天地燃ゆ   作:越路遼介

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ホームページで天地燃ゆを書いていた時は、一話で一万文字とか普通に打っていたんですよね。今は無理だな…。


戦場妻顛末記 弐【水沢隆広】

 ここは美濃の国、藤林山。後に柴田明家に仕える忍者衆藤林家の本拠地。

 そこに住む藤林中忍の聞多は大急ぎで家に帰った。

「おかえり、お前さん」

 美濃の市場から帰ってきた聞多は妻に告げた。

「た、大変だ牡丹」

「どうしたの?」

「奥平が徳川に帰参した」

「え、ええ!」

 ついに恐れていたことが現実となった。おふうは人質として殺される。

「牡丹、俺が助けに行く。お前は葉桜と共に健やかに生きよ」

「やだよお前さん、私も一緒に行くよ!」

「ダメだ。生きて帰ってはこられない。葉桜はまだ子供だ。母親がいなければ」

「いいやダメよ、お前さんの忍びとしての力は私もよく知っている。でも一人では絶対に無理!姫様を助けられないうえに犬死してしまう!」

「…」

「葉桜は里が面倒見てくれる!きっと後に竜之介様に重く用いられる忍びに育ててくれる!」

 藤林の強さは、この一族間の結束にあった。身寄りを亡くした忍びの子は里が育てる。

「押し問答している場合じゃない。お前さん、すぐに甲斐に向かいましょう!」

「牡丹、ありがとう」

 そのころ、ちょうど葉桜が修行から帰ってきた。旅支度をしている父母に驚き

「母ちゃんと父ちゃん、どこに行くの?」

 牡丹は葉桜を抱きしめた。

「か、母ちゃん?」

「いいかい、父ちゃんと母ちゃんはこれからある人を助けに行く」

「……」

「助けられたとしても、私と父ちゃんは敵に殺されてしまう」

「え…!」

「ごめんね、どうしても行かなければならないの」

「や、やだよ!葉桜も一緒に行く!」

 後年、女性でありながら柴田明家の軍事と諜報に八面六臂の活躍をすることになる彼女もこの時はまだ少女、突如父母との別れに得心出来ようはずもない。

 聞多も葉桜を抱きしめた。

「よい忍びとなれ。そして必ずや竜之介様のお役に立て!」

「父ちゃん…」

「許せ、ここで働かなくては父ちゃんと母ちゃんは忍びでなくなる」

 そう言って聞多と牡丹は家を出た。

「母ちゃん!父ちゃーん!!」

 

 泣いて葉桜は追いかけたが、追いつけるはずもない。藤林山のふもとで泣いている葉桜を白が見つけた。

「どうした葉桜」

「は、白、母ちゃんと父ちゃんが甲斐に!」

「甲斐…?まさか抜け…」

 いや、それならば娘も連れていくはずだ。白は急ぎ頭領の銅蔵に知らせた。葉桜も呼ばれた。葉桜は泣きながら伝えた。

『父ちゃんと母ちゃんはある人を助けに行く』

 それを聞いて銅蔵は世話になった日近家の姫を助けに行くつもりだと悟った。その日近の姫が奥平家の人質として武田の躑躅ヶ崎館にいると云うことは銅蔵も知っていた。確かな情報はまだ得ていなかったが、この聞多と牡丹の行動で奥平が武田を裏切ったと知った。

「お清、いま動ける忍びはどれほどか」

「二十人ほどよ」

「聞多、なぜ儂に相談しなかった!お前の受けた恩義は藤林の恩義!」

「そんなことを言っている場合じゃないわ。このままでは聞多と牡丹は!」

「分かっている。その二十だけでいい。急ぎ追いかけるぞ!」

 

 しかし、すでに牡丹は捕えられ処刑されてしまった。聞多も懸命に活路を開くが、おふうを抱きかかえているうえ、相手は多勢。

「はぁはぁ…」

「観念して、その娘を渡せ!」

 万事休す、と云うところに銅蔵たちが駆けつけた。この時に聞多を追いかけたのは、かつて藤林家を追い落とした透破衆ではなく、ただの武田兵である。個々の武力は藤林の方が強い。ましてや仲間を討つ者は許さない。武田兵を蹴散らした。

 

「頭領…」

「聞多!」

 ようやく武田の追撃を振り切ったが聞多の負傷は重かった。おふうにはかすり傷一つつけていなかった。

「来てくれたのですね…。あ、ありがとう」

「なぜ儂に助けを求めなかった。復讐は相手の眷属を全滅させる、命を助けられた恩義には命を賭けても返すが藤林、そなたの受けし恩義は藤林の恩義であるぞ!」

 重傷の聞多を抱きかかえた銅蔵。

「まだ我らは武田透破衆には勝てませんや…。頭領を始め多勢で動けば透破衆に気取られます。いまは雌伏の時、我ら藤林は竜之介様が世に出るまで力を蓄えておくべき…」

「聞多よ…」

「…姫様、私はここまでにございまする…」

「も、聞多!」

「これで…日近の旦那様に顔向け出来ます」

「し、死なないで!」

「頭領、お、お願いが…」

 銅蔵の腕を掴んだ聞多。

「俺と牡丹の受けし恩義が藤林の恩義であるのならば…ひ、姫様に安住の地を!」

「任せておけ。葉桜も立派なくノ一に必ず育てる」

「良かった…」

「聞多!」

「葉桜…。牡丹…」

 聞多は息を引き取った。

「聞多―ッ!!」

 おふうは聞多に抱きついて号泣した。

「藤林の誇りです。見事ですよ聞多、そして牡丹!」

 泣きながら称えるお清だった。

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 おふうはそのまま藤林家に行き、丁重に遇された。聞多と牡丹の一人娘、葉桜とも会った。何と言えば分からなかった。いっそ葉桜が木刀でめった打ちしてくれた方がどんなにらくか。

 しかし葉桜はおふうに二つの御守り袋を渡した。

「これ父さんと母さんの着物で作った御守り袋です。葉桜も持っているのお姉ちゃんに分けてあげる」

「いいの…?あなたのお父さんとお母さんは私を助けて死んでしまったのよ」

「…お姉さんを死んでまで助けたのに、娘の私がお姉さんを恨めるわけ…」

 突然、父母が死んでしまった。そんな悲しみに少女の葉桜が耐えられようはずもない。

「で、でも母ちゃんと父ちゃんに会いたいよう~。びええええッ!!」

 葉桜を抱きしめるおふう、一緒に泣いてあげることしか出来なかった。おふうは葉桜からもらった御守り袋を大切にして、片時も離さなかった。

 

 

 これより、しばらくして後、水沢隆家よりすべてを受け継ぎ、戦国時代最たる名将と呼ばれることになる水沢隆広、後の柴田明家が柴田勝家に仕えた。銅蔵を始め、藤林家の幹部は隆広を値踏みした。

 たとえ大恩ある隆家様の養子であっても、三流の男となっているのなら手は貸すつもりはなく、それどころか主君の名を汚す者として斬るつもりであったが、隆広は初陣より武功を重ね、かつ内政では十代とは思えぬ活躍をしている。家臣にも奥村助右衛門や前田慶次があり、大器の片鱗を見せていた。

 

 藤林家は隆広へ臣下の礼を取ることに決めた。精鋭三人の忍びを常につけて合戦時は藤林家すべてが参戦することになった。三流の男ならば殺す、特に葉桜はそれを思っていた。尊敬する父の聞多は『竜之介様のお役に立て』と言って生還不可能な務めに行った。自分もそのつもりで父母を失ってから懸命に修行した。その竜之介が三流であったら藤林に対する重大な裏切り。

 

 葉桜が初めて隆広を見たのは伊丹城攻めの時である。あの電撃的な水攻めに度肝を抜かれ、何より、あの織田信長に『間違っている』と言った胆力に驚いた。そしていざ向かい合って対面してみれば多くの武勲を立てているとは思えぬ優しい顔であったが、葉桜は気圧された。知恵者が持つ雰囲気とでも言おうか。私がこの方に勝てるのはたぶん個人的武勇だけだろう、素直にそう思った。やはり父ちゃんの言葉は正しかったと葉桜は嬉しかった。

 

 しかし、そんな藤林の動きには蚊帳の外のおふう。筆舌しがたいほどのつらいことばかり続いた。良人に裏切られ、見殺しの憂き目にあい、実弟のようにかわいがっていた仙千代丸は刑死。私を助けるために子供のころから大好きだった聞多と牡丹が死んでしまった。命は助かっても心が殺された。そう云える。武田から助けられて数年経つが、おふうの心は閉ざしたままであった。

 

 藤林家の者たちは親切だった。一族の者が受けた恩義は藤林家すべての恩義、忍び衆ではありえない掟とも云える。しかし、この報恩の義を尊ぶ姿勢があればこそ藤林家は後に一国の大名ともなれたのだろう。

 

 だが、誰もがおふうに親切であったのではない。里にある池のほとりにある小さな小屋、ここがおふうの庵である。銅蔵から下女一人与えられている厚遇ぶりだ。しかし、無駄飯食らいで働くこともしないおふうに

「あんた、いいかげんにしなよ。いつまで聞多と牡丹への恩義が通じると思っている」

 それは隆広三忍の一人、舞であった。おふうの庵の戸を蹴って入ってきた。

「恩義を施したのはあんたの父上、その人ならば我らは一生面倒を見るさ。でもあんたは娘、少しも偉くはないんだよ」

「……」

「心に傷を負い、立ち直れない。そんなことが許されるほど乱世は甘くない。その傷をはね返し糧として己が強さと出来ないものは死ぬだけなんだよ。分かっているのか腰抜け女」

「なら殺して下さい」

「はん、聞多と牡丹が命がけで助けた命を捨てると来やがったか。あいつら犬死だ」

「…なんですって?」

「本当のことだろ。あんたみたいな陰気で死んだ目の女、亭主に裏切られて当然だよ。あっははは!」

「許せない!」

「ほう、怒ることを忘れていなかったか。喧嘩なら買う、表に出な」

 

 しかしくノ一の舞に武技をまったく使えないおふうが叶うはずがない。おふうは叩きのめされた。

「悔しい…」

 悔し涙を落とすおふう。

「ふん、裕福な武家のお姫様と違い、私は物心ついたころから厳しい修行をしているんだ。この体だって任務のためなら男にくれてやる」

「下賤な!」

 倒れるおふうの頭を踏む舞。

「そうやって得た報酬の一部があんたの無駄飯に使われているんだよ!」

「……」

「命がけで、かつ体を切り売りして得た糧、それを働きもしない女にわずかでも使われちゃたまらないのよ、分かったか!」

 

 舞は去っていった。拳を握り地に叩きつけるおふう。悔しかった。心の病を負った者を温かく見守る、それは現在の話であり当時にそんなことが認められるはずがない。後に柴田明家による『心療館』が設立されるまで心の病を持つことそのものが負けであり死なのだ。舞に裕福な武家のお姫様と言われたおふうとて戦国時代の女、少なからずそれは分かっていた。

 

 だが強い叱責や感奮を促す挑発が有効ならば、心の病を治す方法は現在とっくに確立されているだろう。何もかも手につかなく、悪夢にうなされる日々、おふう自身とて心の病を治したい。いつまでも藤林家の居候でいられない。でもどうしたら良いのか。行くところはない。万策尽きたおふうはお清を訊ねて相談した。

 

「当家の若いくノ一に何か言われたの?」

「い、いえ」

「隠さなくてもいいわ。ごめんね」

「…でも言われたことは正しいです。みなには心の傷と聞多と牡丹に施した恩義を良いこと無駄飯を食べていると思われていても、それは当然のこと」

「では、どうしたいのです?」

「お役に立ちたいと思います。そのうえでどうか藤林家に置いてもらえないでしょうか。私には行くあてがないのです…」

「分かりました。忍び衆と言っても里には畑仕事や果樹栽培など仕事がいっぱいあります。それを手伝ってもらいます。考えてみれば心の傷もお天道様の下で汗水流して働いている方が気も晴れるかもしれませんし」

「あ、ありがとうございます!」

「そうすれば精気も取り戻し、あなたを見初める者も出てきましょう。当家で縁を得て、幸せとなりなさい。それを聞多と牡丹も望んでいるでしょう」

「はい」

 

 おふうは翌日から働きだした。もう心の傷なんて言っていられない。居場所は自分で掴むのだと。だから心の傷は治っていない。治ったと無理やり思いこんだのだ。武家の姫様なんて誇りは捨てた。生きる、悔しいがくノ一の舞の言う通り、聞多と牡丹が命を捨てて助けてくれたのだ。自分の命は自分で捨てていけないのだ。

 

 毎日仕事に励み、いつしか心に押しやった傷は完全に埋没していったようだった。悪夢も見なくなり、里の女たちと笑い合う明るさも取り戻したおふう。それと同時に藤林家は水沢隆広のもとで武勲を重ねていった。

 ある日の、田畑のあぜ道で桟敷を広げて弁当を食べるおふうと女たち。

 

「ついに武田が滅んでしまったわね…」

 元くノ一の葦が言った。彼女は任務中に負った傷がもとでくノ一を辞して、しばらくして結婚している。今では五人の子の母親。赤子を背負って野良仕事に励む彼女はもはや肝っ玉母ちゃんだ。

「武田が!」

「ああ、そういえばおふうちゃんは武田に殺されかけたんだったね」

 同じく元くノ一の麦が言った。葦とは同じ班に属していたくノ一である。巨乳の持ち主で相手を籠絡させての情報収集を得意としていたが、今では葦同様に肝っ玉母ちゃんだ。

「ええ、あわやというところを助けてもらって」

「隆広様、勝頼のもとどりを葉桜に与えたそうよ」

 と、葦。

「勝頼のもとどりを?」

 もとどりとはマゲのことだ。

「ええ、隆広様は信長様に首をさらせと命じられたらしいけれど、それを聞かず武田の菩提寺に届けちまったらしいのよ。でもその前に勝頼のもとどりを葉桜に与えたんだって」

「いきなことするよね~隆広様も。葉桜にとっちゃ勝頼は父母の仇だものね!」

「……」

「でも葉桜も心得ているものさ。勝頼は隆広様にとって恩ありし者、隆広様も本心じゃもとどりを葉桜に与えたくなかったはず。だから怒りに任せて粗略にしたらいけないと悟り、もとどりを天に掲げて『父母の仇、武田勝頼討ち取ったり!』と叫び、再びもとどりを繋ぎ合わせたそうよ」

「怒りに任せてもとどりを焼いたり踏みつけたとしても虚しいだけ。隆広様に遠慮したことが返って理想的な仇討ちとなったわね」

 麦が添えた。その通りだとうなずくおふう。

「しかし葦、私たちをかつて追いやった武田の透破衆も信長様に根こそぎやられちまった。力を蓄えいつか!なんて思っているうちに仇を取られちまった。ちょっと悔しいね」

「ま、その一翼に水沢家がいたんだから良しとしましょうよ」

「そうね」

「水沢隆広様か…」

「ん?なんだいおふうちゃん、隆広様に興味を持ったの?」

「い、いえ、私も隆広様が葉桜になさったことを粋と思い…」

「いいんだよ、藤林の女はみんな隆広様にベタぼれなんだから!」

 うっとりしている麦に訊ねるおふう。

「そうなんですか?」

「うん、もうすっごい美男子なのよ。それでいて戦も強くて頭もいい!家臣領民を思う慈悲の心あり!天は二物与えずと云うけど、ありゃ嘘ね!」

「私ももう少し若かったら戦場妻を務めるのだけどね~」

 同じくうっとりしている葦。

「戦場妻?」

「そう、戦場では男の性欲って平時より強くなるの。でも隆広様みたいな立場じゃ御陣女郎を買うわけにもいかない。その女が刺客であることもあるし。だから陣中にもついていき、伽を務める女が必要なのよ。いまは舞が務めているわね」

(舞…)

 かつて私の頭を踏んだ女…。あれ以来は会っていないが嫌いな女だった。

(水沢隆広様か…)

 

 この後、おふうは知った。彼女にとって義妹にあたる松姫を助けて、月姫も城を明け渡すと云う経緯はあれども隆広の計らいで無事であると。

(私を裏切った貞昌とは大違いの殿ね…。どんなお方なのだろう…)

 

 藤林家には武田滅亡と共に衝撃的な知らせも届いた。当主銅蔵の一人娘で、かつ隆広三忍の一人すずが背中に銃弾を受けて満足に歩けなくなってしまったと云うのだ。

 しかし、それに伴い隆広がすずに申し出たことが、またぞろ藤林家の女たちをときめかせた。

『俺がすずの足になる。一生な』

 銅蔵とお清はその申し出を受けて、愛娘を側室として嫁がせた。おふうもそれを伝え聞き

(珍しき大将、己が責任として歩けなくなったくノ一を側室に迎えるなんて)

 武田滅んで、しばらく平時となった藤林の里。久しぶりに舞が帰ってきた。祖父の幻庵に越前の旨酒を届けてからおふうが耕している畑に向かった。

 

「よう」

「…なんの用?」

「ご挨拶だね。まだ根に持ってんの?」

「当たり前でしょ。頭を踏んづけられたのよ」

 舞のことを無視して鍬を振るうおふう。

「あんたに頼みがあるのだけど」

「他を当たって」

「いや、頼むよ。他のくノ一にも色々と仕事があって」

 鍬を置いたおふう。

「なによ、聞くだけ聞くわ」

「私が隆広様の戦場妻やっているの知っているでしょ?」

「ええ」

「でも親友のすずが隆広様の側室になっちゃってさぁ、このまま戦場妻続けるのも何かと思ってね。私もそろそろ特定の男を見つけて落ち着かないと」

「まさか」

「ご賢察、あんたに隆広様の戦場妻を継いでほしいのよ」

「冗談じゃないわよ!いかに主君とはいえ、そんな身の安売りをするもんか!」

「ふーん、じゃあんた、このまま誰の妻にもならず、このまま鍬振って一生を終える気?」

「な、なに?」

「あんた、今でも亭主に裏切られた心の傷で男を信じられなくなっている。だから数度、この里で受けた求婚も突っぱねているんだろ」

「ええ、そうよ。男なんて信じられない。平気で伴侶を裏切る。確かに隆広様は優れた武将として私も敬意を持っている。でも男女となれば別よ!男を信じることのできない私がどうして戦場妻なんか」

 おふうが信じられる男は亡き父と、そして命がけで自分を助けてくれた聞多だけだ。

 

「言っとくけど、これは人事よ」

「は?」

「頭領に戦場妻を辞すと伝えた時『ではお前から見て隆広様が好みそうな女を探して後釜に据えよ』そう指示されたわ。で、真っ先に思いついたのがあんたというわけで私が推薦した。すでに頭領も了承している人事なの、これは」

「なぜ私を!私は隆広様よりずっと年上なのよ!」

「戦場では年上の女の方がいいの、あの方は」

「…?」

「隆広様はね、母親の愛を知らずに育ったのよ。だから戦場と云う緊張の中で、隆広様を癒すのは年上の女の方がいいの。ましてあんたのように乱世の無常を知る女ならね」

「……」

「他の武将なら美少年の小姓で間に合うこと。でも隆広様は男色に一切興味がない。ならば女が癒してあげるしかないでしょう。それに伽は単に性欲処理じゃない。隆広様を癒して、よき采配を執らせるためにも必要なの」

「…でも」

「それに、あんた里に来てから一度も山を出ていないでしょう。隆広様についていくと面白いわよ。色んなところに行けるから」

「……」

「とにかくこれは藤林の人事、あんたに選択権はない。数日中に隆広様のところに行くのよ」

「ちょ、ちょっと!」

「隆広様には私から伝えておくから」

 

 舞はおふうの畑から去っていった。その場にいた女たちがおふうに駆けていった。

「おふうちゃん!すごい幸運よそれ!」

「うらやましいわ隆広様の戦場妻になれるなんて!」

「冗談じゃありません!好きでもない男に抱かれるなんて!」

「「えっ?」」

 女たちは信じられない、という顔でおふうを見ている。何を言っているのか。

「おふうちゃん、これは頭領の命令なのよ。忍び衆にとって頭領の命令は絶対と知っているでしょ?藤林の掟なのよ」

「そ、それは…」

「いかに忍びの任務に就いていなくても、その掟は守ってもらわなくてはならない。隆広様の夜伽を務めるのが貴女の任務なの」

「…は、はい」

 これ以上、嫌がるそぶりをしていたら、おふうはその場にいた女たちに殺されていたかもしれない。掟に背くことは藤林に属する以上は許されないことだった。直感的にそれを悟ったおふうは受け入れたのだ。

 

 数日後、おふうは何人かの忍びに護衛されて現在隆広が城代を務めている加賀鳥越城に向かっていった。到着したころ水沢家はすでに合戦準備中だった。上杉家を攻めるため東進するのだ。城内ではさえとすずの目もあるので城外でおふうと会った隆広。

 

「おふうです」

「隆広である」

 隆広はおふうをジーと見つめている。いやらしい目、おふうは思った。

(いやらしい、男なんてみんな同じ)

「では明日の夜を楽しみにしている」

 そう言って立ち去った。そっけない。隆広の家臣から甲冑を与えられた。男装しろということだ。この先どうなるやら。

 しかし、おふうにも矜持と云うものがある。ただ主君と云うだけで女の命と云うべき身を差し出すなんてまっぴらだ。さっきの隆広の目、あれは体の線と胸の膨らみを見ていたのだろう。いやらしい、安易に私を抱けると思っていたら大間違いだ。

 

 夜になった。進軍一日目の夜営、水沢本陣の隆広の陣屋。おふうはその隆広の陣屋に入った。

「おふうです」

「待っていた」

「…よい御身分ですね。女が欲しければ家臣が用意して下さるのですか」

「え?」

「この乱世、女を知らずに死んでいく若者も多いでしょう。しかし隆広様は労せず私のような立場の弱い女を自由にできる」

「……」

「何様のつもりですか」

「もうよい、下がるがよい」

「ふん、自由にならない女に用はないですか」

「ないな」

「では、短い縁でしたが、これにて」

 

 これで藤林家に戻れなくなった。頭領銅蔵と隆広にも背いたことになるのだから。しかし覚悟のことだった。今の隆広との初見は賭けだった。名将とは聞いていたが、やっぱり男は嫌いだ。立場を利用して女を手に入れる。

 何様のつもりか、この問いの答えに期待していた。少しでも自分の心を得ようと努力してほしかった。しかし隆広は迷わず帰らせた。

 

 隆広はその気になれば現地の村娘や町娘を口説いたうえで陣に連れ帰ることも出来るだろう。しかし家臣がさせなかった。どんな刺客が潜んでいるか分かったものではない。だから水沢家中で、かつ素性がはっきりしている女が選ばれるのだ。おふうはその任に就いたが、大将の性欲処理に使われてはたまらないときっぱり隆広当人に断ったと云える。

 

 陣屋を出て間もなく藤林の忍びがおふうの背にスッと現れた。

「どういうことか、陣屋に入ってすぐに出てきたではないか」

 殺される、そう思った。任務失敗ではなく実行しなかったのだ。忍び衆に属する以上、これは許されない。

「きょ、今日は月のものゆえ御辞退申し上げました」

「ならば口で吸えば良いだろう。戻れ」

 ギュウと拳を握るおふう。そんな淫らなことが出来るか。

「戦場妻、断ったのだな」

「そ、そうよ!こんな簡単に女を得たら、隆広様は堕落する!」

 とっさに出た言いわけだった。

「もっと苦労すべきなのよ!男らしさや優しさを示したり口説いたり!なのにそんなの全部なしで隆広様は女を得ている!これが続けば隆広様は女を軽視し、ご養父様の薫陶の『女は大切にせよ』もいつしか忘れ去る!だから!」

「馬鹿かお前は、隆広様の気持ちは常に政治と軍事に向けられなければならぬ。お前の言う『女に男らしさや優しさを示したり口説いたり』そのものが武将として堕落なのだ」

「だけど…」

「まったく武家のお姫様は面倒くさいね」

「なっ…!?」

 後ろに立ったのは舞だった。男の声色なんて彼女にとっては簡単だった。

「ひ、ひどい!」

「しかし、とっさに出た言いわけにしちゃあ「ご養父様の薫陶の『女は大切にせよ』もいつしか忘れ去る」は的を射た意見だね」

「……」

「とにかく戻ってもらうよ、隆広様があんたを抱く抱かない、いずれにせよね」

「ちょ、ちょっと!」

 

 おふうの腕を掴んで隆広の陣屋に入る舞。

「あはは、隆広様、私の後釜に袖にされたらしいわね!」

「…ああ、ちょっと耳の痛いことを言われたぞ」

「とにかく私がもう一度好機を作ってあげました。あとは御随意に!」

 おふうの背中をドンと叩いて、戸を締めた。しかしおふうだけに聞こえるように舞は言った。

(二度はないよ)

 背筋が寒くなったおふう。今度隆広に口答えして出てきたら殺すと云うこと。たとえ抱かれずとも進展がなければ許さないということだ。

 

「立っていないで入ったらどうか」

「……」

 隆広の前に座るおふう。

「正直、効いたな」

「え?」

「さっき、そなたが言った『この乱世、女を知らずに死んでいく若者も多いでしょう。しかし隆広様は労せず私のような立場の弱い女を自由にできる』と云う言葉だよ」

「……」

「反論出来ないな。やっぱりだめかな、こんな若いうちから容易に女を得ては。知らぬうちに堕落してしまう」

 怒ってだんまりを通すかと思ったが、隆広は思いのほか素直におふうの言葉を受け入れた。おふうも話しやすくなった。

「そうです。女の心身を掴むには、それなりに苦労しないと!いかに偉い大将でも権力で女を得ていたら、その権力を失った時はみんな去ってしまって、みじめなものです。でも至誠で得た心は隆広様がどんなに没落しても変わりません。一緒に滅ぶことを選びましょう」

「つまり、結局は俺自身のためということかな」

「ご明察」

「ありがとう、しかしおふう、俺は当面上杉に神経を集中したい。そなたの心を得るには戦が一段落してからにする。それぐらいは待ってくれるかな」

「はい」

 

 おふうは男装し、そのまま水沢陣に留まった。破竹の勢いで上杉方の願海寺城、木舟城といった砦を落としていく柴田軍。軍師隆広の采配が冴えわたり、ついに越中魚津城に迫った。その陣中でのこと。水沢陣に御陣女郎がやってきた。いつも熱心に営業に来ていたが、その御陣女郎一団を取り仕切るやり手婆が

「今日の目玉はこの子さ」

 一人の美少女を水沢将兵に示す。松山矩久が

「おう、いくらだ?」

 訊ねるが

「だめだめ、この子は今日が水揚げなんだ。御大将の水沢隆広様しかお相手しないよ!」

 

 隆広は伝え聞いたが

「御陣女郎は抱かない。帰らせよ」

 と、陣屋で戦況を記録していた。しかし

「最近していないな…。いやがまんがまん、安易に女を得ては!」

 しかしやり手婆が大きく叫んで

「御大将!私たちも生活がかかっているんだよ~!ほら、お前も」

「私を買って下さい!でないとご飯食べさせてもらえないのです!」

 本日水揚げの美少女が訴えている。

「お願いです!あとでたくさんぶたれちゃう!」

 隆広は頭を掻いて、陣屋に手招きした。

「やった!寵愛を勝ちとってくるんだよ!」

「はい!」

 陣屋に入った娘、すぐに着物を脱ぎだすが

「抱く気はない。ほら」

 金を渡した。たとえ処女の水揚げと言えど破格の額だ。

「しばらくしたら、それを持って出て行け」

 机に向かい、筆を走らせ出した。

 

「…そんな優しいことをしても、私の父母と婚約者も殺したお前を許しはしない」

「な…っ!?」

「願海寺城城主、寺崎民部が娘のミツ!水沢隆広覚悟!」

 ミツは隠し持っていた短刀を抜いて、隆広に突進した。しかし

「くっ!」

 かろうじて避けた隆広は扇子でミツの短刀を叩き落とした。腕を掴んでミツの背中に回し、頭を床に押し付けて抑えた。

「願海寺城の姫だと?」

「お前が攻めてこなければ!私は父母と良人と共に幸せになれたのに!」

「……」

「仇討ち敗れたうえは覚悟のうえ。だが虜囚の辱めは受けない!」

 ミツは舌を噛んだ。

「……」

 

 一城の姫が御陣女郎に化けてまで仇を討とうとしたのだ。隆広への憎悪が知れる。

「誰かある」

「はっ」

 入ってきた小姓は驚いた。さっき入った美少女がもう死んでいたのだ。

「やり手婆を呼んでこい」

「は、ははっ!」

「し、知りませんよ私は!つい先日に餓死寸前のこいつを拾ってやっただけなんですよ!」

 必死に言い訳するやり手婆。だが嘘はついていないようだ。

「今後、お前の一団とは手切れとする。他の隊をあたれ」

「そ、そんなぁ!」

「この少女は当方で弔うゆえ、もう下がれ」

 たまたま藤林の陣にいたおふうは、少し遅れて騒動の知らせを聞いた。急ぎ隆広の陣屋に行くと小姓に止められた。

 

「おふう殿、いま殿はお人払いをされています」

「誰かと用談中?」

「いえ、お人払いをされて…あっ、おふう殿!」

 戸を開けたおふう、目の前に入った光景は隆広がミツの亡骸を悲しそうに見つめている姿だった。

「一人にしてくれと言ったであろう」

「隆広様…」

 事情は聞いた。柴田軍の別働隊として隆広が率いた軍勢が落とした願海寺城、その姫が御陣女郎に化けて隆広の命を狙ったと。その城攻めはおふうも見ている。城方も善戦したが、多勢に無勢だった。

 

「俺さえいなければ彼女は幸せだったろうにな」

「…それは違います。たとえ隆広様がやらずとも他の将が願海寺城を落としていたはず」

「…ありがとう」

 本当は声を出して泣きたいであろうに、それを必死に堪えている。この方は戦国武将としては、その才覚と器量と裏腹に優しすぎる。そして繊細なのだ。この気持ちはなんだろう。その悲しみを癒してあげたくてたまらない。

 

「隆広様…」

 気が付けばおふうは隆広を抱きしめていた。大将は感情を表に出さぬものが是と言われる。しかし大将であれ人間、徹頭徹尾強くいられるはずがない。隆広がおふうに示したのは『強さ』ではなく『弱さ』だった。弱さが出た時、それを癒し明日の強さに繋げるのが戦場妻の役目とおふうはこの時に知った。この方の戦場の妻となろう。おふうは思ったのだった。




次回、戦場妻編ファイナルです。

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