天地燃ゆ   作:越路遼介

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外伝と言っても、この話のメインを飾るお姫様おふうは本編に登場していません。史実では奥平貞昌に嫁ぎ人質に出され、そして奥平家に捨てられて処刑された悲劇の姫。しかしその女性が生きていて、我らが主人公隆広殿の戦場妻になっていたら?というお話です。


戦場妻顛末記 壱【報恩の儀】

 天下人の柴田明家に仕え、やがて働きが認められ若狭国主となった藤林家。

 しかし、それに至るまでの道のりは平たんなものではなかった。

 藤林家はかつて信濃平賀家に仕えていた。しかし武田晴信、後の信玄に海ノ口城主平賀源心入道は討たれた。平賀家は滅亡となったが武田の追撃は平賀家の一族郎党にまで及んだ。後に最強の忍者軍団と呼ばれることになる藤林もこの当時は武田の透破衆に遠く及ばず、隠れ里を焼き打ちされてしまい、いつしか散り散りとなった。頭領の銅蔵や一族郎党は美濃にまで逃げて行ったが、食うに困り、ついには夜盗にまで身を落としてしまう。

 

 時を同じにして奥三河、銅蔵たちとはぐれて落ちのびてきた者がいた。いつの間にか二人だけとなった。藤林家中忍の聞多、下っ端くノ一の牡丹、二人は婚約をしていた。お互いが散り散りにならなかっただけでも僥倖と云えるだろう。

 聞多は婚約者の牡丹を連れて敗走し、銅蔵たちとはぐれてしまい、気が付けば美濃と逆方向の奥三河に逃げて行った。路銀は使い果たし、食うものもなくなり、もはや磨いてきた忍びの技を盗みに使うしかないと思った。戦国の世、負けて何もかも失った者に手を差し延ばす者などいない。聞多は婚約者を守るため、食わせるために夜盗になることを決めた。

 だが季節は冬、雪が降った。夜盗になる前に聞多は病を発して倒れた。牡丹も敗走に疲れ果ててどうしようもない。彼女も下っ端とは云えくノ一であるので武の心得は当然あるが、今は疲労の極地のうえに空腹、農民にも簡単に倒されそうであった。

「仕方ない、私が身を売るよ」

「だ、だめだ…」

 悪寒に震える婚約者を抱きしめる牡丹。

「このままじゃあんた死んじゃうよ!」

 その時だった。

「どうした?」

 一人の武士が傘を二人に差しつつ言った。牡丹は

「た、武田に滅ぼされた平賀家の者です…。住む家もなくし、こうして病の夫と途方にくれています」

 意識もうろうとしていた聞多は

(なに馬鹿正直に言っているんだお前は!)

 真っ青になったが、武士は特に気にすることもなく

「それはいかん、我が家は近くゆえ参るがいい」

 武士は聞多を背負い、自分の家に連れて行った。妻子が迎えた。

「旦那様、おかえりなさい」

「父上、おかえりなさい」

「うむ、おふう、すぐに布団をひきなさい。病の人がいる」

「はい」

 こうして聞多と牡丹は温かい寝床、食事までめぐんでもらったのだ。

 さすがは忍び、ぐっすり休んで飯を腹に入れれば聞多は回復した。見たところ大きな武家屋敷、ここの財を奪ってやろうと聞多は牡丹に持ちかけた。すると牡丹は烈火のごとく怒り

「あんたは我々藤林がどうして忍びと名乗っているか忘れたの?」

『忍び』『忍者』と云う言葉が定着するのは柴田明家の台頭後と云える。この当時は密偵、草と云うのが一般で戦国大名家によって乱破、透破、くぐつ、または野伏りと云うように称されている。しかし藤林はこの時点ですでに自分たちを忍び衆と称している。それは頭領銅蔵の兄、先代藤林頭領である銅夜が発した

『刃に心と書いて忍びと呼ぶ。我らの技は刃、しかし常に心ある刃である』

 この言葉にあり、それで自分たちを忍びと呼んでいるのだ。

「しかし、もう藤林は滅んだ。飢え死にするより」

「滅んだ一族なら、その誇りも捨て去ると?」

「いや…その…」

「私は戦で孤児となり、飢え死にしかけていたところを先代頭領に助けてもらった。貴方も確か先代に拾われた孤児だったわね」

「…そうだ」

「私たちの武は刃、常に心を持てと先代に教えられたでしょ。それは私たちの誇りであり絶対の掟のはず。『忍』からただの『刃』になるなんてごめんよ。ましてや私たちの大恩人である方に手をかけるなんて刃どころか凶刃よ」

「牡丹…」

「我らは忍び、その誇りを忘れるくらいなら飢え死にしましょう」

 そう毅然と未来の夫に牡丹は言った。この『忍びの誇り』は当時の頭領銅蔵さえ守り切れなかった誓い。だが、くノ一の中で下っ端と言える牡丹は守りとおした。

「いい?我ら忍びは復讐なら相手の眷属も全滅させる。それほどの執念深さが信条。同時に受けた恩義、かつ命をも助けてもらった恩義は命をかけて返すものよ!」

「牡丹…」

「そんなことも分からないのではあんたも大したことない。もう婚約破棄決定」

「わ、分かったよ!もう言わないよ」

 翌日、元気になった二人を見て武士は

「宿なしならば、ここの下男下女で置いてやる」

 とまで言ってくれた。この乱世にこんな男がいようとは。聞多と牡丹は感涙し改めて名乗った。信濃平賀家に仕えていた密偵であると。武士は

「儂は奥平家家臣の日近貞友と云う」

「妻の菊です」

「娘のおふうです!よろしくね!」

 以後、聞多と牡丹は日近家で働いた。貞友は奥平家の家老であり、君臣をまとめる古強者であった。生粋のいくさ人であるが他者に優しく思いやりがあり奥平家の中でも人望が厚い。聞多と牡丹を拾ったのもそんな気質ゆえだろう。

 聞多と牡丹は日近家の下男下女として懸命に働いた。よもや藤林が再興するなんて考えていない。隠れ里を焼き打ちされ、散り散りになった忍び衆がどうして再起など出来るか。忍びとしての誇りは忘れない。だがもう忍びとして生きて行くことは出来まい、そう思った夫婦はこのまま日近家で過ごしていこうと思っていた。

 聞多は主君貞友と戦場にも出て、牡丹は病気がちな菊に変わっておふうの世話をして家事を務めた。おふうも母親同様に病気がちだった。しょっちゅう風邪をひいたが牡丹は懸命に看病し、無事に成長していく。おふうは牡丹にとてもなついた。牡丹は笛がとても上手なので、教えてとせがむおふうに教えた。牡丹にとってもかわいい妹が出来たようで嬉しかった。

 

 しかし、それも終わりを迎える時が来た。藤林が美濃斎藤家の重臣水沢隆家に仕えると知らせが届いたのだ。主家藤林が忍び衆として再起を果たした。しかも主君は水沢隆家、ただの一度も負け戦をしたことがないと云う戦神と呼ばれる軍師だ。何たる幸運と、聞多と牡丹は喜んでいられない。正直複雑な心境だった。このまま日近家の下男下女で良いと思っていた矢先だったからだ。

 藤林家から帰参の命令書が届いた。つまり藤林はもう自分たちの居場所も掴んでいたと云うこと。このまま戻らないままでは抜け忍となる。聞多と牡丹が藤林の技を持つ以上、そう判断されてしまい、いつか抜け忍狩りに討たれるだろう。そうなれば日近家の者にも災いが及ぶ。聞多と牡丹は美濃に行くことを決めた。

 貞友は引き留めず、路銀まで渡してくれた。だがおふうは

「牡丹、行っちゃ嫌だよ!おふう、いい子になるから行かないでよ!」

 と、泣いて止めた。しかし、留まれば藤林の抜け忍狩りは『抜け忍をかくまった』として日近家の者も討つのだ。

「すみませぬ、すみませぬ姫様」

 おふうの泣き声を背中で聞き、涙を落としながら牡丹は夫の腕を掴んで去っていった。

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 聞多と牡丹は藤林の里に着いた。銅蔵やお清頭領夫婦と再会を喜ぶ間もなく諜報活動に追われることになった。特に銅蔵は忍びの誇りを捨てるくらいなら飢え死に、とまで牡丹が言い切ったと聞き、自分が守り通せなかった誓いを下っ端のくノ一が守り通したと大変喜び、くノ一の中でも中堅に置き、時に女童たちに忍びの心得を指導させた。

 

 このころ斎藤道三はすでに亡く、水沢隆家は道三の息子義龍に仕えていた。道三の娘の帰蝶が信長に嫁いだ時に生じた盟約はすでに解消されており、当時は戦時下にあった織田と斎藤。聞多は水沢隆家の覚えも良く、

「よく、そこまでの情報を掴んだ」

 敵対する織田家の軍備、そして信長が執ろうとしていた作戦まで詳細に掴んできた聞多を褒める隆家。

「はっ」

「これで信長殿を追い返せよう。感謝している。まさに儂の耳と目だ藤林は」

「ありがたき仰せに」

「長き潜入しての情報収集ご苦労であった。しばらくは休むがよい」

 戦神と呼ばれる水沢隆家は美濃に寄せる織田勢をことごとく追い返す。どうしても織田信長は水沢隆家に勝つことが出来なかった。稲葉山城に辿り着くこともなく、今回も負け戦で引き返していった。これも藤林が正確な情報を常に隆家に届けるからである。隆家からの恩賞で藤林家も豊かになっていく。

 しかし隆家は忍びに課す条件がとにかく厳しかった。潜入の際、商人や僧侶に化ける藤林忍軍だが、付け焼刃では必ず見破られると云うのが隆家の持論だった。それゆえ藤林忍軍一人一人が化ける商人や僧侶、薬師、はては博徒としても一流であったと言われている。聞多は博徒として信長の本拠地である清州や小牧山の城下町に潜み、日々チンチロリンやオイチョカブに興じて尾張の城下に溶け込み、情報を得ていた。

 一時はどうなることかと思ったが、聞多と牡丹は藤林家で場所を得て、忍びとしての務めを果たしていく。隆家様は名将、我らの暮らしも安泰だと確信していたが、藤林家にとって存亡の時が再びやってきた。

 斎藤家が織田信長の勢いに抗しきれず、ついに滅亡したのである。病死した義龍の後を継いだ龍興には美濃をまとめて行けず、そこを信長に衝かれた。信長は実際に隆家とは戦わずに斎藤家を追い落とす戦を徹底した。内外に敵を抱えた斎藤家は居城稲葉山を守れず、当主龍興は城を脱出していった。

 

 水沢隆家は織田家、朝倉家、上杉家、武田家からも家老待遇を約束されて仕官を請われたがすべて固辞した。

「おう、よしよし」

 銅蔵の妻のお清が赤子に乳を飲ませている。この赤子の名前は竜之介、やがて水沢隆広を名乗り、天下人柴田明家となる男子である。

「まあまあ、美味しそうに飲んでくれて嬉しいわ。きっと強い子になりますよ隆家様」

「ははは、ありがとう、お清」

「それにしても、そうですか。やはり武士はもう…」

 と、銅蔵。

「うむ、儂は今日から僧侶となる。家臣たちにも暇を出した」

「竜之介様の養育に集中されると」

「ああ、儂のすべてを教えようと思う」

「それが隆家様のご決断ならば何も申しますまい」

「銅蔵、お清、今まで苦労をかけた。至らぬ主君であったが、よく尽くしてくれたな」

「いいえ、隆家様は我らが商人として暮らしていけるようにして下されました。無学な私たちに農耕技術も教えて下されて…。藤林はもう十分独り立ちしていけます。我らのことなど気にせず、竜之介様のご養育に専念されて下さいませ」

 以後、藤林家は長きの雌伏の時を迎えることになる。この間に後に柴田明家の側室となるすずが生まれ、舞、白と云う次世代の忍びたちが誕生する。聞多と牡丹の間にも子が生まれた。玉のように愛らしい女の子で名は葉桜。後に隆広三忍に継ぐほど水沢隆広に重用されるくノ一で、白の妻となる女である。

 

 聞多は木こりと農夫として妻の牡丹と娘の葉桜と暮らしていた。一流の博徒であった彼は博打で妻子を食わせて行けたであろう。

 しかし隆家は『額に汗水垂らして働く喜びを忘れたら人間は終わり』と常々言っていた。その通りだと思う聞多。博打のあぶく銭で妻子を食わせたくない。聞多は斎藤家滅亡以来博打をしていない。頭領銅蔵の表の顔は美濃国の木こりの元締である。聞多はその下で働いて、そして与えられた田畑で汗を流す日々。そんな父だから、娘の葉桜も芯の強いくノ一に育ったのだろう。

 主家を失った藤林、しかし忍びの技は常に研さんしていた。藤林の里の方針であった。もし、あの竜之介様が隆家様の才と器量を受け継いだならば。銅蔵にそんな気持ちがあった。その時は再び藤林が乱世に躍り出る時、その時に忍びの技が使えなくなっていたら話にならない。

 聞多と牡丹も娘の葉桜に忍びの技を教えた。忍びの技は幼いころから教えなければならない。厳しい修行がもはや自然となるほどでなければ。隆家様はきっと竜之介様を同じようにお育てしているはず。聞多と牡丹もそう考えていた。だから後々、娘が若殿の役に立てるよう、そう仕込んでいたのだ。

「おい牡丹、朗報があるぞ」

 美濃の市場に野菜と川魚を売りに出ていた聞多が帰るなり言った。

「なんだい、お前さん」

「竜之介様が金山城の三男乱法師を石投げ合戦でとっちめたらしい!しかも竜之介様は町民農民の子わずか四人、乱法師は武家の子二十六人!」

「まあ、それはすごいわ!さすが隆家様が仕込んでいるだけはあるわね!」

「父ちゃん、竜之介様って?」

「おう葉桜、もしかしたらお前がお仕えするかもしれない若様のことだ」

「葉桜が家来になるのですか?」

「ああ、父ちゃんも母ちゃんも、竜之介様のご養父、隆家様に仕えていたのだ。我らがお前を幼いころから厳しく修行をつけているように、竜之介様も隆家様からそりゃあ厳しい修行をつけられているだろう。だから少ない人数で大勢を倒せたんだ!」

「ふうん、でも葉桜は私より喧嘩に弱い男の家来になんかならないもん」

 葉桜は同年代の男児と喧嘩しても負け知らずの暴れ者だった。

「うーん、それじゃ竜之介様は厳しいかな。石投げ合戦の様子を聞くと、どうやら我らの若様は隆家様と同じく」

 頭をトントンと指で叩く聞多。

「頭で戦する者のようだからなぁ」

「でも隆家様の教えを受けているならそうなるでしょ。大将は武芸なんぞ出来なくていいのよ」

「ははは、確かにな。しかし今でも思い出すなぁ、隆家様に最初にお会いした時に感じた恐ろしさときたら」

 忍びとしての武技に卓越していた聞多だからこそ、知恵者の隆家に会った時は背筋が寒くなった。天才的な軍師が醸し出す雰囲気に圧倒された。この方は戦の神だ、そう思った。後に葉桜も水沢隆広に対面した時に同様の恐ろしさを味わうことになる。

 幸せに暮らしていた聞多と家族たち。そんな彼らに一通の手紙が来た。昔に恩義を受けた日近家の内儀菊からだった。夫の貞友が亡くなった知らせに加えて、娘のおふうが主君奥平貞昌に嫁ぐことが決まったと云うことだった。

 聞多と牡丹は銅蔵とお清に願い出て、久しぶりに日近家を訊ねた。日近家は奥平家に父祖より仕えた家であるので、貞友が病にて死す時に貞昌の父の貞能が婚儀を約束して嫁に迎えることにしたのだ。菊が聞多と牡丹を出迎えた。

「まあ、聞多と牡丹、元気そうで」

「はい、奥方様もお変わりなく」

 深々と頭を垂れる聞多、あの時の貞友の情けは今でも忘れない。

「病気がちの私が旦那様より長く生きるなんて分からないものです」

「何を申します、まだまだ孫を抱くまでは長生きをせねば」

 聞多は自分の畑で取れた野菜を旧主の内儀に渡した。菊は喜び

「これは美味しそう、さっそくこの大根を夫の仏前に供えます」

 牡丹はおふうと久しぶりの再会をはたし

「姫様、まあ何と美しくなられて」

 涙が出そうなほど嬉しい。病気がちで、あんなに手を焼かされた主家の娘が何と清楚な美少女となっていることか。

「ありがとう牡丹、うふ、似合う?」

 花嫁衣装を婚儀まで待ち切れずに着てしまっている。

「よくお似合いですよ。ああ、亡き旦那様もさぞお喜びでしょう」

 その夜、貞友の仏前でささやかに再会の宴を開いた。

「それにしても主家の若殿に嫁げるとは誉れ、姫様、我ら夫婦、心からお祝い申し上げます」

「ありがとう聞多。私も嬉しいの」

「そういえば姫様は奥平の若殿に憧れておられましたものね」

「やだ牡丹、それ言っちゃダメと言ったでしょ(ポッ)」

 一度だけだがおふうは作手城下で若殿貞昌を見たことがあった。馬に乗って凛としている少年、子供心に憧れていたのだ。

「ふふっ、これで日近の家も安泰、私も亡父を弔うため、安心して出家出来ます」

「でも私が貞昌様の子を生んだら母上にも養育を手伝ってもらいたいです」

「ええ、いいわよ」

「牡丹と聞多も是非見に来てね。私の子供を」

「はい、産着を山とこさえて持ってまいります」

「姫様と若殿様の子ならば、きっと元気で聡明な子となりましょう。聞多も今から楽しみにございます」

 笑い合うおふうと牡丹たち、彼らの一番幸せな時であったかもしれない。

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 やがて美濃に戻り、普段の生活を送っていたが聞多の耳に聞き捨てならぬことが入った。奥平家が武田家に組したと云うのだ。奥平家は奥三河の小豪族、武田と徳川と云う強国と隣接し、どちらかに付かなければ生き残れない。それは小豪族の処世であるので仕方のないことだ。奥平家は徳川家についていたが武田の進攻に怯えて武田についた。

 しかし、聞多はこの判断が危ういと思った。

「信玄は確かに強い。しかしもはや齢は五十を超えている。病がちとも聞くゆえ、そう先は長くない。徳川寄りで通すべきであるのに」

「とはいえ、明日に信玄が死ぬとでも分からぬかぎり奥平がとるべき道はそれしかないでしょう。日近の旦那様が生きていればもう少しうまく立ちまわれたかもしれませんが…」

「姫様には、かような家の去就に無縁であってほしいが…そうもいくまい」

 聞多は自宅に作った貞友の仏壇に手を合わせた。

「旦那様、ご心配あるな、姫様に何かありし時は私がお助けします」

「お前さん…」

 旧主の姫の先行きを案じる聞多と牡丹、それを暗示するように数ヶ月後に訃報が届いた。菊が亡くなったと云うのだ。自宅に作った旧主貞友の仏壇、貞友の位牌の横に菊の位牌を並べて合掌する聞多と牡丹。葉桜も一緒だ。

「日近家は取り潰しになったらしい。奥方様が亡くなったうえ跡取りもいないからな」

 溜息をつく聞多。旧主の家が滅んだ。自分も無念だが、あの世の旦那様はどれだけ無念か。牡丹も同じ気持ちだ。

「妻の実家を…。奥平の殿様も無体なことを」

「当主の貞昌殿は姫様に『そなたが生んだ子に絶対に継がせる』と約束したらしいが」

「信じたいわね、その言葉」

 

 だが聞多の危惧は的中してしまった。奥平家が頼りとしていた信玄が死んでしまったのだ。奥平家のみならず武田家中は揺れた。武田家は信玄と云う巨獣がいればこそ、まとまっていたのだ。次代当主となった武田勝頼は奥平の動揺を察して、人質を差し出すように命じた。勝頼は当主貞昌の正室と実弟を差し出せと命じた。貞昌は拒否できず正室おふうと実弟仙千代丸を差し出すことにしたのだ。

「殿…」

「しばらく離れるのは寂しいが、奥平のため堪えてくれ」

 まだ夫婦となって一年しか経っていないが、良人の貞昌は私を大切にしてくれている。きっと迎えに来てくれると信じて疑わなかった。

「側室など作ったら許しませんよ」

「何を言う、かような愛しい幼妻を持ち、他の女などいらぬ」

 作手城の門で別れを惜しむように幼妻と口づけする貞昌、そしておふうは甲斐の躑躅ヶ崎館へと旅立った。二度と帰ってこられないことなど微塵も思ってもいない。

 

 武田に迎えられたおふう、勝頼は冷淡であった。

「奥から一歩も出ること相ならぬ、出たら奥平に叛ありと見て殺す。よいな」

 強すぎる武将と呼ばれるだけあり、武田勝頼の眼光は十五になったばかりのおふうには恐怖だった。仙千代丸は城内に、おふうは奥に案内されたが、まるで幽閉されているかのようだった。おふうは願う。

「早く迎えに来て、殿」

 自由のない、籠の中の鳥と同じになったおふう。しかし、そんな中でも慰みとなるものがあった。同じく小山田家から人質に出されていた月姫、自分より幼いのに歯を食いしばって寂しさに耐えていた。

 しばらく奥にいると、館表には行けなくても奥は自由に歩けるようになったおふうは、その月姫を可愛がったのだ。かつて牡丹が自分に教えてくれた笛を教えた。おふうも今に至り、それなりの腕前だった。やがておふうと月姫の間に信玄六女の松姫も入り、おふう、松姫、月姫は姉妹の契りを交わすほどに仲を深めた。おふう十五、松姫十二、月姫六つであった。

「素晴らしい音色です姉上様」

 うっとりとしておふうの笛を聞いた松姫と月姫。

「はい、私の御手製の笛です。欲しがっていたでしょ?」

 竹で作った笛を一本ずつ渡す。

「わあ、ありがとう姉上様!」

「大切にします!」

 もらった自分の笛を互いに見せて喜ぶ松姫と月姫。すぐに吹いたが旋律の整っていない音を出す。

「うまく吹けないなぁ」

「いいのよ月、最初はそれで。そのうち自然と覚えるものなのだから」

「はい、月は一生懸命練習します!」

「では姉上様、もう一度私ども妹たちに手本を」

「いいわよ」

 松姫の要望にもう一度笛を吹こうとした時…。

「おふう!」

 勝頼が来た。

「な、なにか?」

 松姫と月姫は怯えながら勝頼に平伏している。

「奥平が徳川に付きよったわ!武田を裏切った!」

「……え?」

「覚悟は出来ていような!処刑は明日行う!」

 呆然としているおふう、彼女自身何が何やら分からなかった。

「しょ、処刑?」

 松姫は急ぎ兄の勝頼を追った。とても怖い兄の勝頼、しかし姉妹の契りを交儂たおふうが処刑されるのを黙っていることは出来ず、勇気を振り絞った。

「勝頼兄様!」

 立ち止まった勝頼。

「なんじゃ」

 兄の眼光に体を震わせながら松姫。

「あ、姉上様は、お、おふう様は何も悪いことをしていません」

「……」

「処刑って殺すことですよね!どうして罪もない人を殺すのですか!」

「奥平の正室と云うことが、おふうの罪だ」

「…?…?」

「もう少し大人になれば分かるであろう。兄を許せとは言わん」

 勝頼は城に戻っていった。おふうは松姫と月姫とも離され、改めて仙千代丸と共に幽閉された。

 奥平家は再び徳川に帰参した。武田は勝頼の代になって急に斜陽となったわけではない。それどころか勝頼は信玄よりも領地を拡大させることに成功している。連戦連勝と言っても過言ではない。勝頼にしてみれば信玄に次代当主ではなく、世継ぎ信勝の陣代としてと指名されれば、家臣に対して重みがなく、戦によって勝利して家中を束ねて行くしかなかったからであろう。

 しかし、信玄の代から仕えていた重臣たちはこの勝頼の戦ぶりを危惧して諫言していた。勝ち戦で慢心となり、信長と家康を軽んじて戦を仕掛けて行けば必ず敗れて滅ぶであろうと。奥平貞昌もまた武田重臣と同じ気持ちであり、諫言したが勝頼は貞昌を信頼しておらず聞く耳持たなかった。新参と譜代の家臣に軋轢が生じていき、重臣の反対をはねつけて無理な戦を続ける勝頼。

『武田についていても未来はない』

 奥平貞昌は決断し、前々から誘降を勧める徳川に従い、奥平家は再び徳川についた。当主の貞昌は当然人質となっている妻と弟が武田に殺されることは分かっていただろう。

 だが、妻と弟の命を惜しみ、去就を迷えば家が滅ぶ。貞昌にとっても苦渋の決断であった。

 翌日になった。山県昌景を初め、多くの重臣が反対したが勝頼は考えを変えず、奥平の人質の処刑を決めた。幽閉されていたおふう。恐怖に泣く幼い義弟に

「大丈夫、殿が私たちを見捨てるはずがないわ」

「義姉上様…」

「ほらほら奥平の男子が泣くものではな…」

 牢が開けられた。兵はおふうの腕を掴んだ。

「残念ながら、奥平は武田を、いや正室の貴女まで裏切ったようじゃ。観念されよ」

「うそよ!」

「重臣方の中には奥平が正室返還を秘密裏に要求したら応じる用意もあったと云うに…何の音沙汰もない。哀れよの」

「義姉上様!!」

「心配せずともお前も同じく刑場の露となるわ」

 他の兵が仙千代丸の腕を掴んだ。死の恐怖のあまり泣き叫び暴れるが武田兵に殴られて気を失った。

「もう少し時を!殿が私たちを見捨てるなんてありえない!」

 貞昌はおふうと云う幼妻を大切にしていた。しかし奥平家の存続のため見捨てざるを得なくなった。おふうはあまりに哀れだった。彼女には良人貞昌に対する想いはあった。主家の若殿と凛々しき姿を見て子供のころから憧れていた。それが父の遺徳により妻になることが出来たのだから。夫婦になってからも大切にしてくれた。そんな良人が私を裏切るはずがないではないか。

 しかし貞昌はそんなおふうの気持ちを無残に踏みにじったのだ。

 

 躑躅ヶ崎館の外に作られた刑場、おふうと仙千代丸は連行されてきた。逃れられない死、ここに至り、おふうは良人の貞昌が自分を裏切ったことを思い知った。

 刑場の外では松姫と月姫が泣き叫んでいる。

「姉上様!」

「姉上様―ッ!!」

 無念のおふう、死の恐怖と裏切られた悲しさで涙がポロポロと落ちた。磔柱の前に座らされたおふう、勝頼が前にいる。

「言い残すことはあるか」

 悔しさのあまり、下唇を噛んだ。悔し涙を流しながら勝頼に言った。

「…次に生まれてくる時は人に生まれたくない。馬か犬に生まれたい。人は騙し合わねば生きていけません。人は畜生より劣るものです!」

 十五歳の娘が味わうにあまりに悲惨な末路である。勝頼とて本心では哀れと思い、逃がしてやりたいと思う。しかしここで許せば武田家当主として示しがつかないのだ。

「…人に生まれ変わるとしても、今のような乱世ではなく戦のない世に生まれるがよかろう…」

 勝頼は磔柱に縛り付けるよう命じた。着物を剥ぎ取られ、薄い下着一枚にさらされた。何と云う屈辱だろう。

「この後に及んでも、なおも私を辱めるか!武田と奥平に永遠に祟ってくれる!」

 おふうは磔柱に縛り付けられた。槍の穂先が何本も自分に向いている。

 涙が止まらない。悔しい、悔しい、良人は私を裏切った。

(あんまりよ…!死んでも許しませぬぞ貞昌!)

 その時だった。

 磔柱の上に一人の男が立った。

「…!誰か!」

 勝頼をジロリと見つめ、男は言った。

「日近家に恩を受けし者」

 おふうも気付いた。

「姫様、御迎えに参りました」

「聞多…!」

 聞多はおふうの両腕を縛る綱を切った。そして足を縛る綱は

「ぐわあ!」

「なんだ!」

 一人のくノ一が処刑人たちを斬り、綱を切って落ちるおふうを抱きとめた。

「姫様、遅れてすみませぬ」

「ぼ、牡丹!」

 聞多と牡丹が現れて間一髪のところを助けた。しかし仙千代丸は無理であった。

「ええい、仙千代丸を討て!」

 処刑人は仙千代丸を槍で突き殺した。

「うわあああッ!!」

「せ、仙千代丸―ッ!!」

「我ら二人では姫様が精いっぱいにございまする!」

 牡丹からおふうを受け取り、肩に担いで走る聞多。牡丹も共に走る。武田の兵たちも急ぎ追いかけた。追撃激しく、このままでは逃げ切れないと悟った牡丹は踏みとどまった。

「牡丹!」

「姫様を頼んだよ、お前さん!」

 立ち止まったのは一瞬、聞多はそのままおふうを担いで走り去った。

「聞多!牡丹が!牡丹がぁ!」

「命を助けてもらった恩義は命を賭けてでも返すものにございます。女房は本望と存じます!」

「聞多…!」

「旦那様にお助けいただいた我ら夫婦の命、姫様をお助けするためならば惜しくはござらぬ」

 牡丹は踏みとどまり、よく戦ったが所詮は多勢に無勢。捕えられ勝頼の前に連行された。

「何者か」

「かつて、おふう様の父上に命を助けてもらった貧しき者にございます」

「殺されるのが分かって助けに来たのか」

「命をお助けいただいた恩義は命を賭けてでも返すもの」

「…武田武士も見習うべき報恩の義を知りし者、まこと見事じゃが許すわけにはいかぬな」

「覚悟のうえ」

「最後に望みはあるか」

「されば、一時だけ笛を吹かせてほしゅうございます」

「許そう」

 牡丹は懐から笛を取りだして吹いた。おふうの無事と娘葉桜が幸せとなるようにと願い吹いた。それは見事な音色だった。勝頼は耳を傾け聞いていた。おふうから笛を教えられた松姫と月姫はあの方は姉上の師に違いないと思った。そして最後の音色に聞き惚れた。

「では姫様と同じ処刑を望みまする」

 牡丹は磔柱に縛り付けられた。

(お前さん、楽しい夫婦生活だったよ…。葉桜、父ちゃんのようないい男の元に嫁ぐのですよ…)

 何本もの槍が牡丹を貫いた。叫び声すら上げず牡丹は死んだと言われている。勝頼はそのくノ一をおふうとして処刑した。奥平貞昌の耳にも入ったことだろうが、そのさいに彼がどんな言葉を発したのか記録にはない。


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