」
「そうだ、当代は大坂、先代は江戸を統治する。そうすれば日本は東西で協力し統治できる」
「どうして最初から江戸に目をつけたのでございますか?湿地帯で使える土地がないと家臣たちは反対したと云いますが」
「地質はそうだが場所がいい。交通の便も良いし江戸湾は交易の港に適している。湿地帯などは埋めれば何とでもなるゆえな」
「なるほど」
「お前やってみろ」
「え?」
「城と町、作ってみろ」
「ほ、本当に!父上俺がやっていいのですか!?」
「ああ、すべて任せる。やってみよ」
「は、はい!父上俺がんばります!」
「よし」
息子の肩を抱く明家。よく彼自身が勝家にしてもらった事だった。
「殿~ッ!お義父上様~ッ!お茶が入りましたよ~ッ!」
勝明の妻の姫蝶が遠くで呼ぶ。
「父上、一服しましょう」
「そうだな」
勝明の妻の姫蝶は仙石秀久の娘で可児才蔵の養女である。仲のいい夫婦であり、もう子供も生まれた。明家も今では爺さんである。姫蝶は優しい性格をしているが同時に気の強い娘だった。仙石秀久の血を引き、可児才蔵に育てられたのだから当たり前であろうが。
このころ勝明には側室がいなかったが、外に女を作った。父の柴田明家は、あの『ややこ踊り』で有名な出雲の阿国の支援者だった。愛人説もあるが確実な資料はない。阿国は蒲生氏郷家臣の名古屋山三郎と男女の仲であったと言われている。他人の女に言い寄る事はしなかったと云われる明家ゆえ、愛人説はほぼ否定されている。なぜ天下人の明家が阿国を支援したかと云えば、明家は今日風に云えば踊り子としての阿国のファンであったのではないかと云われている。阿国の舞台があると聞き、政務をほっぽり出して観に行き家老の奥村弾正に怒鳴り飛ばされたと云う記録があるから、もはや『おっかけ』に近かったのではないか。
阿国はすでに他界しているが彼女には娘がいた。母親と比肩する踊り子で、かつ美しい娘で名は八雲と云った。明家は母親に与えていた『ややこ踊り』の興行権利をそのまま八雲に継がせて領地内で好きなように興行をさせていた。で、その『おっかけ』を継承したのが勝明であり、ついには八雲とデキてしまった。
姫蝶は良人が踊り子と不貞をしたと知り激怒。可児家の名槍を持って良人の勝明を城中追い掛け回した。しかも着物の帯に笹の枝を差していた。つまり『必殺する』と云う意味である。勝明は血相変えて逃げ回ったと云う。薄情にも明家とさえはその騒動を横に平然と食事をしていたらしい。これが一ヶ月前の話である。明家に入れたお茶にはお菓子がついていたが勝明には白湯だけだった。あまりの差。
「こっちがお義父上様、こっちが殿の」
肩を落とす息子勝明。
「ではお仕事がんばってね殿!じゃ私はこれで、茶屋でおしゃべりの約束があるから」
去っていく姫蝶。
「まだ許してもらえてないのか?」
苦笑する明家。
「はい…」
「一度ヘソを曲げると長い。さえと同じだ」
「そういう時、父上はどうやって母上の怒りを解いたのですか」
「愛だよ、愛」
「ただ平謝りしていただけじゃないですか」
「そうだったか?覚えていないな、あっははは!」
その姫蝶姫が生んだ子が三代将軍の柴田勝隆となり、八雲が生んだ子が保科正之となる。
◆ ◆ ◆
月日は瞬く間に流れた。前田利家、毛受勝照、可児才蔵、山崎俊永、吉村直賢が逝った。
明家五十歳、石田三成が今日逝った。天下統一し『日欧の役』『日清の役』を経て日本に戦はなくなったが、世が平和になったとまったく逆に柴田明家と石田三成は毎日喧嘩だった。天下泰平を迎えてより明家と三成は笑顔で会話をした事がないと言われている。三成の旧主秀吉は『美濃に天下を取らせるために汚れ役を買って出よ』と三成に遺命として残した。
しかし天下統一し、その後に起きた『日欧の役』『日清の役』の以前には三成に別段そういう事もする必要はなかった。あったのはそれ以後だった。政治改革や交易や人事、とにかく政治全般において明家と三成は激しく衝突する事が多くなった。だがすでに政治手腕において柴田明家は石田三成に遠く及ぶものではなく、渋々ながらも三成の意見に従う事がほとんどだった。
こんな話もある。三成との討論で疲れ痩せてきた明家を見かねて、『治部を排斥しては』と述べた。明家はそれを讒言とし、言って来た者を厳しく処断したうえ
『私の宝は妻のさえであるが、公での余の宝は石田治部なり。余が痩せても天下は肥える。二度と治部を排斥せよなど申すでない』
と、述べた。三成の耳にもそれは入ったが柴田の宰相として三成が君主への態度は緩めず、憎まれ役を続けた。同僚にも多く憎まれた。しかしそれ本来は明家に向けられるべき憎しみであった。それを全部自分に向けさせた。
家康は『人に憎まれる事を恐れるな』と明家に教訓したが、人の怨みは馬鹿にできない。明家が優れているだけに戦時には必要が無かった汚れ役憎まれ役、三成は泰平と云う怪物に立ち向かう明家の盾になったのである。三成は自分の功績は明家に譲り、明家の過失は自分の過失とした。天下の名宰相と今日に讃えられる三成だが、どれほどの覚悟で柴田明家の盾を務めていたことか。『治部を憎むも、将軍憎む者なし』と言われる所以だ。
明家との討論で三成も気付く事も多く、それを政治に取り入れていった。大野治長はこの二人の間に立ち、よく案をまとめていった。
生涯側室は持たず、正室の伊呂波だけを愛し続けた石田三成。九頭竜川沿岸に住む民たちには現在でも尊敬され、豊作の神ともなっている。その一生は柴田明家にすべて捧げた人生だった。最期の時、明家と三成は勝家の元で働いていた時のように穏やかな顔で話し、
「さきに参ります、隆広様…」
三成の手を握り明家は言った。
「ありがとう佐吉、戦友よ」
最高の賛辞である。三成は大粒の涙を流して、静かに逝った。明家は三成の手を握り、人目はばからず号泣したと云う。
さらに明家を悲しみの底に落としたのは、側近中の側近である奥村助右衛門永福の死である。石田三成が柴田家の外の宰相ならば、奥村助右衛門は内の宰相と云える。急激に拡大した柴田将軍家の家中融和のために睨みを利かせ、柴田家臣や配下大名は明家より、むしろ助右衛門を恐れた。
明家は生来温和な性格、人として良いが天下人としては負の要素となる方が大半である。前田利家が言った『冷酷非情になれなければ、家臣の我らが泥をかぶれば良い』をまさに実践していたのが助右衛門だ。明家は人を許す達者と言われているが、それは許しても柴田家に何の実害もない事ばかりであり、それに対しては助右衛門も何も言わなかった。しかし無益ならともかく有害なら明家がどんなに取り成そうとしてもけして許さず罰した。無益なら是、有害なら否、奥村助右衛門のこの厳しさのおかげで大坂幕府は内乱が起きる事もなく、明家が五十歳になるころは一枚岩となっていったのだ。
それを見届けた助右衛門はようやく隠居し、愛妻の津禰と穏やかな生活に入ったが、やはり長年の武将生活と柴田家家宰としての激務は彼を蝕んでいたのだろう。ほどなく倒れた。知らせを聞いた明家は奥村助右衛門の大坂屋敷に大急ぎで駆けつけた。臨終へ間に合った。
「助右衛門!」
「おお…殿…」
「何故…佐吉が先月逝ったばかりと云うに、そなたまでが儂を置いてあの世に行くのか!」
「ははは…。それがしは殿より十八ばかり年長…自然ではござらぬか」
「助右衛門!」
「殿…ありがとうございまする。織田家のどの隊に行っても嫌われ、どんな武勲を立てても握り潰されたそれがし…。それが殿のような若く聡明な主君にめぐり合えて運が開け申した…。手取川、安土、賤ヶ岳、関ヶ原に日欧と日清の役…戦人冥利につきる戦場…幕府家宰などと云う大役も任せて下された…。この身は土となっても魂はいつまでも殿の側におりますぞ…。慶次と佐吉と共に…」
助右衛門の手を握る明家。
「この手だ…。この手が…儂をここまでにしてくれた…」
「も、もったいなき…お言葉にございます…!」
奥村助右衛門はそれから間もなく息を引き取った。明家の嘆き悲しみは並大抵ではなく、しばらく自室に閉じこもり三日食を絶った。
食を断った四日後、やっと軽い食事を取った明家はその夜、縁側で月を見ていた。さえが寄り添っていた。
「さえ」
「はい」
「儂は江戸城に行く」
つまり将軍を辞す、と云う事だ。今、江戸城は築城者の勝明がそのまま入っている。息子の勝明に大坂城を渡し、そして明家が江戸に入る。
「もう若い者の時代だ、儂は退く」
「そうですか…」
「みんな逝ってしまった。父上母上…。利家殿たち…。そして佐吉や助右衛門まで儂を置いて逝きおった」
柴舟、六郎、白、そして小野田幸猛、高橋紀茂も明家に先立ち旅立った。
「各々の女房衆は私によく愚痴ります。好きなだけ生き、そして私たちを置いて逝ってしまった。男たちはズルいと」
「そりゃそうだ、儂だって愚痴りたい」
「そんなに塞ぎこむのなら、若い側室でも作ったらいかがです?」
「そうだなァ…。そういえば与禰を側室にしていらい娶っていなかったな」
明家は当年五十だが健康体の見本みたいな男で、今も筋骨たくましい美丈夫だ。人一倍健康に気遣っているからだろうが、さえの食事管理も効いている。さえは明家の使用人になる時、勝家とお市から食事に伴う明家の健康管理も下命されていた。ゆえに御台様などと呼ばれようが現在に至るまで明家の食事はさえが作ったのだ。また明家は刀槍の鍛錬を一日も休まず朝夕に思い切り汗をかいている。医療の進んだ現代に生きる我々とてうらやましく思うであろう明家の五十歳である。
「もう私たちでは殿の子を生んであげられません。遠慮はいりませんよ」
「江戸に行ったら考えるよ」
苦笑しながら笑いあう明家とさえ。
「でもさえ、よく俺の子を六人も生んでくれたな、ありがとう」
さえは三男三女明家の子を生んだ。次女鏡姫は織田信明(三法師)に嫁ぎ、今も織田と柴田は親密である。三女は上杉家、四女は毛利家に嫁いでいた。養女である長女お福は今も元気に長宗我部信親と仲睦まじい。
「さえも殿にありがとうを言いたいです。朝倉家を再興してくれたのですから」
長男勝明は柴田、次男教景は朝倉家、三男隆明は水沢を継いだ。柴田、朝倉、水沢は御三家と呼ばれ、側室の家の藤林、佐久間、小山田、山内は御親家と呼ばれる。
「三人ともいい若者に育ち、娘たちも母となった。すずたちが生んだ子らも独り立ちした。もうここいらが退け時だな。勝明に委ねよう」
「殿」
「ん?」
「今までお疲れ様でした」
三つ指立ててかしずくさえ。
「そなたもな」
手を取り、さえを抱きしめる明家。勝明が大坂城に来て、全国の諸大名が集められ初代将軍から二代将軍に引継ぎが行われた。最後に明家が言った。
「みな、息子を頼む」
「「ハハッ」」
「将軍よ」
「はっ、大御所様」
「後は任せる。儂は江戸の町づくりと新田開発、治水とやらせてもらうが、この国の政治は将軍に委ねた。儂はもう口も出さぬし顔も出さぬ。頼むぞ」
「はっ!」
「うむ」
勝明は将軍の席に立ち言った。
「余が二代将軍柴田勝明である。みなに言っておく。大御所明家はみなの助力を得て天下を取った。しかし余は違う。そなたらに何の恩恵も受けておらん。余は生まれながら将軍である。諸大名も弟たちも家臣としか見ないからそう思え。不満があるのなら国許に戻り大坂に攻めてまいれ。いつでも一戦をまじえる。さよう心得よ!」
「「ハハッ!!」」
明家は微笑んで頷いた。足元に若干見えた震えは見て見ぬ振りをしてやった父親だった。
◆ ◆ ◆
明家が江戸に下る前日、一人の尼僧が大坂の明家私邸を訊ねてきた。細川ガラシャである。
「久しぶりだな…。玉子」
「お久しぶりです」
夫の忠興はすでに没しており、ガラシャは細川家を追い出されていた。今は京の西教寺で妹の英と静かに暮らしていた。西教寺では孤児を引き取り育てている。細川家を追い出されていてもガラシャはこの活動を続けていたのだ。時を経てガラシャには明家への憎悪は消えていた。ガラシャと明家は縁側に座り語り合った。月の美しい夜だった。
「あとで知ったのだが、越中(忠興)は儂と玉子を邪推していたそうだな」
「はい、ご最期のとき『正直に答えよ、上様(明家)はそなたを抱いたのか?』と問われましてございます」
「どう返した」
「『そんな事もございました』と答えました」
「なんでそんな嘘を」
「少し夫を懲らしめたのです。誤解だと述べても夫は信じなかったでしょう。だから認めました」
「越中はなんと?」
「『細川家から出て行け』そう仰せでした。だからこうして西教寺の尼僧になっています」
「そうか…。越中にあの世で会ったら斬られるかな」
「あの世では死ねませんよ上様」
「はは…。そりゃそうか」
「上様」
「ん?」
「江戸に行かれるのであれば、京に住む私とは今生の別れと相成りましょう。だから本当の事を教えて下さい」
「なんだ改まって」
「私が行っている孤児の救済、駿河屋籐兵衛殿を通して資金を送って下されているのは上様ですね?」
「…ん?何の話だ」
「上様、お願いですから本当の事を言って下さい」
「儂じゃない。柴田の民の血税と商人司たちが稼いでくれた金銀。何でそんな大事な金を私用で毎月送れるんだ」
「…あ、あの、私は毎月と言っていませんが…」
突っ込むのが非常に申し訳なさそうにガラシャが言った。顔が真っ赤になった明家。
「ひ、卑怯だぞ玉子、誘導尋問だなんて!」
「人聞きの悪い!いつ誘導尋問しました?」
気まずそうに頭を掻く明家。
「やっぱり上様が送ってくれたのですね」
観念したように明家は言った。
「…そうだ」
「どうして…上様を刺殺しようとした私にそんなご援助を?」
「いいじゃないか、そんな事。そうしたかったからだよ」
「そんな稚児のようなご返事、智慧美濃の異名が泣きますよ」
「そうそう、光秀様と熙子様へのご恩をだな」
「今それを思いつきましたね」
「いちいちうるさいな」
「と云うより、何でばれないって思えるのですか?」
「そ、そりゃあ、二重三重の経路を用いて送金していたから」
「今日から智慧美濃ではなく笊美濃と名乗られたらいかがです?」
「ざ、笊美濃ォ?」
「そりゃあ私も一年二年こそ分かりませんでしたが、二十年近く手口が変わらなければ私だって分かります」
「…迷惑だったのか」
「いえ、それで助かった命もいっぱいおります」
「だったらいいじゃないか」
「また稚児のように拗ねて。私はどうして送ってくれたのか聞きたいのです」
「笑わないか?」
「はい」
「儂にとって…玉子は初めて恋をした女子なんだ。美濃の山中、明智様に助けられたあの日からな…」
「え…?」
「玉子が大好きだから…役に立ちたかった。それだけだよ」
「竜之介…」
「え?」
「私も…貴方が初めて好きになった人だったの」
「は?」
「だから許せなかった…。初めて恋をした人が父母を殺したと云う事が…」
「そうだったのか…」
「でも…もう怨んでいない…。だって竜之介は私を一番に分かってくれた人だったのだから…」
「ありがとう、玉子との不仲だけは心残りだった。これで光秀様と熙子様に顔向けできるよ」
「竜之介…」
「ん?」
「手を握っていいかしら…」
「ああ」
明家とガラシャは手を握り合った。明家とガラシャは互いの手の温もりを感じ取り、次第に寄り添い、いつまでも静かな時の中で月を見ていた。
◆ ◆ ◆
そして柴田明家は大御所として江戸へ下った。江戸に来てみると、まだ開発がそんなに進んでいない。
「なんだ仕方ないな勝明は。楽隠居をさせてくれんのか」
と、言いながら嬉しそうだった。勝明は要所要所の新田開発、治水、町割りは見事な手腕で完了させていたが城下町の郊外などはまだ未開発だった。父親に仕事をあえて残したのだろう。ブツブツいいながら開発予定地を見てまわる明家。一緒に歩くさえは苦笑していた。ずっと城下を見てまわっていて、大御所明家を迎える手はずを整えていた江戸の柴田家臣はいつになっても城に来ないので探しに出たほどだ。
「いや心配かけてすまんな。倅が仕事を残していたので見てまわっていたのだ」
やっと城に入った明家。江戸の柴田家臣筆頭を務める京極高次と妻の初が出迎えた。
「義兄上、いえ大御所様、お元気そうで何より」
「高次も壮健そうで何よりだ。初も元気そうだな」
「はい兄上」
「夫婦仲はうまく行っているか…てのは野暮か」
「まったくです。殿と毎日仲良くしています」
「お、おい初」
「あっははは、今日はさえも一緒に四人で一杯やるか」
「はい、江戸湾の美味しい魚を用意させますわ兄上」
「あはは、楽しみだな」
城主の席に座る明家。平伏する家臣たち。
「面(おもて)を上げよ」
「「ハハッ」」
「勝明上坂から俺の江戸入府までの留守大義であった」
「「ハハッ!」」
「この江戸は東の都だ。ここから東国の統治をせねばならん。みなの力を貸してくれ、良いな」
明家はここからまた働いた。かつて柴田勝家の元で越前の新田開発、治水工事、町づくりをしていた時のように、それはもう生き生きと働いた。明家は隠居して再び現場監督に戻れたのだ。第二の人生と言えるかもしれない。
江戸入府してほどなく、明家は一人側室を迎えた。太田新六郎康資の娘のおかち(後にお梶)太田道灌の玄孫にあたる娘である。明家入府の時は十三歳だった。
父の康資の悲願は曽祖父道灌の居城であった江戸城主に返り咲く事。しかし北条氏の後に柴田家の天領となった関東。やがて柴田勝明が入府して道灌築城時の江戸城を完全に破却し、現在の江戸城を建てた。父の康資は江戸城の破却を見て大望を失い、そのまま失意のうちに死んだ。
おかちは新たな江戸城の下働きの女として奉公に務めた。城主勝明を篭絡し、やがては側室となり子を生み江戸城の主に、と思ったが勝明には歯牙にもかけられなかった。ならばその父親と思い、それなりに色仕掛けなどしてみたが数々の美女と褥を共にしてきた明家には、幼いおかちの肢体など背景と同じであり色仕掛けそのものに気付いてもらえなかった。
下女で上様(勝明)と大御所様に盛んに色目使っている少女がいる、と云う報告を受けたさえはおかちを召した。
「…と云う報告を受けましたが事実ですか?」
「…はい」
「なぜ息子と夫に色仕掛けなどを?」
「…気付いてもらえなければ色仕掛けになっていません。幼いこの身が悔しゅうございます」
「ま、まあ…それは同じ女として気の毒と思いますが、何が望みなのです?」
「私は太田氏の娘です」
「太田って…あの太田道灌殿の家?」
おかちは大事に持っているお守りから系図と父の名が書かれている書をさえに見せた。まぎれもなくおかちは太田道灌の玄孫である。
「はい、そして私の父は…」
おかちはさえに隠さず述べた。父のために私が江戸城を取り戻したいと思った。でも女の身では無理。だから江戸城を治める柴田明家と勝明の親子どちらかの側室にしてもらい、その子を生んで江戸城の主にしてもらおうと。
「そうでしたか…。ですが貴女は当家の取っている仕組みを知らないようですね」
「え?」
「江戸は今や東の都です。その城の主は幕府の将軍になった者にしかなることが許されないのです」
「そ、そんなあ!じゃあ父の大望を果たせないです!」
失意のうちに死んだ父の無念を晴らしたい、泣き出すおかち。さえはこういう境遇の娘にどうしようもなく弱い。幼き日の自分と重なるからである。
「続けてこの城で務めなさい、悪いようにはしませんから」
「太田氏の娘がこの城の下女に?」
「はい」
さえは明家に相談した。
「ならば厚遇せねばならんな…。太田氏は関東の名家、厚遇すれば関東の民の印象も違う」
「殿、側女にされてはいかがですか?」
「え?」
「私たちも歳を取り、若い娘だった時のようにまいりません。もう殿に閨で満足してもらう事ができません。女は灰になるまでと申しますが、今まで十分に愛はいただきました。子を生み母としての幸せも得られました。滅亡した実家も再興して下さいました。戦国に生まれた女としては最高に幸せな人生を柴田明家の妻たちは送っています。これからはたまに抱きしめて寝床を共にしていただけるだけで私たちは十分です。遠慮はいりませんよ」
「さえ…」
「私たちもこの江戸の町で趣味を謳歌して楽しんでいます。すべて殿のおかげです。今さら若い娘に夫を取られたと申しませんので」
「…ありがとうさえ、ではそのおかちとやらだけにする。若い娘は魅力的だが同時に過ぎれば毒にもなるからな」
「殿」
「“若い女は美しい。しかし老いた女はもっと美しい”とどこかで聞いた事がある。そなたを見ていると…確かにその通りだと思うな。さえは十五歳の時より今の方が美しい」
「まあ…おだてても何も差し上げませんよ」
「今まで十分過ぎるほどもらっているさ。そしてこれからもな」
そういう経緯でおかちは明家の側室となったのだが、いかんせん幼く、明家と夜閨を共にしたのはこれより二年も後の事だったらしい。お梶と名乗ったのもその頃だろう。
お梶との間に子は二人出来たが、いずれも女であった。歳をとってからの娘であるから明家はその姉妹をことのほか可愛がった。太田家はこの姉妹から後に再興されるが、それはもう明家もお梶も死後の事である。
話は戻る。それからさらに月日が経った。月姫と虎姫、与禰姫が亡くなり、不破光重、前田利長、黒田官兵衛が世を去った。そして今日、すずが逝った。明家の手を握り、ニコリと笑って天に召された。舞も先年に亡くなったと云う知らせを聞いた明家。肌を合わせた愛しい女たち、そして松姫、英姫、ガラシャと云う明家が大切に思う女たちも亡くなり、愛する茶々、初、江与の妹たちも兄の明家より先に逝った。
それでも明家は現場に出た。仕事だけが生き残った者の悲しみを埋められる。明家は七十七歳となっていた。二代将軍の勝明もすでに江戸城に入り、大坂幕府は三代勝隆の時代となっていた。
いつもの朝、明家は庭で日課の鍛錬をしていた。そしてさえがいつものようにたらいに水をひたして縁側に持って来た。
「殿、そろそろ朝餉です。汗を拭いて下さいませ」
「ああ、ありがとう。ふう、いい汗をかいたわい」
そして親子で朝食を取る。
「父上、それがしは本日から領内の治水工事の指揮を取りますゆえ、当分帰れませんがお体に気をつけて」
「うむ、勝明も気をつけての」
「はっ」
勝明は朝食を取ると出かけていった。
「さえ」
「はい」
「食後に庭の散歩をせんかの」
「はい、行きましょう」
明家とさえは江戸城の庭を歩いた。手を繋いで歩いている。ちょうど桜の満開の時期。散る桜を愛でる明家。そして散歩から戻り、二人は屋敷の縁側から桜を見つめた。
「さえ、ちょっと眠くなってきたな、膝枕をしてくれないか」
「殿はおじいさんになっても甘えん坊です」
「ははは」
さえの膝枕に頭を置く明家。
「ああ、やわらかい、気持ちいいわい…」
そんな夫の頭と額を愛しそうに撫でるさえ。
「さえ…」
「はい」
「愛しておる…」
「愛しております…」
明家はそのまま眠るように死んでいった。そして驚く事にさえも同時に天に召されたのである。夫より長生きしよう、前から決めていたさえ。夫の明家が安らかに天に召されたのを見てさえも安心したのか、夫を膝枕で抱いたまま眠るようにさえも死んだのである。明家とさえ、享年七十七歳。
お梶が治水工事に赴く準備を進めていた勝明を大急ぎで呼び戻した。勝明は父母が同時に老衰で天に召されたのを見て
「儂はこれほど仲睦まじい夫婦の子ぞ!」
と感涙して父母の亡骸を抱いた。二人の亡骸は荼毘に付され生前の希望で二人の思い出の地、越前北ノ庄に丁重に埋葬された。江戸から夫妻の遺骨が運ばれる行列には越前の民たちが北近江の地まで出向き沿道に平伏し越前柴田家の若き内政家、水沢隆広の葬列を出迎えたと言われている。明家が越前の地で内政を行っていたのは五十年以上も前である。しかし越前の人々はそれを語り続け、郷土の偉人を最上の礼をもって出迎えたのだ。
柴田明家は死の直前に不思議な夢を見た。真っ暗なところに立っている。不安げに周囲を見渡すと前方から徐々に明るくなってきた。そして同時に三人の人影が見えたのだ。
『大殿、羽柴様、徳川殿!?』
『元気そうじゃのうネコ』
明家は水沢隆広と名乗っていた若き日の姿に戻っていた。そして明家の前に立っていたのは織田信長、羽柴秀吉、徳川家康だった。
『相変わらず奥方と仲が良いのう美濃』
『羽柴様』
『重き荷を背負いながら、とうとう坂を登りきったようじゃな大納言』
『徳川殿…』
『ネコよ、面白いものを見せてやろうと思ってな』
『面白いもの?』
『いかにも、美濃がこの世に生まれていなかったら、この戦国の世はどうなっていたか、と云うものを』
『それがしがこの世に生まれていなかったら、ですか?』
『いかにも、さあ大納言、見てみるがいい』
眼前には合戦のもようが映る。賤ヶ岳で実父勝家が羽柴秀吉に大敗しており、北ノ庄城にて妻お市と共に自刃。小牧長久手の戦いで家康が秀吉に勝利。その後に天下を取った秀吉の無謀な朝鮮出兵。秀吉亡き後に徳川家康が台頭し、石田三成が挙兵し関ヶ原で激突、石田方大敗し三成斬首。茶々姫が秀吉との間に生んだ豊臣秀頼を討つべく家康が大坂を攻める。真田幸村が決死の覚悟で家康本陣を突く突撃。その後に生まれる徳川の幕藩体制。明家の目にもう一つの戦国史とその後が見えた。
『……』
『ふっははは、儂が光秀に討たれるまでは同じじゃが、そなたの出現でずいぶんと違う世ができたようじゃな』
『で、では大殿はそれがしが作った世はまがい物とでも!?』
秀吉が答えた。
『さあ、どうかな、儂には家康殿と美濃の作る世のどちらが正しいのかは分からん。しかし少なくとも儂以上の天下様である事は認めよう。徳川殿はどうじゃ?』
『さあて筑前殿、それは結果を見てみなくは分かりませぬ。ところで大納言、こちらでは我らが天下を取るが、こう言われておってな。信長公は『鳴かぬなら殺してしまえ不如帰』筑前殿は『鳴かぬなら鳴かせてみよう不如帰』儂は『鳴かぬなら鳴くまで待とう不如帰』さて柴田明家殿は『鳴かぬなら…』
『“はなしてあげよう不如帰”』
明家は自然に発した。
『『あっはははははッ!!』』
もう一つの歴史の戦国三英傑は笑った。
『なるほどそれで天下を取ったかネコ』
『いやいや美濃らしい』
『裏切りと騙しあいの乱世でそれを貫き通したのは見事じゃのう』
『それがしの作った世が正しいのかは分かりません。ですが後はもう未来の者に任せるしかございません』
『そうよなネコ、良き世ができたのなら儂らの死も無駄ではなかったと云う事よ』
『大殿…』
『ネコ、ご苦労であったな。ようやったぞ、もう眠れ、勝家とお市、お前の仲間たち、そして女たちも待っていようからな』
『はい伯父上…』
信長は最後の伯父上と云う言葉にフッに笑みを浮かべ消えた。そして秀吉と家康も去っていった。長い夢のように思えたが、さえの膝枕に頭をうずめて死に至るまでのほんの一寸の間の事であった。
息子である柴田勝明は後にこう述べている。
『あんな安らかな父母の顔は見た事がない。子の身びいきではない、父母は日本の歴史上もっとも幸せな死に方をした夫婦だろう』
最後まで寄り添い、そして同時に老衰で死んだと云う柴田明家とさえは、後に縁結びの夫婦神となり日本に多くのそれを祀る寺社が建立され総称を桜明神社と云う。全国の桜明神社で共通している事がある。それは碑が明家とさえのものしかないと云う事だ。二人の邪魔をしてはいけないと云う事で現在に至るまで全国各地の桜明神社は明家とさえしか祀っていないのだ。
二人の出会いの地である福井県福井市の桜明神社境内には明家とさえ最期の姿の像もあり、その像に永遠の愛を誓う男女は途切れる事はない。
天地燃ゆ 完
最終回でした。史実編も近日中に投稿を開始したいと思います。