天地燃ゆ   作:越路遼介

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兄と妹

 前田利家の葬儀が行われた。加賀百万石の大名に相応しい盛大なものだった。その葬儀も終えて明家が屋敷へ帰る道中、供をしていた山中鹿介が言った。

「いつまでも大納言殿(利家)の死を悲しんでもおられますまい。内府はここぞとばかり動きますぞ」

「そうだな…。佐吉め、内府の挑発に乗らねば良いが…」

「いよいよとなったなら、殿はどちらにつきますか」

「鹿介は避けられない戦いと思うか」

「御意」

「俺もそう思う。だが柴田家は、俺は両家と関わりすぎている…。秀頼様の母は妹の茶々、秀忠殿の妻もまた妹の江与…」

「確かに…」

「もう少し考えさせてくれ。いよいよとなったら決断する」

「はっ」

 

 ほどなく石田三成に激震が襲う。加藤清正らが石田三成を殺害せんと石田屋敷に向かったのだ。世に云う『七将襲撃』である。加藤清正、福島正則、黒田長政、細川忠興、浅野幸長、加藤嘉明、池田輝政ら七将が石田三成を討つべく挙兵したのである。大坂市中は騒然となった。大坂屋敷でそれを知った明家は愕然として、加藤清正と福島正則の元へ大急ぎで駆けた。

「主計頭(清正)!」

「越前殿か」

「どういうつもりか!太閤殿下と大納言殿が身罷った途端にこれでは豊臣家臣団は後世の笑いものぞ!」

「……」

「左衛門(正則)貴公まで何事であるか!いたずらに兵を動かし大坂の民を不安に陥れるとは!」

「……」

「その方ら!これは大名のなすことにあらず!夜盗の所業だ!」

「越前殿は治部の元主君ゆえ、そう申されるのでございましょう」

「つまらぬ言いがかりをつけるな長政!とにかく矛を収めよ!」

「お断りいたす」

「左衛門!」

「今まで我らが彼奴を生かしておいたのは、大納言殿がおりましたゆえ。治部は柴田にいた時期がござるゆえ、大納言殿が何かと擁護しておりましたゆえな」

「それともその制止は豊臣家大老として我らへの命令でござるか?」

「ふざけるな嘉明!俺が一度でも大老風を吹かせたことあるか!」

「ござらぬが越前殿は豊臣家大老、何より我らとも懇意、だから元越前殿の側近であったのを鑑み、大納言殿が没した後に治部が我が身を振り返り石田の家督を嫡男重家に譲り隠居いたせば腹立たしいが手出しはすまいと決めており申した」

「何だと?」

「しかし治部はそうせなんだ。治部は我ら朝鮮にて戦っていた者たちの苦労を分かろうともせず、大坂城で秀頼様に取り入り尊大に振舞うばかり。我らも堪忍袋の緒が切れましたわ」

「どうあっても決起はやめぬのか」

「やめぬ」

 清正が答えた。

「だが安心されよ、越前殿の元家臣と云うことも入れ苦しむような殺し方はせぬ。腹を切ると云うのならばそれも許すつもりでござる」

「左様、邪魔をされるなら力づくでされよ。しかしそれこそ後世に笑われる豊臣家臣団の分裂ではございませんかな?」

「左衛門…」

「ならばこれにて」

「待て!」

 七将の前に立ちふさがる明家。

「分からんのか、武断と吏僚の反りが合わないのは当たり前だ!その方らとて君主として国を持つ身!槍働きの者たちだけで政治が成り立たないことくらい分かっていようが!国の経営には必ず実務や計数に長けた者を登用しているはず!自分たちの家に置き換えれば治部がどんな覚悟で豊臣の政治をしてきたか分かるであろう!嫌われぬよう好かれるよう立ち振る舞うのが簡単であるのに、なぜ治部はそうせなんだか考えたのか!誰もが嫌われるのを恐れていては政治にならない!だからあいつは嫌われることも、本来は太閤殿下に向けられたはずの憎悪も我が身に受けたのだ!なぜ若年のころから太閤殿下に仕えた者同士と云うのに分かってやれぬのだ!」

「では治部はこういう運命が待っていることも覚悟していよう」

「忠興…」

 そんな正論で片付くほど確執は浅くない。忠興は暗に明家へ言っている。

「越前殿、貴公は唐土の故事を出して物事を例えるのが上手であるが、それがしも真似て言おう。太閤殿下と云う後ろ盾を無くした治部が唐土の呉起、商鞅の運命を辿ることくらい貴殿ほどの知恵者がまったく想像つかなかったとでも?嘉明殿が申したように治部が我が身を守るためにすべきことは隠居であった。さすれば我らとてかような仕儀には至らなんだ。だがあいつは豊臣政権奉行にしがみつき秀頼様を擁して実権を握ろうとしている。出処進退の見極めもできぬ男に無用なかばいだては御身のためにもならぬと思うがな」

 唐土の『呉起』『商鞅』とは先代に重用され、次代になると先代期に怨みを持たれた者に殺された者である。呉起と商鞅は卓越した政治家だった。まさに今の石田三成の立場がそれである。忠興に言われるまでもなく明家は『呉起』『商鞅』の例えを出して名護屋城で三成を説得した。しかし結局三成は明家の説得を聞かなかったのだ。

「止め立て無用、退かれぬのなら他の道で行くまで」

 と、池田輝政。何を行っても無駄、明家は悟った。七将は明家の制止を振り切り、石田屋敷に向かった。七将がこれだけ三成を憎むに至るに決定的となったのが朝鮮出兵である。加藤清正も明家や三成と同じく朝鮮出兵は失敗すると早くから痛感していた。そのため和議による早期撤兵は賛成であったが、明と秀吉の出す講和条件には、大きな差異があった。

 このため、清正は和議の差異を縮めるためにはなおも日本軍の武威を示す必要があるとして、ある程度の戦争継続を主張していた。三成はそんな清正を疎み、朝鮮出兵において加藤清正の軍律違反と清正が豊臣姓を与えられていないにも関わらず『豊臣清正』と署名して明側と交渉していたと云う事実を秀吉に報告したのである。それで激怒した秀吉は清正を本国に強制送還させ申し開きに来た時も会おうとしなかった。

 加えて清正の軍律違反とは、小西行長が先陣と決まっていたにも関わらず、清正は無視し戦闘を開始し、後方支援を無視して戦線を拡大させたため、加藤清正の部隊のみならず小西の部隊も危機に陥れた。この重大な軍令違反を三成が秀吉に報告したことを知った清正は『あいつは戦場を知らない』と自分の過ちを認めず、一方的に三成を不条理にも責めた。清正自身は三成が罪状をでっち上げたと思っていたらしいが事実ではない。

 しかし三成がこれにより武断派の筆頭とも言うべき加藤清正に激しい憎悪を受けるに至ってしまったのである。三成は真面目すぎたのである。朝鮮出兵のおり、大谷吉継と共に軍監として朝鮮に渡海し、現地の行政や兵糧運送などを担当した。そして加藤清正や福島正則らの功績を自分で見たとおりにしか秀吉に報告しなかった。

 柴田明家はそんな杓子定規な報告があるかと怒鳴りつけたが三成は事実を湾曲して伝えられないと拒絶。少しは過大に報告して武断派の面々に恩賞を与えるように計らえば良かったのであるが、三成はそうしなかった。これが武断派諸将には三成が秀吉に詳しく功績を報告せず、握りつぶしていると云う誤解を生んだ。武断派と吏僚派の分裂は秀吉が生きている時代からあったものの、それを修復不能にしてしまった三成の責任は免れない。

「もうどうにもならん…。豊臣は内部から崩壊する…」

 明家は三成の屋敷の方向を見つめた。

「佐吉、一つだけお前が助かる方法があるが、もうお前に伝える術がない。知恵者の左近殿がついている。何とかその方法を閃いて欲しいものだが…」

 

 このころ石田三成は石田屋敷を出て、宇喜多秀家の屋敷に避難していた。佐竹義宜や島左近も共にいた。

「市中はもう加藤と福島の兵であふれておる。もはやどこにも逃げられぬ…!」

 と、佐竹義宜。

「不意を衝かれて、当家は何の備えもない。囲まれたらひとたまりもないぞ」

 頭を抱える宇喜多秀家。

「一つだけ手がございます」

 と、島左近。三成が訊ねた。

「左近、それは?」

「内府の伏見屋敷へ行くことにござる」

「な、内府の伏見屋敷へ逃げろと?」

 驚く三成。明家が脳裏に浮かんだただ一つ命の助かる術もこれである。

「馬鹿な!内府こそ今回の騒ぎの首魁であろう、行けば殺されるぞ!」

「その通りじゃ。これ幸いと首を斬る。飛んで火にいる何とやらじゃ!」

 反対する宇喜多秀家と佐竹義宜。

「七将は殿を憎悪しています。内府が七将を手なずける方法は『三成憎し』の感情を利用すること。内府は殿に生きてもらわねば困るのです」

「…左近の言うことにも一理ある」

「もはや加藤と福島らは話の通じる相手にあらず。黙って討たれるおつもりか」

 三成は少し考えて決断した。

「…よし、ここにいても彼奴らの餌食になるだけ。死中に活路を求めてみよう。伏見の徳川屋敷に向かう」

「はっ」

 三成は左近と共に徳川の伏見屋敷に到着した。屋敷に入れた家康。そして別室で待機させ本多正信と話し合った。待たされる部屋の中で三成と左近は黙して座っていた。

「さあ、どうする内府…」

 しばらくして三成と左近は家康に呼ばれた。

「やれやれじゃのう治部殿、太閤殿下から後事を託されたと云うのに、かような騒ぎを起こす要因となりはて…。いやはや大した忠臣じゃ」

(くっ)

 島左近は家康に平伏しながら唇を噛んだ。三成が家康に答えた。

「面目次第もございません。こたびの騒動はそれがしの不徳のいたすところ…」

「ふむふむ」

「ただし半分の理由でござるが」

「半分?では残る半分は?」

「豊臣家を滅ぼさんとする巨悪の陰謀によるものかと」

「なに?」

 明らかに家康を指して言っている三成。にらみ合う家康と三成。

「ふん」

 家康は爪を噛み、千切った爪をプッと吹き出した。

「まあ、良かろう。半分は自分の非を認めているのであるからな。ここは儂が主計頭らを説き伏せよう」

「恐悦に存ずる」

(やはり殺せなかったな…。そう内府は俺に生きていてもらわねば困るのだ…。内府の目的は俺の命なのではない。天下なのであるからな)

 すぐに七将が徳川屋敷に到着。だが家康は

「治部に手出しならん」

 と追い返したのだ。そして再び三成と左近に会った。

「加藤と福島はこのままでは収まるまいのう。そうとう殺気だっておる。治部殿も何かそれなりのことをせねばなりますまい」

「どうせよと?」

「隠居されよ。家督は嫡子重家殿に譲られ、貴殿は佐和山で隠居されてはどうか?」

「…承知しました」

 このあと、石田三成は徳川勢に護衛されて佐和山城へと向かった。この時点で三成は失脚したのである。その道中。

「殿、生きて難はしのげましたが代償も大きかったですな…」

 と、島左近。

「ふむ…」

「だが殿はまだ生きております」

「そうだ、生きてさえいれば!」

 

 家康は屋敷の庭で本多正信と話していた。

「治部め、儂が今の自分を殺せぬと見て参ったのじゃろう。結構肝が据わっておる」

「いやいや、あの男にそんな度胸はございますまい。島左近の入れ知恵と存じます」

「左近か、治部には過ぎたるものよ」

「過ぎたるものは左近だけではございませぬ。主計頭ら七将の決起、越前が必死に止めたそうにございますぞ」

「ははは、結果は不首尾とは申せ、あの狐(三成)にも必死に思いやってくれる友がいると云うことか。しかし越前とは敵になりたくないの。越前の才智は無論、家臣も奥村助右衛門、前田慶次、山中鹿介と曲者揃いじゃ」

「殿と越前は武田攻め以来の親交ではございませんか。若殿(秀忠)の奥方は越前の妹でありますぞ」

「だからと言って敵か味方になるかは別問題じゃろ」

 笑う家康。

「大納言と、あわや合戦になる時、彼奴はどちらにもつかなんだ。誘いに来た治部の使いを一喝して追い返したと聞く。無論、当家の使者も同じ目に遭ったがな」

「ははは、正純(正信嫡子)の説得に聞く耳持たなかったと聞いております」

「正純には『俺の国は唐入りの損害を補填するために手一杯なのだ。どこと戦うかは知らないが、とても兵なぞ出せるか。俺には家臣と領国の民の暮らしがすべてだ。帰れ!』と怒鳴ったらしいが…本心と思うか?」

「違いましょうな。人員の損失はありましょうが財政的には唐入りにおける損失は越前にとってさほどの痛手ではなかったと存知まする。何せ商売上手の家ゆえ。それに我らも前田も唐入りには出ておりませぬ。『唐入りでの損害を補填するために手一杯』『領国の民の暮らしがすべて』と返されれば飲まざるを得ませぬ」

「確かにのう」

「なんの殿、越前は信長公の時代はネコ、太閤時代はもったいない越前と呼ばれた者。殿は武田信玄や上杉謙信の衆も存じている武将。柴田明家ごとき者は掃いて捨てるほどおりましょう」

「小気味の良い話ではあるが、越前はその謙信を寡兵で退けた男。油断はするな」

「はっ」

 逆に明家を軽視するようなことを述べて、改めて主君家康が“油断ならざる越前”と自戒するように運ぶ正信。老獪な副将である。

「しかし殿、治部がこのまま大人しくしているとは思えませぬ。治部が挙兵に及べば、やはり越前は治部につくでございましょうか。柴田で水魚のごときの主従であったと聞いておりまする」

「そうとも限らん。越前の家族や家臣に対する思いは強い。味方につく勢力を情では選ばぬだろう」

「しかし殿、秀頼様の生母の淀殿は越前の実妹。越前が治部につけば秀頼様の出陣もありえます。これは厄介ですぞ」

「つまり弥八郎(正信)は越前がどちらにつくかで勝負が決まると?」

「御意、秀頼様が出てきては徳川も大義名分が立ちませぬ」

「ふむ…。そうはさせてはならんな。やはり何としてでも越前を味方につけねば」

「御意」

 

 そして正月となった。家康は秀頼に年賀の挨拶のために大坂城を訪れた。しかしそれは名目。大坂城の乗っ取りが目的である。この当時、家康の暗殺が噂されていた。自らそれを流布させた。その噂を利用して家康は軍勢を連れて大坂城に入城したのだ。すでに上杉景勝、毛利輝元は帰国しており、三成は失脚して佐和山にいる。立ち向かえる者はいない。三成が期待したのは明家であるが、それは叶わなかった。その明家が城門で家康を出迎えたのである。家康にも意外であった。

「これは内府殿、本年もよろしゅうお頼み申す」

「おう越前殿、しばらくでござる。儂こそ本年もよろしく」

 そして家康と歩を揃えて城へ歩き出した。

「内府殿、今年こそは碁と将棋、貴殿より勝ちを得るつもりにござる」

「ははは、いつでもお相手いたそう」

 後を歩く本多忠勝も言った。

「僭越ながら、それがしもお相手いたしますぞ」

 明家はヘボ将棋、ヘボ碁で有名だった。それなのに将棋と碁が大好き。下手の横好きの典型である。家康や本多正信、本多忠勝には連敗記録を更新中だ。

「それはありがたい、もう柴田家では相手になる者がおらんので」

「嘘はいかんな、嘘は!」

 家康が言うと一行は笑いに包まれた。

「ところで越前殿、暮れは大坂で過ごされたのですかな」

 訊ねる家康。

「ええ、茶々と過ごしました」

「ほう」

「丸岡落城以来、茶々と暮れを過ごせることはできませんでしたから。恐れながら太閤殿下身罷り、やっとその機会が参った次第で」

「なるほど、兄上を慕う淀の方様、嬉しかったであろうのォ」

「茶々は実家である当家に戻し、秀頼様は豊臣の直臣衆にお任せするつもりです。秀頼様はもう七歳、そろそろ母親から離れませんと」

「ふむ確かに」

「正月が開けたら茶々を舞鶴に迎え、再婚でも世話しようかと」

「おお、それは良いですな。花婿候補が中々決まらなかったら遠慮なく申されよ。協力いたそう」

「かたじけのうございます」

 淀の方が秀頼から離れれば、自分がより秀頼を傀儡としやすい。渡りに船である。あわよくば明家の一の妹茶々を徳川の者と結ばせられれば柴田明家を来るべき豊臣の戦で味方に入れられる可能性は高い。本当はもっと大乗り気で『では徳川の嫁に下され』と言いたかったほどだが、ここは堪えた家康だった。しかし、ことは明家の思うようには運ばなかったのだ。

 

 一方、石田三成居城の佐和山城。三成の重臣の島左近が三成に報告した。

「越前殿が内府を出迎えただと!?」

 肩を落とす三成。しかも家康や徳川家臣団と談笑しながらであったと。元々家康と明家は武田攻め以来からの縁で親しかった。

 明家の三の妹である江与、佐治一成との離縁、羽柴秀勝との死別を経て秀吉の元に帰って来た時、江与の美貌を見た秀吉は彼女も側室にしようとした。長女ばかりか三女まで側室になっては兄として母お市に申し訳が立たないと思った明家は家康に何とか徳川の若者に嫁げるようにしていただけまいかと要望した。家康はそれを快く引き受け、世継ぎの秀忠の妻に迎えたいと述べた。徳川世継ぎに明家の妹が嫁ぐ。最初は渋った秀吉であったが家康の頼みでは無下にも出来ず了承したのだ。そういう縁もあり家康と明家は親しかった。

 しかしそんな経緯があっても柴田勝家に仕えている時は水魚の君臣であった自分に味方してくれると思っていた。

「越前殿だけは…俺の味方についてくれると思っていたのに…」

「殿…」

「今にして思うと本性寺にて越前殿に謀反の罪をなすりつけようとしたのは誤りであったかもしれん。越前殿は何とも思っていないだろうが家臣たちが俺を許してはいまい…。石田治部は旧主越前を悪辣な謀略で殺すつもりであったと…。今さらどうにもならんが」

「恐れながら尚武の気風の柴田家でかようなことを根に持つ者はおりますまい。あの本性寺は殿と越前殿の堂々たる知恵比べ。まさに殿はあの時に智将越前の良き敵でありました。越前殿も柴田重臣たちも殿を認めこそすれ、悪辣な謀将と見て味方につかぬと云うことはありえませぬ」

「左近…」

「そう落胆されるな、まだはっきりとしたわけではござらんぞ」

「左近…。真意を確かめてきてくれぬか」

「承知しました」

 

 大坂城内で正月の年賀を諸大名が家康に述べた。その後、明家は茶々と話した。

「兄上、諸大名は秀頼殿と同じ儀礼で内府に年賀を述べたそうにございますね」

「ふむ」

「兄上さえもそうなさったそうですが、それでは大坂城の主は誰なのか分からなくなります」

 自嘲気味に茶々は笑った。

「大坂城の主は秀頼様だ。我々は大老筆頭の内府殿に礼儀を示したにすぎない」

「ならばなぜ、秀頼殿と同じ儀礼でなさるのですか?」

「つまり先年まで太閤殿下にやっていた儀礼だ。他の年賀の複雑なしきたりなど内府殿も我らも知らない。作法を知っている儀礼でやったまで。妙な勘ぐりはやめよ」

「……」

「さて茶々」

「はい」

「太閤殿下が召され、正月を明けるまでは黙っていたが…」

「…?」

「当家に戻って来てくれ。秀頼様は太閤殿下の世継ぎ。そなたの息子であり、そなただけの息子ではない。豊臣の重臣たちに養育を委ね、後事は任せよ。そなたは当家に戻り再婚いたせ。それが嫌なら亡き太閤殿下の菩提を弔うもよし」

「……」

「殿下に降伏してより犠牲を強いて本当にすまなかったと思う。当家に戻ってきて豊臣と徳川いずれも気にせず、平穏に生きよ。そうさせてほしい茶々」

「…お断りします」

「……」

「誤解なさらないで下さい。私は兄上を微塵も怨んではいません。若狭はいらないから妹を返して欲しいと地に顔をつけて殿下に懇願していた兄上の姿、我ら三姉妹どれだけ嬉しかったか…。柴田家のため羽柴の人質になることを決めたのは私たちです。犠牲を強いられたなど考えたこともございません」

「ではなぜ、殿下の呪縛が解けたと云うのに実家である当家に戻ろうとしないのか」

「兄上、私は浅井、柴田ではなく豊臣の茶々にございます」

 しばらく見つめ合う茶々と明家。

「…なかば、そんなことを言うのではないかと薄々は感じていた」

「兄上」

「丸岡落城から十数年…。俺も成長したであろうが、そなたも戦国の風雪にもまれ成長している。いつまでもかわいい妹のわけがないな」

「そういう意味ではありません兄上」

「ん?」

「私が太閤殿下の側室になる決心をしたのは必ずや殿下の子を生み世継ぎとし、殿下亡き後、兄上に太閤の天下を乗っ取らせるためです」

「なに?」

「兄上、天下をお取りなさいませ」

 驚いた明家、茶々の目は本気である。明家は茶々が秀吉の側室になった覚悟の根源を悟った。茶々は兄の自分に豊臣秀吉の天下を乗っ取らせようとしていたのだと。しばらく見つめ合う明家と茶々。

「今こそ、我らが母お市の無念を晴らす時にございます」

「茶々…」

「殿下は秀頼と徳川の千姫の婚儀を遺言として残しましたが、そんなもの無視してかまいません。兄上の三女(咲姫、さえの次女)が秀頼と年齢の釣り合いがとれます。これを娶わせましょう。私たち兄妹で太閤秀吉の天下を牛耳るのです」

「…今のは聞かなかったことにいたす」

「兄上?」

 ふう、と明家は息をつき、静かに語った。

「…茶々、天下と云うものはな、奪おうとして奪えるものではない。お前が言っていることは反乱に過ぎない」

「反乱?」

「確かに秀頼様を傀儡として、お前の助けがあれば天下は取れるかもしれない。しかし所詮は明智光秀殿同様に三日天下だ」

「なぜそう言い切れるのですか。兄上は軍事も内政も当代並ぶ者なしの武将にございます!」

「光秀殿は俺など足元にも及ばない天才的な武将だった。能力だけではなく心よりも十分備えた方で、家臣の裏切りを一度も経験したことがないと云う稀有な方であった。だが結果は天下の謀反人と云う悪名しか残らなかった」

「……」

「茶々、無理をして天下を取っても必ず滅ぼされることは歴史が証明しているのだ。我ら兄妹の決起、地の利は別として天の時と人の和にまるで叶っていない。必ず失敗する。反乱で大事を成したものはいない。俺は三日の天下などいらない。いるのは茶々、お前の幸せなんだ。お前にそんな覚悟をさせてまで殿下の質に至らせたのであれば尚更だ。今からでも遅くはない。お前は兄自慢の美人の妹だ。いくらでも新しき縁はある。柴田家に戻ってこい。兄を安心させよ」

「………」

 茶々は明家をしばらく見つめ続けた。そして言い出した。

「兄上、私は豊臣秀頼の母です」

「…?」

「たとえ兄上に野心なくとも、汚い男たちに我が息子を利用させてなるものですか。私は秀頼を守るため大坂に留まります」

「……」

「帰って下さい。決心が鈍ります。兄に天下を取らせるのではなく、秀頼に天下を取らせると今決めました」

「茶々!」

「兄上が悪いのですよ」

「なに?」

「私に…この世で一番憎い男、羽柴秀吉に身をくれてやってもいいと思わせた、そうさせた兄上が悪い。私の時はもう戻らないのです。何が今さら柴田家に戻り幸せになれですか!兄上は偽善者にございます…!」

『兄に天下を取らせる』これが茶々を支えてきた信念であった。だが兄の明家にその気はない。彼女の失望いかばかりであろうか。

「偽善者か…。かもしれんな」

「天下への野望を捨てた武将など、もはや武将ではございません。北ノ庄で見た兄上は妹の私でさえ惚れずにおれぬ智勇備えた猛々しき武将でした。それが今では何ですか。ただの腰抜けにございます」

「そうか…」

「越前守」

 呼び方が変わった。豊臣の茶々として言っている。明家も気持ちを切り替えた。

「何でござろう」

「秀頼殿を確固たる天下人とするために内府と遠からず戦うことになるやもしれません。柴田家は亡き太閤殿下に二ヶ国を与えられ厚遇されました。越前守は当然秀頼のために戦ってくださいますね?」

「…それは来るべき豊臣と徳川の戦において豊臣につけと?」

「その通りです」

「…淀の方、それがしは負ける戦はしません。家臣領民のため勝つ方に味方します」

「……」

(…それが結果としてお前と秀頼様を救えることに繋がるからだ。だが今のお前に言っても分かってはくれまい…)

 明家は立ち去った。兄の後ろ姿を見ようともしない茶々。かつて初恋であった兄の姿を。

 

 一つの事件が勃発する。宇喜多騒動である。

 宇喜多秀家、柴田明家より十二歳年下の若者である。戦国の梟雄宇喜多直家の次男で直家の急死によりわずか九歳で家督をついで秀吉の養子となり、その元で成人する。眉目秀麗で智勇兼備な若者で、秀吉の主なる合戦には多大な手柄を立てた。若いながら、秀吉政権の中枢となり二十三歳の若さで岡山城を本拠地とし五十七万石の大名として栄華を誇っていた。秀家の妻は豪姫と云い、前田利家の娘で秀吉の養女である。いかに豊臣政権で重く見られていたか推察できる。

 彼と柴田明家が共通していることがある。愛妻家と云うことだ。秀家は妻の豪姫を盲愛していた。秀家が朝鮮の役から帰ってきて間もなく豪姫が大病を発した。秀家は妻を愛するあまり豪姫の病を祈祷によって治せなかった日蓮宗の僧に激怒し、領内の宗徒に対して改宗を強要したのである。豪姫はキリシタンであったからである。しかしこの改宗の強要がいけなかった。これが日蓮宗徒の多い家臣団の反発を招いてしまう。やがて豪姫は快癒したが、もはや先代直家の時代から固い結束で結ばれていた家臣団との分裂は避けようがなかった。

 家康はこれを見逃さなかった。秀家に豊臣家ではなく徳川家に味方するよう使者を出したが秀家は一蹴。ならばそのチカラを削いでしまおうと重臣たちの調略を謀った。豪姫と共に前田家から来た新参者や、豊臣家から付けられた家臣たちに比べて冷遇の感があった宇喜多詮家、岡家利、戸川道安、花房職之は秀家に謀反。主君と対決と云う事で髷を切り、秀家の大坂屋敷に立て篭もってしまった。大坂城内、家康と諸将がこの宇喜多騒動の対策について話していた。明家もその中にいた。

「儂が調停に立つしかあるまい」

「お待ちを、大老筆頭が真っ先に行けば、それより下位に人なしと喧伝するようなもの」

「では越前殿、誰なら良いと?」

「大谷刑部殿が適任かと」

「刑部が?」

「はい」

「ふむ…。刑部、どうか?」

「越前殿の推薦とあらば断れますまい。お任せを」

「…良かろう、では刑部に任せる」

「はっ!」

 席を立ち去っていく大谷吉継の背を見つめる明家。吉継と明家は知っていた。この宇喜多騒動の黒幕は家康だと云うことを。宇喜多のチカラを削ぐための謀略。自身が調停に立つと云うのも宇喜多の重臣たちを徳川に取り込むための仕上げであった。

 単身、にらみ合う秀家の隊と重臣たちの隊の間に立ち吉継『何たる思慮の無さ、各々方分別されよ!』と一喝。秀家も重臣たちもその裂帛に一言もなく引き下がった。しかし完全に手打ちとはいかなかった。結局重臣たちは秀家を見限り、徳川へと去ったのである。後日、明家と会う吉継。京橋の柴田屋敷で酒を酌み交わす明家と吉継。

「せっかく推薦してくれたのに面目ない。結局重臣たちの離反は食い止められなかったわ」

「なんの、大坂城下で合戦が起こるのを防いだだけでも良しとすべきだ。秀家殿にも良い薬となったであろう。いかに君主とは云え改宗の強要はしてはならん」

「ははは、その通りだな。ところで越前」

「ん?」

「次の天下人はやはり内府かのう」

「…そうなるだろうな」

「豊臣家はどうなるであろう」

「理想的な展開は織田が豊臣の世で家臣に甘んじたように、豊臣も徳川で家臣になれば良いことだが…」

「無血でそれが成ると思うか?」

「戦は避けさせたいとは思うが、豊臣政権が継続するためには内府に勝つ必要があり、徳川政権が誕生するためにも豊臣に勝つ必要がある」

「内府が治部を生かしておいたのはそれが理由だろう。治部に反徳川を結集させて、それを討つ。旧勢力のすべてを一掃する『みそぎ』。徳川新政権誕生のためには不可避だと思う」

「しかし治部が挑発に乗らなければどうにもなるまい。内府がどんな挑発をしてもほっておけと言ったが…」

「あいつは豊臣政権のためなら旧主のお前さえ殺すのをためらわなかった男だ」

「……」

「めったに腹を立てない静かな男だが、佐吉の内面には激しさも宿っている」

 吉継はそれ以上言わなかった。

 

 同じ夜、家康の私室。本多正信と話す家康。

「聞き申した。宇喜多への策、見事図に乗ったそうな」

「ふむ、これで宇喜多は先代からの重臣たちを失い力を失ったわ」

「越前、そして刑部もあの騒動の黒幕は徳川と存じていたでしょうな…」

「そなたもそう思うか。越前はやはり治部につく気であるかのォ。儂が調停に立つのを止めたのは徳川の影響力が増すのを少しでも防ぎたかったであろうからな」

「越前が狙いは治部と我らを戦わせないことにございましょう」

「ほう…」

「越前ほどの者が豊臣と徳川の合戦が回避可能とは考えてはおりますまい。しかしながら、それを先に延ばすことは…あの男なら可能かもしれませぬ。つまり殿の死後にござる」

「ふははは、それはまずい。秀康や秀忠では越前の敵にもならん。はっははは!」

「野心はございますまい。ただ犠牲を強いた妹と、前田利家より託された秀頼様を守りたいがため」

「甘い、とは言うまい。彼奴は義のためなら太閤にも牙を剥きよったからな」

「おそらく越前は治部に『内府がどんな挑発をしてきてもほっておけ』とでも申していましょう」

「そうはさせん。何も儂は自分の野心だけで天下を取りたいのではない。亡き太閤殿下は朝鮮出兵も含め、国の内外に問題を山積させたままで死んだ。この難局を乗り切れるのには治部は無論、他の大名では不足。いまだ残る下剋上のようなチカラで覇権を争う世に完全に終止符を打たねばならぬ。そのためには実力がある者が天下を取って中央集権を敷き、圧倒的な政治体制で世を統率せねばならんのだ。儂が若き日より味わってきた醜悪な乱世をこれ以上続けてはいかん。この天下争奪、断じて退けぬ!」


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