ここで奥村助右衛門の嫡男、奥村兵馬栄明について少し語ろう。奥村助右衛門は三人の男児、二人の姫に恵まれていた。長男の兵馬が明家より二つ年下で、静馬は四つ、冬馬が七つ明家より若い。姫は雪姫と竹姫といた。男三人が正室津禰の子であり、二人の姫は側室雪駒の娘と云われている。
奥村助右衛門が柴田勝家の足軽大将の水沢隆広に仕えるようになったのは兵馬、幼名夜叉丸が十三歳の時だった。安土の武家長屋で貧しくも親子仲良く暮らしていたが、助右衛門が安土城に出仕して四日帰ってこなかった。合戦が近いと妻の津禰は聞いていない。城も城下町も普通の日常である。どうしたのだろうと津禰は安土城に行った。誰も助右衛門の消息は知らなかったが、城にいた森蘭丸の耳に届く頃には『奥村の女房が来て亭主を返せと泣きわめいている』と尾ひれがついており、アッと失念していたかのように蘭丸は急ぎ津禰の元へと走り、『越前北ノ庄、柴田勝家様の配下、水沢隆広に仕えよと大殿から人事があって、奥村殿は越前に行った』と伝えた。あぜんとする津禰、初耳だった。助右衛門が妻子を北ノ庄に迎えたのは九頭竜川に舟橋を架橋した後である。
幼心に夜叉丸は大殿の直臣から陪臣の家臣では父上がかわいそうだ、そう思いながら北ノ庄にやってきた。初めて父の主君を見た時は驚いた。自分と二つしか変わらない。背は年下の自分より低く、体は華奢、それになんだ、あのいかにも男色の武将が好むような顔立ちは。父上はこんな女みたいな男に仕えるのか、夜叉丸は失望した。しばらくして夜叉丸は元服して奥村兵馬栄明となる。そして初陣、伊丹城の戦いであった。
この時に兵馬はなぜ父の助右衛門があんな子供に献身的に仕えるのか、それが心底分かった。自分より二つしか年上でない主君が熟練した将帥のように荒武者ばかりの柴田将兵を縦横に使いこなし、名将の荒木村重を破り、堅城の伊丹城を見事に水攻めで落とした。そしてその後に捕らえられた伊丹城兵と荒木一族の助命をあの織田信長に懇願した姿、誰もが恐れる魔王信長に『間違っている』と言った胆力。自分を『人を見かけで判断した大馬鹿野郎』と叱り付け、そして思った。俺もあんな男になりたい、兵馬は隆広に憧れ尊敬し、忠義を誓うこととなる。
その後の手取川の戦いで、馬場美濃守信房に扮して上杉勢に突撃した父と共に戦った。武田信玄のいでたちをして謙信に挑む主君に惚れ惚れしながらも必死についていった。助右衛門はとても厳しい父親であり、母親の津禰もまた厳しかった。主君隆広の方が優しかったくらいである。側近の助右衛門の息子であり、歳も近いので明家には弟のように思えたのであろう。三兄弟も隆広を兄のように慕っていた。相撲や武術の鍛錬の相手もよく務めていた。
兵馬は初陣の伊丹城の戦いから武功を重ねた。小松城の戦い、手取川の戦い、そして松永久秀との信貴山城の戦いでも活躍。それに伴い、兵馬は合戦を甘く見るようになる。父の助右衛門はそれを懸念し、『お前が活躍できるのは殿がよき采配をするがゆえだ。敵軍にはお前以上の武辺者がごろごろいる。自分の武を過信してはならぬ』とことごとく注意した。
十七になると妻を娶った。助右衛門の元主君の前田利家が良い嫁を世話してくれた。糸と云う娘で前田利家の養女で、実父は利家の実弟で三方ヶ原の戦いで討ち死にした佐脇良之である。つまり利家の姪となる。十五歳の美少女だった。奥方様(さえ)以上だ、と喜ぶ兵馬。美人の女房も娶り、水沢家の花形の騎馬武者、俺の武将としての人生は開けていると思っていた兵馬。
だが助右衛門の懸念がとうとう現実となる時が来た。武田勝頼と戦った鳥居峠の合戦の時、兵馬は功名を焦り、武田の不要な逆襲を食らわないために退路を残すと云う隆広の作戦を無視して突撃を続けた。武田の殿軍は真田昌幸だった。昌幸がこれを蟻の一穴と看破し、いや看破していただろうが奥村兵馬を端武者と見たうえ、撤退が最優先と相手にしなかったのだろう。もし昌幸の軍才で逆襲に転じていたら大敗に繋がりかねた。兵馬は武田の兜首二つ上げる大殊勲であったが、水沢本陣に帰るなり父の助右衛門が鬼の形相で詰め寄ってきた。しかし隆広が助右衛門の肩を掴んだ。
「お止め下さるな!この馬鹿息子、打擲してお詫びいたす!」
「…打擲で済むか」
隆広と助右衛門の様子に戸惑う兵馬。その兵馬を隆広は睨んだ。今まで見たこともない厳しい目。
「夜叉丸」
「は、はい…」
「水沢家から出て行け」
「ええ!」
「本来ならばお前の軍律違反!親父の助右衛門さえ斬らなければならぬことだ!しかし戦勝の今、将を斬るのは差し控えねばならぬ。よってお前も命だけは助けてやる。だが俺の采配に従えぬ者はいらぬ!お前は誰を相手にしていたと思うのだ真田昌幸だぞ!そなたの身勝手で一歩間違えば水沢軍は無論、同じく別働隊であった森勢、はては信忠様さえ窮地に陥れておったわ!とっとと出て行け!顔も見たくない!」
呆然とする兵馬、父の助右衛門は一切取り成しをしてくれない。
「何をしている。殿の眼前を汚すな。とっとと去れ!俺もそなたとは縁を切る!勘当だ!」
「父上…」
肩を落として水沢本陣を去る兵馬。優しいと思い、兄のように慕っていた主君隆広の厳しさを初めて知った時はすでに手遅れだった。水沢軍の騎馬武者と云う華々しい立場から、無宿者になってしまった。とぼとぼと道を歩く兵馬。
「糸…ごめん」
涙しか出てこなかった。糸は前田家に帰されてしまうのかな、そして別の男と再婚するのかな、それだけはいやだ。でもどうしようもない。だんだん自分を追い出した隆広と父が憎くなった。いっそ武田に走って水沢勢に一矢報いてくれようか、そう思った。だが次の瞬間、兵馬は泣き出してしまった。大声で泣いた。なんてことを思いつくのか、自分が許せず路傍の大岩に頭をぶつけ続けた。
帰りたい―――
水沢家に―――
貧しくとも、充実した日々だった。隆広は内政家臣でもあったので兵馬も開墾、治水の仕事に従事した。汗だくになって働いた。そして美田を作り終えた時、治水を成し遂げた時に見た民の感謝の顔、嬉しかった。他の主のもとでは絶対に味わえない。うっかり糸のことを『奥方様より美人です』と言い『さえ以上がいるか』と木刀を持って追いかけられたこともあった。殿が好きだ。俺のいる場所は水沢家だけなのだ。
これで終わってたまるものか。これも神仏が俺に与えた試練なのだ。修行して『歩の一文字』に相応しい男になって帰参すれば、きっと殿は迎えてくれる。
彼は腐らなかった。その後、諸国を歩いたあと、彼は当時丹羽長秀が治めていた若狭高浜の地に腰を落ち着けた。彼は釣りが得意であったので文無しの時でも魚を釣り上げて食べ、大漁なら酒場に売れば金になる。家の庭には野菜畑を作った。栽培方法は隆広の元にいた時に体で覚えていたので良い野菜も作れて八百屋に売れた。高浜の城下町で牢人ながらも精錬に生活を続けていた。学問や武技の鍛錬も欠かさなかった。帰参を果たして、もう一度『歩の一文字』を背負って戦いたい。それだけを夢見て。
ある日、大漁だった彼はいつもの酒場に行った。鮮魚山盛りの魚籠を見て女将は歓喜して礼を言った。
「いつも助かります兵介さん!」
兵介とは兵馬が高浜城下で名乗っていた名前である。
「運が良かっただけさ」
「はい、魚代」
「ありがたい、これで本を買える、それじゃな」
女将は兵馬を呼び止めた。
「兵介さん」
「なんだ?本屋が閉まってしまう。早く言え」
「ちょっと話があるんだけど…」
以前、女将は精悍な顔で逞しい体躯の兵馬に色目を使ったことがあったが、今回はそういう目ではない。だが
「後日にしてくれ」
彼はなるたけ女との接触を避けていた。男の修行に女は邪魔と思っていたからである。
「うわついた話じゃないのよ、おねがい兵介さん」
「…少しだけだぞ」
「ありがたい!こっちきて!」
兵馬は店の奥に連れて行かれた。
「話とは?」
「頼みたい仕事が一つあるのよ、でも生半可な人には任せられない」
「…?」
「ここ数ヶ月、腕っぷしが強いのと、それにつり合う心を持っている男を探していたのよ」
「…他をあたれ、俺はその心が未熟で主君と父に追放されたのだ。見込み違いも甚だしい」
「お願いよ、貴方に断られたら誰にも頼めないんだから!」
「買いかぶりだ」
「頼みたい仕事は、仇討ちなのよ!」
「仇討ち?女将がか?」
「そうよ、でも私だけじゃない。今日お店を閉めたら家に行くわ。話だけでも聞いて」
「…分かった」
そして夜も更けたころ、女将がやってきた。連れていたのは十六歳ほどの少女だった。
「この子は菜乃と云う元堺の豪商、坂本屋の一人娘です」
「菜乃と申します、女将加代の妹にございます」
「兵介と申す、話を伺おう」
娘は話した。父、新右衛門の経営する材木問屋『坂本屋』に番頭として働いていた七兵衛なる男が父を泥酔させて店の委任状を書かせて店を乗っ取ったばかりか、あらぬ冤罪をかけて死罪に追いやったと。新右衛門は死から逃れられないと悟り、菜乃を堺から逃がしたのである。
高浜城下の酒場の女将加代は赤子の時に坂本屋の前に捨てられており、拾われて養女として育てられた。実子の菜乃と分け隔てなく愛情を注がれて育った。長じて高浜から堺に板前の修行に来ていた今の良人と知り合い、恋に落ちた。養父は快く結婚を認め、高浜で居酒屋を構える資金まで出してくれた。加代にとっては血の繋がりなどを越えた大好きな父であった。今にご恩返しがしたい、そう思い高浜城下で居酒屋を構えて働いていた。
そんなある日、可愛がっていた妹が堺からやってきた。大喜びして迎えたが菜乃は姉の加代を見るなり抱きついて号泣した。そして知った父の死、もう恩返しは出来ない。それどころか父の窮地に何も出来なかった自分が許せない。せめて養父の無念を晴らすのが育ててくれた恩に報いること。仇の七兵衛を絶対に許さない、必ず殺してやると加代は決めた。
しかし女の細腕では無理。助太刀を雇うにも金を渡して遂行されないのではかなわない。そして自分ならまだしも妹の体目当ての男にうっかり頼んだらどうなるか。仇討ちはしたい。だがその助太刀を頼めるに足る男には相当条件が必要だった。腕が立ち、そして依頼者を裏切らない心、秘密を守れること、菜乃と自分を一時の仕事相手としか見ないこと、当然女としても見ないこと。かなり厳しい条件である。今まで加代が目星をつけた男で頼むに足る男はいなかった。若狭の国に男はいないのかと憤怒していたところ、二十歳くらいの若者がたまに店を訪れて魚を売りに来る。かなりいい男だったので初日に加代は色目を使ったが無視された。ニクい奴と思う。だから記憶に残る。立派な体躯で陽に焼けて、何とも筋骨隆々、いかにも強そう。元は名の通った武人だったのかも、そう思った。
加代は兵馬が釣りをしているのを一度見に行ったことがある。兵馬は加代が来たことに気づいていたが特に話をするもなく黙って釣りを続けていた。加代が釣り糸を見てみれば浮きがついていない。しかし兵馬はポンポンと釣り上げていた。微妙な魚信でさえ兵馬は逃さないと云うことだろう。加代は武の心得はまったくないが自分たち姉妹の仇討ちを頼めるのは彼しかいないと思った。一通り聞いた兵馬は答えた。
「分かった、引き受けよう」
「本当に!」
「明日にでも堺に行こう。往復の路銀だけ用意してくれ」
「姉さん!」
「ありがとう!謝礼は用意したわ、ここに百五十貫あるわ、足りる?」
「俺の話を聞いていなかったのか?往復の路銀だけ用意しろと言っただろう」
「「え…?」」
「過ぎたる富は修行の邪魔だ。俺は心を磨いて、主君と父の元に帰参するつもりなんだ。そなたらの仇討ちも俺の修行の一つだ」
「兵介さん…」
「分かったら帰って寝ろ。早朝に発つ」
翌日、兵馬は菜乃を伴い堺に向かった。兵馬は女にうとい。妻はいたが主君のように、ああまで女に優しい男ではなかった。だから女の足の遅さが分からない。必死に兵馬についていく菜乃。だが、
「あう!」
転んでしまった。
「どうした?」
「い、いえ…」
同じ方向に街道を歩いていた旅の男が見ていられなかったのか兵馬に注意した。
「あんたねえ、女連れなら女の足の速さで歩くのが男ってもんだろ」
「は?」
「まったく最近の若い男は女子への優しさってもんが足らん…」
そう言って通り過ぎた。頭をポリポリと掻く兵馬、旅の男の言うとおりだと反省した。
「いや、すまん」
素直に謝る兵馬。
「い、いえ私が遅すぎるのです。すみません」
「宿まで俺が背負っていこう。少し臭うかもしれんが許せよ」
「あ、あの!」
兵馬は菜乃を背負った。
「軽いな、もっと食わなければ強い赤子を生めないぞ」
「は、はい…」
「では行こう」
道中、一泊だけをしたが別の部屋、姉の目は正しかった。さすが姉さんと思う菜乃だった。翌日、堺に到着。坂本屋は越後屋と名を変えていた。
「七兵衛なる者の家はかつて貴女の家だったのだな」
「そうです」
「用心棒を雇っている可能性は?」
「あると思います」
「ふむ、本日は宿に泊まろう。そして簡単でよいので屋敷の絵図面を描いてもらいたい」
「分かりました」
兵馬は翌日に七兵衛が在宅であることも確認、そして絵図面を見てだいたいの作戦を立てた。
「明日、討ち入る。俺が入れと云うまで、そなたはこの戸口の前で待機、いいな」
「分かりました」
「では、これにて。寝る」
「あ、はい、おやすみなさいませ」
さて翌日未明、まだ夜があけぬ前、兵馬は裏口から侵入した。用心棒はいたが瞬く間に兵馬に斬られた。
「だ、誰だ!」
「七兵衛に相違ないな?」
「し、七兵衛、ち、違う!儂はそんな名前ではない!」
「ご当人と見た。貴殿に怨みはないが死んでいただく」
逃げようとしたところ、兵馬は着物の肩口に刀を突き、柱に刺した。もう逃げられない。
「入って来られよ!」
戸口から菜乃が走って来た。刀を持ち駆けて来る。
「お、お前は!」
「七兵衛!貴様の顔を忘れたことはない!我が父の仇!思い知れ!」
「ぐああっ!」
菜乃は七兵衛の心臓を一突き、血を吹きだして七兵衛は死んだ。
「仇…!父上討ちました!」
「ご本懐、めでたき至極」
「兵介様…」
「さ、高浜に帰ろう」
「はい」
その帰途中の宿、本懐を遂げさせてくれた兵馬に菜乃は少なからず好意を抱いたか、夜に迫った。この当時の女性が好む男は、とにかく強いことである。兵馬は該当し、精悍な顔つきで筋骨たくましい。そして優しい一面もあり女にも礼儀正しい。この男になら、と思うに加えて復讐成就の後と云うものは、存外虚しさが残る。彼女もその摂理から逃れられなかったようだ。男は知らないが夜閨の快楽は伝え聞いている。好意を抱く男に抱かれて快楽の中、復讐成就の虚しさを忘れようとした。だが、
「姉から聞いていなかったのか?いま俺は女を断っている」
と、あっさり袖にした。坂本屋の菜乃と云えば堺でも知れた看板娘だった。女の誇りに一筋ひびが入った。
「お、女に恥をかかせますか。たとえ商人の娘であれ、報恩の儀を知っています。それに商人の娘ゆえ、ただほど高いものはないと知っています」
「そなたら姉妹の仇討ちも、俺の修行の一つ、そう言ったはずだがな。それにただじゃないぞ。俺は堺に行ったことがなかったので見分も高められた。こうして温泉のある宿にも泊まれたし、船旅も楽しめた。飯も久しぶりに良いものを食べたしな。これで十分だ」
「兵介様…」
「…に比べれば…も貧相だし…」
「はぁ!?いま何と申しました?大きい声で言って下さい!」
「な、なんでもない!早く寝ろ!」
赤面する兵馬、つい口が滑った。
「いいや、言って下さい!いま著しく聞き捨てならないことを言いました!」
「なんでもないって言っているだろ!」
「大きく言えないことを小さく言うなんて卑怯です!女を断っての修行とはそんな底の浅いものなんですか!」
「ああもう、じゃあ言ってやる!『女房の糸に比べれば乳房も尻も貧相だし物足らん』と言ったんだ!分かったか!」
「ひ、ひどい…!あんまりです…!」
泣き出した菜乃。女の誇りが音を立てて崩れた。
「泣くくらいなら聞きなおすなよ…」
結局、その日に兵馬は女断ちの誓いを破ることになってしまった。その翌日、何か一層晴れやかな顔になった菜乃は高浜に到着するや本懐を遂げたことを姉に告げた。菜乃は姉に兵介と一線を越えたことは言わず、そして兵馬も菜乃とのことは一夜限りと思っていた。姉妹に恩を着せることはなく、再び釣りと修行の日々に戻った。
それからしばらく時が流れた。時勢は大きく変わっていった。織田信長が明智光秀に討たれ、そして明智光秀は羽柴秀吉に討たれた。羽柴秀吉と柴田勝家が戦うことは火を見るより明らかである。
「殿は名を柴田明家と改め丸岡五万石の大名となられたか…。しかし晴れて一国一城の主になれたとて、その立場のあやうさを一番分かっているのは殿であろうな…」
そして彼は柴田明家の窮地を知る。賤ヶ岳の合戦で柴田勝家は敗れ、北ノ庄城は落城し柴田勝家とお市の方は死んだ。主君明家は丸岡城に篭り羽柴秀吉と戦うつもりであると。今こそ帰参の時と兵馬は丸岡に駆けた。
「手前、柴田明家様に仕えし奥村助右衛門が長男の奥村兵馬栄明!追放と勘当の身なるもお家の一大事にまかりこしました!」
と門番に言った。
「なに、兵馬が戻ってきた?」
門番の報告を聞く明家。
「……」
「殿、軍律違反をした痴れ者などと会うことはございませぬ」
助右衛門の言葉を制した明家。
「大手門の広場に通せ。俺が会おう」
「殿!」
「まあ見ていよ」
広場に通された兵馬、折り膝ついて待っていると明家と助右衛門、そして弟たちと母親の津禰、妻の糸もやってきた。
「殿、父上、母上…糸!」
(お前さま…!)
糸は良人を追放した主君隆広、勘当した義父を一時期激しく憎み、前田家に帰ろうとしたが、利家に『一度嫁いだからには前田の娘ではなく奥村の娘、府中の敷居をまたぐこと相成らん』と言われ、夫の帰りを待つことにした。義父の助右衛門は素っ気無かったが義母の津禰は温かくしてくれた。『このまま終わるような軟弱な男に育ててはいません。必ず殿に大事あるときには戻ってきますよ』と励まされた。実家の前田家が秀吉についても変わらず温かくしてくれた。そして糸も帰参するなら、柴田明家軍もっとも窮地に陥った今しかないと思っていた。今日来るか、明日は来るか、そればかり考え、そして良人は帰ってきた。
明家は木刀二振り持っていた。そして一振りを兵馬に放った。
「腕がなまっていないか見てやろう」
「殿…」
明家は新陰流の使い手であるが兵馬も幼い頃から父の助右衛門に鍛えられていて、牢人中にも修行は欠かさなかった。かつ膂力なら兵馬の方が格段に上である。しかし明家はその膂力のなさを技の速さと太刀筋の正確さで補っている。その強さは戦場でも証明されている。勝てるか。兵馬は思った。実際、相撲などの力勝負なら明家に何度も勝ったが、刀槍術では勝てたことがなかった兵馬。
「参れ」
「お相手いたします」
そして勝負が始まった。明家の最初の攻撃は決まっている。しかし来るのが分かっていても防げないと言われた初撃である。明家の容貌は女性さながらの体躯と顔、背丈もこの時代の人間の中でも低いほうである。だが毎日の鍛錬は欠かさず、全身が筋肉で、しなる若竹のような瞬発力と強靭な足腰をもっていた。兵馬の妻の糸も明家の強さは知っている。でも勝たなければ帰参はかなわない。明確に明家はそう言っていないが、自分に後れをとるようでは今に至るまで遊んでいたと見るだろう。再び追放される。この時ばかりは主君明家の敗北を願った。
明家の体が静かに前のめりになると、木刀の切っ先はすでに眼前。膂力のない明家に対して剣術の師の上泉信綱は『膂力のないお前では刀を振り下ろしても弾かれる。敵に対したら迷わず突け!』と教えていた。明家はその教えに従い、その突き技をとことん磨き鍛えたのだ。しかし兵馬は辛うじてかわした。頬の肉がごっそり持っていかれた。だがその突きで伸びた明家の体に横薙ぎの一閃!
「ぐほっ!」
明家は膝をつき、打たれた箇所を押さえて咳き込む。木刀を背に引っ込め、明家に頭を垂れる兵馬。
「ご無礼いたしました」
「ゴホッ、あっははは、お前は俺より強いな」
「え?」
「追放した俺を怨んだであろう。しかしよく腐らず、俺がこの窮地に陥っている時に戻ってきてくれた。嬉しく思う」
「殿…!」
「帰参を許す。頼りにしているぞ!」
「……!」
兵馬は感涙して言葉にならない。戻れた。家に。涙が止まらなかった。父の助右衛門は明家に平伏し、
「よくぞ、この馬鹿息子を許してくださいました!お礼申し上げます!」
助右衛門は歓喜に泣いた。ずっと息子が気がかりであった。津禰も良人同様に感涙して平伏した。
「もう『馬鹿息子』と呼んでやるな。何ともよい面をして帰ってきたじゃないか」
明家はそのまま笑って立ち去った。感涙する兵馬の頬から流れ落ちる血を手ぬぐいで押さえる妻の糸。彼女も感涙していた。
「お帰りなさませ、待っていました」
「糸…」
「兄上、良かった!」
「お帰り兄上!」
静馬、冬馬の弟たちも兄の帰参を祝福。そして丸岡城攻防戦。結果明家は秀吉に降伏するが、奥村兵馬の戦いぶりは羽柴勢でも賞賛されたと云う。今も兵馬の頬には明家と立ち会ったときの頬の傷が残る。男の勲章、彼はそう言っていた。その傷跡を撫でながら兵馬は思った。
「まさか、俺が若狭の国を背負って戦う日が来るとはな…。人生はどんなことが待ち受けているか分からないものだ…」
そう思いをはせていると末弟の冬馬が報告に来た。
「兄上、城下の者が戦に先立ち、城代に御酒を献じたいと申していますが」
「そうか、通せ」
二人の女が酒を入れた徳利と、杯を持ってきた。そして廊下で兵馬に平伏した。兵馬は見覚えがある女たちだったので驚いた。
(こいつは開戦前から幸運だ)
「私は、小浜城下の『へいすけ』なる居酒屋を営んでいます加代と申します。こちらは妹の」
「菜乃であろう」
「「えっ!?」」
「面をあげよ」
「「あああッッ!!」
加代と菜乃は目が飛び出るほどに驚いた。自分たちの仇討ちに加勢してくれた兵介が小浜城代として目の前にいた。
「おいおい、なんだ『へいすけ』っちゅう屋号は?」
「兵介さん、貴方が城代の奥村兵馬様だったの?」
「そうだ、城主奥村助右衛門永福の嫡男、兵馬だ」
「兵介様…」
あの甘美な一夜を思い出し、菜乃は体が熱くなった。姉の加代は自分と兵馬が夜閨を共にしたと知らない。だから加代は何の見返りも求めず自分たち姉妹の仇討ちに加勢して、そして本懐を遂げさせてくれた兵介を男の中の男と思い讃えた。
加代はそういうのを黙っていられない性格のようなので、少々うるさくなった高浜を兵馬は去って、越前敦賀の方に腰を移した。自分のおしゃべりを恥じた加代は自分を戒めるためと、いい男の兵介へ感謝の気持ちとして屋号を『へいすけ』としたのである。
やがて丹羽氏の若狭統治は終わり、若狭には柴田明家が入府、国府は高浜から小浜に移された。高浜城は破却され、その地方の代官所だけ残り、あとは漁港として機能するだけとなった。
やむなく加代夫婦は『へいすけ』の暖簾と共に小浜に店を移転。高浜より数倍も栄える小浜では商売大繁盛。そろそろ舞鶴に二号店を作り、妹夫婦に任せようかと思っていたところに東西激突の大合戦が始まる様相となった。しばらく舞鶴二号店は立ち消えだが、この戦は領民である自分たちにとっても大事な戦であった。
丹羽氏とは比較にならないほどに若狭を豊かにしてくれて、税も丹羽氏に比べればずいぶんと減り、払うに無理もなく民に温かい。柴田様、それを継いだ奥村様以上の名君はいない。若狭小浜によその殿様に入ってこられて圧政でもされたらたまらない。何としても勝たなくてはならない。
加代は城下町ではちょっとした顔だったので、戦勝を願う御酒を城代に献上できる機会を得られた。それで最上階に来てみて城代を見てみれば驚いた。兵介だったからである。
「もう禁酒はやめている、いただこうか」
「は、はい」
部屋に通された姉妹、そこへ糸がやってきた。
「おう糸」
「あらお客さん?」
菜乃が糸を見た。
(くすっ…。なるほど見事な乳房に立派なお尻だこと、確かにあの時の私では物足りなかったかな)
そして糸にかしずき、
「はい、御酒を献上させていただきました」
と、かつて比べられた女に丁寧に頭を垂れた。
「まあ、では私も」
「お、おい糸」
「良いではないですか、兵介さん」
「兵介…?」
誰のことを言っている?と云う顔をする糸、兵馬も酒を噴出しそうになった。
「あ、違う違う!私ったら!あはははは!」
加代は慌てて取り繕い、糸に杯を渡し、酒を注いだ。クイッと飲む糸。
「美味しいです。若狭の酒ですね」
「はい、この小浜の酒です」
「この城を守らなければ、このお酒も飲めなくなってしまいます。城下には迷惑かもしれませんが当家は懸命に貴方たちの暮らしを守るため戦います」
「ふあ~兵介さんも良い嫁を…」
(姉さん!)
姉の尻をつねった菜乃。糸は何の話か分からず
「兵介とは…?」
「いた!あ、す、すいません!兵馬様には良い奥方がおられると!」
「まあ、ありがとうございます」
(本当にいい奥さんだよ兵介さん、目が高いねぇ、なるほど私の色目なんか勝負になんないや)
「申し上げます!」
「うん」
「敵影確認!小野木勢五千!」
「分かった、今行く」
「はっ!」
「加代殿、菜乃殿、うまい酒であった」
「「はいっ!」」
「気をつけて城下に戻られよ」
「「はいっ!!」」
加代と菜乃は城下の『へいすけ』へと歩いていった。
「思えば、敵勢迫ると云うのに城下は城が持つ限り安全、こんな城は他にないよね姉さん」
「そうさ、だから私ら領民もお殿様に応えなきゃなんないよ」
姉妹の良人たちも義勇軍に加わっていた。
「しかし…」
「え?」
「兵介さん、相変わらずいい男だねえ~。年甲斐もなく惚れ惚れしちゃうよ」
「姉妹二人がかりでも、あの奥さんには叶わないけどね」
「確かに、あっははは!」
姉妹たちといた部屋からまっすぐ櫓に向かう兵馬。
「かねてよりの差配に従い全軍配備についているな!」
「はい兄上!」
「よし、奥村三兄弟の槍の味、とくと味合わせてくれよう!」
「「オオオッ!!!」」
明家の取っている初撃の突きですが、これは私が別に書きました二本松少年隊に関する逸話からの引用です。二本松藩の藩祖丹羽光重は忠臣蔵で御馴染みの浅野内匠頭が松の廊下で吉良上野介を仕留めそこなった話を伝え聞き『斬らずに突けば討てたものを』と嘆いたことが始まりで、以降二本松藩の剣術は『斬らずに突け』となったそうです。
実際、少年隊士の成田才次郎はその教えを守り、長州藩の白井小四郎を刀で突き討ち取っています。