野戦を得意とする徳川家康が東軍の作戦計画を意図的に西軍陣営に漏らし、大垣城にいる西軍主力を野戦に引きずり出そうと画策した。三成がまんまとその謀略に乗った。と、通説にはある。しかし西軍主力の関ヶ原への転進は決定していた方針であり三成の失策ではない。先の杭瀬川の戦いにしても東軍に大垣に篭城すると見せる陽動作戦であったとも云える。三成には篭城すると見せかけておいて夜陰に乗じて大垣城を抜け出し、関ヶ原での迎撃作戦を展開すると云う最初から決められていたのである。
東軍は家康の策が当たり士気上がるが、明家は三成が最初から関ヶ原で迎撃するつもりだったのではないかと考えていた。赤坂の明家の本陣。大垣を見つめる明家。
「殿」
「六郎か」
「入ってきた情報によると、治部殿は山中村に書を送付していた由」
山中村とは関ヶ原に近い村落のことである。三成の出生地の石田村とは目鼻の地であり親近感もあったろう。何より戦場付近の民を味方につける工作は当然の仕儀である。
「内容は?」
「申し訳ございませぬ。治部殿は読んだあと焼却するよう命じていたようで一通もございません。ただし書の送付された日付は分かります。九月十日でございます」
それは家康が岡山に到着する四日前の日付である。
「やはりな…。治部は内府に誘い出されたのではない。むしろ逆、治部が誘い出したのだ」
「何のために?」
「おそらく山中村の村民に陣場の差し図りを要望したのであろう。我らが関ヶ原に到着したころには完璧な布陣で待っているかもしれないな」
「…それを内府殿に報告しては」
「いや…その完璧な布陣もすべての備えが将の采配どおりに動けばの話。内府殿に報告に及ばない」
明家には毛利家の不戦と小早川家が味方すると云う情報が忍びから届いていた。
「しかし戦は生き物、何が起こるか分からない。柴田は柴田の戦をするのみだ…」
一方、家康には痛恨の知らせが入っていた。息子の徳川秀忠が真田親子の篭る上田城攻めに手を焼き、中山道への西進が大幅に遅れてしまったと云うことである。
真田昌幸が上田城に帰るとしばらくして昌幸の嫡男の信幸と本多忠政(信幸の妻、稲姫の弟)が徳川秀忠の使者となって上田城を訪れた。昌幸は二人を饗応したうえ極めて温和に
「我が方はまだ大坂方に味方すると決めたわけではない。内府殿の上杉攻めに甚だ不満であり、上田に帰ったまで。したがって秀忠公に敵対する気はない。勧めに従い明日にでも城を明け渡そう」
と答えた。真田が上杉攻めに不満を覚えると云うのは、先の徳川との上田合戦(第一次)において上杉氏は真田氏に援助した事にある。家康の発令した会津攻めも最初は出陣を固辞している。しかし『秀頼様御為』と言われれば拒否できず、渋々の出陣となった。昌幸はその経緯を逆用して徳川の使者を安心させる事にした。しかし信幸は
(なんと父上、この後に及んで十五年前と同じ策を…!)
と、父の策略を見抜いた。神川合戦において昌幸は寄せ手の徳川武将の大久保忠世に『降伏に応じて城を明け渡すが城の清掃のため三日間の猶予が欲しい』と述べた。それを入れた大久保忠世は三日間待った。しかし三日後、昌幸の使者は徳川勢に
『三日いただき、迎え撃つ準備は出来た。このうえは遠慮なく攻めてきて下され』
と、尻をペンペンと叩いて挑発して帰った。結果は徳川の大惨敗。この時は父の昌幸の元で共に戦っていた信幸であるが今は敵方の徳川軍に参じている。西軍挙兵を知り、会津から帰していた徳川秀忠軍に信幸はいる。信幸は秀忠から昌幸への降伏の使者を命じられた。
出来ることなら秀忠は上田を何の支障もなく通過して中山道を急ぎ諏訪に出て木曽路を通り美濃を目指して父の家康と合流し、天下分け目の合戦に臨みたかった。しかしこのまま西へ進軍するのには兵糧が心もとなかった。父の謀臣、本多正信が秀忠についている。秀忠に
『真田は一筋縄では行きません。兵糧が心もとないので押さえておきたい気持ちは分かりますが、備えだけ置いて西進すべきです』
と進言した。確かに真田昌幸は容易ならざる相手であるが三万以上の大軍であるし、今ここで真田を片付ければ中山道を通過しやすくなる。先の上田合戦の雪辱を晴らすこともできる。秀忠は上田攻めを決断。しかしまず調略をもって落そうとした。その使者が信幸で本多忠政と共にやってきた。そして昌幸は頭を丸めて二人の前に現れた。
「いやいや、いざ徳川と戦わんと勇んではみたものの、考えてみれば敵うはずもなく、こうして頭を丸めましてな」
それを聞いて忠政は
「それでは降伏勧告を受けると云うことですな」
「左様」
「やりましたな義兄上、これで秀忠様も喜びましょう」
「落ち着いて下され忠政殿、話がうますぎます」
父の昌幸を見つめる信幸。
(父上、今ならまだ間に合う…!徳川にお付きあれ!)
息子の目を見て、言葉には出さずともその心は分かる昌幸。フッと笑い忠政に言った。
「うますぎると言われても、それしか返答のしようもないゆえ是非もござらぬ。ただ忠政殿、城の清掃や家臣たちの身のふりなどで色々と時間がかかりますので三日の猶予を下され」
「分かりました、義兄上、本陣に帰りましょう」
「は…」
信幸と忠政に頭を垂れる昌幸を見つめる信幸。
(父上、此度もうまくいった、そう思っているかもしれませんが今度ばかりはいかに父上の軍才があろうとも、どうにもなりますまい…。そう言って止めても父上は止まらないのでしょうな。たとえ嫡男のそれがしが言ったとて…)
そして案の定、昌幸は三日後に降伏の約定を反故にした。
「太閤様のご恩忘れ難く、当城に篭りたるうえは城を枕に討ち死にし、名を後世に留めたく存ずる。願わくば路次のついでに当城をひと攻め、攻めていただきたい!」
と、一戦覚悟の挑戦的な返事に秀忠は激怒。真田信幸と本多忠政は上田の支城である砥石城に寄せてきた。しかし城を守る信繁(幸村)は兄と一戦交えるのは本意ではないと、むしろ信幸に功をたてさせるべく、早くも城を開城して上田城へ引き揚げてしまった。秀忠は信幸を砥石城に入りて守らせ、砥石城を落とした余勢から徳川と真田の戦いが始まった。真田昌幸は敗北を知らない智将、唯一の敗戦らしい敗戦は水沢隆広との津笠山の遭遇戦くらいである。三万八千の徳川軍に対して二千五百で戦い、一歩も退かない。昌幸を慕う領民たちも真田に加勢、自分たちの国を守るのだと退かなかった。城に登ろうとすれば煮えたぎる粥を浴びせ、土地で取れる細くて強い竹を矢として射る。上田の農民に徳川は散々に追い散らされた。
徳川の上田攻城は第一次と同じく、真田軍が徳川軍を城壁のそばまでおびき寄せて城から狙撃し、敵がひるむやいなや出撃、あるいは伏兵によって混乱に陥れ、ついに真田の勝利となった。徳川は大軍を投入するも、ただいたずらに時を浪費するのみで、ついに上田城を落とすことはできなかった。ついに秀忠は上田城攻略をあきらめて小諸城を発って美濃を目指した。上田で釘付けになって貴重な一週間を費やしたうえ、二度も大軍をもっても真田に敗北し、徳川の面子は丸つぶれとなったが、真田の武名は一段と天下に鳴り響いた。
秀忠の手元には八月二十九日付けの書状が届いていた。書状には遅くとも九月十日までには美濃に入るように書いてあったが、どんなに急いでも到底間に合うものではない。小諸を出陣した当日が期日より一日遅れている九月十一日であるからである。
その様子は家康にも伝わった。
「合流のめどが立たんようになったか…。弥八郎(正信)まで付けてやったに何て云う体たらくじゃ!」
家康は一人、陣屋で悔しさに拳を握っていた。
「ここに至って、徳川の主力、三万八千を欠いたまま戦わねばならんのか。どんなに磐石な準備をと心血注いでも、これで良いと云うことはない。どこから崩れていくか分からぬ」
目の前にある密書二通、吉川広家を経て毛利輝元からの密書、そして小早川秀秋からの書である。輝元は『味方にはなれないが、戦場で敵にはならない』と言い、秀秋は味方をすると申し出ているが西軍が小早川に接触していないとは考えられない。旗色で敵にもなるだろう。
輝元と家康は兄弟の契りを交わしており、かつ広家は親家康派、信用して良いだろう。秀秋は全く信用できない。しかしもう後には引けない。石田三成ら西軍は九月十四日に大垣を出て関ヶ原に向かった。家康は決断した。
「秀忠を待っておれぬ。決戦じゃ」
ついに天下分け目の関ヶ原へと向かう東軍。明家もその中にいた。
「関ヶ原か…。幼き頃に養父から馬を習う時によく行ったものだった」
「では地形などもご存知で?」
と、山中鹿介。
「一日の長、その程度だ」
「殿が治部殿ならどこに陣取りますか?」
「笹尾山か松尾山だろうな」
「手前も同じ考えにございます」
「ははは、明日は霧が濃いな、当たり前の話であるが夜露で火薬を湿らすなと徹底させよ」
「はっ!」
関ヶ原に東西両軍到着。敵軍最前線は福島正則、彼が先陣を希望した。家康はもっとも軍勢多く勇猛な柴田に任せようと思ったが、ここは明家が退いて、やや後方となった。両軍の間に深い霧が立ち込めていた。朝だと云うのに小鳥のさえずりさえ聞こえない。ただゆっくりと時間が流れた。
「鶴翼の陣だな…」
と、明家。傍らには影武者の白。美男子の優男と評される明家と比肩する美男の白は背格好も似ていたので、明家が丸岡五万石の大名になると影武者となる任が多くなり、くノ一舞の死後は完全に影武者のみとなっている。今では筆跡まで同じと言うほど徹底している。
「そのようです」
「やはり関ヶ原に誘い込んだのは治部が予定通りと云うわけか…。かなりの用意周到がなければ、あの陣場の構築は無理だ」
「勝てますか」
「陣形では明らかな敗北だな鹿介」
「ははは、戦の前に勝敗は決まったようなものですな」
「しかし治部の布陣した鶴翼、翼がすでにもげている」
「あいや殿、戦はどうなるか分かりませんぞ。こっちが劣勢になれば内府に味方を約束した者たちとて考えを変えましょう。とにかくこの場は踏ん張り、勝つしかありません。勝負は時の運です。徳川に賭けた今、その賭けの相手に最後まで付き合うしかございませんぞ」
「その通りだ。全力で西軍を討つ。今はそれが柴田の仕事だ」
明家は表情には出さなかったが、正則が敵軍最前線を希望し、自分にその役が回ってこなくて安堵していた。敵味方入り乱れての総力戦となると見込んでいたからである。それならば、少し後方にあり戦況を見つめられる位置にいた方が良い。何より撤退を余儀なくされた時には前線より素早く逃げられる。
そして午前八時、井伊直政と松平信吉が西軍の宇喜多勢に発砲。対する宇喜多隊も直ちに応射、天下分け目の関ヶ原の戦いが始まった!関ヶ原はたちまち激戦となった。福島隊六千と宇喜多隊一万八千は一進一退、両者一歩も譲らず、黒田長政勢五千、細川忠興勢五千は一斉に石田三成の軍勢に襲いかかった。石田勢も島左近や蒲生郷舎らが応戦、迫り来る敵勢を撃退してゆく。
柴田軍も静かに進軍した。しかし西軍には朝鮮における柴田勢の強さを知っている者も多く、中々攻撃を仕掛けない。だが小西行長が寄せてきた。
「相手にとって不足なし、迎え撃つぞ」
「「オオオッッ!!」」
朝鮮では味方として戦い、総大将明家の下命で終戦和議の使者ともなっていた小西行長。それと矛を交えることになった。
徳川家康は野戦が得意と云うが、この戦いではあまりそういう印象は受けない。太田牛一の手記によると、目の前の敵兵をとにかく討つと云う総力戦とも受け取れる。激戦をこの地で体験した太田牛一は次のように記している。
『笹尾山陣地跡敵味方押し合い、鉄砲放ち矢さけびの声、天を轟かし、地を動かし、黒煙り立ち、日中も暗夜となり、敵も味方も入り合い、しころ(錣)を傾け、干戈を抜き持ち、おつつまくりつ攻め戦う』
かなりの激戦であったことが予想できる。
石田三成の布陣は鶴翼の陣、法にかなったものであり、後年の明治時代に陸軍学校の教官として招かれたドイツのクレメンス・メッケル少佐は関ヶ原布陣図を見てすぐに『西軍の勝ちである』と言ったという。しかしどんな堅固な城や布陣、天の時、地の利があっても『人の和』が無ければどうしようもない。西軍でまともに戦っているのは石田、宇喜多、小西、大谷の軍勢だけである。島津は動かず、そして毛利も依然動かない。しかしながら西軍もしぶとい。桃配山の家康本陣。家康は焦りだしていた。
「いつまで手間取っているのだ!治部の首はまだか!!」
使い番に怒鳴ってしまう家康。本多正純が諌める。
「殿、落ち着いて下さいませ」
「これが落ち着いていられるか正純!毛利は盟約どおり動かぬが金吾(小早川秀秋)めは何をしているか!」
「動く気配はございません」
「黒田長政に今一度確認させよ!」
家康の使い番が黒田長政の陣に向かい、長政に『小早川秀秋の寝返りは確かなのか』と言うことを訊ねた。しかし敵勢と交戦中の長政は
「なにぃ?金吾(秀秋)の東軍側は確かなのかだと?我が軍はそれどころではない交戦中だ!」
「しかし黒田殿…」
「もしあの小僧が西軍として寄せてきたら黒田がひねり潰す!しかと内府に伝えよ!」
「は、はは!」
この報告を聞いて益々焦る家康、かつその報告を使い番が馬から降りずに伝えたものだから、さらに激怒。
「貴様、儂に対して馬上からの報告とは何事か!」
と切りかかった。使い番の野々村某は辛うじて避け、
「ごめん!」
と去っていった。家康は地団太を踏んで
「待たんかこら!!」
「殿、落ち着いて下さいませ!」
本多正純が諌める。家康のこの狼狽はとても一軍の将帥とは思えぬ振る舞いであるが、この家康の有様を見ても後世の歴史小説にあるような『最初から勝ちが決まっていた』の様相でこの天下分け目の戦いに挑んだわけではないと云うことが分かる。
三成は分かっていただろうか。家康の覚悟を。家康はこの戦いに負ければ終わりである。箱根の嶮を越えたら、あとは関東平野。守るものは何もない。この当時の江戸城はまだ太田道灌が築城したものに少しの改修を加えた程度、とても西軍の大軍を迎え撃てるものではない。つまり家康は負けたら後がない。反して西軍はどうか。たとえ負けても堅固な大金城の大坂城がある。負けても後があると負けたら後がないが戦うのでは覚悟が違う。
かつ家康には露見したら大変なことになる秘事がある。徳川本隊は弱いと云うことだ。秀吉に対抗した頃までは徳川家康率いる三河武士団は戦国最強と云えるだろう。しかし小牧長久手の合戦以来、徳川は大きな合戦をしていない。兵数はともかく、いかんともしがたい経験不足は明らかで精強とは到底言えない武士団。二度あった上田城攻めを見てもそう取れる。いかに真田昌幸の神算鬼謀があったとしても目も当てられない大敗である。もし徳川本隊が戦う局面となり脆弱と見抜かれたら最後である。家康の焦りもこんなところから生じているのかもしれない。けして後世が思っているように勝利を確信して戦場に立っているわけではない。柴田明家は徳川の兵が弱いと分かっていた。いや他の東軍将兵も口には出さずとも知っていたのではないか。何せ実戦を知らぬ者ばかりの軍勢である。少し考えれば分かることであるが、ならば何故家康に組したとならば、それは家康個人の器量であったろう。
「小西勢、敗走いたしました」
「よし、深追いは無用。備えを固めよ」
「はっ!」
松尾山を見る明家。ここに陣取る小早川秀秋、動く気配が無い。
「動かないな…。思いの他の西軍優勢に秀秋殿は悩んでいるかもしれないな…」
「ご自分から申し出たのでしょうかな、東軍に寝返ると」
と、前田慶次。
「寝返りではない。秀秋殿は元々東軍のつもりでいるだろう」
「は?」
「秀秋殿は朝鮮の戦が初陣。自ら槍をふるい活躍するが、彼は総大将として派遣されている。本来は日本の橋頭堡である城を守備すべきであったものの、前線で戦ったことが太閤殿下の怒りに触れ召還され、軽率な行動と激しい叱責を受けている。あげく領地を召し上げられたが、内府から取り成しを受けて大名として生きながらえた。その時から秀秋殿は内府に接近していた」
「なるほど…」
「治部や刑部は西軍勝利の暁には秀頼様が成人するまで関白職への就任と、上方二ヶ国の加増を約束するなどして西軍への加担を懸命に要望しているが、彼が慕う高台院様(ねね)は内府寄り、明確に応じたかは疑問だな。秀秋殿とて『関白にする』などと云う虚言に踊らされるほど阿呆ではなかろう。治部にそんな朝廷を動かす力はないことも知っているはずだ。現に彼は松尾山と云う要所を西軍から軍勢にものを言わせて奪い陣取っている。はなっから東軍として戦うつもりで来たのであろうが…」
「あろうが…?」
「この戦況を見て、自分が東西の勝敗を握ると分かってきた。さあどうするか、敗れる方につくわけにはいかないからな。しかし小早川一万五千が松尾山を降りて、もし東軍に襲い掛かれば徳川の敗北が決まる。慶次」
「はっ」
「位置的に我らを真っ先に攻めかかるだろうが幸いに距離がある。鉄砲と石礫で戦端を制し、すぐに柴田は退却を開始する。その時は殿軍を頼む」
「承知いたしました。西軍に襲い掛かれば?」
「我らも小早川に乗じて再び突出を開始するとしよう」
「殿!早く東軍に寝返り、松尾山を降りなければ!」
小早川家臣の平岡頼勝が懸命に訴えるが秀秋は動こうとしなかった。秀秋は秀吉の甥、そして養子となり世継ぎの候補ともなったが秀頼が生まれて、その資格はなくなり、やがて小早川家に養子に出された。
この関ヶ原の戦いでは当初西軍に位置し、伏見城攻めで武功を得るものの、それを三成は高く評価しなかった。秀秋は激怒した。これで東軍につこうと思い、家康に和議交渉して家康は三度目にしてやっと秀秋の使者に会い二ヶ国の加増を約束したのである。そして開戦、西軍は思いのほか強い。当年十九歳の秀秋は迷った。
「分かっている!分かっているが、何の因果か我らがこの大戦の趨勢を握ることになった。どちらにつけば良いのだ!負ける方につけば領地は減り、俺は殺される…!」
「いつまで考えておられるのですか!もう合戦が始まり一刻半(三時間)ですぞ!」
平岡頼勝が必死に東軍につき出陣することを訴える。同じ頃、いつになっても動かない小早川秀秋に焦れる石田三成。
「何をしているのだ小早川は!やはり東軍と内通していると云うことはまことであるのか!それとも戦の指揮も取れぬ腰抜けと云うことか!」
しかし現実、今は小早川秀秋の動向が鍵である。
「もう一度出陣の督促の狼煙をあげよ!今なのだ、今ここで毛利、小早川、長宗我部と云う鶴翼の翼が襲い掛かれば東軍の息の根は止まるのだ!なぜそんなことが分からぬのだ!」
笹尾山の石田本陣から狼煙が上がるが秀秋は動かない。業を煮やした家康はついに強硬手段に出た。使い番に訊ねる。
「松尾山に一番近い位置に布陣している軍勢は誰か!」
「柴田越前守様にございます」
「ならば越前に、松尾山を攻めよと伝えよ!」
命令を受けた明家は驚く。
「何だと?松尾山は陣城、かつ小早川は我らより多勢だぞ!」
使い番は続けた。
「続きがございます。徳川の鉄砲隊の旗を五十本、我らお持ちしました。これを越前殿が鉄砲隊に一時的につけさせ、松尾山の小早川陣に発砲あれと!」
「…威嚇射撃をせよと!?」
「はっ!」
「無茶です父上!真っ先に小早川の逆落としを食うのは我らでございますぞ!」
「いや勝秀…。これは上手く行くかもしれない」
「は?」
「越前、承知したと伝えよ!」
「はっ!」
「勝秀、大鉄砲を五十挺、至急鉄砲隊に用意させ、そして小早川陣に撃て!」
「父上!」
「今ここで弱みを見せれば小早川は東軍に殺到する!絶対とは言えん、これは賭けだ!俺は徳川に賭けた!ならば内府殿が仕掛ける大博打、乗ってやる!」
「父上…!」
「早く行け!」
「はい!」
柴田勝秀は急ぎ、大鉄砲を五十挺装備した鉄砲隊を用意、銃身重く反動がすさまじいため、二人一組で撃つ、まさに城攻め用の鉄砲である。それを松尾山に向けた。徳川鉄砲隊に化けた柴田の鉄砲隊、勝秀が号令一喝!
「撃てーッ!!」
小早川秀秋の陣に発砲した!突如ふもとから大轟音、小早川の旗指物が打ち砕かれた。そしてそれに呼応して家康本隊の兵が松尾山に寄せた。この時、秀秋は驚き、そしてようやく決断した。
「せ、西軍に突撃せよーッ!!」
小早川秀秋の軍勢が西軍に襲い掛かった。安堵した明家。
「ほっ…。動いてくれたか」
「殿、好機にございますぞ」
「無論だ鹿介、討ってでよ!」
「ははっ!」
柴田勢から山中鹿介が出陣、そして慶次は願った。
「殿、それがしこの戦が最後と決めておりました」
「うむ」
「ゆえに最後に我が儘を聞いて下され。単身討って出て、手前の戦に終止符を打つ良き敵を見つけたいと存じます」
「それは家老にあるまじき振る舞い…と言いたいところだが、そなたは生粋の戦人。主君とて止めることはできまい。思う存分に暴れてまいれ傾奇者よ!」
「はっ!」
突然の裏切りだったが、小早川勢の裏切りを予測していた大谷吉継はこれを迎撃し、一度は小早川勢を退却せしめる。しかし小早川勢の動きに同調した脇坂安治、赤座直保、朽木元網、小川祐忠ら西軍の諸将が次々に裏切り襲いかかり、大谷隊は壊滅した。大谷勢に属していた平塚為広は勇戦したが多勢に無勢、運命を悟った吉継は平塚為広と辞世を詠んだ。
『名の為めに 捨る命は惜しからじ 終に留まらぬ 浮世と思へば』
(この名を世に留めることができれば、命は惜しくない。もともと人は永遠に生きられないのだから)平塚為広
『契りあらば 六つの巷に 待てしばし 後れ先立つ ことはありとも』
(現世とあの世の境目である六道の辻で待っていてくれ。どちらかが先立つことはあっても、あの世でまた一緒になろうではないか) 大谷吉継
平塚為広は獅子奮迅の戦いをするが、やがて力尽き自刃、同じく戸田勝茂は赤鬼のごとき形相で小早川陣に迫る。
「金吾めがああッッ!!」
彼の部下は次々と討たれ、やがて彼は一人となってしまった。しかし槍を振るうことを止めない。やがて旧知の津田長門守信成と槍をあわせ、突き伏せられた。そこを織田家の家臣山崎源太郎が首を横取りせんと走り出た。勝成は山崎をキッと睨んで言った。
「将たる者の首を取るには法がある。貴様にその覚悟があるのか!」
一喝されて山崎はひるんだ。代わり、その主人である織田河内守(織田有楽斎嫡子)が
「うけたまわる」
と応じて、首を取った。
「もうよい、みなようやった。もはやこれまで。戦場より疾く退け」
と、大谷吉継。兵の一人が言った。
「殿、今生の別れにございます。また生まれ変わり殿の元で働きとうございます」
「馬鹿を申すな、今度生まれてきたら、儂のような愚将に仕えず、良き将に仕えよ」
「いいえ、殿に仕えます」
「…そうか」
「ではこれにて御免、我ら最後の一兵まで戦い、小早川の奴ばらを道ずれに致します」
兵は小早川勢に突撃していった。
「五助」
家老の湯浅五助を呼んだ。
「みな、行ったか?」
「殿、もう目が…」
「ああ、見えん」
「目が見えぬのに、よくあそこまでのご采配を」
「ははは、敗北の将を褒めるでないわ」
吉継は切腹の姿勢を執った。そして腹を切り自害して果てた。湯浅五助が首を持ち、戦場を離脱した。三成は軍机を叩いた。
「なぜだ…!陣形ははるかに当方が有利であったのに、毛利と長宗我部が寄せれば西軍は勝っていたのに…なぜ負けたのだ!」
「…申したはずでござる。人は義では動かぬ、親切で力は貸さぬと」
「……」
「だがそれがし、殿のそういう青くささが好きでござる」
「左近…!」
「さあ、戦場を退かれませ。それがしが敵を食い止めます」
「殿―ッ!!」
三成の使い番が来た。
「どうした?」
「渡辺様が!」
「新之丞が…!」
石田三成の側近、渡辺新之丞が戸板に乗せられて運ばれてきた。
「新之丞…!」
「おお、殿…」
東軍に攻め込まれた石田本陣の前に仁王立ちで立ち、敵を食い止めていた新之丞。しかし多勢に無勢であった。かつて羽柴秀吉と柴田勝家が万石を積んで召し抱えようとした豪傑の渡辺新之丞。だが彼が選んだ主君は石田三成であった。
三成が四百石で秀吉に仕えていたころ、その四百石丸ごと差し出して召し抱えた豪傑。三成にとって家臣であり、父と師であった。三成が柴田家に出向して水沢隆広に仕えし時も随伴し、手取川の戦いのおり震える三成を殴打し叱り付け、九頭竜川の治水のときも三成を支えた古強者である。羽柴家に帰参し、そして賤ヶ岳の戦いの後、三成は近江水口四万石の大名となった。いつまでも四百石ではと新之丞に加増を言い渡したが、彼は『それがしの加増などより、有望な士を召し抱え、家中を充実させられよ』と固辞。それで召し抱えられたのが島左近である。渡辺新之丞と島左近、三成を支えてきた両輪。その一方が今、天に召される。
「ご老体!」
「…ご老体はよせと言うたろう左近…」
「ご貴殿が…死ぬとは…」
「ふ…。左近、殿を頼むぞ」
「新之丞!」
「…悔いなどござらぬ。お先に参る」
渡辺新之丞は戦死した。万石を積んでも惜しくない豪傑と称された武将。石田三成に終生四百石で仕え、関ヶ原にて散った。
「すまぬ…!」
三成は戦場を一望した。
「このままでは終わらぬ…」
そして眼下に『歩の一文字』の旗が見える。
「越前殿、それがしはまだあきらめませんぞ…!」
この小早川の参戦により勝敗は決し、夕刻までに西軍は壊滅、石田三成は大坂を目指し伊吹山中へ退却。それを見届けた島左近は馬に乗った。
「わっはははは、勝つも負けるも戦、だから面白い」
「「左近様!」」
勇将の下に弱卒なし、左近の部下たちは剛の者ばかりだ。
「東軍の兵、一兵も生かして返さぬ。我らの死に花、ここで咲かせてみせよう。さもなくば我ら、新之丞殿にあの世にて顔向けできぬ!」
「「ははっ!」」
「儂に続けェ!!」
「「「オオオオオオオオオオッッ!」」」
この時に石田勢に寄せていたのは田中吉政である。
「治部が首をあげて功名と…」
その石田勢から突撃してくる軍勢に気付いた。島左近の旗。先頭を駆ける左近の形相たるやすさまじい。
「うおおおおおおッッ!!」
左近の軍勢は田中吉政の部隊を一気に後退させた。その次に寄せていた黒田長政も太刀打ちできないと悟り退却。だがその退却している黒田勢から一騎、島左近に向けて突撃する。
「何をしている退け…」
それは黒田勢の者ではなかった。前田慶次である。左近も慶次に気付いた。そして部下に命じた。
「手を出すでないぞ!戦漬けの儂が人生の幕を閉じるに相応しき漢が来てくれたわ!」
「前田慶次参上!」
「島左近勝猛なり!」
東西の豪傑が激突、まさに竜虎相打つの一騎打ちである。
「わっはははは!礼を言うぞ前田殿!その朱槍何よりの馳走よ!」
「なんの、貴殿が剛槍も至高の味よ!」
このままずっと戦っていたいと二人は思う。それほどの敵手に人生最後と言える合戦で巡り合えた。石田三成家老の左近、柴田明家家老の慶次、当然面識もあり親交もあった。しかし二人は口にはしなかったが、出来れば味方ではなく敵として会いたかったとお互いを思っていた。戦ってみたかったからである。やっとそれが叶った。だが夢の時間は短い。ついに慶次の槍が左近を貫いた。
「見事なりけり…!前田殿!」
「左近殿…!」
左近は強かった。慶次の呼吸も荒い。互いの武は拮抗していた。ただ慶次に武運があっただけだろう。
「儂の最期が貴殿で良かったわ…。礼を言う」
「左近殿、お見事にござる」
左近は静かに微笑み逝った。その首を横取りしようとした黒田兵がいたが慶次に殴り殺された。そして左近の亡骸を彼の家臣に返し、
「田中と黒田を退かせし島左近の軍勢の働き見事、この辺で退き主君を弔うがよろしかろう」
左近の家臣は慶次の言葉に従い、関ヶ原から後退を開始。田中勢と黒田勢が追おうにも慶次が立ちはだかっていて追えない。後に田中吉政は柴田の前田慶次が石田の退却を助けたと訴えたが、家康は慶次が左近に対して敬意を払ったに過ぎない、と取り合わなかったと云う。慶次は石田本陣の笹尾山をしばらく見つめていた。
「もう戦はやめだ…。左近殿以上の武人はいるまい。これで戦は無くなる。朱槍を置くべき時が来た」
愛槍の朱槍を見つめ、己が時代が終わったことを噛みしめる慶次だった。