天地燃ゆ   作:越路遼介

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西軍挙兵

 会津攻めには徳川の将士として、井伊直政、本多忠勝、酒井家次、大久保忠常、榊原康政、平岩親吉、酒井忠世、松平(大須賀)忠政、奥平信昌、本多康重、石川康通、小笠原秀政、高力忠房、菅沼忠政、内藤信成、松平家乗、松平家清、本多正信、阿部正次、青山忠成、本多康俊、天野康景、戸田一西、および家康近侍の者たち。

 そしてこれら徳川将士と共に豊臣系武将を中心とする外様大名の大軍がこの会津遠征に従軍した。すなわち柴田明家、浅野幸長、福島正則、黒田長政、蜂須賀至鎮、池田輝政、細川忠興、生駒一正、中村一忠、堀尾忠氏、加藤嘉明、田中吉政、筒井定次、藤堂高虎、寺沢広高、山内一豊、小出秀家、富田信高、一柳直盛、金森長近および畿内近国の中小領主などの五万五千人余であった。

 

 一方、会津上杉家。

「いよいよ内府と雌雄を決するときが来たわ!あの傲慢無礼、腹に据えかねておった。上杉の底力見せてくれるわ!」

 いきり立つ上杉景勝。

「頼むぞ山城(兼続)!」

「はッ!謙信公より賜りました軍略すべて駆使し内府の首を取ってごらんにいれましょう!」

(家康の陣には竜之介もいると聞く。おそらくは和議の話を持ちかけてこよう。だが俺は会わないぞ。もはや引き返せぬ)

 

 柴田勢は家康に従い、東海道を東進していた。そして明家の本陣。

「殿」

 本営を留守にしていた前田慶次が陣幕を払い入ってきて軍机の床几に腰掛けた。

「何だ」

「殿、お願いがござるのですが」

「何だよ改まって」

「いや、その前にもう一度お訊ねいたしたい。殿はこの会津攻めに参加したるは徳川と上杉の戦を止めるためと申しました。今も相違ございませんか」

「…そうだ」

「ならば、上杉への使者はそれがしに任せていただきたい。直江山城殿とは殿を経て知遇を得て、今ではそれがしも彼と友にございます。景勝殿にもお会いしたことはございまする。手取川で鉾を交えた者同士、何とか説得してみようかと存ずる。こういう交渉は弁舌巧みでは返って逆効果。至誠でぶつからなければなりませぬ」

「自信たっぷりですが前田殿、その至誠とはどう示すのですかな?」

 と、鹿介。

「考えておらん。その場で考え…殿、どうされた?」

 明家の顔は晴れない。

「父上、前田殿にお任せするのは良き一計とそれがしも考えますが…」

 勝秀が言うと鹿介も添えた。

「確かに流暢な弁舌で説こうとすると気骨ある景勝殿には逆効果。前田殿のような御仁が適任とそれがしも思いまする」

「…たとえ、俺がその任を慶次に与えたとて、それを実行できることはない」

 勝秀、慶次、鹿介は顔を見合わせた。慶次が訊ねた。

「それはどういう意味にございますか?」

「丹後(勝秀)慶次、鹿介、申し渡しておくことがある」

「「はっ」」

「上杉と徳川の合戦はない」

「「は?」」

 明家の言葉の意味が分からず顔を見合う三人。

「会津への進攻はない。我らは上杉勢の敵影すら見ることはない」

「父上、それがしにはおっしゃることがよく分かりませぬが…」

「丹後、治部が挙兵するのだ」

「な…!?」

「順序良く説明する」

 明家は息子勝秀と重臣二名に石田三成が豊臣の旗を立てて徳川家康に挑むと説明した。三人は驚き、

「失脚したとはいえ佐和山で黙って引っ込んでいるはずがないとは思っていましたが…。ついに…」

 と、山中鹿介。後の歴史小説ではかなり前から石田三成は味方を募り、西軍将兵を集めていたと目されるが、事実はそうではない。彼が柴田明家と大谷吉継に『家康を討つ、味方になって欲しい』と申し出たのは家康が江戸城に入った日でもある慶長五年七月二日前後と言われている。水魚の君臣の間であった柴田明家と親友の大谷吉継ですらそうであったのだから、他の大名への誘いかけがそれ以前になされていたとは考えられない。三成は挙兵を完全に秘密とした。なぜ三成は挙兵の意図を隠し通していたのか。

 結論から言えば挙兵の事実とその時期は機密事項で家康に漏れることは阻止しなければならない。三成は側近の島左近と渡辺新之丞くらいにしか挙兵を明けず、秘密裏にコトを運んだ。しかし

「だが秘密裏と根回しは両立しない」

「仰せの通りです」

 と、勝秀。

「反して内府殿は堂々と根回しをしている。俺にもすでに誘いが来ている。今までそなたらに相談できなかったのは上杉との戦いもありえ、つまらぬ雑念を入れたくなかったからだ。だが」

「だが…何です父上」

「江戸を出てからの進軍は遅すぎる。上方の挙兵を待ち、すみやかに西進するのが内府殿の目的であるのはもはや明らか。上杉は当て馬に使われたのだ」

 三成の理想的な挙兵は徳川と上杉が交戦状態に入ってからである。しかし江戸を出てからの家康の進軍は遅かった。家康は上杉と戦うつもりがないことを明家は知った。

「では殿は…」

「結論から言う。俺は治部との友情を取らない。柴田家と丹後若狭の領民のため、徳川家康につく」

「父上、それ以前に重臣一同揃えてどちらにつくか…」

「若殿、お父上は我らに意見を求めているのではございません。決意を述べたのです」

「しかし山中殿…」

「我らはそれに従い、ことの成就に邁進するのみです。殿、よう申して下された。これで我らも腹を括れました」

 山中鹿介は了承を即答した。明家が三成の加勢を選ばなかったことでどれだけ苦悩して家康につくことを決断したか容易であり、そして家と領民の平穏を取った判断は間違っていない。

「では父上、奥村殿に四千の兵を持たせて丹後若狭に帰したのは…」

「領内の守備を委ねた。俺ははっきりと治部に内府殿につくと言ったわけではないが、あいつも俺の性格をよく知っている。もう俺が徳川につくことを察していよう。敵味方となったからには、いかに旧知とは云え丹後若狭を治部がほっておくとは思えない」

「殿」

「何だ慶次」

「助右衛門を守備のため帰らせたことは得心しました。だが『徳川家康につく』と云う気持ち。まことそれでよろしいのか」

「……」

「頭で考えた言葉は聞きたくありませぬ。腹で思うことを申されよ」

 息子勝秀も父の答えを待つ。

「…佐吉に味方して勝たせてやりたい」

「ならば父上、何故そうなさりませぬ。この戦いは父上が鍵となります。父上が治部殿に付けば治部殿が勝ち、内府殿に付けば内府殿が勝ちます!」

 勝秀にとって石田三成は師である。勝秀は少年時代、秀吉の勧めで父母の元を離れて、石田三成の下で修行し、政務の基本を叩き込まれた時期がある。石田三成は厳しい師であった。旧主明家から嫡男を預かる以上、生半可では返せない。息子の重家より厳しく仕込んだのだ。父の明家と師の三成の薫陶あり、勝秀は柴田家次代当主として相応しい器量を身につけるに至る。誰よりも感謝しているのは勝秀の父である明家であろう。父と師が敵同士となる。若い勝秀には耐えられないことだった。

「なぜそう言い切れる丹後」

「それは大坂城の叔母上(茶々)が唯一信じる人が実兄である父上だからです」

「……」

「父上が治部殿に付き、秀頼様の出陣を請えば叔母上は拒絶しないでしょう。秀頼様が出陣すればここにいる福島、黒田、細川、山内とて何も出来ませぬ。結果内府は豊臣家への謀反人として日本中の勢力によって叩き潰されましょう!」

「殿、それがしも若殿と同意見です。本心では佐吉に味方したいのであらばそうなされよ。たとえ勝っても後日必ず後悔しますぞ。我ら尚武の柴田家。負け戦を勝ち戦にしてこそ武功にござろう!」

 と、前田慶次。

「待たれよ二人とも、殿がどれだけ苦悩して内府に付くことを選んだか分かっていて申されているのか!?」

 山中鹿介が勝秀と慶次を止めようとするが勝秀は黙らない。

「父上、徳川が天下を取ったらどうなりますか。商人を嫌う内府殿、当家は交易をすることを禁じられ、かつ京に近い二ヶ国を所有している我らをそのままにしておきましょうか!そのままにしておくとしても天下人の権勢を嵩に無理難題を言ってくるのは明白です!俺はそんな天下人の下で飼い殺しになるのは御免被りまする!」

 明家は軍机を叩いた。

「仮に治部が勝って何となる!戦後を考えよ!」

「戦後…」

「丹後、茶々はもう俺のかわいい妹ではない。俺から離れている一個の女だ。俺が治部に付いて秀頼様の出陣を要請したとて必ず拒絶する。母親とはそういうものだ。何より治部が勝ったとしても、御歳七歳の秀頼様に何ができる?結局は内府打倒の狼煙を最初に上げた佐吉、石田治部少輔が実権を握る。俺はそれでも一向にかまわんが他の諸大名がこれを黙って見過ごすと思うか?太閤殿下と我らが成し遂げた日之本惣無事が水泡となる。奥州の伊達から九州の島津に至るまでまたぞろ日本は麻の如く乱れる!治部ではこれらは御しえない。そして無論俺も押さえきれない。出来るのは内府殿だけだ。内府殿が勝てば日本から戦は無くなる!俺が私怨を捨て父母の仇である太閤殿下に仕えたのはこの世から戦をなくすためだ。治部が勝てば日本は再び戦国乱世に戻る。それは断じて避けなければならない!」

「殿…」

 明家の血を吐くような言葉にさしもの慶次も黙った。

「丹後と慶次がたった今俺に申したことは柴田家のためのみである。この国は早く戦国乱世を終わらせなければならない。九州攻めの時に見たであろう異国の軍艦を。彼らはラシンバンと云う文物で海を迷わず航行できる。海がこの国の堀でいてくれる時代はもう終わる。日本の内戦が長引けば必ずつけ込まれる。佐渡、対馬、壱岐も奪われ、はては蝦夷地までもチカラづくで奪い取られていく。そうなったら後の祭りだ。一刻も早く統一政権を作らなければならない。日本は一つにならなければならない。俺が付くことで勝敗が左右されるのであればその選択を私の事情で誤るわけには行かない!」

 勝秀、慶次、鹿介は一言も無かった。そして鹿介。

「そこまでお考えでございましたか…」

 明家は黙って頷いた。

「先が見通せると云うのも不便ですな。殿は佐吉と山城殿、二人の心友と敵味方となる。人は感情で動き、それが歴史を左右する。しかし殿は『戦のない世の構築』のためならばどこまでも自分の感情を殺してしまわれる。手前には真似ができませぬ」

「戦のない世、それが俺の悲願だ。子供のころ養父に農耕を教わったとき、俺は民と一緒に田畑に励んだ。春は雑草、夏は虫、秋は鳥に悩まされ、冬にようやく稲刈りのとき、敵勢に稲穂を丸焼けにされた。あの時の悔しさと悲しさを俺は忘れたことがない。いつかこんな世を終わらせてやる。そう子供心に誓った。そして今、それに届きそうにある。本音を言えば佐吉を勝たせて男にしてやりたい。だが、できないのだ…!」

 しばらく沈黙が続き、そして慶次が発した。

「治部が仕掛け、内府が受けし戦は天下分け目と相成りましょう。西国の剛の者と戦うのも悪くはござらん。それがし最後の傾きどころとも言えましょう」

「最後?隠居でもなさるのか前田殿」

「違うわ鹿介殿、もう戦がなくなると云うことよ。それに殿」

「なんだ?」

「治部とて勝算なき戦を仕掛けますまい。あの手この手で味方を増やして内府に挑みましょう。宇喜多、島津、長宗我部、毛利が石田方につけば極めて厄介。ゆめゆめ油断なきよう。その油断こそが十万の兵に値する大敵にございます」

「分かった。ありがとう慶次」

 慶次は家康に付くことを同意した。

「父上、大坂にいる母上や重臣たちの妻子たちを大急ぎで舞鶴に返した方が良いのでは?前田殿の申すとおり、治部殿はあの手この手で味方を増やそうとするはず。それがしが治部殿なら大坂にいる大名の妻子を人質に取りますが…」

「心配いらぬ。すでに通達済みだ」

「さすが父上、安堵いたしました」

「丹後、そなたも内府殿に付くことを是としたのだな」

「…正直に申せば迷いがございます。治部殿は我が師、師といえば父と同じ。その父と戦って良いものかと。しかし父上のお考えも勝秀分かりまする。たとえ父上とそれがしの意見が割れたとて、息子であり家臣であるそれがしは父上に従うことが忠孝と思います。それがしは父上に従います」

「そうか。父もかつて泣いて槍術の師である諏訪勝右衛門様を討った。砂を噛むような思いであった。そなたのつらさは分かる」

「父上…」

「しかし慶次の申すとおり、油断すれば討たれるのは我らだ。師の治部に笑われぬ戦いを示せ。良いな」

「はい!」

「また助右衛門には…」

 

 明家は近江の陣中で奥村助右衛門と二人だけで密談した様子を聞かせた。

「治部が挙兵ですと!」

「そうだ。上杉との戦いに向かった内府殿の後背を衝く形で挙兵となる。治部は挑発と承知しているが、あえてそれに乗るであろう」

「なんと…」

「甘かった…」

「は?」

「助右衛門、俺は内府殿の寿命を待つつもりだった。内府殿の死後ならば戦になっても勝てるし、あるいは秀頼様と秀忠殿を何とか融和させることもできるかもしれない…。そう考えていた」

「……」

「だが、人の情と云うものを甘く見ていた。治部は豊臣政権のため、内府殿は己が天下取りのため。俺が楽観と云うか、冷めた目で情勢を見ていられたのも治部や内府殿のような『やらねばならぬ』というものが欠けていたからだ」

「『やらねばならぬ』…」

「俺とて、その『やらねばならぬ』と云う感情で太閤殿下にも叛旗を翻したというのにな。我ながらうかつと思う」

「殿…」

「助右衛門、そなたに訊ねる。俺は治部に付くべきか内府殿に付くべきか」

 助右衛門は一瞬言葉に詰まった。明家が本心では三成に付きたいことを見抜いた。

「先の利家様と内府の一触即発の時、殿は中立を取りました。今度はそうせぬのですな?」

「しない。あのころはまだ合戦は避けられると思ったから中立を取った。今度はそうはいかない。大合戦になるであろう。そんな合戦にフラフラとしたどっちつかずでは柴田の面目が立たない。これから起こる戦は次の政権を占う大事な合戦。旗はハッキリさせなくてはなるまい」

 少しの沈黙のあと、助右衛門は言った。

「されば申し上げます。内府に付かれよ」

「その心は?」

「戦はどうなるか分かりませぬ。しかし治部が勝ったらこの国は治まりませぬ」

「ふむ…」

「しかし内府が勝てば天下は治まり申す。殿の大望である『戦のない世』が到来します。何とか内府を勝たせなくてはなりますまい」

「戦のない世のために…か」

「勝家様にお仕えしている時、水魚のごとき君臣であった殿と治部。その治部と敵味方になることはつらいとお察しします。ですが殿には柴田家家臣の命と丹後若狭の領民たちの平和な暮らしが双肩に乗っております。私情に流されてはなりませぬぞ」

「分かった、よう言ってくれた。これで決心がついた」

「恐悦に存じます」

「助右衛門」「殿」

 二人は同時に互いを呼んだ。

「「え?」」

「何でござるか殿」

「いや助右衛門から申せ」

「ならば遠慮なく。殿、それがしを丹後若狭にお戻し下さいませ」

「……」

「どうされた?」

「いや、俺が言おうとした事と同じだったので…」

「ははは、そうでしたか」

「柴田が内府についたと知れば、挙兵した治部らは我らの丹後若狭に進軍してくるであろう。我らの国を守ってくれるか。今いる一万二千のうち四千を預ける」

「御意、小浜には倅たちを遣わし、それがしが舞鶴に入り攻城に備えましょう」

「援軍はない。そんな篭城戦を任せられるのはそなたしかおらん」

「殿のお名前を使わせてもらってようございますか?」

「俺の名前?」

「大坂に噂を流しまする『柴田越前、まだ家康につくか三成につくか胸中揺れている』と。味方は少しでも欲しいはずにございます。殿の心変わりを期待して丹後若狭に攻め入ることをためらうかもしれませぬ。攻め入ったら完全に敵味方、治部とて藤林の流言工作の巧みは知っているので通じぬかもしれませんが、やれることはしておきたいと存じます」

「いいだろう、ぜひやってくれ」

「御意、ならばさっそく国許に引き揚げまする。また大坂にいる殿の家族や重臣たちの家族も舞鶴へお戻しになられた方が良いと存じます」

「分かった。すぐに大坂の柴田屋敷に通達する」

 こうして奥村助右衛門は柴田軍四千を連れて丹後若狭に引き揚げたのである。以上のことを息子と慶次、鹿介に述べた明家。

「…と、助右衛門に申し渡してある。国許のこと、そして我らの家族のことは奥村助右衛門に任せた。我らはこれから始まる合戦に集中せよ」

「「ははっ!!」」

 

 ここは石田三成の居城の佐和山城、ここで石田三成、増田長盛、大谷吉継、安国寺恵瓊が謀議を開いていた。増田長盛は五奉行の一人。この時期、五奉行は三人になっており、残る前田玄以と長束正家を取り込み、諸大名を糾合するためには欠かせない人物である。

 増田長盛は三成の挙兵計画に同意。七月十二日には西軍最初の首脳会議とも云うべき会合が佐和山城でもたれた。安国寺恵瓊は毛利の使僧として活躍し、秀吉にも重用されて伊予(愛媛)の地に六万石を与えられていた、反家康派の敏腕の外交僧である。三成の戦略構想に基づき、毛利一族を味方に引き入れるには最適の人物である。

「内府の軍勢もそろそろ会津へ攻め入ろう」

 と、大谷吉継。

「内府の腹は分かっておる。わざと京と大坂を留守にして我らの挙兵を誘っているのだ」

 三成はそれに頷き答えた。

「魂胆はそうであろうが…やはりこの誘いに乗るしかござらぬな」

「無論だ治部、この機会は逃すわけにはいくまい」

 大谷吉継は同意。安国寺恵瓊が続けた。

「我らは内府に敵意を抱く西国大名に決起を呼びかけ、もはや内府をしのぐ軍勢を整えられた。挙兵を躊躇する必要はござらぬ」

「よし、豊臣家のため、秀頼様のため、内府打倒の兵をあげようぞ!」

 この会議で決まったことは四つである。

 

 一つ、家康の老臣である鳥居元忠が守る伏見城を攻め落とす。柴田明家の旗幟が徳川と判明したら丹後若狭に進軍して舞鶴城を落とす。

 二つ、伏見城の攻略後、宇喜多秀家、毛利秀元、吉川広家、長束正家、安国寺恵瓊は伊勢に進攻し安濃津城、松阪城などの東軍の城を攻め落とす。

 三つ、石田三成は佐和山城を経て濃尾に進攻。大谷吉継は北陸道を制圧して同じく濃尾に向かう。

 四つ、毛利輝元と増田長盛は大坂城で秀頼補佐の任に当たり、家康が西進してきたら輝元は秀頼を奉じて出陣し全軍の指揮を執る。

 

 この日のうちに前田玄以、長束正家、増田長盛の三奉行連署による毛利輝元への出馬要請状が発せられた。輝元は要請状を受け取るや、ただちに広島を出発して早くも十六日に大坂に入った。ここに西軍が誕生した。

 毛利家当主の輝元を担ぎ出したことを成功させたのは大きい。吉川広家、小早川秀秋と云って毛利一族を味方に引き込むための強力な切り札となる。加えて毛利輝元は百二十万石の領地を誇る家康に次ぐ大大名である。その毛利輝元が西軍の総大将となったのならば、いまだ旗幟をハッキリさせない大名や家康寄りの大名にも西軍側に付かせることも計算できる。

 愛知川の関所も早速に設けられ、会津攻めに参加すべく東進していた鍋島勝茂や前田茂勝(前田玄以の息子)らが引き返して西軍に加わることとなった。織田秀信への工作も濃尾二国の加増を条件に西軍加盟を取り付け、前線拠点と云うべき岐阜城を確保することに成功した。

 輝元は上坂したものの毛利家は意思統一がまったくなされていない。輝元を担ぎ出した安国寺恵瓊は反家康派であるが輝元の従弟で一族の重鎮である吉川広家は親家康派である。広家は会津遠征の出兵要請に応じて居城を出陣して大坂入りしたが、その夜に広家と恵瓊が激論を闘わせている。恵瓊は毛利一丸となって家康打倒に起ち上がるべきと強硬に主張。広家もまたその意見に頑強に反対。結局激論は平行線となり物別れとなっている。

 恵瓊の独走に広家は毛利一族の危機を感じ、輝元の上坂を止めるために、ただちに輝元の居城である広島に使者を派遣したが時すでに遅く、輝元は大坂への途上だった。広家は恵瓊の強行策に後れをとってしまった。そして毛利輝元を総大将にして七月十七日、西軍は挙兵宣言を発し、諸大名に檄文を公布。家康に宣戦布告をするに至る。東西両軍の激突はもう不可避であった。

 檄文に応じて諸大名が集結。檄文に応えて、と云うより檄文公布と同時に全国の大名はイヤでも二択を迫られるのである。東西どちらにつくかを。そして結果西軍に付くこととした諸大名が集結した。

 毛利秀元、小早川秀秋、宇喜多秀家、島津義弘、立花宗茂、小西行長、鍋島勝茂、秋月種長、伊東祐兵、相良頼房、脇坂安治、前田茂勝、長宗我部盛親ら総兵力は九万に及んだ。もっとも彼らは積極的に西軍に加勢したのではない。島津義弘は東軍に付くつもりであったが伏見城主の鳥居元忠に入城を拒否されたことに加えて義弘の妻が石田三成に人質に取られてしまったので、西軍につかざるをえなかった。また鍋島勝茂や前田茂勝のように東下を阻止され、西軍への参陣を余儀なくされた者も少なくない。

 

 この時点で家康が執るだろうと予想される作戦は

一つ、会津を攻撃する。

二つ、江戸で防御に徹する。

三つ、反転して西進する。

 このいずれかであろうが、会津への攻撃の可能性は極めて低い。上杉景勝、常陸の佐竹義宜、信濃上田の真田昌幸はまず間違いなく西軍に組すると思われるからである。江戸で防御か反転して西進のいずれかと三成は読んだ。家康が江戸で防御に徹した場合は反家康連合軍を率いて東進し、先の上杉、佐竹、真田で江戸城を包囲すれば良い。反転して西進してきた場合は尾張・三河の国境付近で迎撃と云う算段である。挙兵後、ただちに畿内の家康派の城を落とし、伊勢、美濃、北陸の三方から尾張に進攻する。戦闘態勢を出来るだけ優位にしておき尾張と三河の国境で家康を迎撃するのだ。

 尾張と三河で迎撃が困難となった場合は岐阜城から大垣城を結ぶ防衛線で東軍の進軍を抑え、伊勢方面に展開中の軍勢に背後を衝かせる、と云うものである。

 作戦は実行された。最初に合戦の火蓋を切られたのは伏見城である。伏見城は西軍勢力圏の中に打ち込まれた東軍の強固なクサビ、作戦の遂行上、どうしても緒戦で落としておかなければならない。七月十八日、毛利輝元の名前で伏見開城を要求。城を預かる家康老臣の鳥居元忠は即座に拒否。翌十九日、ついに伏見城攻めが開始され、東西激突の火蓋は切って落とされたのだ。

 

 そして、いよいよ石田三成は家康寄りの諸大名の妻子を人質に取ることを敢行した。すぐに柴田屋敷に兵を派遣。明家の妻のさえには良人から連絡が届き、急ぎ大坂から舞鶴に向かえと云う知らせが届いていた。だがすでに遅かった。大坂の町から出られぬよう、すでに西軍兵が配備されていたのだ。明家の指示に従いたくても従えない状態であったのだ。

 しかし捕らえられたら良人の決断を鈍らせる。戦国を生きてきたさえとすずにとって良人の枷になることは大恥である。柴田明家正室さえと側室すずは決断した。

「「佐吉さん、いや治部に断じて屈するものか!」」

 

「越前殿の愛妻家ぶりは知らぬ者なし。たとえどんな思惑があろうとも御台殿をこちらの人質にしてしまえば、戦上手の越前殿が西軍につく!もはや手段を選んではおれぬ!柴田の御台さえ殿と側室すず御前を奪え!」

 石田三成は他の大名の妻子を人質に取るには他の者に任せたが、柴田家には自ら出向いた。若き頃の三成は明家とだけではなく、その妻のさえとも苦楽や貧乏を共にしてきた。苦しい水沢家の台所事情を三成が補佐してさえを助けてきた。それゆえ三成はさえのことを知っている。側室すずとも多くの戦場を共にし、普段は慎ましい女であるが、その奥にはくノ一としての顔があることも知っている。自分が行かなくては絶対に人質に取ることはできないと確信していた。

「御台様―ッ!!」

 侍女が血相変えてさえに報告。

「石田勢が屋敷を囲みました!」

「そうですか」

 座るさえは神棚に祀ってある伯母の八重と家令の監物夫婦の位牌を見た。

「こんな時、伯母上と監物がおれば…治部を一喝して追い返すでしょうね」

「確かに」

 苦笑するすず。監物と八重は丸岡城攻防戦の時に亡くなっていた。八重は城に撃ち込まれた鉄砲の弾を受け、そして監物は明家と共に出陣して討ち死にしたのである。八重が受けた鉄砲の弾はさえを貫く弾だった。それを庇って八重は死に、監物は武人として死にたいと明家に懇願して出陣し、そして見事な戦死を遂げたのである。

「でも今は二人ともいない。私が戦わなければ!弱気になったらあの世の二人に叱られるわ」

「御台様にはこの慈光院が指一本触れさせません」

 佐々成政正室のはる、落飾して慈光院と名乗る尼僧は明家正室さえの侍女を務める。大名正室ほどとなれば、一人か二人学識豊かな老女が侍女として補佐するものだ。慈光院は柴田家に身を置いて以来、その役を担ってきていた。

「ありがとう、では家の者に無用に石田方に危害を加えぬよう伝えて下さい。こちらが攻撃すれば向こうもしてくる。何とか私が話をつけます」

「治部をこの部屋に通して良いと?」

「かまいません、その後に慈光院殿は手はずどおりに」

「承知しました」

 整然と座り、腹を括るさえとすず。甲冑の音がけたたましく聞こえてきた。そしてさえとすずのいる部屋を開けた三成。

「治部殿…」

「久しぶりですな。奥方様」

「ええ、久しぶりです」

「ご用件は分かっていますな」

 三成の兵がさえとすずを囲んだ。

「しばらく窮屈な生活となりますが、大坂城で丁重に遇しますゆえ、安心してまいられたし」

「お断りします」

「いいから参られよ」

「無礼者!」

 三成の部下がさえの腕を掴もうとしたその時、すずがその腕を掴み投げ飛ばした。それに激怒した兵がすずに刀を抜く構えを見せた。するとすず、その男の両眼にツバを吐き、視界を奪い、歩行用の杖で足払いをかけ転ばせた。

「石田の兵は礼儀も知らないのですか。三十二万石の大名の正室に向かい、刀を向けようとするとは何事か!」

「この女!」

「よせ」

「しかし殿!」

「すず殿、あまり困らせないでもらいたい。一人で三十人の兵に匹敵せし藤林の忍者。しかしその忍術も今の貴女では駆使のしようもない。満足な歩行が出来ない身の上。これだけの兵の前にはどうすることもできまい」

「試してみますか佐吉さん」

 杖を支えにすずは立った。三成の言う通り、すずは杖を使わねば立てない状態である。しかしすずは退くわけにはいかない。くノ一の目で三成を睨む。

「柴田の女を甘く見たら火傷いたします」

 着物の裾から苦無を取り出し握るすず。普段は静かで笑顔の優しいすず。それが巴御前さながらの女傑の迫力だった。三万の上杉勢にひるむことなく突撃したすずの胆力は妻となり母となっても衰えていない。石田勢は気圧された。

「御台様、準備整いました!」

 縁側の障子が開放された。三成は庭を見て驚いた。それは火薬壷だった。大きな壷が三つある。そして火のついた松明を慶次の妻の加奈と慈光院が持っていた。すずはこの準備が整うまで時間稼ぎをしていたのである。

「な…!」

「治部!良人越前が徳川様に付くと云う決断をされた以上、貴殿の横車に柴田家の女たちは断じて屈しませぬ。ここで私たちが死ねば、良人越前は鬼となって貴方を滅ぼすでしょう。さあどうなさいますか!私たちと一緒に死にますか!」

「奥方…!」

「殿!どうせハッタリに決まっています!」

「『もったいない越前』の女房にこんな腹の据わったことができるはずがない!」

 三成の兵はハッタリと確信し、主君へおどしに乗るなと言った。

「言うたな!では『もったいない越前』の女房が貫目を見せてくれようぞ!加奈殿、慈光院殿、火を壷へ!」

「「は!」」

 三成は加奈とも旧知の間である。あの前田慶次の女房で武芸の達者であるので腰も据わっている。慈光院もあの佐々成政の正室、老いたりとは云え女傑の凄みがある。加奈は三成に言い放った。

「佐吉、さあ一緒に逝こうか!あっはははは!」

 加奈は何のためらいもなく火薬へ火を近づける。亭主さながらのいくさ人の胆力を持つ加奈。これは柴田の女たちには戦。死人の覚悟を持つ柴田の女たち。丸岡の攻防戦では男たちと共に命がけで戦った彼女たちの胆力。

「待たれよ!」

 三成は加奈を止めた。

「…それがしの負けにござる」

「「殿!」」

「引き揚げるぞ」

 三成は部下たちを連れて引き下がった。屋敷の包囲も解除された。三成は自分でなければ人質に取れないと思い自ら出向いたが、それはむしろ逆であったろう。女子供にも容赦ない男が出向けば、あるいは人質に取れたかもしれない。なまじ柴田家の女たちと知己であったゆえに非情に徹し切れなかったとも云える。さえ、すず、加奈、そして慈光院は全身に滝のような汗を流した。脱力し、壁にもたれるさえ。

「や、やったわよ!私たちの勝ちよ!」

「やりましたね御台様」

 汗を拭うすず。

「一世一代の大博打だったわ…」

「ともかく御台様、このことを殿に知らせなければ」

「うん、慈光院殿、二毛作をここに」

「はい」

 火薬壷が本物であるか否かは不明であるが、明家が屋敷に火薬を残しておくはずがないと偽装説が有力で、そして偽装と知りつつ三成が退いたと云うのが現在のおおむねの定説である。ならばなぜ退いたのか。捕らえたとしてもさえとすずが良人の枷となるくらいなら、と死を選ぶことが分かったからである。そうさせては完全に自分と明家は敵味方。明家は一生自分を許さない。三成はまだ明家と手を取り合い幼君秀頼を盛り立てていくことを諦めてはいなかった。だからここは退いたのだ。

 しかし徳川寄りの大名正室を人質にとると云う作戦は終わらない。同じころ細川家の屋敷も包囲されていた。屋敷の中にはロザリオを握る細川忠興正室の玉、洗礼名ガラシャがいた。


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