羽柴秀吉は関白太政大臣となり、朝廷から『豊臣』の姓を与えられ、天下人豊臣秀吉として君臨し、全国に自分の許可なく合戦をしてはならないと『日ノ本惣無事令』を発布した。
このころ九州では島津義久が大友宗麟を耳川の戦いで破り、龍造寺隆信を沖田畷で討ち取り、九州の覇者となろうとしていた。秀吉は島津義久に大友への攻撃をやめるよう命じたが義久は秀吉の命令を無視し、大友への攻撃の手を緩める事はなかった。大友宗麟は島津の激しい攻撃に抗する事が出来ず、秀吉に救援を求めた。これを容れた秀吉は中国の毛利輝元と柴田明家に九州島津攻めを下命した。毛利輝元は四万、柴田明家も軍勢を率い筑前へ進軍した。
この一方で四国勢にも秀吉から豊後出陣の下命があり、豊臣軍は仙石秀久を四国勢の目付とし、十河存保、長宗我部元親と嫡子信親が出陣した。島津軍と四国勢との決戦場は豊後戸次川の河原であった。島津軍と対峙した十河存保と長宗我部元親らは大友勢の到着を待って渡河するか島津軍の渡河を誘ってそれを撃つべしと秀久に勧めたが、功にはやる仙石秀久は彼らの意見を一蹴し、島津軍に攻撃を開始すべく行動を開始した。
柴田明家は毛利輝元と協議し、立花城の立花統虎(後の宗茂)とその妻の誾千代と共に先んじて大友家の府内城に軍を進め、あと一寸で到着の見込みのころに知らせが来た。
「申し上げます!淡路の仙石勢を先陣に第二陣に讃岐の十河勢、三陣に土佐の長宗我部勢、明日に出陣の予定にございます!」
明家はこれを聞いて呆然とした。
「馬鹿な!なぜ我々を待たない!」
「仙石殿は功を焦っておいでなのでしょう」
と、奥村助右衛門。現在は島津家久率いる島津勢が包囲中である鶴賀城、この城は府内城の支城であり、ここを島津に落とされると府内城は風前の灯であった。秀久は助右衛門の見たとおり、功を焦っていた。仙石秀久は四国攻めの時に自軍の幟を長宗我部軍に取られてしまうと云う失態をしでかし秀吉に激しく叱責されていた。かつ若い加藤清正や福島正則らの台頭に焦っていたに違いない。同じく九州を攻めていた黒田官兵衛と柴田明家に対抗して功名に逸っていた。
「惨敗してもそれは秀久殿の落ち度、しかしそれに巻き込まれる長宗我部と十河は見捨てられぬ。相手は島津家久!釣り野伏せの術中にはまる。急ぎ出るぞ!」
「「ははっ!」」
援軍到着を喜び、出迎えの準備をしていた府内城の大友義統の元に四国勢の援軍に行く旨が知らされてきた。義統の戦意は乏しく士気が上がらず出陣準備をしようとしない。連敗続きで島津を骨の髄まで恐れていたのだろう。
明家は一計を案じた。柴田勢と立花勢を足して六千である。一万以上を擁する島津勢に対して心もとない。そのために大友義統の加勢は不可欠であった。一計、それは誾千代に城門で義統を罵らせる事であった。
常備している明家愛用の巨大ジョウゴ、これを誾千代に持たせた。鉄砲射程距離の間を取り、明家、統虎、誾千代が府内城の城門に立った。明家は申し訳なさそうに誾千代に策を持ちかけたが彼女はむしろ大喜びしてこの役を引き受けた。
「ふふ、一度腰抜けの義統を怒鳴り散らしてやりたかったのよ!」
巨大ジョウゴを構えた誾千代。
「おい!腰抜けの義統!聞こえるか!私は立花道雪が娘、誾千代だ!」
耳の穴を押さえる明家と統虎。ただでさえ大音声の彼女の声が幾倍もデカくなっている。
「何だ?」
城の間口から城門を見る義統。家臣の志賀親次が言った。
「殿、あれは統虎正室の誾千代ですぞ」
「それは分かっているが…」
「今、お味方の城である鶴賀城を包囲している島津勢を討たんと四国勢は向かっている!よって我ら立花は義によってその援軍に向かう柴田軍と行動を共にする!城に篭ってガタガタ震えている腰抜け腑抜けなど、もはや立花の主家にあらず!勝手に滅んでしまえ馬鹿たれが!」
(言いすぎだぞ誾千代…)
苦笑する統虎。
「ご先代の宗麟殿も愚かなところがあったが、大友の版図を広げた英傑!だが息子はなんだ?唐土の三国志に出てくる劉玄徳の子の劉禅さながらな阿呆坊だな!女としてお前のような馬鹿殿だけには抱かれたくない!お前の女房たちが気の毒でならないわ!あっははは!」
「言わせておけばあの女…!」
「殿!女子に、しかも家臣の娘にああまで言われて黙っていては!」
「分かっている!」
「では立花と柴田に攻撃を!?」
「阿呆ッ!あいつらと合流して島津を討つんだ!」
「では出陣に!」
「無論だ!俺が阿呆坊かどうか誾千代にみせてくれるわ!」
志賀親次はフッと笑った。よく火を着けたと。すぐに義統の使者が明家のもとへ来て出陣すると知らせた。一計は大成功だった。
義統はよせばいいのに、『我が士気を上げてくれた事には感謝する。しかしああまで言われたら黙っておれぬ。戦勝したらそなたの尻を撫でてくれよう』と誾千代に言い、その言葉にニコリと笑い誾千代は小声で『立花が女の尻の一撫では高くつく。命を代価にして撫でるがいい』と返された。かくして豊臣の柴田明家が総大将となり大急ぎで四国勢の援軍に向かった。
少し時間を戻す。鶴賀城を包囲する島津軍本陣。島津義弘、島津家久、島津忠長が軍議をしていた。
「おのれ秀吉め、あと一歩と云うところで!このままでは鶴賀城の兵と秀吉軍との挟み撃ちになるは必定。どうなさるか義弘殿」
「そうがなるな忠長、で、どうする家久」
この大友攻めの総大将は島津義弘ではなく、末弟の家久であった。義弘自身が長兄義久に要望した事であった。
「はっ、兄さぁ、この戦、釣り野伏せで行こうと存ずる」
「ふむ…」
「しかし家久殿、敵には長宗我部元親がおる。秀吉に降伏したとは申せ、四国を統一した百戦錬磨の猛将。我々が何度も勝利している戦法も当然長宗我部も用心しているはず…。そう易々と釣り野伏せに乗ってくるでござろうか」
「確かにな忠長、しかしそれは敵の総大将が長宗我部元親であればの話だ。敵の指揮官は仙石秀久、個人的武勇は大したものと聞いているが指揮官としての器はない。何より同僚の黒田官兵衛や柴田明家に対抗し功名に逸っていると聞く。長宗我部元親が指揮官ならば使えぬかもしれんが仙石秀久が指揮官ならば士気が乱れ、この作戦は上手く行く!」
「よし、副将としても異存ない。みなはどうじゃ」
副将である義弘も同意、島津の重臣たちも頷いた。戦巧者である家久である。家臣たちは全幅の信頼を寄せていた。
「では布陣を申し渡す。各自得心したら今宵じゅうに布陣をいたせ!」
「「ははっ!」」
(大事な合戦だ…。この戦に勝たねばせっかく広げた島津の領地が秀吉に横取りされてしまう。勝たねばならぬ)
ここは鏡城、四国勢本陣。軍議を開いていた。
「明日に出陣だと?島津は一万を超える大軍、こちらは六千だぞ!」
戦目付けの仙石秀久に怒鳴る長宗我部元親。
「出陣は越前殿と大友の連合軍が到着するまで待つべきであろう!」
「必要ない。大友は島津に敗れどうしで疲弊して士気も乏しい。さしもの越前が指揮しても使い物になるまい。逆に足手まといになるだけよ。鶴賀城にはまだ二千余の軍勢、島津はその押さえのため我が方に割ける兵力は五、六千てところだろう。現にこの城の対岸に布陣しているのは五千ほど。数の上では我らと互角よ」
「…仙石殿は島津の『釣り野伏せ』をご存知か?少数と見せて伏兵を潜ませておく手口の戦法を!」
長宗我部信親が言った。秀久は答える。
「存じている。しかし地形をよく見ろ。伏兵を置くとしても敵勢の東にある安東山と戸次川対岸の薮の中であろう。伏兵なぞ潜んでいる場所さえわかれば恐れるに足らん」
「しかし相手は沖田畷で五千にて三万の竜造寺軍を破り大名首まであげた島津家久。ここは知恵者の越前殿の到着を待ち、その采配に従ったほうが良い」
と、讃岐大名の十河存保。彼は四国の合戦で柴田明家の智謀知略に翻弄されたため、知将の明家を恐れると同時に高く評価していた。そしてそれは長宗我部元親、信親親子も同じであった。秀久は面白くない。
(どいつもこいつも越前、越前と!)
仙石秀久と柴田明家、明家が水沢隆広と云う名前であったころは秀久と親しかった。安土城の酒場で共に飲んだ酒の美味さは忘れていない。明家養父の隆家には今でも尊敬の念がある。しかし明家が同じ羽柴、そして豊臣の同僚になった時、はじめて恐ろしさが分かった。かつて竹中半兵衛と初めて対面した時に感じた知恵者への恐ろしさ。乱暴者ほど知恵者を恐れると云うがまさにその通り。
自分にはあれほどの知恵もない。勝るのは個人的武勇しかない。降伏した明家がすぐに若狭一国を与えられたのに、自分はまだ万石に満たない禄だった。たとえ恩人の養子とはいえ我慢ならなかった。まだ主君が木下藤吉郎と云う名前のころから付き従い命がけで戦ってきたのに、あんな若僧が一足飛びで国主である。秀吉にとっては三顧の礼をしてでも欲しかった将なのであろうが、いかに辛抱強い秀久とて嫉妬の念が出て当然であろう。こんな気持ちとなってはもう親しく付き合う事はできない。明家と秀久は自然に疎遠となっていった。
しかし言える事は秀吉が重用するだけあり明家は名将であった。かなわない。だからこの合戦では自分の裁量で島津を討ち、一軍の将の器ありと秀吉に示し、豊臣政権の中でさらなる立身出世を望んでいた。かくして長宗我部親子と十河存保の制止を振り切り四国勢は出陣した。長宗我部と十河は秀吉直臣の秀久に逆らい、つまらぬ讒言をされてはと思い、強く反対する事が出来なかったのである。
島津本陣に伝令が入った。
「申し上げます!四国勢が鏡城を出て戸次川に向かい出したとの事!」
作戦的中、島津家久が伝令に言った。
「よし!儂の下知あり次第出陣すべしと全軍に申し渡せ!」
「はっ!」
「読みが当たったな家久、個人的武勇は我が薩摩隼人も認める腕前の仙石秀久であるが、指揮官としては三流のようじゃな」
「はい」
「どれ、そなたの采配を見させてもらうぞ」
「島津の戦、秀吉の手下に見せてくれまする!」
四国勢は囮である島津勢を蹴散らして前進、長宗我部元親が深追いは危険だと仙石秀久を諌めるが秀久は聞かない。
「追え!急ぎ川を渡って殲滅するのだ!」
島津軍伏兵である上井覚兼・樺山忠助の軍。上井覚兼はどんどん島津家久の術中に陥る四国勢を見つめる。
「ふふ、まんまと囮隊に釣られおったわ」
これが世に云う『戸次川の戦い』である。地形は川の湾曲により四国勢側の岸は急流で深い。島津軍の岸は緩流で浅い。島津軍有利である。かつ上井覚兼は家久に攻撃の頃合を下命されていた。
『渡り始めと渡りきる直前は敵も士気があるが、半渡の状態なら緩んでいる。そのころには足元に注意が奪われ、たとえこちらに伏兵がいると知っても前方への注意は散漫となる。さらに水の冷たさに馴れず体が冷え切る頃合、敵が半ばを渡ったところを衝け!』
その半渡の状態で伏兵部隊が矢を射る。その後に槍衾隊が突撃、四国勢は手がかじかんでいて槍が思うように使えない。
「うろたえるな!押し返せ!」
と、仙石秀久が叱咤するが四国勢は大混乱となった。また囮隊を務めていた伊集院久宜隊がとって返し攻撃に転じ、かつもう一方の安東山に伏兵としていた新納忠元隊が突撃を開始し、迂回した本荘主税助隊が背後を衝いた。四国勢は次々と討ち取られていく。そしてついに家久本隊が四国勢の横槍を急襲。
「切り崩せ!!」
「「オオオオオッッ!!」」
見るも無残なほどに味方が討たれていく。秀久はこの時になって初めて愚策を弄したと気づくが後の祭り。せめて指揮官として敵に玉砕するか、それとも生き延びて挽回するか。秀久の選んだのは後者だった。
かつて斉藤家の名将である水沢隆家が十四歳の秀久に言った事があった。まだ下っ端の少年兵なるも鍛え上げられた体躯に良き面構えの秀久を隆家は目をかけていた。その隆家が斉藤家の身分の低い若者たちに戦の講義をした時、一つの戦の事例を取り出し、作戦が裏目に出て味方将兵は総崩れ、絶体絶命の危機に陥った。さあ自分が大将ならばどうするか、と云う事を質問した。当時十四歳の仙石権兵衛秀久は
『無論、一騎だけでも突撃し、味方を一人でも助け、敵を一人でも道連れにします』
と元気に答えた。隆家は落第の答えだと笑った。
『死は恐れるものではない。また憎むものでもない。しかし権兵衛が言ったのは一見“潔い死”かもしれんが、儂に言わせれば犬死にすぎない。大将、いや武士は生きて大業を成す見込みがあるのなら、どこまでも生き抜き、臥薪嘗胆をもって挽回の機会を待ち、そして雪辱を晴らすのが道である。死して不朽の見込みがあるのなら、いつどこで死んでも良いが、ただ玉砕するのは愚者のする事だ』
すると秀久は
『そんな卑怯な振る舞いは嫌にございます。敵味方にも笑われます』
と剥きになって否定。
『笑われる事など何ほどでもない。時に生きるとは死より辛きもの。死ぬは逃げるに過ぎぬ。打ち倒す者は強い、だが倒されても立ち上がった者はもっと強い。それが勇気と知れ』
(何で今…隆家様の言葉が浮かぶのだ)
少年期の自分では理解できなかった隆家の言葉。だから翌年の稲葉山城落城の時、たった一騎で柴田勝家の軍勢に突撃をするなんて無茶苦茶をしている。しかし長じた今なら分かる。
『大将、いや武士は生きて大業を成す見込みがあるのなら、どこまでも生き抜き、臥薪嘗胆をもって挽回の機会を待ち、そして雪辱を晴らすのが道である』
(今がその時…!しかし無念…!無念だ…!)
しかし、今の局面でのためらいは命取り、秀久は決断した。
「退却!退却せよーッ!」
仙石秀久は長宗我部と十河を見捨てて退却した。それを知った十河存保は
「今日の合戦は仙石秀久の策のずさんによると云えども、このまま尻尾をまいて逃げるわけには行かない。信親殿、共にまいろう」
「こうなったからには、武門の意地をかけて立派に果てましょう!」
信親の部隊は島津勢と死闘。信親は槍を折られ、かつて織田信長から拝領した太刀を抜いて返り血を浴びるほど戦うが、兵は次第に討ち減らされ、七百まで減った。若武者信親が
「ここを死に場所と決めた!薩摩隼人に土佐のいごっそうが力見せ付けて死のうぞ!」
と言うと信親の将兵は全員死兵と化した。多勢の島津勢に突撃し、凄まじい白兵戦となった。勇猛を馳せる島津将兵が圧倒される。しかし多勢に無勢である。信親もいよいよ力尽きかけた。
「父上!お先に参る不孝を許して下さい!」
そう絶叫した時であった。
「敵襲―ッ!」
「新手が来たぞ―ッッ!!」
「なに?」
島津家久は声の方向を見た。すると軍旗『歩』を靡かせて柴田軍が怒涛の如く迫るではないか!
「家久、新手じゃ!!」
「兄さぁ『歩』の軍旗は確か…!」
「柴田明家か、一度会いたいと思っていたわ」
明家、迫りながら信親の軍勢に吼えた!
「長宗我部、十河勢、伏せよ!!」
生きていた信親、明家の意図を察し下命した!
「伏せよ!柴田の石礫は必殺だぞ!」
言われるまでもない。つい先年の秀吉の四国攻めにおいて柴田勢の石礫の恐ろしさを骨身で知っていた四国勢、真っ青になり大急ぎで伏せた。
「放てぇーッ!!」
一石剛槍、稲妻のごときと呼ばれる小山田投石部隊の投石が島津勢に放たれた!
「ぐああッ!!」
「ぎゃあ!」
勇将信親の軍と戦い疲れが出ていた島津勢は投石をまともに食らった。
「ひょう!すごい石礫!まさに稲妻だわ」
騎馬で進みながら柴田投石隊のすごさに驚く誾千代。なお突き進む柴田・大友・立花軍。誾千代は愛刀『雷切』を抜いた。
「唸れ!雷切!!」
立花軍は先頭を切って島津軍に突撃。柴田も続く。明家は目を凝らして探し、そして見つけた。
「信親殿!」
傷を負い、疲労困憊である信親に走り、馬上から手を伸ばした明家。
「かたじけない!」
信親は明家の手を握り、それを明家は引き、自分の後に信親を乗せた。
「殿、十河殿も救出いたしましてござる!」
と報告が入った。
「よし、四国勢は合流せよ!」
息を吹き返した四国勢はそのまま柴田軍に合流。それを見届けた明家は下命。
「全軍、府内城に退却だ!」
明家は四国勢を救出すると島津勢の眼前をそのままとんぼ返りして、府内城の方向へと転進。
「戦わず逃げる気か!追え!」
島津忠長が将兵に命令、しかし柴田・大友・立花の鉄砲隊が並び、柴田明家号令一喝!
「撃てーッ!!」
追撃に入った島津勢の切っ先に一斉集中砲火した。その攻撃に一瞬島津がひるんだ隙に全軍逃げにまわった。
「逃がすな、追え、追えーッ!!」
「よせ忠長、柴田明家と云えば知将として有名だ。我らの追撃にも備えているだろう」
家久が止めた。
「しかし家久殿」
「ともあれこの合戦は勝った。これ以上欲張る事もあるまい。鶴賀城を取る。こちらの敗戦が伝わり士気も下がっていよう。労せず取れる」
「…はっ」
「不満そうだな、ならばしばらくしてから柴田が逃げていった道を調べてみよ。追撃しなくて良かったと思うであろう」
島津義弘は柴田明家が去った方角を見つめていた。
「どうなされた兄さぁ」
「いや、大した男と思ってな」
「同感でござる。目的を果たしたら未練を残さず退却。我ら島津も見習いたい戦ぶりでござるな」
「はっははは、秀吉も中々良い将を召し抱えているではないか」
家久の言葉を半信半疑で受け取り、翌日に忠長は柴田の退却路を調べてみた。途中に山間の道もあり、両脇の森林には伏兵がいた形跡があり、落とし穴もあった。山間の道を抜けたら少し広い台地があり、そこにも伏兵が潜んでいた形跡があった。あやうく島津が釣り野伏せを食らうところだった。家久が言うように追撃に出なくて良かったと思った島津忠長だった。
府内城に到着、長宗我部元親と信親親子、そして十河存保は丁重な手当てを受けた。特に長宗我部元親の明家への感謝振りは並大抵ではなかった。戦場ではぐれ、そして明家が来なければ確実に討ち死にをしていた息子が負傷あるものの生きている。
「越前殿、心よりお礼申し上げる」
「いえ」
「長宗我部は越前殿のためなら何でもしますぞ…!」
明家の手を握り、感涙する元親。そして治療中で床に伏せる信親を見舞った。
「傷は痛みますかな信親殿」
「なんのこれしき」
穏やかに話しているが二人は秀吉の四国攻めの時に戦っていた。精強な信親の軍勢に手を焼いた柴田軍。また信親も明家の作戦の数々に舌を巻いたものだった。豊臣に属した後、信親は明家と友誼を結んでいた。歳も近いので気もあった。
「これから九州の戦況はどうなるのでございましょうか。鶴賀城は落ちたのでしょうか」
「落ちましてございます。しかし鶴賀の城兵には城を捨てて府内に退却せよと義統殿を通して命じましたゆえ、犠牲はさほどではございませぬ」
「なぜそんな指示を!それではこの府内は風前の灯に!」
「その通り、しかし関白殿下御自らが二十万と云う途方もない大軍を率いてすでにこちらに進発している知らせが入りました」
「二十万…!?」
「しかしその軍勢を整えるのには時間を要します。その間に島津が大友を滅ぼしては元も子もないですからな。ゆえにそれがしや毛利殿、そして四国勢は先鋒として、それを食い止めなければならなかった。そしてその軍勢を整え、もう向かっていると云う知らせが入りましてございます。そうとなれば話はそんなに難しくはございません。柴田、大友、立花、四国勢、毛利も軍勢を割いてこちらに援軍を向けております。すべて合わされれば兵力は島津と拮抗しますゆえ、関白殿下ご到着までの間、我らは島津の挑発に乗らず豊後を守っていれば良いのです。島津も二十万なんて大軍と戦うなどいたしますまい。やがて和議交渉がなされ島津は豊臣に属する事と相成りましょう。つまり取られた鶴賀も戻ってまいります」
「何て事だ…。ならば我々は島津に大友を滅ぼせないよう牽制程度をしていれば良かったのではないか!関白殿下が遠からず来援する事は分かっていたのに仙石秀久が功名に逸るからこうなった!しかも真っ先に逃げるとは男ではない!あいつの無為無策で俺の大切な家臣たちがたくさん死んだ!今度会ったらブッ殺してやるぞ…!」
かつて友誼を結んだ明家とて庇いようのない秀久の大失態である。明家には秀久が退却を選んだのは分かった。同じ師に学んでいるのである。
(権兵衛殿は『武士は生きて大業を成す見込みがあるのなら、どこまでも生き抜き、臥薪嘗胆をもって挽回の機会を待ち、そして雪辱を晴らすのが道である』の養父の教えを実践したに違いない…。しかしだからと云って許しを請えるものではないですぞ権兵衛殿…!)
「越前殿は仙石秀久と親しいとか」
「え、ええ…。しかし昔の話でござる。それがしが豊臣に属してからは疎遠となりましてな…」
「左様か…。ですが申しておきます。それがしは仙石を斬ります」
しかし信親の負傷は悪化の一途をたどり、これより一年後、戸次川の戦いで負った傷が元で若い命を落とす事になる。
信親のいる部屋から出た明家を山中鹿介が呼び止めた。
「殿、仙石殿の向かっている先が分かりました」
「どこか」
「淡路洲本にございます」
「なんだと!?それじゃ、そのまま居城まで一気に帰るつもりなのか!?」
「御意」
「何たる無責任なのか…!俺は権兵衛殿を見損なった…!」
「…確かに、言い訳のしようもない大失態。仙石殿は四国を指して逃げにけり、三国一の臆病者にござる」
仙石秀久と個人的友誼があった柴田明家にとって秀久の大失態は失望極まりなかった。敗戦は時の運であるが、無謀な合戦を起こし、そのうえ劣勢に陥るや真っ先に逃げた事に。明家の養父隆家の教えに学び、あえて武士道にもとる行動を取った秀久。他に方法がなかったのかもしれない。しかし、だからと云って認められるほど当時の世は卑怯な振る舞いに寛大ではない。
島津は豊後に攻め込んだのは良かったが、柴田明家が大友と立花、四国勢、そして毛利の援軍部隊を指揮して、終始負けない合戦を展開した。島津兵の恐ろしさを知る明家は勝つための合戦をしようとせず、島津が野戦によって直接対決に持ち込もうとしても挑発に乗らなかった。
秀吉の来援が近い事を知っていた島津であるが、攻めても攻めても破るに至らず、いたずらに時が過ぎ、やがて秀吉率いる二十万の軍勢が九州に上陸した。時すでに遅し。島津兄弟をもってしてもついに柴田明家を打ち倒せなかった。
島津は秀吉に恭順を示す。島津家久は秀吉との和議交渉のさなかに急死した。享年四十一歳。島津義弘は薩摩一国では従えぬと抗戦するがやがて降伏。島津家は薩摩・大隅・そして日向の一部の領有が認められた。ここに豊臣秀吉の九州統一が成ったのである。
仙石秀久の大失態は秀吉も激怒、秀吉は秀久の所領を没収して、高野山へ追放した。秀久の家臣たちも去っていった。挽回できると思っていた自分の甘さが情けない。領地や家臣の信頼も失い、できるはずがないではないか。あの時の自分は命惜しさに師の教えが頭に都合よく浮かんだに過ぎない。やはり死ぬべきであったのだ。どう後悔してもはじまらない。わびしく妻のお蝶、娘の姫蝶、そして息子二人を連れて大坂屋敷を出る秀久。誰も見送りはなかった。長宗我部と十河の大坂屋敷を避けて出て行く。しかし十河存保は追放の身ならば斬っても咎められまいと追った。そして追いつく。
「仙石!」
「十河殿…」
「のんびりと高野山で暮らせさせるわけにはいかんな。我が家臣たちの無念を晴らさせてもらうぞ」
十河の家臣たちに囲まれた秀久。
「殿…!」
怯える妻子。
「十河殿、せめて妻子は助けてくれぬか」
「ふん、お前のような屑でも妻子は大事か。笑わせるな、我が家臣たちの無念、お前一人では勘定に合わぬ。皆殺しにしてくれるわ!」
「よされよ」
「越前殿…」
明家がその場に来た。
「止めだて無用、越前殿と仙石が個人的に友である事は存じてはいるが、こやつの愚策で我が家臣たちが多く散った。許せぬ」
「相手はもはや兵もなく、すべて没収され平民の身となり、女子供しか連れていない者。討っても貴殿の名が下がるだけにござる」
「……」
「それに…その男はもう斬る価値すらない。刀が汚れるだけにございますぞ」
明家の言葉が秀久に貫かれる。一言も返せない。十河の家臣が存保に言った。
「殿、ここは越前殿の顔を立てておくべきかと…」
「……」
「確かに斬る価値もなく、刀の汚れになると存じます。こんな男のために御名を下げる事はございますまい」
「…分かった。くどくど申すな」
存保は家臣たちを退かせた。
「言われてみれば確かに斬る価値も無き男、刀の汚れとなりますな」
唾を秀久の顔に吹きかける存保。
「……」
「二度と我が前に姿を見せるでないぞ腰抜けが!」
十河存保は去っていった。妻のお蝶が存保の唾を手ぬぐいで拭った。
「…助けたつもりにござるか越前殿」
「それがしはそんなお人好しではござらぬ。ただ息子がどうしてもと」
明家は息子竜之介を連れていた。
「姫蝶…」
「竜之介様…」
柴田家と仙石家の大坂屋敷は近くであったため、仙石秀久の娘の姫蝶と竜之介は幼いうちから仲が良かった。幼い二人であるが将来を約束している。明家と秀久はただの仲の良い二人としか思っていないが。
「父上、なぜ仙石の家が追い出されなければならないのですか?」
「…さあな」
「父上、俺姫蝶と離れたくないんだ!」
「お別れをしたいと云うから連れてきたのだぞ。わがままを言うな」
竜之介に歩み、深々と頭を垂れる姫蝶。そして竜之介に言った。
「笑顔で見送って下さい。姫蝶は必ず竜之介様の妻になります」
「姫蝶…」
秀久の妻のお蝶、恩人隆家の養子明家に頭を垂れた。そして良人と共に去っていった。
「同情はいたしますまい権兵衛殿、明日は我が身にござる…」
九州攻めを終えてほどなく、佐々成政はその武功から九州の肥後国主に任命された。秀吉の御伽衆となっていた男が見事に大名、しかも国主として返り咲いた。これは柴田明家も影ながら喜び、成政には無理であったが成政側近の井口太郎左衛門と正室のはるに祝福の文を届けたと云う。成政にそれは伝わり、成政は明家に文を届けた。
『儂ではなく、はると太郎左に文を届けるとは相変わらず小賢しい奴だ。遠慮なく儂に届けても別に破ったりはしない。今まで意固地になっていたが、今は関白殿下の元で働くもの同士。肥後の統治が落ち着いたら、今までの事は水に流し、そして久しぶりに勝家様の事や北ノ庄の昔話を肴に酒を酌み交わしたい』
と返した。やっと成政と和解できたと喜ぶ明家。そんなある日、立花統虎が上坂してきて柴田屋敷を訪ね、明家と酒を酌み交わした。離れた部屋からさえ、すず、誾千代の楽しそうな声が聞こえてきた。気が合ったのか、ずいぶん盛り上がっている。
「奥方と一緒に来るとは驚きましたな」
「ええ、ぜひ誾をさえ殿と会わせたく」
「なぜ?」
「人の振り見て我が振り直せ。さえ殿の貞淑振りを見習ってほしいのでござる」
「はははは、誾千代殿はあれでこそ良いと存じますが。あれほど甲冑の似合う女子はおりませぬぞ」
「たまに会うから越前殿はそう思うのでござる。毎日毎日喧嘩腰で『それでも立花か』と言われるのはたまりませんぞ」
「なるほど、それはしんどそうですな」
統虎の淡い期待は叶えられないだろうと思う明家。
「『誾千代』の『誾』の字の意味は『穏やかに、かつ謹んで人の話を聞く』とあり、義父の道雪はそれを願って名づけたそうですが、その願いが込められた矢はどこか見えないところに飛んでいきました。まったく」
よほど日ごろ頭が上がらないのだなと苦笑する明家。しばらく統虎と雑談していたが、聞き捨てならない事を統虎から聞く。
「佐々陸奥守(成政)殿が肥後国主となりましたな」
「その通りです。張り切っていました。それがし陸奥殿とは長年不仲でしたが、やっとこれがキッカケで互いに歩み寄れました。今度陸奥殿が上坂してきたら、当家の屋敷で盛大に持て成そうと思います」
「それが…肥後の統治がうまくいっていないようです」
「は?」
「関白殿下は陸奥殿に統治にあたり、いくつか秘密裏に指示を出したそうです」
「必要ないと思いますけどな。陸奥殿は卓越した民政家でもありますから」
「聞いております。治水にもかなり明るく、領内の神社仏閣再建にも留意し越中の民には今でも親しまれているとか」
「その通りです。で、その秘密裏の指示と云うのは?」
「立花が掴んだ情報では『九州平定に尽力した肥後国人に旧来通り所領を与える事』『三年間は検地をしない事』にござる」
明家は驚きのあまり杯を落とした。
「そんな馬鹿な!それでは自分の家臣に知行地を与える事もできない…!」
「その通りです。遠からず陸奥殿は検地をするでしょう。そうせざるをえない」
明家は秀吉の意図を読み取った。
「…関白殿下は何と云う非道な事を!あえて一揆を誘発させ旧勢力と成政殿を一掃させるおつもりか!」
時すでに遅かった。成政はすでに検地を行なっていた。国人衆の一揆の狼煙は上がった。農民まで加わり、肥後の国中に一揆が発生。成政が肥後に入国したわずか一ヵ月後の事である。
そしてその年の暮れ、九州の秀吉配下の大名たちに出撃命令が出され、やがて一揆を鏡圧させた。秀吉は、この一揆に参加した国人ことごとく斬首し、一挙に旧勢力を一掃したのである。
一揆は秀吉にとって予定の出来事に過ぎなかった。肥後の新国主に直臣ではない新参の佐々成政を任命したのは秀吉の巧妙な罠であった。肥後の国人たち、佐々成政もそれにまんまと踊らされたのだ。ここまで至れば、もう明家とて成政を助けようがなかった。
成政は失政の責めを受け摂津国尼崎法園寺にて切腹と処断された。その見届け人は加藤清正と柴田明家であった。清正に一寸の時間をもらい、成政と酒を酌み交わす明家。
「頼みがある越前」
「はい」
「儂は倅がとうとう授からなかった。娘ばかり六人いる」
「存じております」
「上の二人は嫁ぎ、三番目の娘は秀吉に殺された。あとの三人はまだ子供だ」
「…分かりました。当家で養育いたしましょう」
「引き受けてくれるか…!」
佐々の娘たちを養女にすれば秀吉の勘気を被りかねない。しかし明家は引き受けた。佐々成政ほどの男に遺児を託されたのだ。どうして断れるだろう。
「はい、然るべき男に嫁がせます。ご安心を」
「すまぬ隆広…!」
涙を落とす成政。
「ご母堂のふく様、ご正室のはる様も当家にてお世話させていただきます」
「隆広よ…」
「はい」
「お前のような若者が、儂の倅であったらな…」
初めて成政に褒めてもらった。明家はそう思った。
「嬉しゅうございます…!」
「伊丹攻めの時からそう思っていた。しかし素直になれず、ずいぶんお前にはひどい仕打ちをしてきた。許してくれ…」
「何を言うのです。それがしは父の勝家と、その恐い重臣たちに育てられました。亡き勝家も、そして成政殿も、我が父にございます!」
「そうか…!嬉しいぞ!」
二人の席を外から見ていた加藤清正も涙ぐんでしまう。清正の家臣たちもつられて泣いていた。だが時は残酷に過ぎていく。切腹の刻限となった。成政は切腹の場へと行くため立ち上がった。そして他には聞こえぬよう小声で明家に言った。
「隆広」
「はい」
「秀吉には…一瞬とて気を許すなよ」
「肝に銘じます」
「うむ、では隆広、これにてさらばだ」
「さらばでございます親父様…!」
成政はその言葉に微笑み、そして整然と切腹して果てた。享年五十二歳。辞世『この頃の 厄妄想を 入れ置きし 鉄鉢袋 今破るなり』