天地燃ゆ   作:越路遼介

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史実編スタートです。


史実編
賤ヶ岳の戦い


 中世最大の天才にして、第六天魔王と称された織田信長は本能寺にて明智光秀の謀反によって討たれ、その明智光秀は山崎の地で羽柴秀吉に討たれた。

 その後、信長と信忠親子亡き後の家督相続を巡り、織田家重臣たちが清洲城に集まり会議が行われた。重臣筆頭の柴田勝家は三男信孝を推したが結果は羽柴秀吉の一人勝ちである。織田の世継ぎは信忠の息子である三法師となり、かつ秀吉の領地は大幅に拡大した。勝家にはわずかな知行が振り分けられただけである。これで羽柴秀吉と柴田勝家の戦いは避けられないものとなった。

 柴田勝家に仕える水沢隆広。この時に若干二十二歳。十五歳で柴田勝家に仕え内政に合戦と目覚しい勲功をあげ仕官七年で部将に昇進していた。秀吉の城の一つである長浜城は清洲会議の結果、柴田勝家の養子である柴田勝豊に与えられ、今まで勝豊が居城としていた丸岡城は水沢隆広に与えられた。晴れて五万石の大名、一国一城の大将となったわけであるが、その幸せは長く続かない。

 また、清洲会議からほどなく北ノ庄城に柴田将士すべて集められ告知があった。水沢隆広は柴田勝家と妻お市との実子であると。勝家は秀吉との争いがすべて終わったら話すつもりであったが、信長が死んで秘密にしておく必要が無くなったため妻のお市が『もう待てません』と泣く泣く勝家に懇願して親子の名乗りとなった。親子の証と云える長庵こと水沢隆家から勝家に送られた文が公開された。この時点で隆広は柴田家世継ぎにも指名され、織田の諸将にもそれは通達された。

 世継ぎがなく、しかも老齢の勝家が当主の柴田家。少なからず将来に不安を感じていた柴田将士の不安は一気に解消された。隆広は佐久間盛政、柴田勝豊、佐々成政には嫌われていたが、他の柴田将士には認められ親しまれていた。勝家は隆広に『柴田明家』の名前を与えた。隆広はその新たな名前『柴田明家』で賤ヶ岳の戦いに挑む。

 

 羽柴秀吉と柴田勝家が戦った賤ヶ岳の戦い。結果は佐久間盛政の独断専行により柴田軍は崩壊してしまった。

 岐阜城の織田信孝が挙兵し、秀吉は勝家と対峙していたが岐阜に駆けた。先に動いたら負けと云う状態で秀吉が先に動いたのだ。それを好機と盛政が『中川清秀の大岩山の砦を落す』と進言した。勝家はそれを許した。これは中入。勝家は盛政に砦を占拠したら元の持ち場に戻るように伝えた。しかし明家は

『動くべきではございません。羽柴の中国大返しを見れば、かの軍勢がいかに神速か分かるはず。中川討てば必ず信じられない早さで岐阜から転進してくるに相違ない』

 と具申した。一理あると見た勝家は厳重に中川を討ったら戻れと伝えた。しかし盛政は戻らなかった。明家はこの盛政の浅慮を見て後悔した。やはり何としてでも中入を止めるべきだった。自分と不仲であった盛政は手柄を焦っている。盛政と明家は清洲会議の前に和解していた。柴田は大変な状況、味方で争っている場合ではないと盛政は明家に今まで自分がしてきた仕打ちを詫びた。この後日に水沢隆広は柴田勝家の実子と分かったわけであるが盛政の胸中は大変なものであったろう。和解したとは云え明家が今までの経緯から自分を快く思っていないのは明白である。明家自身は何とも思っていなかった。むしろ和解できたと大喜びしていた。だが盛政はそう考えが至らなかった。この戦いで目覚しい手柄を立てるしかないと判断した。中川の陣を橋頭堡にして羽柴に睨みを利かせ、あわよくば羽柴に寝返った柴田勝豊の長浜城も奪い、若殿明家が何も言えないような手柄を立てる。そう思った。それを読み取った明家は勝家に何度も中川の陣である大岩山から撤退させるように進言した。盛政の愚は勝家にも分かっていた。何度も撤退するように言った。しまいには明家当人を使者に出した。急ぎ馬で盛政の元へ走る明家。しかし遅かった。明家が到着する前に秀吉は岐阜からの大返しを終えて木之本に戻っていた。

「遅かったか…!」

 馬上で無念に拳を握る明家。ふと月を見上げた。

「御大将…」

「矩久」

「はっ」

「月も今日が見納めかもしれない。このうえは最後まで戦いぬくまでだ」

「最後までお供いたします」

「本陣に戻るぞ」

「はっ!」

 そして夜明け近くになり羽柴勢は総攻撃を開始。退却戦を余儀なくなれた盛政は必死の抵抗をした。一度は退けて秀吉をして『敵ながら見事な退却戦をしよる』と感嘆させるが、そこまでだった。弟の柴田勝政と共にやがて総崩れとなった。それに端を発して柴田軍も崩れた。

 前田利家と金森長近は撤退した。もはや柴田軍は陣形すら保てず、勝家は全軍に逃げたい者は逃げよと言った。重臣達は秀吉の大軍を相手に戦ってもまず勝ち目はない。ひとまず北ノ庄に退き、軍勢を立て直して戦うべきと勧める。勝家は城に帰ったとしても勝つ見込みはない。この柴田勝家が秀吉に背を向けられない。武士の面目が立たない。ここで残る兵を率いて秀吉と戦い、討ち死にして果てると言って退こうとはしなかった。勝家の覚悟を見た小姓頭の毛受勝照は勝家の馬に駆けてその手綱を握った。

「早くお引きを、ここはそれがしが殿軍に立ちますゆえ!」

「ならん、儂も鬼権六と呼ばれた者、猿に背を向けるか!」

「どうしても戦うと云うのであれば、この毛受勝照をお斬りくだされ!」

「なんじゃと!」

「ここで戦って殿が討ち死にしたら、筑前はこう言うでしょう。『甥も思慮のないタワケであったが、伯父もこれまたタワケ』と!筑前は殿の首を見て愉快そうに言うでしょう!その仕儀、臣下として我慢なりませぬ。どうせ死ぬのなら北ノ庄に戻り、城と共に自決して果てられよ!それが大身柴田勝家の最期と云うもの!」

 血を吐くようにして勝家に訴える毛受勝照。生死を賭けて諌める家臣の言葉に勝家は一言もなく黙った。共にいた山崎俊永も

「新参者とはいえ、この山崎俊永も同じ考えにございます!」

 勝照と同調。彼の娘婿は石田三成。婿と共に九頭竜川の治水を成し遂げた土木の達者である。婿の三成と敵味方になって戦っていた。土木に長じているとはいえ、彼は長年に浅井家の磯野家でその名を轟かせていた兄の山崎俊秀に従い多くの戦を経験してきた猛者でもある。賤ヶ岳では劣勢ながらも寡兵を指揮して羽柴の部隊を退けていたが、今や他隊の連携もなく、柴田の備えは歯がところどころ抜け落ちた様相、次々と味方は離脱。山崎勢も敗走し、本陣へとやってきた。織田信長に追放された身を重用してくれた勝家に報いるため、最後の戦いを羽柴に挑むつもりである。

「その方ら…」

「殿、ただちにお退き下さい。家臣たちの気持ち、無駄にしてはなりません」

「明家…」

「それがしもここに残り殿が退かれるまで殿軍を務めます」

「なりませぬ!隆広、いや若殿も殿と共に退かれよ!」

「それがしのいた砦は攻め手がなく、まだ無傷。これでノコノコと北ノ庄に帰れましょうか。それがしの働けない間に勝敗が決まったなど養父、そして殿にも顔向けできませぬ」

「無傷ならば、そのまま丸岡に戻れ!」

「すいません殿、いや父上、今のそれがしはその命令だけは聞けませぬ」

「殿軍をするのならば、それは儂の役目じゃ!儂はもう六十を越して十分に生きた。若い息子を捨石にして生き延びる気はないわ!お前さえ生き残れば良いのだ!」

「手取川の時も、そして今も、それがしは玉砕精神で志願しているわけではございません。それがしは生きて帰ります」

「若殿!」

 勝照は気付く。いつも冷静で温和な明家の目が父の勝家に劣らぬ戦人の目をしている事を。まさに尚武の柴田家当主に相応しき凛々しき姿だった。

「それがしの軍と毛受殿、山崎殿の軍、そして残りし柴田の兵、十分な数でございますな。では参りましょう」

「承知した」

「明家!」

「北ノ庄にてお会いしましょう父上、ここはこれにて!」

 前線に駆け出す明家。

「助右衛門と慶次!息子を頼んだぞ!」

「承知しました。大殿はすぐにご退却を!」

 と、助右衛門。その助右衛門に慶次が言った。

「血が滾る!殿軍こそ武士の誉れよ!」

「まさに!手取川以来だな、こんな気持ちは!」

 

 柴田明家軍が急ぎ再編成された。総大将柴田明家、付き従いし大将は奥村助右衛門永福、前田慶次郎利益、毛受勝照、山崎俊永、その他、勝家に逃げろと言われても逃げなかった柴田の兵である。羽柴勢は『勇将の下に弱卒なし』を骨身で知る事となる。

 そして毛受勝照の兄の毛受茂左衛門がいた。勝家が逃げろと言われても逃げなかった。弟が踏ん張っているのにどうして逃げられる。勝照は『兄弟揃って死しては母への不孝』と止めたが茂左衛門は『ここで弟を見捨てて帰れば母に不孝』と譲らなかった。

 この当時、柴田明家は丸岡五万石の大名であった。彼が城持ち大名になると武田攻めにおいて武田勝頼、信勝、北条夫人に対して水沢隆広の示した武人の情けに深く感じ入っていた武田遺臣が家臣ともなっている。

 その中でも特筆すべきは小山田信茂が率いていた投石部隊であろう。信茂の居城の岩殿城を織田信忠の寄騎として向かい、信長に黙って彼らを逃がした。これが彼らをして『我らが再び人に仕えるのなら水沢隆広様以外ない』と言わしめ、隆広が五万石の大名になると仕官を要望。水沢隆広が柴田明家と名を改め、そして大名になった頃はすでに秀吉の権勢著しく、柴田の旗色は悪い。それでも彼らは明家に仕官を要望したのである。こういう損得抜きで参じた者たちは強い。精強を誇った小山田投石部隊がそのまま部下となるのである。明家は大喜びで召抱えた。小山田家家老で投石部隊の隊長の川口主水、柴田明家配下として小山田投石部隊の初陣であるこの賤ヶ岳の撤退戦に気合を入れる。信茂の一人娘の月姫も丸岡にやってきて、今は柴田明家の正室さえと共に城を守っている。

 雲霞のごとく押し寄せる羽柴勢。先頭に立つ明家をチラと見た慶次。落ち着いて静かな目をしている。こういう胆力は教えて身に付くものではない。そしてこういう窮地の時にこそ本質が出るものである。明家は少しも慌てず敵勢を見つめている。いい度胸だ、そう慶次が思った時、明家の下命が発せられた。

「投石部隊、前へ!」

「「ははっ!!」」

「放てーッッ!!」

 隊長の主水が命令。

「石雨の攻め、放てーッッ!!」

 投石部隊は投石器を使い、羽柴勢へ放物線で石を放らせた。拳大の石が柴田軍からどんどん放たれる。石の雨が羽柴勢を襲った。鉄砲も届かない距離だが投石なら届く。かつ威力甚大。小山田の投石は必殺と呼ばれる所以だ。

「ぐわあッ!」

「ぎゃあッ!」

 進軍は止まった。

「どんどん放つのだ!!」

 明家は石の雨を受ける羽柴勢を冷静に見つめ探した。そして

「見つけた」

 明家が言った。

「は?」

「慶次、敵勢の弱いところを見つけたぞ。そこを一直線に衝く!」

「承知仕った」

「勝ちにある者は命を惜しむ、そこが狙い目だ。主水!」

「はっ!」

「ようやった!突撃に入る。投石部隊は後方より我らの援護をいたせ!」

「ははっ!」

 明家の愛槍『諏訪頼清』が天を衝いた。陣太鼓が轟き、ほら貝が鳴る。

「我に続けえッッ!!」

「「「オオオオオオオオッッ!!」」

 明家の軍は敵勢右翼に一斉に突撃した。狙った敵勢は柴田勝豊の軍勢だった。何の迷いもなく自軍に突撃してくる柴田勢を見てたじろぐ勝豊の軍。しかも勝豊は病に倒れており、この時は家老が名代として指揮していた。勝ち戦となる見込みに安堵していたか、その油断を柴田明家にまんまと看破されたと云うわけである。

「て、鉄砲隊、前へ!」

 家老の指示も遅い。もう眼前まで明家軍は来ていた。先頭に踊り出た前田慶次!愛馬松風に乗り攻めかかってくる姿はまさに人馬一体の魔獣である!

「前田慶次参上ッッ!!」

 愛馬松風の前足が雷神の鉄槌の如く羽柴勢に叩きつけられた!慶次の咆哮が戦場に轟く!

「無法、天に通ず!!うおりゃあああッッ!!」

 慶次の朱槍は勝豊軍の将兵をアッと云う間に薙ぎ倒す!慶次に続けと言わんばかりに攻め寄せてくる明家軍は勝豊軍を鎧袖一触!勝豊軍はなすすべもなく木っ端微塵にされた。明家は攻めかかりながら冷静に弱い備えを見つけた。明家の采配で一つの巨大な生き物のように殿軍部隊は縦横無尽に動いてくる。勝ち戦に油断しつつあった羽柴勢は次々と討たれていく。投石部隊は水平に投法を変換し、羽柴勢へ正確に投石した。一つ一つの投石が剛槍のような威力であった。それを見つめる羽柴秀吉。

「官兵衛、あれは?」

「武田の亡き小山田信茂が誇った投石隊ですな…」

「なぜ明家の軍におるのだ?」

「明家殿は武田攻めで小山田遺臣を匿い、逃がしたと聞きます」

「なるほどな…。明家のヤツ、良いものを拾ったもんじゃのう。うらやましいわ」

 ここまで好きなようにされては武門の名折れと山内一豊が攻めかかった。いざ対峙し、明家の形相に驚いた。娘の命を助けてくれた男とはまるで別人。眼光鋭く、発する咆哮は猛獣のごとし。明家の兜は前立てが昇竜、後立てが紅蓮の炎と云う派手なもの。纏いしものは武田勝頼から譲られた朱色の陣羽織、背中には不動明王の姿が刺繍され描かれている。まさに炎の中から怒れる龍が襲い掛かってくるがごとし。一豊と明家は一合二合打ち合った。押される一豊。

「かような細い体のどこにこんな力が…!」

 しかも主君と戦っている者を投石部隊が見逃さない。隆広との一騎打ちに気を取られ、それに気付かなかった一豊。左顔面に投石が直撃。馬上で体勢を崩した一豊の腹部に隆広の横薙ぎの一閃が叩きつけられ、一豊は馬上から吹っ飛ばされた。

「ぐはあッッ!」

 血反吐を吐き、そして吹っ飛ばされた一豊に襲い掛かる明家軍の兵。その時、彼の側近中の側近である五藤吉兵衛が槍面に立った。幾本の槍に貫かれた五藤吉兵衛。

「吉兵衛!」

「殿…!」

 山内勢は蹴散らされた。いいかげん焦りだした秀吉。たとえ大軍と云えども一段二段三段と備えが破られたら将兵たちは恐れだす。その浮き足立った備えを明家は徹底的に狙ったのである。

「ええい!かような寡兵にいつまで手こずっているか!」

 同じく軍師の官兵衛も焦りだした。相手は死兵、勝ちを確信し勝利を味わいたい者たちが敵うはずがない。元々兵の個々の武力は柴田軍の方が強いとも言え、かつそれを柴田明家が指揮しているのだから手に負えない。その官兵衛の元に

「黒田勢、蹴散らされました!」

 の知らせが届いた。若い黒田長政では明家の敵ではなかった。

「母里太兵衛様、後藤又兵衛殿、いずれも負傷いたしました!」

「柴田明家、恐るべしじゃ…!」

 明家が突撃するまで縦横に活躍していた秀吉自慢の若手将校たちも逃げるしかなかった。柴田家から羽柴家に帰参していた石田三成も戦慄するほどの明家の強さだった。

「すごい…。我が旧主は何と恐ろしい男だったのか!」

 しかし人間は疲れが生じる。明家は突撃しつつも歩兵の疲れを見ていた。そしてそれらの兵たちが『まだまだ戦える』と主張するほどの疲労でも退却を下命した。明家は欲張らなかった。要は勝家が北ノ庄にまで退却できるよう時間を稼ぐのが任務である。

 敵勢の弱い備えを見抜き、それを討ち破り、それで浮き足立った弱い備えを見つけ出して次々と蹴散らし、そして未練を残さずに退却を命じた。勝ちにある時に退却する事こそ妙法。突撃がピタリと止まり、明家は全軍を越前方面へと進路を取った。

 柴田の息を止めるべく勝家本陣に突撃していた羽柴勢は完全に動きが止まった。秀吉は

「柴田明家を逃がしてはならん!」

 と下命。しかし混乱した羽柴勢が追撃に出られる頃にはもう明家の軍には追いつけない距離であった。

「最後にやられたな官兵衛」

「御意、あれがまだ二十二の若者の采配とは信じられませぬ」

「欲しいものよ」

「は?」

「柴田明家が欲しい」

「し、しかし柴田勝家の嫡男でござれば武家の定法に沿い、殺すのが…」

「儂は百姓出だからな。関係ないわ。さあ北ノ庄に向かうぞ!」

 

 明家の活躍は確かに目覚しいものであったが戦局を変えるには遠く及ばない。局地戦の一勝利に過ぎない。この撤退戦はまさに戦人としての晴れ姿とも云えたが犠牲も大きかった。無人の野を行くように済むはずがない。毛受茂左衛門と勝照の兄弟は討ち死にした。山崎俊永は生き延びたが、この日に負った傷で数日後に他界する。そして明家に痛恨であったのは…。

「舞…!」

 くノ一の舞は重傷を負っていた。すずが高遠城で水沢隆広を庇い被弾したように、舞もまた、突撃中に柴田明家を庇い重傷を負った。美しい彼女の肢体が深い傷に覆われている。夫婦になる事を約束していた六郎がここまで背負って連れてきた。血だるまの舞が戸板の上に横たわる。明家を旧名の隆広で呼ぶ舞。

「た、隆広様…」

 羽柴の追撃を振り切り、安全圏に到達したと同時に明家の耳に入ってきたのは舞の危篤の知らせである。

「見ないで下さい…。きれいな私だけを覚えていて欲しい…」

「何を言う!その傷は逃げて出来た傷か?俺を庇って負った傷…!醜いはずがあるか!!」

「殿…!」

 明家の言葉に落涙する六郎。

「しっかりしろ舞!六郎と夫婦になる約束があろうが!」

「そうよ、夫婦二組で明家様のお役に立とうと約束したじゃない!」

 同胞の白とその妻の葉桜は涙で濡らして舞に言った。

「ごめん…。私…もうここまでのよう…」

「舞!!」

「た、たか…ひろ…様」

 舞の手を握る明家。舞は最期の力を振り絞って鉄扇を握り、そして勢いよく広げた。

「…ぃよッ…!にっ…ぽん…いちッ!!」

 満面の笑みでそれを言い、そして鉄扇が地に落ちた。舞は静かに息を引き取った。泣き崩れる葉桜。三忍として苦楽を共にしてきた白と六郎も落涙する。明家の嘆き悲しみも並大抵ではなかった。

「舞…俺が不甲斐ないばかりに…!」

 水沢軍旗揚げの頃から一緒に戦ってきた部下の死に涙を抑えきれない明家。

「…ここに踏みとどまっては、いつ追撃が来るか。殿、お早く」

「前田様、貴方と云う方は!!」

 涙一つ流していない慶次を罵る葉桜。

「よせ葉桜」

「殿…!」

「慶次の言うとおりだ。ここに長くはいられない…」

 六郎は涙を落としながら死んだ婚約者を背負った。

「すまん慶次、言いたくもない事を言わせた」

「いえ…」

「北ノ庄に引き揚げるぞ!」

「「ははっ!」」

 北ノ庄に戻った明家。もうすぐ羽柴全軍がやってくる直前に勝家は明家に丸岡に帰れと命じた。『父上と共に死ぬ』そう言いたかった明家。しかしそれでは舞の死が無駄になる。断腸の思いでその下命を受けた。父母と今生の別れと知りながら。

「お前さえ生きておれば柴田の命脈は尽きぬ。生きよ!」

「父上…」

「明家殿」

「母上」

「娘たちを頼みます。貴方のかわいい妹たちを」

「「母上―ッ!」」

 茶々、初、江与はお市に抱きつき泣いた。

「お市、そなたも明家と共に行け」

「いいえ、私は勝家様と運命を共にいたします」

「お市…」

 娘たちを優しく離すと、お市は明家に歩んだ。

「母上…」

「抱かせてちょうだい…」

「はい…」

 母お市にギュウと抱かれる明家。最後の母の温もり。

「母親らしい事を何一つしてあげられなかった…。ごめんね」

「母上…!」

 涙ぐむ勝家。

「さあぐずぐすしていては羽柴に捕捉されるぞ。もう行け!」

「父上、母上、それがしはお二人の息子である事を誇りに思います!」

「明家殿…」

「もし生まれ変わる事があるのならば、それがしはまた父上と母上の子として生まれます!」

「儂もそなたの父として生まれ変わろう…」

 お市も優しく笑い頷いた。

「さ、行きなさい。後を振り返ってはいけませんよ」

「はい…!これにて、さらばにございます!」

「奥村殿、前田殿」

「「はっ!」」

「この子は智将だなんて言われていますが一人では何もできぬ子。関羽と張飛のように、この子を助けてあげて下さい」

「奥村助右衛門永福、しかと心得ました」

「前田慶次郎利益、肝に銘じまする」

「茶々、初、江与、さあ兄上と一緒に行きなさい」

「いやです!初は母上と離れたくありません!」

「江与も嫌!母上と父上と一緒にいたいですッ!」

 初と江与はお市から離れない。

「貫一郎!」

「は、はい!」

 勝家小姓の大野貫一郎(後の大野治長)を呼んだ明家。

「その方、江与を背負い、丸岡に参れ!」

「はいっ!」

「茶々!初を連れて来い!」

「で、でも…」

「聞こえないのか!」

「は、はい!」

 初は姉の茶々、江与は大野貫一郎に強引に連れ出された。明家、助右衛門、慶次はもう勝家とお市に振り向かなかった。

 その後、北ノ庄城に到着した羽柴軍は総攻撃を開始。しかしさすがは鬼権六の兵たちは強い。中々落ちなかった。先鋒を務めるのは前田利家。前田利家は秀吉に降り、この戦いの先鋒を任されていた。

 勝家は撤退中に利家の居城に立ち寄っていた。利家に一切の怨み言は言わず、人質としていた麻亜姫を返す事も約束した。勝家は利家に替え馬と一飯だけ所望し、そして今後は秀吉に尽くせと言い城に戻ったのだ。利家はこの潔い勝家を見て、自分の戦線離脱を恥じた。しかしもう後には引けない。秀吉に降り、そして秀吉の先鋒となり勝家と戦うしか前田家存続はないのだ。勝家を攻める利家の胸中はどんなものであったろう。

「申し上げます」

「ふむ」

 利家の使い番が来た。

「柴田明家は丸岡に敗走したとの事」

「分かった下がれ」

「はっ!」

「父上…。丸岡も攻めるのですか」

 利家の嫡子、利長が訊ねた。

「当然であろう」

「明家殿、いや若殿はそれがしの兄も同様の方…」

「若殿と申すな!すでに柴田は敵なのだぞ!」

「……」

 利長は陣の奥へと引っ込んでしまった。

「無理もございますまい。若殿にとって明家殿は師であり兄とも慕う方。賤ヶ岳で泣いて戦場に踏みとどまるように殿に申されたのを見ても、お慕いする気持ちがどれだけ強いか察しれまする…」

 と、利家側近の村井長頼。

「儂とて親父様と慕う勝家様を攻めておる!」

「殿…」

「事をやり直しにして戻る事はできぬ。前を向いて走るしかないのだ!」

 

 北ノ庄城、最上階にいる勝家とお市。

「お市…」

「はい」

「愛しておるぞ」

「愛しております」

 勝家は刀を抜いた。お市は合掌した。

(万福丸…。今、母が参ります。寂しがらせましたね…)

 お市を切った勝家。お市辞世『さらぬだに 打ちぬる程も 夏の夜の 夢路をさそう ほととぎすかな』

 勝家は最上階の外に出て羽柴勢を見下ろした。

「やあやあ寄せ手の者どもに申す、我はこの城の主、柴田勝家なり!この勝家武運つたなくここで自害して相果てる!よく目を開いて見て後々の語り草とせよ!敗将の切腹かくの如しじゃ!」

 勝家は腹を刺し、横に切り、さらに抜いて縦に切った。

「これが十文字腹じゃ!見ておけ!」

 そして腹の中から腸を引きずり出した。

「これがハラワタよ!勇士のハラワタ、なますにして食うが良い!」

 ハラワタを敵勢に投げつける勝家。

「わあっはははははッッ!!」

 首に刀を当てて切り裂く。血が吹き出す。

(明家…!息子よ…!)

 倒れ、そして息絶えた。羽柴勢は勝家の自決のすさまじさに呆然としていた。北ノ庄城兵は無念の涙を流しながら城に火を放ち、そして自決。火はやがて用意されていた火薬に引火し、北ノ庄城は轟音と共に崩れ落ち炎上した。柴田勝家は愛妻お市と共に死んだ。柴田勝家、享年六十二歳。時世『夏の夜の 夢路はかなき 後の名を 雲井にあげよ 山ほととぎす』

「それほど儂が気に入らなんだか権六…。いつからだったのだろうな、貴殿と不仲になったのは…。又佐(前田利家)が織田家を追放された時は共に帰参を叶えるべく奔走し、そして帰参叶いし宴では酒を酌み交わし、肩を抱き合い歌い祝ったと云うのに、手取川以来いつの間にか我らには修復不能の溝が出来ていた。しかし今となって思い浮かぶのは金ヶ崎の退き口で兵を羽柴に貸し『無事に戻れ』と励ましてくれた貴殿の顔ばかりよ。こうして敵味方となり貴殿を葬った儂であるがご子息には悪いようにはせん。安心されよ」

 炎上する北ノ庄城に合掌する秀吉、その横にいた前田利家の顔は苦悩でゆがむ。

「親父様…。何としても明家は降伏させるつもりにござる。この又佐、一命に賭けて!」

 

 丸岡の地に作った舞の墓。そこに合掌する明家。六郎もいる。

「死ねないな…」

「はい…」

「舞は俺のために死んでくれた。守ってくれた舞に応えるために俺は生き抜く」

「私も同じ思いにございます。舞は…殿の盾として戦っていた私の盾となり逝きました…。妻の思い、胸に刻み生き続ける所存にございます」

「申し上げます」

 使い番が来た。

「ふむ」

「北ノ庄は落城、大殿様と御台様、ご他界されました」

「…分かった。下がって休め」

「ははっ!」

「殿…」

「父母の無念を晴らすまで俺は死ねない。迎え撃つぞ」

「御意」

 歯を食いしばって涙を堪える明家だった。

「死ぬ気で戦って死なぬ!!」


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