上杉攻めの柴田軍、ここで水沢隆広は刺客に襲われた。ミツと云う少女が御陣女郎に化けて隆広の刺殺を目論んだのだ。彼女は柴田軍の軍師、水沢隆広が攻め落とした願海寺城の姫だった。だが隆広に返り討ちにあい、自決して果てた。ミツは水沢陣中で弔われた。松山矩久が訊ねた。
「殿、どうして刺客をかように丁重に弔いますか」
「二つある。一つは女の身でありながら家族の仇を討とうとした気持ちを買って。もう一つは願海寺城近隣の民に柴田の慈悲を示すためだ。加賀攻めで柴田は少しやりすぎている。民心を上げるにはこういう機会も使わないとな」
「なるほど…」
本当は三つ目がある。ミツの幸せと人生を奪った自分の負い目からである。敵となったならば討たねばならないのが乱世とはいえ、何と悲しい武将の業だろうか。
「申し上げます」
使い番が来た。
「うん」
「一刻後、魚津に向かうとのこと。水沢勢も進軍の支度整えるようにとのことです」
「分かった」
柴田勢は魚津城の西二里の地に陣を作っていた。本日の進軍で魚津城の完全包囲が成るだろう。
「矩久、軍をまとめて進軍の用意」
「承知しました」
矩久と他の将が走り去るとミツの墓前には隆広とおふうだけとなった。
「違う形で会えれば愛しあえる男と女になれたかもしれぬのに…戦国乱世はむごいものですね」
「ミツ殿が今度生まれてくるときには戦のない世であってほしいものだ」
知ってか知らずか、処刑直前のおふうに勝頼が言った言葉と同じことを発した隆広。
「戦のない世…」
「年寄りが木陰で悠々と昼寝できるような世…。そういう世を作りたい」
「隆広様…」
「ははっ、上様…織田信長様の受け売りだがな。だがそういう世なら、ミツ殿のような思いをする少女はいなくなろう。そのために今は…現実から目を背けず戦い続けるしかない」
「……」
「おふう」
「はい」
「昨日は助かった。ありがとう」
「いえ…」
隆広もまた進軍に備えるべく、ミツの墓を後にした。
魚津城攻めが開始された。上杉景勝と直江兼続が援軍でやってきたが、柴田軍はあくまで魚津にのみ正対し、後方の景勝陣には強固な陣構えで備えて突出しなかった。数が少ない上杉軍は柴田軍から突出してきた部隊を各個撃破するしかなく、かつ森長可と滝川一益率いる軍勢が春日山に向かっている以上、景勝は早晩越後に引き上げるしかない。
それを知る柴田軍の軍師水沢隆広は徹底した無視を決め込むよう全軍に通達。上杉のどんな剛の者が名乗りをあげて戦いを挑んでも威嚇射撃で追い返す。
「隆広様の戦は変わっていますね」
と、おふう。戦場妻になることは決めたが、それは隆広に正式に伝えていない。当然まだ肉体関係もない。ただ給仕を務めているだけだ。
「そうか?」
「魚津将兵は兵糧もなく士気も減り、かつ上杉景勝率いるのは三千、両方とも今の柴田の勢いなら討てるのでは?」
「討てるが、相手の必死の抵抗を生み、柴田の犠牲も甚大だ。ほっておいても落ちる城、退却していくしかない援軍部隊、ならば動かざるごと山の如しが良い。敵さんが一番嫌がる戦法で、かつ柴田は楽だ」
「確かに言われる通りで」
「魚津の城兵はもう意地で戦っているようなものだ。だが全部がそうではない。こちらが用意した退路で逃げ出している者も多いと聞く。それらに危害を加えてはならないと云うことは厳命してあるし、そろそろ兵糧を魚津に送る」
「心を攻めるということですね?」
「そうだ、おかわり」
ちゃんとこうした武将としての強さも気づかぬうちにおふうに示している隆広。
しかし、おふうから見て隆広がどうも魚津攻めに集中しきっておらぬように見えた。それは後日に判明する。
やがて魚津に景勝から城を明け渡すよう指示が届き、魚津城は明け渡された。落ちる兵たちに危害は加えなかったが主なる守将は自決して果てた。その将たちが死している部屋に入った隆広。
「生きてさえいれば、いかようにも挽回できるのに…」
手を合わせた隆広は
「丁重に弔え」
家臣たちに命じた。
そしてその隆広のもとに日本史最大級の事件を知らせる書が届けられた。柴田軍は魚津を抜け、森と滝川と連合して春日山に寄せる軍議を開こうとしていた。軍議の時刻になっても軍師の隆広がこない。
「遅い、大事な軍議に遅参とは!」
鼻息の荒い佐久間盛政。そこに血相を変えた隆広が走ってきた。遅刻したので血相を変えているのかと思い盛政は
「遅いぞ!早く席に着け!」
「そ、それどころではありません!」
柴田諸将が隆広を見た。可児才蔵が訊ねる。
「どうした?そんなに慌てて」
「大殿が!」
「大殿がどうした?」
「討たれました!」
そう本能寺の変が起きたのだ。明智光秀が叛旗をひるがえし織田信長を討ったのだ。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
柴田軍は急ぎ撤退を開始した。せっかく手に入れた越中と能登二国を放棄して越前に引き上げを開始した。水沢勢も上杉に空城計を仕掛けた後に総退陣。
おふうも馬に乗って駆けた。戦場妻はお城にいる妻たちと違い、馬に乗れなければ話にならない。藤林に戦場妻の後釜を命じられて以降、馬術を習っていた。男装したまま隆広のわきで馬を駆った。その道中で気づく。北陸街道には撤退する柴田軍に備えて握り飯と塩、砂糖、水の補給所が随所に設置されていたことを。
「モグモグ、隆広様、これは?」
馬を駆りながら握り飯を頬張り隆広に訊ねるおふう。
「モグモグ、無駄な準備となってくれればと思ったんだがな」
「ゲプッ、では隆広様は明智が謀反を察していたと?」
「ゲプッ、危ういと思っていただけだ。人間悪い予感はよく当たるモンだ。ぐびぐび」
水をあおる隆広。おふうは悟った。どうにも隆広が魚津攻めに気持ちを集中していないと思っていたが、彼は明智光秀に疑惑を抱いていたのだと。
「さあ、もうすぐで加賀と越前の国境だ!走れーッ!!」
「「オオオオオ!!」」
越前に入った。もう北ノ庄まで一日の進軍で行ける。その夜営のこと。おふうの給仕で晩御飯を食べている。
「何とか、ここまで生きて帰ってこられたな」
「はい」
「ところで、おふうの北ノ庄での住まいは?」
「上忍柴舟様、いえ北ノ庄では水沢家御用商人の源吾郎様ですね。そのお屋敷に間借りして住まわせてもらいます」
「そうか、明日には北ノ庄に着くであろうからおふうに言っておきたい」
「はい」
膳をどかせて、おふうに正対した隆広。
「俺の戦場妻になってほしい。あの日、側にいてもらえて、どれほど俺の心が救われたことか」
「隆広様…」
「正室でなくてすまないが、戦場の正室として俺の傍らにいてくれないか。うんと大事にする」
「分かりました」
「おふう…」
「隆広様の戦場妻となりましょう」
この日、隆広とおふうは初夜を迎えた。関ヶ原の戦いに至るまで、隆広の戦場妻を務めるおふう。彼女が一番長く務めていることから、その寵愛さが知れるだろう。
その後、隆広は瀬田の合戦で明智光秀を討ち、官位も美濃守を受けた。隆広が智慧美濃と呼ばれるのもこれ以降である。清州会議のあと、隆広には安土築城が下命された。城普請におふうはついていった。
当たり前だが平時において戦場妻が夜のお務めをすることはない。舞や葉桜と同じく立場上は隆広側室すずの侍女である。普請場の給仕は女たちの仕事、安土の台所は女たちの戦場だった。
おふうは水沢家料理番の星岡茶之助に『美濃粥』の作り方を教わり、鍋に入れて普請場に持っていこうとしたところ懐かしい顔に出会った。
「月!?」
「あ、姉上様!」
それは躑躅ヶ崎館で姉妹の契りを交儂た小山田信茂の娘の月姫だった。小山田投石部隊が水沢家に召し抱えられていた。鍋を置いて月姫と抱き合うおふう。
「良かった姉上様、生きていて…」
「月もこんな大きくなって…」
普請場の給仕が一段落すると、おふうは月姫を連れて安土山に登って琵琶湖を見に行った。
「ここが私のお気に入りの場所。あんまり山登りきつくないうえに絶景が見られる場所なのよ」
琵琶湖の湖面がキラキラと輝き、そして空気もおいしい。すうっと息を思い切り吸い込んだ月姫。そして意を決し言った。
「姉上様、あの時に姉上を助けた方はあの後…」
「言わなくていい…。知っているから」
「姉上様…」
「私の命はあの二人にいただいたもの。だからとことん生きてやるの。どんなつらいことあったって、あの時に比べれば取るに足らないもの」
ふところから笛を取りだしたおふう。藤林に来て以来、一度も吹いていない。でも今日は懐かしい妹との再会。お気に入りの場所で吹くために持ってきた。月姫も
「私も持ってきました」
再会を喜ぶように一緒に笛を吹くおふうと月姫。月姫も上達していた。しばらくして唇を笛から離して月姫は
「あの方は死ぬ前、お屋形様(勝頼)に笛を吹かせてほしいと望みました」
それはおふうも初耳だった。
「それがこの音色でした」
あの日、牡丹が最後に吹いた笛、その音色を再現した月姫。おふうも一度だけ牡丹に聞かせてもらった音色だった。それは死の直前に吹いたとは思えないほど明るい音色。
「牡丹が日近の家を去る時に吹いてくれた笛、別れではない、いつかまた会えることを願っての音色と牡丹に聞いたわ」
「それを死の直前に…」
「私も覚えている。一緒に吹きましょ月」
「はい姉上様」
安土城が完成すると間もなく、羽柴秀吉が挙兵し織田信孝を討った。そして柴田勝家に宣戦布告、安土城は羽柴秀長率いる二万の軍勢に包囲された。ここも戦場となるが城内にさえとすずがいるので、これまたおふうに夜のお務めはない。あくまで藤林家の女として羽柴に立ち向かうまでだ。
睨みあいの緊張の中、おふうは体調を崩して寝込んでしまった。
「やれやれ、武家の姫様は弱いねぇ…。戦う前に倒れちゃうなんて」
舞に嫌味を言われるおふう。
「うるさいわね、病気の時くらい嫌味言わないでよ。ゴホッ」
「これ、藤林の薬師が作った薬、毎食後に飲むのよ、そして眠くなったら素直に寝ること」
「あ、ありがと」
「殿の話では、そろそろ羽柴と弓矢を交えることになるそうよ。一日も早く治ってよね。給仕に鉄砲の玉造り、女手はいくらあっても足りないんだから」
「うん…」
月姫が看護に来てくれた。用足しには自力で行けるが補助が必要だった。
「大丈夫、姉上様」
「風邪がお腹にいったかな…。ちょっとゆるい…」
ふう、とため息をついて床についた。しばらくすると
「おふう」
「と、殿」
隆広が美濃粥を持ってきた。美濃粥は水沢家料理番の星岡茶之助が元となる汁を作り、やがて米を入れて粥にしたところ、これが絶品で信長も大変好んだと言われている。さらに隆広はおふうに特別版を持ってきた。どんぶりの中に見たことのない具が入っていたので
「…?殿、この黄色と白のフワフワしたものは何です?」
「ん?これは卵だ。安土に養鶏場を作ったろ?熱した湯にとき卵をたらすとこのようになる。茶之助が思いついてな。これが実に美味い」
「卵…」
「とにかく滋養には卵が一番だ。アーン」
「と、殿、月姫殿の前ですよ」
「いいからいいから」
「もう…」
月姫はこの時点で隆広と義姉が男女の仲と気づいた。
「そういう仲なんだ」
卵入り美濃粥、パクリと食べたおふうは
「美味しい…!」
「だろ?ほらアーン」
「じ、自分で食べられますよ」
「あ、私はお邪魔でしたね。ふふっ、じゃ姉上様、後ほどまた来ます」
月姫は部屋を出て行った。おふうはペロリとどんぶり一杯をたいらげてしまった。
「体が温まりました。ありがとう、殿」
「明日また昼餉に持ってくるからな」
「はい」
「早く良くなってくれ。そろそろおふうとしたいし…」
「だーめ、さえ様とすず様がここにおられる以上、お相手出来ませんよ」
「ちぇっ」
「ふふっ」
数日後、おふうは快癒したが、その夜こそが安土夜戦当日だった。
「ひいはあ、病み上がりにはしんどいなあ」
握り飯と水を将兵の持ち場に運ぶのは女たちの仕事だ。さえの指示によりおふうは東の出丸に水を運んだ。出丸それぞれの銃眼の前には鉄砲が四挺立てて置かれてあった。もう臨戦態勢は整っていた。
「伸るか反るか…正念場ね…」
安土に援軍部隊が到着し、羽柴勢に夜討ちを敢行、水沢勢も出丸から容赦ない鉄砲攻撃。関ヶ原の戦いで伊達政宗に破られるまで無敵を誇った鉄砲術『鉄砲車輪』の前に羽柴勢は壊滅して敗走。大将の羽柴秀長は筒井家の柳生勢に捕捉されて討ち死にした。
大勝利に湧く水沢勢だが、隆広はすぐに賤ヶ岳に援軍に向かう。松波庄三が琵琶湖から水軍で駆けつけてくれた。水沢隆広の琵琶湖大返し、おふうは隆広の乗る船に例によって男装して乗り込んだ。男装と一口に言っても面倒なもの。長い髪は男と同様の総髪の髷とし、兜や甲冑、二本の太刀は女の身には重い。陣羽織も着て、ふんどしさえ締めると云う徹底ぶりだ。
「姉上様、大丈夫?病み上がりなのに」
その着付けを手伝っていた月姫。
「ええ、美濃粥と藤林の薬は本当によく効いた。もう風邪ひく前より元気になったって感じよ」
「……」
「どうしたの月」
月姫は安土夜戦勝利直後に隆広から
『小山田投石部隊、見事だ。さすが甲斐国中ゆいいつの勇将小山田信茂の精鋭たちよ』
そう言った。信玄の言葉を再現して父と家臣たちを称えてくれた主君隆広に月姫は心奪われた。昨日までなかった感情を義姉に抱く。義姉おふうは戦時中に隆広の愛を一身に受けるのだから。嫉妬心が湧いた。
「ど、どうしても姉上が無理ならば月が代わりにと思って…」
「は?」
「な、何でもありません。ご武運を!」
月姫は退室した。
「ご武運をって言われても私は戦わないのに…」
琵琶湖を北上していく大船団。大将隆広が乗る旗船に将は集まり軍議をした。おふうはその船室で待っていた。隆広がやってきた。
「おふう、血が滾ってかなわない。伽を務めよ」
「なりません。私を堪能するのは明日の戦いが終わってからです。開戦までもはや数刻、大将がここで体力を使うことはならぬこと」
「うーん、言われてみればそれもそうか、じゃ膝枕を」
「はい、開戦までしばしの休息を」
伽を務めよ、と言っていたわりに隆広はおふうの膝枕につくやスウスウと眠りだした。
「ふふっ、柴田と羽柴の天下分け目の戦いに挑むとは思えない寝顔ね」
そして数刻後、船団が琵琶湖北岸に到着するまで、あとわずかの頃合い。隆広は起きて
「今宵を楽しみにしている」
「勝って帰ってこられたら存分に」
「よし!」
船室から出て行った。軽い食事を済ませて全軍が北岸より上陸、稲葉良通の軍勢も加勢に駆けつけた。軍勢の行く様子を甲板から見守るおふう。
「殿、ご武運を」
天正十一年四月二十一日午前六時、水沢隆広が琵琶湖を大返し、羽柴秀吉軍に襲い掛かった。世に云う『賤ヶ岳の合戦』の第二幕が開いたのだった!
おふうはずっと琵琶湖に願っていた。隆広のデッチあげた竜神伝説を真に受けて、ひたすら琵琶湖にいるはずもない竜神に水沢勢の勝利を願う。祈りが通じたか、水沢軍は羽柴勢に勝利。羽柴秀吉は敗走していった。船団に戻り、おふうの歓迎を受けたが隆広は
「羽柴の追撃に出なければならない。とにかく今は船団が湖西に到着まで眠る」
まだ合戦は終わっていない。隆広の厳しい顔にたのもしさを感じるおふう。前の良人なんて比べ物にならない傑物。
「その前に美濃粥をお召し上がりに。留守の者と一緒に作りましたゆえ」
「おお、ありがたい!」
戦って疲れた後に美濃粥は本当に美味だ。腹が膨れると隆広は甲板で刀を抱いて眠った。やはりそうとう疲れたようだ。開戦直前におふうを抱かなかったのは正解だった。
琵琶湖の湖西に到着、羽柴の追撃に出た水沢軍。これにおふうもついていく。一緒に行くのが戦場妻の務めなのだから。丹波に着いて水沢勢は夜営。隆広は久しぶりにおふうを抱いた。
「良かったよ」
「ふふっ、ありがとうございます」
心地よい疲れの中、おふうの胸の中で眠っていく隆広だった。
翌日も羽柴を追う水沢勢、羽柴の通る道は分かっている。隆広は先回りして待っていた。そしてついに羽柴勢を捕捉した。だが隆広はみすみす大手柄を逃した。たとえ戦える状態でなくとも容赦なく討つと決めていた隆広だが、実際に見る羽柴軍はあまりに哀れだった。数は五十ほどに減っており、負傷している者ばかりで満足に歩くことも出来ない。隆広には討つことが出来なかった。
「あの方らしい…」
そうおふうは思った。秀吉を見逃した夜、おふうが伽を務めると言っても隆広は一人にしてほしいと言ってきた。
「それは出来ません。一緒にいるのが戦場妻ですから」
「おふう」
「横にいます。考えごとの邪魔はいたしません」
ふっ、と笑い
「ありがとう」
安土に帰り、隆広は勝家に大変な叱責を受けた。打ち据えられ全身が血だらけだ。前田慶次に背負われて帰宅したが、さえは思わず失神しそうになったほどだ。
しかし、秀吉を見逃す隆広を見て、おふうは
『たとえ正室でなくても、この方とこれからの一生を過ごせるのなら女として幸せなこと』
そう思った。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
隆広の負傷が癒えたころ勝家から秀吉討伐の軍令が出た。それに伴う軍議は負傷と謹慎のため出られなかったが、明日に出陣と云う段階になって、やっと隆広は出席できた。勝家はその軍議の席で水沢隆広が我が息子であると正式に明かし、そして世継ぎに指名した。隆広は柴田家若殿、柴田明家となった。
『出世払いでいい』
そう考えていた藤林は歓喜した。主君が大名の若殿であり、後継者に指名されたのだ。安土城下、隆広の御用商人源吾郎の屋敷にいる舞とおふう、舞は
「つあ~ッ!不覚だった!こんなことならアンタに戦場妻の座を譲るんじゃなかったよ!」
「ちょっと舞、六郎殿に言い付けるわよ」
「げっ、今のなし」
「ふふっ」
お腹が膨れていたおふうはニコリと笑った。賤ヶ岳の戦いの夜に受けた隆広の愛が大当たりしたらしい。懐妊していた。
「殿がお大名の世継ぎになられたよりも、私は殿の子を宿せたのが嬉しい…」
「となると…やっぱり縁がなかったのかなぁ隆広さ、いや明家様とは。何度もしたけど私は結果孕まなかったからなぁ…」
おふうの腹を撫でる舞。
「しかし、おふう、それじゃ姫路には一緒に行けないね」
「ええ、殿にも大事にするよう言われましたので」
「では初代戦場妻である私の返り咲きの好機だね。このおっきな乳でまたメロメロにしちゃう」
「ちょっと舞!」
「冗談だって!六郎あれで独占欲強いんだから」
「冗談に聞こえないよ、もう!」
姫路城攻め。柴田明家は先陣を務めた。佐久間盛政の謀反などもあり、一時安土は騒然となったが盛政は部下に裏切られ刑場の露となった。
羽柴秀吉は姫路城と運命を共にした。ここに柴田家は日本最大勢力の大名となった。領地の版図の大きさのみならず、京を中心とした畿内をほぼ手中にしている。天下取りに抜きんでた存在となった。この時、柴田明家わずか二十三歳であった。
しばらくして、おふうは無事に女の子を出産、賤ヶ岳の戦い当日に生を宿したと柴田家でも大変愛される姫となり、名は美濃姫とつけられた。隆広の官位名がそのまま名前となったのだから明家とおふうの喜びようが伺える。
またおふうには嬉しくも少し悔しいと云う複雑なことがあった。義妹の月姫が明家の側室となることになったのだ。
「姉上様、ごめんなさい。安土夜戦から私の態度、ちょっと悪かったでしょう」
「まさか私に妬いていたなんて思わなかったけど」
「だって、姉上様は戦時では殿の愛を一身に受けられるのだもの。…つい嫉妬しちゃって」
「でも今日から同じ殿方を愛する者同士ね。月の方が若いから、いずれ持っていかれてしまうかな」
「殿はお松姉上とも仲が良いですし…我ら三姉妹にとって殿は悪いお方です」
「ふふっ」
明家がおふうのことを戦場妻だとさえに話したのは、家督相続後である。それまでは隠していた。だが、それは愛妻を侮りすぎだ。すべてさえに筒抜けであった。戦場で自分は良人を癒せないのだから仕方ない。さえは知らないふりをしていただけなのだ。
側室を増やしたうえに戦場妻とは。さえの怒りも大変なものであったが、あの大病における明家の狼狽ぶりとさえへの献身ぶりは当のさえは無論、側室たちやおふうも驚いた。さえの看病をしている時、明家は他の女に一瞥もくれず、献身的に妻に尽くした。自力で吐き出せない嘔吐物さえ口づけして吸った。
とても御台様にはかなわない。
すず、虎姫、月姫はそれを思い知らされた。無論おふうも。でも、それでよいのだ。正室を一番としなければならないのだ。さえもまた、大大名になっても側室や戦場妻を持ったごときで良人の自分への愛情に陰りはなかった。私は何て幸せなんだろうと心底思った。
快癒後、さえは明家の女遊びに何一つ文句は言わなくなった。どんな若くて美貌の娘であろうと正室の私にはかなわない。ゆらぎない絶対的な確信があった。そしてその通りなのだ。明家は正室さえを一番大切にした。
紀州攻め、尾張犬山の戦い、四国攻め、九州攻めを経て、ついに徳川家康と雌雄を決する関ヶ原の戦いが迫った。このころになるとおふうは藤林家から暇をもらい、大坂の城郭内に屋敷と使用人を与えられ、そこで暮らしていた。
おふうには長年、良人明家に隠していることがある。自分が奥平信昌の元正室と云うこと。明家がおふうに過去を聞かなかったこともあるが、少なくとも明家は奥平が武田から徳川に転身した時に勝頼に処刑されたのは奥平信昌の正室と思っている。替え玉だったなんて思ってもいない。
武田勝頼に殺されたのは身代わりのくノ一牡丹であり、本物であるおふうは生きている。関ヶ原の戦いではかつての良人の信昌も徳川方として出陣する。あの時の怒りは忘れていない。許すものか。今の良人明家に比べれば取るに足らない男。徳川家康の娘を娶り、十万石の大名に出世しているとか。私を見殺しにして得た地位に満足しているのか、吐き気がしてくる。我が良人の前に屈するがいいわ。
おふうも戦場妻として関ヶ原に随行。途中の夜営、明家に抱かれたあとにおふうは長年の秘密をついに明かした。
「で、では、勝頼様に殺されたのは別人だったのか?」
「はい、勝頼殿は連れ去られたことを隠すため、牡丹を私として討ったのだと思います」
「そうだったのか…」
「最初の徳川との戦であった犬山の戦いの時に言おうかと思いましたが言いそびれ、ついつい今まで。でも改めて殿が徳川と戦う以上は聞いてもらいたいと思いまして」
「ひどいことをするものだ。十五の幼妻を見殺しとはな」
おふうの乳房を愛でながらつぶやく明家。
「俺がその時の奥平当主であったら、妻を選んで家を滅亡させているだろうな。今まで運よくそんな局面に遭遇していないだけだ」
「言われる通りかもしれません。でも殿、何も知らずに殺される方にしてみれば、そんな良人の苦渋の決断もただの裏切りなのです」
「………」
「私を命がけで助けてくれたうえの滅亡だったならば、私は喜んで良人と死を共にしていたでしょうに」
「おふう…」
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
やがて関ヶ原の戦いが始まった。おふうも柴田の笹尾山本陣で戦況を見ている。目を凝らして奥平家の家紋『沢瀉』を探し、そして見つけた。先頭にいるのが信昌であろう。
日本史史上最大の動員数となった関ヶ原の戦いであるが決着は一日でついた。徳川家康は大敗して退却。奥平信昌も退却していった。奥平勢の追撃には小野田勢が当たった。関ヶ原から奥平氏居城の長篠城までは遠い。
ついに奥平勢は小野田幸猛の軍勢に捕捉されて攻撃を受けた。必死に抵抗するが、勝利で士気の高い小野田勢の攻撃に抗しきれず壊滅となった。名の通った武将なので幸猛はその場で首を取らず本陣に連行することにした。信昌は捕えられ、綱で縛られ明家の前に座らされた。
「殿、長篠城主、奥平信昌殿にございます」
「なに?」
おふうをチラと見た明家。
「ほう、貴殿がそうか。少年のおりに聞いた鳥居強右衛門殿の生き様に胸をときめかせたものだ」
鳥居強右衛門、武田勝頼に攻め滅ぼされかけていた長篠城の兵で、包囲する武田陣を突破して、信長と家康の本陣に辿り着き援軍の要請をしてきたが、その帰りに武田勢に捕まってしまい、勝頼から『援軍は来ないと言えば逃がす』と言われたにも関わらず『援軍は来るぞ』と長篠城兵を鼓舞した。
激怒した武田勝頼は強右衛門を逆さ磔にして処刑した。その強右衛門の磔姿を武士の鑑として認めた男がいる。武田家臣の落合左平次であり、彼は自分の旗印を磔姿の強右衛門にしたほどだ。現在柴田家で再興された後武田家の重臣を務めている。
その強右衛門の主君信昌、幼妻おふうを見捨てたと云う経緯はあれども、さすが強右衛門ほどの武士が忠節をまっとうした主君。強右衛門が長篠城を出て援軍を請いに行くと信昌に訴えた時、徳川の目付は『脱走する気であろう』と嘲笑したが信昌は『強右衛門はそんな腰抜けではない。我が奥平の忠臣を侮辱なさるおつもりか』と毅然と一喝したと云う。中々の武将と明家は見た。
だが勝者と敗者に別れた今、裁かなくてはならない。信昌ももはや覚悟は出来ている。
「もはや何も言うことはござらぬ。首を刎ねるがよろしかろう」
その言葉に明家の傍らにいた武士がスッと立ちあがった。兜と惣面を取り、信昌に歩む。
「な…!?」
「お懐かしゅうございます、殿」
「お、お、おふうなのか!!」
「はい」
「い、生きておったのか!」
「勝頼に討たれたのは義弟の仙千代丸と私の身代わりとなった一人のくノ一」
「………」
「その後、私は藤林家の食客となり、やがて柴田大納言様の寵愛を受けし女となり今に至ります」
信昌は肩を震わせた。
「よ、良かった…。生きていてくれて!」
「……?」
ポロポロと涙を落としている信昌。
「すまぬ、儂はそなたを裏切った。そなたが勝頼に無残に殺されたと聞き、自己嫌悪と悪夢の毎日だった。だが、やっと解放される…。そなたは天下人の寵愛を受けて幸せとなったのだから」
「…今さら何ですか」
「許せとは言わぬ。いや、儂を一生許してはならぬ…」
「………」
「かたじけない大納言殿。あの世でも悪夢にうなされるところを…これで何の未練もなく死ねる」
「信昌殿…。つらかったでしょうな、幼妻を見捨てることは」
「大納言殿、もう儂のように…愛する妻を見殺しにせざるをえんような男が出ぬよう、よき世をお作り下さいませ」
「承知いたした」
明家の扇子が振られた。刑場に連れていけということだ。兵に両腕を掴まれ、立ちあがった信昌。
「ま、待って!」
信昌の前に立つおふう。大粒の涙を流していた。
「なんて卑怯な…。今さら、そんな優しい言葉を私にかけるなんて」
「そうよな、冷たい言葉を吐けば、そなたはもっと楽に儂の死を見送れたかもしれぬ。だが儂もそこまで強い男ではない…」
「信昌様…」
「幸せにな…」
刑場に連れて行かれる信昌。
「ま、待って!殿、どうか奥平家を柴田にお召し抱えを!」
明家に平伏して頼むおふう。信昌をチラと見た明家。中々の武将と云うのは分かっている。
「どうか」
「いや、お気持ちはありがたいがお受けできませぬ」
「信昌様!」
「徳川には妻を見殺しにしてまでついたのでござる。これ以上の変節はできませぬ」
「惜しいな…」
「ありがたき仰せなれど、もはやこれまで」
「さらばでござる」
「あああ……っ!」
泣き崩れるおふう。奥平信昌は関ヶ原の西軍本陣の刑場で露と消えた。首となった信昌、それをおふうが見た瞬間だった。長年『治った』と無理やり思ってきた心の傷がここでパックリ開いてしまった。
良人の裏切り、義弟の無残な死、聞多と牡丹の死…
命は助かっても心は殺された。そのボロボロの心をおふうは無理やり治した。と云うより治ったと思いこんだ。生きていくためには働かなくてはならない。無理やり傷ついた心を封じ込めた。
かつて憎悪した元良人の言葉を聞いた。良人信昌も苦しんだこと、心より生きていたことを喜んでくれたこと。そして今、良人が死んだこと。
おふうは気が狂ってしまった。半狂乱の様相で号泣した後、まるで笑いダケでも食べたかのように笑いだし止まらない。笑ったまま尿失禁もした。完全に発狂したのだ。狂いだしていくおふうを黙って見つめていた明家。
本陣にいた葉桜はあぜんとし
「姉さん、どうしたの?姉さん!」
「ふふっ、ははは!ははははは!」
「姉さん、しっかりして!急にどうしたの!?」
「…思えば良人に裏切られて見殺しにされたのだ。命は助かっても心は殺されたのかもしれん」
「殿…」
「葉桜、おふうは糧を得るため、その殺された心を無理にでも押し込めるしかなかったのだろう。だが今日、自分を裏切った良人の歓喜の涙と死を見て、押し込めた心の傷が開いてしまったのかもしれない」
「そんな…」
「葉桜、心療館におふうを入れよ。時間がかかるかもしれんが必ず治させよ」
「は、はい…」
「ははははは!ははははは!!」
壊れたおふうの虚しいも悲しい笑い声。
「姉さん…」
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
時は過ぎていく。
日欧の役、日清の役を経て、柴田明家は完全に天下統一した。関ヶ原以降は三代目の戦場妻は菖蒲と云う藤林家のくノ一が務めたが、日清の役を最後に柴田明家に戦場妻はつけられることはなくなった。菖蒲は愛人となり、明家に大切に遇された。
二代目戦場妻のおふう、心療館の女たちを始め、義妹の月姫や松姫も治療にあたり、彼女たちの献身的な看護で、何とか正気は取り戻した。もう歳は四十三となっていた。おふうの傷を治すには、これほどの月日を要したのだ。天下人の戦場妻だから受けられた治療だ。他の立場なら、狂ったまま自ら命を断つこともありえたろう。
しかし正気を取り戻したら取り戻したで
「殿は…」
「上様はお城で」
心療館の女が答えた。良人が会いに来てくれない寂しさを味わうことに。
「…もう私なんか、どうでもいいのね」
「違いますよ姉上様」
「松…」
松姫は京都で信松院と云う庵を明家から贈られ、亡き婚約者信忠を弔っていた。たびたび大坂を訪れ、義姉の治療に当たっていた。今日も京の名医の曲直瀬道三より薬を処方してもらい訪れたのだ。
「上様は何度も来ています。しかし私と月が追い返し、しまいには来るなと言ったのです」
「なぜ、なぜそんな意地悪するの?私にはもう上様しか…」
「姉上、言いにくいけれど…今のお姿は上様にお見せしない方がいいと思う」
「…そんなにひどいかな」
「申し訳ないですが…。姉上の心の傷は肉体も少し衰えさせたようです…。かつての美貌と抜群の肢体も今は崩れつつ…」
「そう…。相変わらずハッキリ言うわね松…」
「でも、心の傷が治ったならば、これから体を養生して健康を取り戻せば良いだけのこと。若い女の魅力はなくても、姉上なら艶っぽさを出せます。きっと上様のご寵愛も得られます。上様が年上好みなのは変わっていませんもの」
「松…」
「重い心の傷を克服した姉上には以前より深みがあります。天下人が心底甘えられるほどの深み」
「ありがとう松、私がんばって健康を取り戻す。そして頃合いを見て上様を私のところに連れてきてほしい…」
「分かりました」
数ヶ月が経った。おふうは心療館の庭を散歩していた。痩せて落としていた肉も取り戻し、だいぶ血色も良くなってきた。松姫と月姫ももう良い頃合いと思ったか、明家におふうの快癒を報告した。それを聞くや、明家はすぐに心療館に訪れた。おふうが歩いていた庭、そこで何年かぶりの再会をした。
「おふう」
「上様…」
今まで松と月の言葉を鵜呑みにして私をほっておいたくせに。そう思うと拗ねたくなった。
「何の用です」
不愛想に返すが、明家はそんなこと構わずに
「温泉に行こう」
「は?」
「もう輿も用意した。行くぞ」
無理やり輿に乗せられ、温泉に行くことになったおふう。馬に乗る明家が言った。
「快気祝いだ。今日は好きなものを食べていいぞ」
「は、はあ…。でも上様、どうして急に温泉など」
「久しぶりにおふうを抱きたくて」
「お戯れを」
「俺は大まじめだ」
温泉宿は明家とおふうの貸し切りだ。久しぶりに一緒の湯に入る。
「すまんな、ろくに見舞いにも行かず」
「いえ…。上様は日ノ本一番に忙しい方ですし」
「城に戻って来い」
「う、上様…」
「十五の時からそなたはつらいことばかりであったろう。もう十分だ。戦場妻ではなく正式に側室として迎えたい。うんと大事にする」
「…上様、きゃっ!」
おふうの乳房に触れた。
「天下人になったはいいが、気を揉むことばかりだ。徳川殿は『天下人は一人、ゆえに孤独』と申したが本当にそうだ。覚悟のうえだが、俺も人間、たまに人に甘えたい」
「では久しぶりに私が抱っこしてあげましょう」
久しぶりにおふうの肢体を堪能する明家。何年振りか、おふうは男に抱かれることを忘れていたが、やっぱり愛する男に抱かれれば体は歓喜に包まれるもの。泳ぎ終えたあと、おふうは明家を抱きしめていた。
「ああ…。癒されるよ…」
「殿には若い愛人もいましょうに」
「若い女には甘えられないじゃないか」
「あら、では若い娘にはかっこいい柴田明家を通しているのですか」
「ま、まあな」
「それは気苦労がありましょうね」
「側室になっても、時にこうして甘えさせてくれるか?」
「はい、喜んで」
しばらくして驚いたことがあった。なんとおふうが懐妊したのだ。温泉での夜閨が大当たりしたらしい。
しかし四十三、現在ならともかく、当時では高齢出産と云える。産科医たちは暗に堕胎を勧めるが、おふうは生みたいと言った。明家も反対した。心の傷は快癒し、養生して健康を取り戻したように見えるが、発狂したほどの心の傷はおふうの肉体の内部を少なからず蝕んでいるはず。体力が持たない。そう産科医たちが言っている。
「おふう、日近の家は再興させたし、俺とそなたの息子が立派に当主をやって勝明の重臣となっている。娘たちも良いところに嫁いだ。もう我らは一組の夫婦として務めを果たし種を残した。これ以上の子をどうして望む」
「…お願いです。生ませて下さい」
「その理由を聞いている」
「母が子を生むのに理由なんて必要ですか」
「そ、それは…」
「殿に言って良いことか分かりませんが、私…宿ってくれた子が信昌様の生まれ変わりのような気がして…」
「……」
「おかしな話ですよね。あんなに憎んでいたのに…。関ヶ原以来、私の中で愛しくてならないのです」
「おいおい、仮にも夫に他の男との惚気を聞かせるのか」
「良いではないですか。殿には私以外に妻がたくさんいるのだし」
「ま、まあな…」
「だから生ませて下さい」
「だけど、そなたの体が」
「お願いです」
「…おふう、こんなことを言えばそなたは俺を軽蔑するかもしれないが本心を言う」
「……?」
「まだ見ぬ子より、俺はそなたの方が大事なんだ!」
おふうは明家から顔を逸らしてうつむいた。軽蔑どころか嬉しくてたまらない言葉。涙が自然と出てくる。しかし
「ありがとうございます。でもお許しを、こればかりは引けません」
「おふう…」
「生みます」
もう決意を固めている。これ以上の説得はもはや無意味。
「女弱し、されど母は強し…か」
「え?」
「そなたはすでに、その子の母なんだな」
明家も認めてくれたということ。三つ指立てて明家に頭を垂れるおふうだった。
そして数ヶ月後、おふうは見事に男の子を生んだ。だが、やっぱり産科医が危惧したとおり、体力が持たず出産と同時に危篤状態になった。発狂したほどの心の傷は、やはりおふうの体も少なからず弱らせていたのだ。
「おふう!」
「はあはあ…」
うっすら目を開けて生んだばかりの息子を抱いている良人明家を見つめるおふう。もう指を動かすことも出来ない。明家は
「名前は九八郎と決めたぞ!」
それは奥平信昌の幼名である。おふうの目から涙が一滴落ちた。
(短い再会でごめんね…。信昌様、私…もう…)
「おふう!」
(殿…ありがとう…)
おふうは息を引き取った。享年四十四歳だった。明家は人目憚らず号泣した。
生まれた男子は後年に奥平勝昌を名乗り、大坂幕府三代将軍の柴田勝隆を支える重臣に成長する。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
時は流れ、おふうが死んで三十年以上経った。江戸城から久しぶりに大坂に来た明家はおふうの墓参をした。
「おふう、儂も七十五になってしもうたが…今も男として現役じゃ。若い側室もいるぞ」
腰を下ろしておふうの墓に語る明家。
「でも時に、そなたの乳房が恋しくなるのう…。吸ってもよし、触ってもよし、顔をうずめてもよし、戦場で本当に癒された」
明家の頭に鳥の糞が落ちた。
「ありゃ」
半紙で拭き取り、苦笑する明家。
「ははっ、墓前でそんな助平なこと言うなと云うことかの、おふう」
改めて合掌する明家。
「日近の家も、奥平の家も健在じゃ。そなたが命を落としてまで生んだ勝昌には葉桜の娘が嫁ぎ、幸せにやっておる。何にも心配はいらん。あの世で信昌殿に甘えていよ…」
これが最後の墓参であった。柴田明家はこの二年後に世を去った。
『殿、お疲れ様でした。さあ、おふうが抱っこしてあげますよ』