天地燃ゆ   作:越路遼介

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奥州の独眼竜

 会津の伊達政宗、奥州一の暴れん坊と言われている。彼は豊臣秀吉の日之本惣無事令を無視して芦名氏に合戦を挑み、そして摺上原の戦いで芦名氏を討ち、会津の地を占領した。

 奥州の諸大名はほとんど血縁が結ばれていており、たとえ合戦に及んだとしても皆殺しはしないのが暗黙の了解となっていたが政宗は違った。大内定綱の小出森城を攻め落とした時には城の女子供を撫で斬り、つまり皆殺しをしたのである。これは政宗の賭けであった。奥州の覇者になるか、または集中攻撃を受けて滅亡するか。天運は政宗に味方した。宿敵の芦名氏を滅ぼし、広大かつ肥沃な会津を手に入れるに至った。

 政宗の勢いは止まらない。続いて佐竹氏、相馬氏の領地を狙う。だがその時には政宗の元に秀吉から『小田原に参陣せよ』と下命されていた。政宗は無視。伊達の版図拡大に躍起である。来るべき中央の覇者との決戦に備えるには将兵を養う広大な土地が必要である。政宗は佐竹氏、相馬氏との戦いのため、大崎家や母親の保春院の実家である最上家に『援軍を出さねば許さぬ。踏み潰す』と脅す書状を届けていた。この知らせを兄の義光から聞いた保春院は背筋が凍りついた。母親の実家に対して何たる無礼、かつ飛ぶ鳥落す勢いの秀吉に勝てると思っているのかと。このままでは伊達家ばかりか最上家まで潰されると危惧し、たまらず政宗に抗議した。

「その短慮のせいでお前はお父上を死に追いやった!今度は母の実家まで死に追いやる気なのか!」

「……」

 政宗の父の輝宗、彼は政宗と敵対し、そして和議の締結に来た畠山義継に捕らえられてしまった。政宗の畠山への苛烈な戦後処理、そして小出森城の撫で斬りが畠山義継にこのような暴挙に出るほどに追いやった。やがて畠山一行に追いついた政宗、輝宗は自分を撃てと政宗に言った。そして政宗は泣く泣く父の輝宗を撃ち、畠山一行を斬殺した。輝宗正室の義姫、今の保春院は息子政宗の短慮を激しく罵った。

 畠山への復讐と言わんばかりに政宗は畠山義継の居城である二本松に進軍。だが畠山に同情する奥羽諸大名は多く、反伊達家の連合軍が結成され、政宗は人取橋の戦いで大敗を喫した。敗れて戻った政宗に保春院は労いの言葉もかけず

「この大バカ者!お前が怒りに任せず畠山義継殿の首を丁重に二本松に送り届け、改めて降伏勧告でもすれば戦わずに二本松は落ちたわ!怨みが怨みを呼ぶと何故分からぬ!お前ごとき殺戮を好む外道など我が息子ではない!死んでしまえ!!」

 と、家臣の前で罵った。確かに短慮だったと政宗は感じていた。しかし殺戮を好む外道とはあまりの言葉であった。以来、政宗と保春院には埋まらぬ溝が出来ていた。

 

 元々保春院は政宗ではなく次男の小次郎政道の方を愛していた。長男は守役に育てられ、次男は自分で育てたのだから自然かもしれない。『我が腹を痛めた子を疎んじる母がどこにおろうか』と政宗に言った事がある保春院だが、そう受け取られる態度を無意識に取っていたのなら、やはり偏愛は否めないところだろう。

「秀吉ごとき成り上り者に、この伊達家が膝を屈せるとお思いか」

「時の勢いと云うものがあるであろう。関白は東海より以西の支配者であるぞ!」

「早々に尻尾を振れば伊達は軽んじられまする。九州の島津は秀吉軍と戦い、その強さを関白に認められたとか。すぐに恭順すればみちのくの武士は腰抜け、政宗は木っ端侍よと侮られます」

「それを短慮と申すのだ。そんなに戦がしたいのか」

「好きで戦をしているのではございませぬ。伊達の家臣と領民を守らんがためにございます」

 母の説得も虚しく、政宗は佐竹と相馬との戦をやめようとせず、そして小田原に参陣する気もない。万策尽きた保春院は兄の最上義光に相談した。山形城、義光の私室。

「義は何にも分かっておらんな」

「え?」

「小田原参陣は政宗を呼び出す口実だ」

「まさか…政宗を殺すつもりで…」

「政宗は関白の発令した日ノ本惣無事を無視して芦名を滅ぼした。儂が秀吉ならノコノコとやってきた政宗を殺してやるわ!」

「それでは伊達家は…!」

「知れたことよ、北条のあとは伊達よ。皆殺しに遭うであろうな」

「ああ…」

 泣き崩れる保春院。

「義、まだ活路はある」

「そ、それをお教え下さい!」

「政宗を殺せ」

「え、ええ!」

「小次郎を新当主とすれば良い。儂が後見となり小田原に随伴し、政宗の首を差し出し何とか関白に伊達小次郎が伊達家当主として許されるよう儂が取り成す」

「そんな事は出来ませぬ…!」

「伊達家が大事か、政宗が大事か、よく考えろ」

「兄上…!」

 

 苦慮のすえ、保春院は次男小次郎と共に政宗の殺害を決意。そして小次郎を当主として伯父の最上義光を後見として小田原に参陣すると云う企てを画策した。しかし政宗の心を変える知らせが届いた。豊臣秀吉が二十二万の大軍勢で小田原城を包囲したと云うのである。同盟をしていた徳川・北条・伊達の一角である徳川はすでに秀吉につき、今さら伊達家だけが北条に味方は出来ない。ついに政宗は小田原の参陣を決意した。翌日に出陣となったが、政宗は母の保春院に夕餉に招かれた。招待の際の文には

『今まで母子ながら不仲と相成り、ずっと気に病んでいた。そなたも小田原に参じると知り安堵した今、今さらながら昔のように母を優しく見つめてくれるそなたに会いたい。母が腕によりをかけてご馳走を用意しますゆえ、ぜひ母の元へ来て欲しい』

 と、記されていた。政宗は嬉しかった。やっと母上と和解できる。何より政宗は今まで母親の手料理を食べた事がない。小躍りして母の部屋へと行った。母子水入らずの夕餉、政宗の前に置かれた膳、目を輝かせる政宗。

「これはそれがしの好きなものばかり、これを母上が…」

「無論じゃ、出陣の英気を養うてもらいたくてのう。張り切って調理しました」

「ありがたい、母上の手料理を食べるのは初めて。文をもらった時から楽しみで仕方がございませんでした。政宗ありがたくちょうだいします」

 合掌して料理の膳を拝む政宗。本心から母の手料理が嬉しかった。保春院はこの時の政宗の笑顔を見てどう思ったのだろうか。美味しそうに料理を食べる政宗。だが

「……ッ!?」

 焼けるような胸の痛みを感じた。手足が痺れ出す。唖然として母の保春院を見る政宗。

「母上…」

「政宗…」

「こ、これが…!母の愛なのでございますか…ッ!?」

「母の慈悲じゃ…!許せ政宗!」

 政宗は急ぎ庭に駆けて嘔吐した。

「オエエエッッ!!」

(母上が…俺を毒殺…!)

 そしてさらに悲劇が襲う。

「兄上!お覚悟!」

 政宗に切りかかった弟の小次郎、だが政宗は苦悶しながらも小次郎を斬った。

「小次郎!」

 愛する小次郎が斬られた。半狂乱となり小次郎の亡骸を抱く保春院。騒ぎを聞いて駆けつけた片倉小十郎と鬼庭綱元。

「殿―ッ!」

 その惨劇と政宗の嘔吐、これを見て片倉小十郎はすべて察し、

「保春院様…!」

「控えよ小十郎!!」

「殿!」

「綱元も聞け、これは小次郎が一人でやった事だ…!」

「しかし殿!」

「良いな小十郎、綱元!母を罰する事まかりならぬ!」

 保春院は小次郎の亡骸を抱いて泣き叫んでいる。政宗の事は目に入っていない。政宗は血を吐くように叫んだ。

「母上―ッ!!」

 奥州一の暴れん坊としての彼ではなく、ただ母を求める幼子のような叫びであった。そして意識を失った。これで小田原攻めへの出発が遅れたのである。数日後、目を覚ました政宗の枕元に妻の愛(めご)がいた。

「愛…」

 政宗の手を握る愛姫。

「殿…」

「母上はどうされた…?」

「最上の山形城に帰られたとの事…。聞けば…気が触れてしまわれたとか。うわごとのように『小次郎はどこじゃ、小次郎はどこじゃ』と申すばかりと…」

「そうか…。もう会う事もあるまい…」

 一つしかない目から一滴の涙がこぼれた。

 

 しばらくして政宗は快癒し、そして小田原に向かった。大幅の遅参、秀吉への目通りは許されず底倉(箱根七湯である底倉温泉)に留め置かれた。そこは政宗、母との確執もどこへやらと精神的にも回復していたので、『ふん、遅参を理由に許さぬと言うのであらば秀吉も大した事ないわ』と黙って底倉で温泉に入って待つ事にしたのである。

 政宗はこの小田原出陣にただ百騎しか連れてこず、かつ二ヶ月も遅れての参陣であった。秀吉は

「あの若僧、儂の恐ろしさがよう分かっておらんと見える」

 と一笑に付し、そのうえで養子とした結城秀康に底倉に出向いて政宗の器量を見てまいれと命じた。秀康が底倉に到着したら政宗は平然と岩湯に入り鼻歌を歌っていた。

「おい!」

「『おい!』と俺を呼ぶのは誰か」

「結城秀康、名前くらい聞いた事があるだろう」

「おう、徳川家から養子に出された方にござるな。伊達藤次郎政宗と申す」

「こしゃくな奴よ、昼間から岩湯とは良い身分な事だ」

「待ちぼうけを食わされておりますでな」

 湯をすくい顔を洗う政宗。

「ぶわー、生き返る。どうでござるか秀康殿も」

「なぬ?」

「良い湯でござるぞ、それがしはこの通り丸腰、心配無用にござる」

 怖気づいたと思われるのも癪なので秀康も岩湯に入った。

 

 秀吉の陣屋、この顛末を秀吉に報告している秀康。

「なるほど、いきなり裸の付き合いも良かろう。ところで湯の中で一つ二つへこませてきたのであろうな」

「いやそれが賭けで負けまして…」

「賭け?」

「岩湯に五尺ほどの青大将が湯治にきていました」

「青大将?では岩湯には於義丸(秀康)と政宗三人の湯治となったわけか」

「はい、それで政宗が」

 

「どうもこいつは邪魔ですな。どうですか秀康殿、この青大将を手を使わずにどちらが追い払う事が出来るか賭けませんか」

「手を使わずに?」

「はい、できまするか?」

「そんなの簡単だ。俺の眼光で追い払ってやる」

 青大将を睨む秀康、しかし青大将は微動だにしなかった。

「こやつ、まったく動かんな」

「ではそれがしが」

 政宗は自分のイチモツを隆々と起たせて青大将に向けた。青大将は逃げた。秀康は呆然。

「あはは、秀康殿、どうして逃げたとお思いか?」

「い、いや…皆目分からないが…」

「ほれ、男の印の口は縦に裂けてござろう?青大将は見た事のない化け物が出たと逃げたのでござるよ」

 秀康のこの報告に秀吉の陣屋の中は大爆笑。秀吉もその幕僚たちも大笑いだった。

「お、於義丸…。ヒーヒー!男の印で負けるとは、うわはははははは!な、何事か!」

 腹を抱えて爆笑する秀吉。とにかく政宗、秀康から一本を取り彼を通じて家康に遅参の取り成しを願う事ができた。ああまで大笑いしたら怒るどころではないが、秀吉にも諸大名に示さなければならない威厳というものがある。秀吉は本陣での目通りを許した。

 いよいよ秀吉との対面、政宗は死に装束で秀吉本陣へと歩いた。本陣の奥で政宗を見つめる秀吉。ゴクリとツバを飲んで秀吉に歩む政宗。秀吉の傍らにいた家康がそれを制し、政宗に何かを差し出させるように手を伸ばした。政宗は懐中にいれていた短刀を取り出し家康に渡した。そして秀吉に平伏。

「伊達藤次郎政宗にございまする」

「秀吉じゃ。ずいぶんと遅かったのう」

「申し訳ございませぬ」

「その方、旗色を見ておったか」

「めっそうもございませぬ!」

「ふふ、若いのう、いくつだ?」

「二十四にございまする」

「その方、奥州一の暴れん坊だそうな」

「奥州の戦など関白様の戦に比べれば児戯に等しきものにございまする!」

「はは、そうか」

 秀吉は床几を立ち、政宗に歩んだ。そして秀吉、

「……!」

 竹の杖を政宗の延髄に叩き付けた。

「城が落ちておったら、その首はなかった。運の良き奴よ」

「は、はは…!」

「ついてまいれ」

 秀吉は小田原の包囲の様子全容がうかがえる場所に政宗を連れて行った。

「どうじゃ政宗」

「見た事もない大軍勢にございまする」

「そうであろう、ふっははは!儂は青大将のようにはいかんわ。ふっはははは!」

 諸侯の見ている前で政宗を杖でトントンと叩く秀吉。

(くそ…!この屈辱忘れぬぞ!)

 

 これから間もなく石垣山城が完成。小田原城から見える石垣山に巨大な城を作ったのである。完成し、石垣山の木々が切られ石垣山城の全貌が小田原城に飛び込んだ。北条氏政と氏直の親子は絶句。氏政は歯軋りし

「秀吉め!あり余るチカラを嫌味に見せ付けおって!儂は負けんぞ!」

 目の前で突如城が現れたのである。小田原城内の士気は激減し、秀吉はこれで北条は降伏してくると思っていたが北条家は降伏しない。城を抜け出して降伏をしてくる者はいるが肝腎の北条親子は降伏の意図を示さない。石垣山城から小田原城を見る秀吉。

「おかしい…この城を見てもまだ北条は降伏しようとせん…」

 焦れている秀吉。

「いかに堅城とはいえ、三月もかかって落とせぬのでは儂の面目は丸つぶれじゃ!」

「殿下」

「なんじゃ佐吉」

 すでに三成は秀吉に合流し、豊臣軍の軍奉行を務めていた。その三成が苛立つ秀吉に言った。

「北条への降伏の使者、うってつけの方がおります」

「誰だ」

「越前殿です」

「越前?」

「いらぬ誤解を招かないよう秘していましたが、武田攻めの後に越前殿は北条氏政と文のやりとりをしていた時期があります」

「なぜ」

「武田攻めのおり、越前殿は自害された氏政の妹である武田勝頼夫人を丁重に弔っております。御遺髪と辞世の句を書きとめた文を小田原に届けました」

「ほう…」

「氏政は大変それを感謝したそうにございます。その後に越前殿は羽柴に属したため交戦状態となったものの、その縁は残っていましょう」

「なるほど、よし越前を大坂から呼べ」

「はっ!」

 

 数日後、明家はわずかな手勢を連れて堺から船に乗り、小田原に向かった。

「よう参った越前」

「は!」

「北条親子が粘りよってな。往生しているところじゃ」

「はい」

「そなたは氏政と一時期縁があったと聞く」

「御意」

「よし、その伝手から何とか北条を降伏させてくれ」

「分かりました。さきに文を届けて様子を見てみます」

「うむ、頼んだぞ!」

 明家は北条氏政あてに書状と共に美酒十斗を届けた。だが明家の陣屋に返ってきたのは弾薬だった。添えられていた書状には『城攻めで使われる事を願う』とあった。明家の部下たちは激怒した。

「殿!これは明らかに挑発ですぞ!」

 弾薬の詰められた箱を眺めつつ明家は答えた。

「いや違う、戦う気があるのなら弾薬などは送って来ない」

「しかし…」

「もはや北条家は意地で戦っているだけだ。その意地を解決すれば北条親子は降伏する。矩久」

「はっ」

「俺の正装を用意せよ」

 明家は正装して城門に向かった。供に松山矩久と小野田幸猛がいた。その小田原城の城門までの道でのこと。前から歩いてきた二人の男がいた。

(隻眼…。あれが奥州の伊達政宗か…?)

(ほう、何ともまあ整った顔立ちだ、あれが柴田越前守か…?)

 お互い立ち止まった。

「手前、丹後若狭の柴田越前守明家と申す。よければご尊名を」

 礼儀を守り、頭を垂れて訊ねた明家、政宗も礼をもって返す。

「これは丁寧に恐縮にございます。会津の伊達藤次郎政宗と申す」

「一度、お会いしたかった」

「こちらこそ」

 しばらく見つめ合う柴田明家と伊達政宗。

「越前殿は軍使にございますか」

「いかにも」

「大変なお役目と存じますが、首尾よく行く事を願っております」

「かたじけない。ではここはこれで」

「はい」

 城門に向かう明家一行の背を見る政宗。

「殿、越前殿をどう見ますか?」

 と、片倉小十郎。

「とても上杉謙信を寡兵で退け、賤ヶ岳で秀吉を震撼させたとは思えぬ男だ。まるで女子のような面体。苦労知らずの御曹司のようにも見える」

「確かに…」

「だが、そこにこそ、あの男の恐ろしさがある」

 片倉小十郎は静かに頷いた。見抜いた政宗もさすがであろう。

「殿、あれが奥州一の暴れん坊の伊達殿ですか」

 と、松山矩久。

「そのようだな」

「どう見ました?」

「あの覇気は信長公を思わせる。味方として出会えたのは幸いだ。あははは!」

 名将、名将を知る。ほんのわずかな対面でありながら双方相手を見抜いた。

「ここまででいい。あとは俺一人で行く」

 と、二人を帰そうとした。

「なりません!敵城の中にお一人で行かせるわけにはまいりませぬ」

「北条氏政殿は知っている」

「お会いした事が?」

「ないが文のやりとりを数度した事がある。一度会いたいと思っていた」

「しかし今の殿の立場は関白殿下の使者に…」

「坂東武者は使者を斬るような卑怯な振る舞いはしない。あとこれも預ける」

 刀二本を矩久に渡した。

「殿…!」

「では行ってくる」

 こうして明家は単身で小田原城に入った。丸腰だった。その姿勢を聞いた北条氏政は『丁重にお通しせよ』と厳命した。そして当主氏直に会う前に個人的に会いたいと申し出てきた。それを了承して案内された部屋に行くと氏政をはじめ、他の北条家臣も下座で明家を待っていた。

「氏政殿、これは?」

「どうぞ上座に」

「使者のそれがしがかような席に座れませぬ」

「良いのでございます。この北条氏政、一人の武士として会うのでござります」

「…承知した」

 改めて氏政は明家へ平伏した。

「一度、じかにお会いしたかった。妹、相模を丁重に弔って下された事、お礼申し上げる」

「いえ…」

 北条氏政の妹の相模は武田勝頼の正室である。天目山で自決した勝頼夫婦と最期の酒を酌み交わし、夫の勝頼の横に丁重に埋葬した明家に対して北条一門は深く感謝していた。

「さぞや冷たい兄と思われたでしょうな。しかしあのおりは…やむをえなかった」

「分かっております。相模殿はその気になれば小田原に帰る事ができた。そうしなかったのは夫の勝頼殿を深く愛していればこそ。相模殿はまさに夫人の鏡にございます。またそれがしも妹を持つ身。氏政殿が身を引き裂かれる思いであったこと、察しまする」

「そのお言葉ありがたく」

「その相模殿から氏政殿に言伝がございます。“もし兄に会う事があったら伝えて欲しい”と天目山にてそれがしに」

「なんと…申されましたか」

「“相模は幸せでございました”と」

「そうでござるか…!」

 北条家臣団もその言葉に感涙した。

「戦国のならいか…こうして一つの縁ある氏政殿とも敵同士となってしまったそれがしにございます。ぜひ、当主氏直殿とお会いしたい」

「承知いたしました」

 そして氏政立会いのもと、明家と北条氏直は会った。

「北条氏直である」

「柴田越前守明家にござる」

「叔母上の事、それがしからも礼を申す。してご用の赴きは?」

「降伏をすすめに参りました」

「…だめだ、戦わずして降るは武門の恥じゃ!」

「越前殿、それがしも倅と同意見にございます」

 しかし城内にはもう疲れ切った兵が所かまわず座り込んでいる状態。戦える雰囲気とは云いがたい。すでに家臣数名も秀吉に寝返っている有様。重臣筆頭の松田憲秀も寝返っていたのだ。小田原城を囲む秀吉の陣は『極楽陣中』とも呼ばれ、毎日遊んでいるような陣中。兵の中には『こんな戦バカらしくてやっていられるか』と云う気分が蔓延していた。それを分かっている北条親子はもはや意地で戦っているようなものである。明家はそれを理解した上で言った。

「それがしは丸岡の城で羽柴勢の大軍に包囲されましたゆえ、氏政殿や氏直殿の悔しさは痛いほどに分かります。しかしながら二十二万の軍勢を相手にここまで戦ったのでございます。豊臣にも北条勢の武門の意地理解するもの多く、感嘆しております。北条の面目はもはや十分に立ちました。早雲公、氏綱公、氏康公ももはや叱りますまい。この上は将兵一人でも命を助けるべく、英断を下されよ。降伏し豊臣と共存する事が北条家百年の大計にござらんか」

「…越前殿、取り成しを願えるのか!」

「相模殿と酒を酌み交わしたそれがし、お任せくだされ」

「父上…」

「氏直…もはやこれまでじゃ…」

 

 ついに北条親子は降伏を決断。氏政は切腹、氏直は高野山に追放とされたが、兵たちはほとんど許されたのである。民への略奪暴行もかたく禁じさせた。

 秀吉はこの明家の働きに感状を贈ったが、実際の褒美はない。実際与えようとした秀吉だが、最後に来て一度も戦働きもせず、舌三寸で城を取った自分に高禄の恩賞あれば他の将への妬みを買うと思い固辞したのである。

 だが、一つ嬉しい事があった。秀吉から褒美はなくても、敵の北条氏直から明家へ感謝の印として名刀『三日月宗近』が贈られたのである。陣屋でその刀身に見入る明家。

「何よりの贈り物だ。柴田家の家宝としよう」

「殿、お客にございます」

「誰か矩久」

 刀を鞘に収めて訊ねた明家。

「驚きますぞ」

「え?」

「それがしにござる越前殿」

「ご、権兵衛殿!?」

「お久しぶりにござる」

 何と仙石秀久であった。陣屋に通され、秀久は言った。

「知っての通り、それがしは戸次川の戦いの失態で高野山に追放されました。だからこの小田原攻めで復帰を果たそうと思ったのでござる」

「ずいぶんとまあ派手な軍装で…」

 この復帰に手を貸したのが徳川家康である。仙石秀久は三方ヶ原の戦いに佐久間信盛の軍勢の一員として参戦しており、浜松城で行われた軍議の中で家康が武田に着いたと織田の将である佐久間信盛と平手汎秀が邪推した。この時に仙石秀久が『徳川殿はそんな男ではない』と一切疑わなかった。これが気に入られたのである。

 それから二十年経っているが家康は三方ヶ原の戦いでも懸命に戦い抜いた秀久を忘れておらず、戸次川の戦いの汚名があっても陣を貸し、かつ復帰に際して尽力した。この時の秀久の軍装は糟尾の兜と白練りに日の丸を付けた陣羽織、紺地に無の字を白く出した馬印を立て、わずかな手勢を率いて軍の先に進んだといわれている。加えて鈴を陣羽織所々に縫いつけるという目立つ格好をして合戦に望んだのだ。軍装だけではなく武功も立て、秀吉に帰参を許され、信濃小諸五万石を与えられた。

「そうだったのですか…」

「信親殿は亡くなられたそうでございますな…」

「…申し上げにくいですが戸次川の負傷が元で」

 最愛の息子を失った元親の落胆は筆舌しがたいものであり、元親はすでに他家の当主となっていた次男三男を捨て置き、四男の盛親を当主とし、信親の娘を盛親に嫁がせた。叔父と姪であるがこの当時では珍しい事ではなかった。しかしすんなりと決まったわけではない。反対する者は重臣であろうと成敗したという。元親にかつての覇気は消えうせてしまった。

「こたび、それがしの帰参かないし事…。信親殿はあの世で悔しい思いをしているでしょう。しかしもうお詫びのしようがござらん。子々孫々に至るまで信親殿の御霊をお慰めする以外には…」

「……」

「豊臣軍に戻った今、長宗我部や十河の者とも会いましょう。しかし何とか平身低頭に謝罪し、和解したいと存ずる。これからを見てほしいと。そしてあのおりの戦死者の家族に出来るだけの事をしたいと申し出てみるつもりにございます」

「困難でしょうが、至誠を示すしか術がございませんね」

「いかにも、それに誠心誠意励む所存。ところで越前殿に折り入ってご相談がございましてな」

「何でございましょう」

「コホン、我が娘の姫蝶と竜之介殿を夫婦にしたく存ずる」

「竜之介と姫蝶殿を?」

「はい、娘はご子息に惚れ抜いてござる。それがしは娘に甘いゆえ、どうしてもその想いを遂げさせたく思いましてな」

「それがしは構いませぬが、関白殿下がどう申されるか」

「すでに了承は取り付けてございます」

「ははは、抜け目が無いですね」

「それでは良いのですな?」

「ええ、姫蝶殿に惚れ抜いているのは息子も同じ。しかし好き合って結ばれるなど何と息子は幸せな。まるでそれがしとさえのようにござる」

「ははは、確かに!」

 後日談となるが秀久は長宗我部と十河に平身低頭詫びつくし、やがて秀吉の取り成しもあり和解が成立。そして姫蝶姫は数年後に柴田明家嫡男である竜之介に嫁ぐ事となる。

 

 関東の北条は滅んだ。世に『小田原評定』と云う言葉を歴史に残して。これで北日本の勢力図は大きく塗り替えられた。しかしまだ奥羽の平定には至らず。秀吉は意気揚々と奥羽へと向かった。明家は大坂に引き返し、再び大坂築城の指揮に就いた。しかし明家は遠からず奥羽へと出陣する事となるのである。


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