天地燃ゆ   作:越路遼介

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家康着陣

 織田秀信は石田三成からの援軍を得て軍議を開いた。秀信重臣たちは篭城を主張するが、秀信は

『我が祖父(信長)、曾祖父(信秀)は一度たりとも城に篭もって戦ったことはない!』

 と主張し出陣と決まった。軍議で決まった作戦は、まず木曽川岸の第一陣にて米野で渡河してくる敵を撃破、討ちもらした敵勢は第二陣で掃討する。この作戦でも敵を打ち破れない場合は篭城策を執り大垣からの援軍を待ち、城と挟撃により敵を討つと云うものである。そして八月二十一日までに布陣を固め、迎撃に備えた。

 作戦は悪くなかったかもしれないが、やはり秀信は最初から篭城策を執るべきであったかもしれない。斥候より敵の布陣を聞いた柴田明家は池田輝政、福島正則と謀り、寡兵の秀信勢に対して挟撃策を提案。何せ岐阜城に寄せる東軍先鋒は秀信の六倍近いのである。明家は『何で篭城して、さらなる援軍を待たない』と逆に驚いたと云う。しかし、寡兵で野戦に出て来たからこそ油断はできない。また秀信に不運なのは東軍先鋒には美濃の地形に詳しい者が多かったと云うことである。諸将は明家の挟撃策を用い、攻撃を開始。部隊の各自投入では時間がかかる。東軍は二手に分かれ、全軍で襲い掛かった。

 秀信は奮戦したが、多勢に無勢でいかんともしがたく岐阜城に退却。そして翌日、総攻撃が行われ岐阜城は落城した。織田秀信は捕らえられたが福島正則と柴田明家が助命を主張。処刑すべきと云う声も上がったが正則は

『助命したことが内府殿の不興を買うならば、自分の今までの戦功と引き替えにするだけである』

 と言ってのけた。何とも彼らしい。明家は直情的に訴えた。

『それがしは秀信殿のお父上の中将様(信忠)に特に目をかけていただいた恩義があり、こうしてご子息である秀信殿と弓矢を交えたのは残念至極であるが、秀信殿も今は一個の武将、よくよく思案されてのことで是非もない。しかしながら処刑されるのを黙って見ていては、それがし中将様に合わせる顔がない。何とぞお助け願いたい』

 と、家康の重臣たちに懸命に願った。家康は正則の言葉を聞き不快にはなったが、明家の言葉にはこう答えた。

『仕方がない、越前の顔を立ててやれ』

 と渋々の様子ながら許したと云う。明家は秀信の生母である徳寿院と対面。柴田陣に捕らえられて連行された。それを見た明家は

「綱を解け」

 と言ったが

「誰がお前の情けなど受けるか…!」

 憎悪の目で明家を睨む徳寿院。

「やはりやったか、我が良人信忠への信義など、もうどうでも良いのだな越前。秀信の助命をして少しでも罪滅ぼしをした気になっているのか?笑わせるでないわ!あっははは!」

「……」

「呪ってやる…。私にあんなむごい仕打ちをしたうえ、息子を攻めた悪鬼羅刹!あの世に行っても呪い続ける。織田は柴田に七代祟り続けようぞ!」

「殿、お斬りになった方がよろしいと存じまする」

 と、山中鹿介。これほど主君に対して異常なほどの憎悪を持つ徳寿院。生かしておいては災いとなる。

「……」

 

 秀信生母の徳寿院は柴田明家を激しく憎んでいた。こういう理由である。彼女は織田信忠の正室で落飾前は幸姫と云う名前であった。父は塩川長満と云い明智光秀の丹波攻め、羽柴秀吉の三木城攻めなどに参戦し武功を重ね信長に重用され、やがて石清水八幡宮の善法寺領の代官に命じられている。彼の娘の幸姫は美貌かつ丈夫で賢かった。信忠と松姫の婚儀が取り消しとなった後、信長は息子の正室はこの娘が良いと娶わせた。松姫が忘れられない信忠は最初拒否したが父の命令には逆らえず、やがて正室としたのである。(側室説あり。信忠は松姫を正室として婚約破棄以後は正室空位としたとも)

 

 しかし幸姫は名前と逆にこの婚儀は彼女にとって不幸であったかもしれない。信忠はいつになっても松姫を忘れなかった。夜閨のあと寝床を共にしている時、何度良人の『お松殿』と云う寝言を聞いただろう。良人は自分を抱いていない。自分を通して松姫を抱いている。どうして会ったこともない女を私よりも愛するのか悔しくてならない幸姫。信忠は良人として申し分なかった。自分を慈しみ大事にしてくれる。婚約者を忘れられないことくらい何ほどのもの、そう思おうとしていた幸姫。

 

 そして武田攻めが始まった。松姫のいる武田を攻めなくてはならない信忠を見て幸姫は、これで良人は婚約者に対して踏ん切りがつくと思った。高遠攻めの時、水沢隆広が使者として松姫の兄である仁科盛信に会った。隆広は信忠の口上を伝えた。『正式に妻として迎えたい』と。盛信は『中将殿には正室がいるではないか。子もいると聞く』隆広がこれに返した言葉が幸姫の心をズタズタに切り裂いた。

『中将様が心ならずも正室を娶られたのは大殿の命令によって。心は松姫様にある』

 これを伝え聞いた時、幸姫は怒りや悲しみも通り越し、ただ呆然としたと云う。目には止まることのない涙が流れる。それでは自分は何なのか、松姫の代わりに過ぎないのか。良人に捧げた純潔も松姫の代用品に過ぎないのか。しかも信忠は自分も織田家も捨てて、松姫と一緒に暮らそうとしていたと云う。そして水沢隆広はついに信忠と松姫の対面を実現させた。落城する高遠城内で会わせることに成功したのである。水沢隆広は信忠と松姫双方に知遇があり、隆広だから二人を会わせることが出来たとも云える。しかし幸姫は信忠正室の自分をまるで無視し、いや無視どころか自分の心をズタズタに傷つけた隆広を憎悪した。

 

 松姫は隆広に助けられ一命を取りとめ、武州恩方(東京都八王子市)に隠棲する。それを信忠に知らせたのも隆広である。信忠は松姫に『正式に側室として迎えたい』と要望し、松姫は了承。松姫が岐阜城に来るのを子供のように胸ときめかせて待つ良人の姿。もう幸姫の心は信忠から離れていたが、彼女の実家の塩川氏は織田政権下で二万石を与えられている家。織田の世継ぎである良人を怒らせてはならない。父から若君に不快な思いをさせるでないぞと厳命されている。幸姫は他の女に思いを寄せている良人に対しても『理想の妻』でなければならなかった。信忠に『松姫と仲良くしろよ』と言われれば笑顔でハイと言い、心離れている良人にも優しく尽くさなければならない。良人に抱かれるのも嫌で仕方ない。しかしそれは露ほども態度に見せてはならない。幸姫の鬱憤は並大抵のものではなかったろう。その心の平静を保つに彼女は隆広を憎悪するしかなかったのである。

 

 本能寺の変において信忠は戦死したが幸姫は涙一つ見せなかった。それからしばらくして水沢隆広は羽柴秀吉に降り、落飾した幸姫は徳寿院と名乗り秀吉に越前守と会わせてほしいと要望。三法師の母親の願いでは無下にも出来ない秀吉は水沢隆広、つまり柴田明家と会わせた。会うやいなや徳寿院の明家への罵りようはすさまじく、明家も知らない間に一人の女をこれほど傷つけていたのかと驚かされた。

『一生そなたを許さぬ!何が絶世の美男子か、私には悪鬼羅刹にしか見えぬ!』

 謝るしかない明家であるが、徳寿院は明家を許さなかった。後世視点から見れば徳寿院の明家の憎悪は言いがかりとも云えるし、憎悪の尺度が異様に大きい。これは信忠に言いたいことがあってもそれを発することはおろか顔に出すことも許されないと云う彼女の立場がそうさせたのかもしれない。すべての諸悪の根源は水沢隆広。彼女はそう思い込んでしまっていた。

 

 信忠の墓参を松姫が望んだ。松姫はその取り計らいを明家に頼んだが、徳寿院も松姫上京の知らせを聞いた。今はただの尼僧の松姫。片や秀吉の庇護を受ける三法師の生母。徳寿院にはそれなりの権力もある。明家は徳寿院が松姫に対し、かの中国の悪女呂太后が良人劉邦の側室であった戚夫人にやった復讐に比肩する暴挙(呂太后は劉邦の死後に戚夫人の耳、鼻、目、四肢を切り裂き便所に放った)をするかもしれないと察し、徳寿院側に出鱈目な上京日程の情報を流し、かつ京にいる間の松姫には徹底した護衛がなされたと云う。明家の見込みどおり徳寿院は松姫に呂太后さながらの復讐をしてやるつもりだった。当時は北条氏の領地であった武州。そこにいては手出しできないが京に来た時が捕らえる好機と見ていた。しかし明家に阻止されてしまった。これもまた明家を憎む理由である。

 

 そして今、その徳寿院は捕らえられ、明家の前にひざまずいている。明家を罵り続ける。いいかげん家臣たちも我慢の限界である。

 また彼女の実家の塩川家は私闘の罪で秀吉に取り潰されていた。日頃から不仲だった家と惣無事令を無視して攻めたのである。帰るところはもうなかった。そんな彼女が唯一自分の鬱憤をぶつけられる相手は明家だけであった。気の済むまで罵ったか、やがて徳寿院は大人しくなった。明家が静かに言った。

「貴女をそんな女としたのはそれがしの責任、お詫び申し上げる」

「お前では無い」

「では誰と?」

「私をこんな女にしたのは殿じゃ…!信忠様じゃ…!いつまで経っても松姫を忘れないから…!」

「……」

「世継ぎの秀信を生み、織田の正室と生母としての権威を握る。これが私の支えであったから良人の仕打ちにも耐えられた!だがその良人は死に、実家は秀吉に滅ぼされ、秀信は時節を読めず敗北し城と領地を失った。私は何もかも失った!もはやこれまで!」

 徳寿院は自決用の小刀を懐から取り出し、自分の心臓に突き刺した。

「な、何てことを!」

 駆け寄り、自分に触れようとした明家の手を叩き飛ばす徳寿院。

「越前守…」

「徳寿院殿…」

「せめて墓くらいは良人と二人で入りたい。後に松姫が死んでも、けしてその墓には入れぬと約束せよ…!分骨も許さぬぞ…!」

「……」

「あの世でまで、良人を取られてたまるものか…!」

 そのまま徳寿院は伏すように倒れ、息を引き取った。

「…丁重に弔え」

「はっ!」

 小姓たちが徳寿院の遺体を運んでいった。明家に歩み寄る鹿介。

「殿…」

「悲しい女だな…」

「はい」

「信忠様、隆広は幸姫様を救えなかった…。お許し下さい。せめて信忠様が幸姫様をあの世で幸せにして差し上げることを隆広は望まずにはおれません」

 後年、明家はこの徳寿院の言葉を守る。信忠の墓に松姫の骨を入れることはしなかったと云う。分骨さえしなかったと云うから生前の松姫も承知していたのであろう。

 

「父上!」

「ん?」

 情報収集を任せていた次男の藤林隆茂が来た。

「どうした?」

「黒田、田中、藤堂は大垣に進路を執りました」

 黒田長政、田中吉政、藤堂高虎は岐阜城攻略に間に合わなかった。柴田、福島、池田に合流しようとせず、そのまま大垣の方向へと転戦したのである。そのころ石田三成は大垣城を出て清洲への中途にあたる沢渡村に陣を張り、合渡川に守備隊を派遣し、東軍の進攻に備えていたのだ。それにしても三成には大きな誤算である。一日あまりの戦闘で最重要拠点とも云える岐阜城が陥落してしまったのであるから。しかもその指揮を執っていたのは柴田明家である。

「そうか、ではそろそろ合渡川の守備隊と接触の見込みだな」

「はい」

「彼らなら難なく守備隊を粉砕しような。よし、福島と池田、他の諸将にも知らせよ。我らも大垣に進軍。場合によっては大垣も攻めなくてはなるまい」

「承知しました」

 隆茂は陣を出て行った。

「さあ、気持ちを切り替えろ。我らも大垣に進むぞ!」

「「ハハッ!!」」

「各々持ち場につけ。一刻後に西へ向かう」

「「ハハッ!!」」

 柴田将兵は本陣から出て行き進軍に備えた。

「それにしても…」

「どうされた殿」

「鹿介、西軍はあまり足並みが揃っていないようだな。後手に回りすぎだ」

「そう思われますな。殿が西軍の采配を執っていたならどうなさいました?」

「俺が治部の立場なら福島の内府寄りを読み、挙兵と同時に大軍を濃尾に差し向け留守部隊しかいない手薄の清洲を落としている。正則殿ならば城に豊富な兵糧を備蓄していると考えなければならない。西軍にはそれだけの時間と兵力はあった。また畿内は京があり、大坂もある。最初から戦場は濃尾と見越し、伏見城は仕方ないとしても留守部隊しかいない俺の城や京極殿の城など無視して西軍全軍で東に進路をとったろう。兵力分散しているゆとりはない」

「確かに」

「いや、待てよ…。治部が大垣を橋頭堡に選んだのは何かわけがあるかも…」

「どうされた?」

「大垣…。大垣…。そうか!鹿介、至急田中吉政殿に文を届けよ」

「はっ!」

 

 明家の予想通り、東軍は合渡川の守備隊を蹴散らして大垣に進軍していた。その一隊である田中吉政の元へ明家から文が届いた。それを読んだ吉政は大急ぎで黒田、藤堂、細川に前進をやめさせた。陣を作り話し合う諸将。

「「水攻め?」」

 驚く諸将たち。それを聞くや細川忠興は大爆笑。

「おいおい兵部(吉政)、治部は武州忍城で水攻めを画策し、結局途中で放り投げたであろう。水攻めは太閤殿下だからできた城攻めぞ」

「越中守(忠興)、その油断が危ない!忍城と大垣では地形が違う、大垣は輪中ぞ!」

「え…?」

 輪中とは近隣の川より地形が低い地域のことである。大垣は揖斐川に近く、その防波堤を築いてある。反して例えに出た忍城は逆。あのおりに石田三成が水攻めを途中までやったのは秀吉に『水攻めで落せ』と命令されていたからであり、それを明家の取り成しで兵糧攻めに切り替えることが出来たのである。

「簡単に略図を描いた。見よ」

 地形図を指す吉政。

「大垣の周囲は平野だ。だがここと、ここと、そしてここの土手を決壊すれば大垣に攻めている将兵は水没。我らも終わりだ」

「大垣も沈むではないか」

「大垣が空城だったら何の影響もないわ」

「考えすぎではないのか…?治部にそんな壮大な攻撃が出来るとは思えないが…」

「治部は齢十八で九頭竜川の治水を成し遂げた男だぞ。条件が揃えば水を兵にすることもやってやれないことはない。油断するな!」

「……」

「甲斐守(長政)と和泉守(高虎)はどうか?」

「確かに兵部殿の申すとおりだ。となれば我々は水攻めに影響なく、かつ大垣になるべく近いところに陣取り、そのうえで内府を待つのが得策と思うが」

 と、藤堂高虎。

「それがよさそうだな」

 黒田長政もうなずいた。安堵する田中吉政。明家は吉政が治水巧者と知っていたから文を届けた。諸将を説得できなければ自分を頼みとしてくれた明家に面目が立たない。

「……」

「どうされた越中殿」

 吉政が忠興を見ると不満げな顔をしていた。

「いや、またしても越前殿に功名が」

「仕方あるまい、越前殿は美濃育ち、地形に通じるに我らより一日の長ある。もし水攻めが本当に敢行されていたら我らは窮地に立たされていた。事なきを得たのだ。素直に感謝すべきであろう」

 忠興の不満を一笑に付す高虎。

「まだ不仲なのでござるか越中殿と越前殿は?」

 長政が訊ねた。

「そんなことはござらん、越前殿が太閤殿下にお仕えした頃には儂も若く嫌味を言ったが今は大名同士として親交はしております。だが武将として嫉妬を感じずにはおられません越前殿の才覚は」

 忠興は明家の才幹が羨ましくも恐ろしかった。

「明後日には岐阜城を攻めた連中も合流しよう。今日はもう少し進軍し赤坂で陣を張ろう。あそこなら水攻めは影響ないし、大垣にも近い」

 吉政が言うと諸将は同意、進軍を開始した。八月二十四には先発隊の全軍が大垣城西北の赤坂に集結し、家康の出陣を待つことにした。そこへ明家たちも合流、大垣城に対峙した。

 

 石田三成が輪中の地形を利用した水攻めを敢行しようとしたのかは現在も判明していないが、彼の治水能力ならば実行しようとしたとしても不思議ではなく、明家が地形を警戒し、前線の田中吉政に注意を呼びかけたのはさすがの慧眼と云うところだろう。

 その三成であるが大垣間近に布陣した東軍に対応するため島津義弘、同豊久、宇喜多秀家らに大垣入城を要請して来襲に備えた。

 しかし東軍は一向に動かなかった。二十六日、三成は佐和山城に戻って防備を固める。一説では東軍が佐和山城を攻めるのを危惧してとあるが、佐和山城は秀頼を入れようという城である。万全の備えをしなければならないゆえ、そのために帰ったのだ。妻の給仕で食事を取る三成。

「柴田様が岐阜城を落としたそうですね」

 妻の伊呂波が言った。

「ふむ…」

「柴田様も殿も、大望は『戦のない世を作る』であるのに、どうして敵味方とならなければならないのでしょうか。殿と柴田様が手を握ればその世が作れると思うのに…どうして…」

「…どうしてだろうな。目的は同じなのに手を取り合い、共にそれに突き進むことが出来ない。人の歴史はこんなことの繰り返しだ。だから戦はなくならない。愚かなことだ」

「殿も愚かなの?」

「武将はみんな愚かなのかもしれないな」

 フッ笑う三成。

「若きころ、どうして戦うのか、どうして殺さなければならないのか、そんなことを考えて塞ぎ込んだこともある。しかしいつも結果は出ない。いや明確な答えを言える者などおるまいな。しかし徳川と戦う理由はある。天下の孤児、秀頼様を守るためだ」

「殿…」

「ありがとう伊呂波、この昼餉、特に美味いものであった」

「…お願いがございます」

「何だ?」

 ほほを染める伊呂波。

「ご、ご出陣の前に…私を抱いて下さい」

 ここに至って出陣の前に女は抱かないなどと云う理念など関係ない。最後となるかもしれないと伊呂波は思ったか、良人を求めた。

「うん、そういたそう」

 

 翌日、三成は再び大垣に向かい西軍諸将に関ヶ原周辺に参集要請。それに応じて諸将が動く。九月二日、北陸にあった大谷吉継が関ヶ原西南の山中村に着陣。九月三日、伊勢長島城を攻囲していた宇喜多秀家が大垣入城。九月七日、同じく伊勢方面にあった毛利秀元、吉川広家、安国寺恵瓊、長束正家、長宗我部盛親らが関ヶ原東南の南宮山周辺に布陣。九月十四日、病気と称し近江で形勢を傍観していた小早川秀秋が関ヶ原を一望できる松尾山に着陣した。

 ここは本来、西軍総大将となった毛利輝元が入る予定だった。が、輝元は三成の再三の要請にも関わらず大坂城に留まった。輝元には出陣の意志はあった。毛利輝元が茶々に述べた。

「御袋様(茶々)、毛利本隊を連れて秀頼様を擁して美濃に出陣いたします」

「…中納言(輝元)殿、それでは誰がこの城を守るのですか?」

「他の豊臣諸将がおりましょう」

「…聞けば増田長盛が家康に通じているとのこと。そんな中、中納言殿に出て行かれたらどうするのですか」

「御袋様…」

「何より、戦場に齢七つの秀頼を連れて行くとは何ごとですか。母として我が息子を戦の道具になど使わせませぬ」

 結局、毛利輝元は茶々の強い反対があり、出陣を見合わせた。茶々は自室に戻り、一つの文を広げた。兄の明家からである。まだ間に合う、実家である当家に戻れ、と云う内容である。三成と家康の戦いが避けられない事態となった今、明家は再三に渡り妹の茶々に柴田家に戻れと陣中から文を出した。徳川家康台頭に伴い、秀頼生母である妹にどんな災難が起こるか分からない。その家康の台頭を支持するしかない立場となったうえは、せめて妹をすべての騒ぎから退けさせて助けたいと思ったのだろう。茶々は返事を出さなかった。

「兄上、貴方が申したはずですよ。茶々はもうかわいい妹ではないのだなと…」

 城から大坂湾を見る茶々。

(兄上…。貴方は知らないでしょうが茶々は幼き日、兄上に恋をしました。北ノ庄の城下で初めて見た時から、もう私は兄上に夢中でした。だから父上に仕えたと知り、すごく嬉しかった。いつか隆広殿に相応しい女となり妻にしてもらおう、そう思ったから。でも兄上は私ではない人を妻とし、そしてやがて私は貴方の実の妹と知りました。こんなことがあるなんて本当に驚いた…)

 秀吉に妹を取り上げないで欲しいと必死に懇願している兄の姿。他者は未練がましい、みっともないと笑った。だが三姉妹は、そして茶々はそのみっともない姿が美しいとさえ思った。必死に妹を守ろうとしている兄の姿は今も忘れない。

(だから私は腹を括った。あえて羽柴秀吉の側室となり、そして兄上を助けようと。それが茶々の戦なのだと。しかし、私のその気持ちは単なる独りよがりだった。でも兄上、私は秀頼を愛しています。私は母親として七つの秀頼を醜い大人たちの戦の道具にしとうない。茶々は母として息子秀頼を守らなければなりません。どうして幼い息子を置いて、おめおめと実家に帰り、新しき縁を求めましょうや!たとえ歴史に悪女として汚名が残っても構わない。私は息子を守ります!)

 

 徳川家康がようやく重い腰をあげて江戸城を出発したのは九月一日、東海道を上り、十四日、赤坂の岡山頂上の本営に入った。西軍は家康の着陣を知り慌しくなった。三成は即座に手を打つ。島左近に五百の兵を与えて杭瀬川に出陣させた。奇襲先制で緒戦を飾り、味方の動揺を抑えると共に士気を鼓舞しようと思ったのである。結果は島左近と後詰に入った宇喜多秀家の明石全登の大勝利。西軍は落ちていた士気を取り戻した。

 この合戦の後、東西両軍で軍議が開かれた。東軍の意見は二つに分かれた。『大垣城を力攻めすべし』『大坂城を攻めて毛利輝元を降すべし』東軍諸将は軍議で白熱の議論を戦わせた。柴田明家は家康を除けば東軍最大の大名、軍議の席の序列も上座であるが、諸将の議論に耳を傾けているだけで自らは発しなかった。

「越前殿」

「はい」

「さっきから黙っておるが、何か考えはないのか?」

 家康が明家に策を求めた。

「諸将の意見を聞いて考えておりました。一つ述べさせていただきます」

「結構、申されよ」

 知恵者の明家がやっと発言する。諸将は静まり耳を傾けた。

「僭越ながら申し上げます。大垣城を攻めるのも一つの策にございますが、宇喜多秀家が主将になり、島津義弘、石田治部、小西行長が指揮を執れば攻略は至難であり、長引けば輪中の地形の大垣、揖斐川の堤が破壊され我ら水没するやもしれませぬ。また水攻めがなくても城攻めしている最中に関ヶ原方面にいる後詰が出てくることもありえます。とにかく大垣の攻略はしないと云うことです。ここは赤坂に一隊を留めて大垣に備え、まず佐和山を落とし、大坂に進軍すべきと存じます」

「それに続きを加えよう、良いかな越前殿」

「はい」

「いまそなたが言った作戦を西軍に流す」

「良いかと思います」

 心の中でニッと笑う明家。実は最後に『以上の情報を西軍に流して野戦に引きずり込む』とあった。だがそれをあえて家康に言わせたところが明家の上手さである。外様の自分が作戦の決定項を言わず、家康に言わせた。家康も気付いていただろう。心得た男よ、と心中で感心した。

 一方、西軍の軍議。二つの意見が出た。

「軍旅に疲れている今が好機、敵兵の多くは甲冑を枕に眠っている。家康の本営に先制攻撃をかけて勝機を掴むべし」

 島津義弘や宇喜多秀家は夜襲を主張する。石田三成と小西行長は

「輝元公と秀頼公の出陣を待って出撃すべし」

 と譲らない。

「今ここで夜襲をかければ敵は混乱し勝機は十分にある!」

 島津義弘も譲らない。この大垣に至るまで義弘の三成に対する不満があった。先の合渡川の戦いで三成は前線にまだ島津豊久の軍があるにも関わらず撤退を下命。それでは豊久が孤立すると義弘は猛抗議。だが三成は構わず後退した。

 軍議は長引いた。そしてここへ『東軍が佐和山城を抜いて大坂城に進撃する』と云う知らせが入った。ために軍議は中断。三成が全軍に下命。

「関ヶ原に出陣し、東軍を迎え撃つ!」

 いざ出陣と諸将が表に出ようとした時のことである。それまでずっと末席に控えていた戸田勝成が声をあげた。

「それがし、末席にありながら、中納言様(宇喜多秀家)、また奉行衆の方々にも、あえて申し上げる。こたびの合戦は大事なれば、利あらずの時は、それがしは一歩も退かず討死いたす所存。これについて御大身の方々に申し上げたい。人命を惜しむ慣いに石高の多少の別なし。もし、我ら小身者を眼前に捨て殺しにいたし、御身一人死を恐れ、この戦場を生きて逃れたならば、たとえ百年寿命を保とうとも、名は末代までも汚れましょう。この場で二心ある御方は、この武蔵守の言に恥じて、ただちに志を改めていただきたい!」

 それまで、ここにいることさえ忘れられていたであろう戸田勝成。だが、この東西の大合戦で死を覚悟していた静かなる武将は、気合の一声を発し、戦意に乏しそうな西国大名たちを一喝した。

 勝成は織田信長の馬廻りとして活躍しており、石田三成や柴田明家より三つ年上である。石田三成が答えた。

「戸田殿は若年より静かなる男であったのに、今この時にあたって、諸将を一喝される闘志のほどまことに頼もしい。味方の鼓舞と相成りましょう」

 さすがは三成、勝成の無礼千万とも云える怒号を全軍の士気昂揚へと転化させた。やがて全員大垣城を出て関ヶ原へ進軍していった。


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