「千枝、女の化粧のやり方を教えてくれないか?」
「私が務めます殿」
「いや、俺がやってあげたいんだ。頼むよ」
「分かりました」
柴田明家の正室さえが大病に蝕まれた。高熱が続き、悪寒、冷汗、手足のしびれ、嘔吐と下痢、見る見るうちにさえは痩せていった。鏡を見るのも嫌がるようになった愛妻に明家は化粧をしてやろうと思った。だがやったことがないのでやりようを侍女に聞いた。
「まずこうして紅を…」
「ん…そなたの手」
明家は千枝の手を取った。
「荒れている…」
「お、お恥ずかしゅうございます。お離しを…」
明家に触れられただけで千枝の胸はときめいた。
「そうか…。さえの寝巻きやおしめをいつも洗ってくれているのだな…。礼を言うぞ」
「も、もったいなきお言葉にございます」
「さ、教えてくれ」
「は、はい」
明家に触れてもらった手が熱い。千枝は明家が触れてくれたことが嬉しかった。こんな日が来るなんて千枝は想像もしていなかった。彼女は明家を憎んでいたのだから。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
あれはまだ柴田明家が水沢隆広と云う名前で父の勝家に仕え、北ノ庄城の兵糧奉行に命じられたころであった。彼によって越前中の不正役人が摘発された。千枝の父の与太之助もその一人だった。北ノ庄城で与太之助は兵糧役場に勤めていた。一人娘の千枝は父の愛情を一身に受けてスクスクと育っていった。
だがそれがある日突然に崩壊した。父が不正役人として追放されたのである。幼い千枝は父上がそんなことをするはずがない。優しく大好きな父上、農民を騙し、脅してお金を取るはずがないと思った。だが事実だった。与太之助の妻である志乃もこの時初めて知ったのである。
『顔も見たくない!さっさと北ノ庄から出て行くがいい!!』
と、若き奉行に一言の反論もできず帰ってきた与太之助。帰宅するころには彼の自宅には追放されることが伝わっていた。
「お前様!嘘でしょう?お前さまが不正役人だなんて!」
「…事実だ」
「なんと云うことを!私や千枝まで騙していたのね!」
「う、うるさい!だいいちお前の実家が借金をたらふくこさえるからいけないのだ!」
「ひ、ひどい…!私のせいだと言うの!?」
志乃の父は敦賀の町で朝倉家ご用達の米問屋を営んでいたが、朝倉家が滅ぶと店はつぶれ、借金だけが残った。そればかりか心労で体も壊して、金のかかる薬の定期服用が必要とされた。それを婿の与太之助が支払っていたのだった。
「貴方はあの薬は安価と申していました。高価ならば何故私に言ってくれなかったのですか!」
「言ってどうなる。お前は苦痛に悶える義父殿を見殺しにできたのか?」
「そ、それは…」
「薬は高いから買えません。だから苦痛のまま死んで下さい。婿の俺にそう言えと云うのか?」
反論できず、悔し涙を流す志乃。
「役人の正規な給料で、どうして義父殿の面倒が見られると云うのだ!俺を賄賂への誘惑に走らせたのは貴様の父親のせいだ!」
「あ、あんまりです…!みんな私の実家のせいにするなんて…!」
「…俺はもう追放だ。あとは知らん」
父母の喧嘩を涙ぐんで見ていた千枝。
「すまん千枝…。けいべつするがいい」
そして与太之助は北ノ庄城を出て行った。隆広は不正役人の家族に罰を与えず、正当な収入の蓄えなどは没収しなかったが、あとに残ったのは近所からの迫害であった。千枝と今まで親しく遊んだ友達も去って行った。『不正役人の子と遊ぶな』と露骨に声を立てられて蔑まされ、農民には『泥棒の娘』と石を投げられた時もあった。毎日家に泣いて帰り、そしてとうとう家から出なくなった。暗い部屋の中で泣きべそをかきながら思った。
「これというのも水沢と云う奉行が父上を追い出すから悪いんだ。許すもんか!」
と隆広を怨んだ。もう北ノ庄にはいられないと思った志乃は娘を連れて一乗谷の親類の元に向かった。
そして一乗谷に到着した志乃と千枝が見た光景は、白州で縛り上げられている与太之助の姿だった。志乃が白州の周りで裁きを見ている町人に聞いた。
「あ、あの人たちは何をしたのです?」
「ん?ああ、アイツらは北ノ庄とこの町と金ヶ崎の町の不正役人だ。ご奉行の裁きを恐れて逃げ出そうとして捕まったのもいれば、ご奉行を逆恨みして殺そうとした馬鹿もいる。間抜けな事にその企みがご奉行にバレて捕まりやがった。あれが首謀者だ。どうだ悪くて、間の抜けた顔してやがるだろ?」
それは与太之助だった。千枝が父の姿を見て白州の外周に張られた竹柵を掴み
「ち…」
『父上』と呼ぼうとしたのを志乃が口を押さえて止めた。奉行殺害を企んだ首謀者の家族と分かれば何をされるか分からない。千枝は母に口を押さえられながら泣き出してしまった。どんな父でも自分には優しい父、大好きな父、このままでは父上は死刑になってしまう。涙が止まらなかった。
「しかし馬鹿だなアイツら、一乗谷で水沢様狙ってタダで済むわけないだろうにな」
「そうよそうよ、水沢様は舟橋をこの町に作り、楽市を導入して下された恩人よ。つまらない真似したら私たちだって許さないわ」
「自分で働かずに、賄賂だけ得ようなんて考える役人の浅知恵なんてそんなモンよ」
ドッと周囲が笑いに沸く。千枝は悔しくて堪らなかった。父をみんなで馬鹿にしている。悔しい悔しい。涙が止まらなかった。そして水沢隆広の声が響く。
「逆恨みで俺を襲おうとした元北ノ庄兵糧役場の役人たち。その方たちとて武士であろう!なぜ闇討ちなど考えた、正々堂々と果し合いを申し込めば良いだろう!」
「「……」」
与太之助をはじめ、何も言い返せなかった。
「そんな度胸あるわけねえよな、あいつらに」
「金勘定しかできない糞役人だからな、あっはははは!」
町民が与太之助たちをあざ笑う。自分の口を押さえる母の手が千枝の涙でビッショリと濡れていた。千枝が母の志乃を見ると、彼女も悔しさのあまり涙をポロポロと落としていた。府中城などの不正役人は残らず斬刑だった。妻の志乃はもう夫の助かる見込みはないと思った。娘の千枝は
(父上を死刑にしたら!私はあの男を絶対許さない!殺してやる!)
と固く決めた。
だが隆広が言い出したのは意外なものだった。白州の上座で床几に座っていた隆広はゆっくりと与太之助に歩み
「そなたらに労役を課す。今まで何の苦労もなく搾取してきた賄賂の額、それを稼ぐにはどれだけの汗水が必要か、身をもって知れ。一人一人が不当に得た金額はすでに知っている。それを民と同じように土に汗を流して稼ぐのだ。俺はずっとそなたたちを観察する。汗水流して働いても何の成長のない者は斬る。だが生まれ変われた者は再び当家に召抱える」
志乃と千枝の力が全身から抜けた。助けられた…。しかもやりなおす機会を与えられたのである。そして一乗谷の町民たちはこの裁きを聞いて
「さすがだねえ…」
「年甲斐もなく惚れちゃうよ♪」
と感嘆していた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
それから与太之助は生まれ変わったかのように働いた。毎日泥だらけになって働いたのだ。いつかの失言も妻に詫びて真人間になり、そして柴田家の帰参を夢見て懸命に働いたのである。
しかし、この時に志乃の父は亡くなってしまった。高価な薬の負担はこれでなくなったが、与太之助は義父に賄賂を持って薬を買っていた不孝を詫びて泣いたという。
相変わらず義父の借金は残ったが、与太之助は債権者に誠意もって当たり、長期の返済を約束するにこぎつけたのであった。
そして二年、父の与太之助が隆広に呼び出され、隆広から新たに作られる機関『商人司』への一員にする辞令が下命された。柴田家への帰参が叶ったのである。その辞令書を持ち与太之助は家に帰り妻子に誇らしげに見せた。やっと真人間になって戻ってこられたのである。
商人司頭領の吉村直賢の部下となり、柴田家そのものが交易と産業を興し、やがて越前の内政事業の資金を作ると云う重要な任務である。
与太之助は直賢のよき部下となり、交易では卓越した交渉術を見せて隆広と直賢の期待に応えている。不正役人であった自分が越前のために働き、そして領民に感謝される。
どんなに忙しくても苦にならなかった。九頭竜川治水の資金を稼ぎ出した商人司において与太之助の功績も大きかった。
やがて与太之助は士分と同格の『商将』と云う身分となった。
士分になるとその者の家族にも勤めが生じる。妻の志乃は北ノ庄城の奉公が命じられ、勝家長女の茶々付けの侍女となり、娘の千枝は水沢家への奉公が命じられ、隆広正室さえの侍女に任命されたのである。名誉な事と志乃と千枝が喜んだのは云うまでもない。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
やがて本能寺の変が起きて織田信長が世を去った。柴田勝家は主君の仇である明智光秀を瀬田の地で破り、羽柴秀吉を賤ヶ岳で討ち破り、姫路城で滅ぼした。
そして水沢隆広から柴田明家と名を改めた嫡男に家督を譲り隠居した。商人司もそのまま柴田明家に仕え、頭領の吉村直賢はただの一度も明家に金の心配をさせなかったと言われるほどの活躍を続けていく。その働きには与太之助の功も大きい。頭領直賢の右腕とも云える働きだった。
柴田明家が柴田当主となりしばらく経ったある日の安土城、正室さえと側室の虎姫が廊下で会った。虎姫はさえに礼を示したが、さえはプイと無視して通り過ぎた。
虎姫の侍女は激怒。
「何ですかあの態度は!いかにご正室様と言っても!」
「よしなさい、ご正室様の殿への愛情は大きい。私の存在が疎ましいのは当然です」
「しかし姫様!」
「今に和解の時も来ます。父の盛政と殿が最後に分かり合えたように」
そのさえの後を歩いていた侍女千枝。
「御台様」
「なにか?」
「お殿様は閥を許されません。今の態度はいかがなものかと存じます」
立ち止まったさえ。振り返って千枝を睨む。まだ少女とも云える千枝に言われて、さしものさえも癇に障ったのかもしれない。
「ならば私にも笑顔で挨拶すべしと?」
「はい、建て前だけでもそうすべきと存じます」
「できません」
「それでは越後にご出陣中のお殿様が帰ってこられてもお心が休まりません。すず様、虎姫様、月姫様と並んで笑顔で出迎えれば『仲良くしてくれている』と安心されます」
「仕方ありません。あの人が自ら蒔いた種です」
「御台様…」
君主正室として奥に君臨しているさえ、時に厳しく、そして優しく女衆に慕われている。
しかしさえは良人のことになると目が見えなくなる。言葉に尽くせぬほどに良人を愛しているさえ。だが、明家が大名になり側室をいきなり二人も作ったことが許せなかったのだ。
そしてそれから数日後、さえが重病で倒れた。高熱、嘔吐、下痢、悪寒、四肢のしびれと冷感、あらゆる症状がさえを襲った。越後から引き揚げていた明家は知らせを聞いて飛んで帰ってきた。
「さえ!」
「殿…」
真っ先に自分のところへ駆けて来てくれた。嬉しくてたまらないさえ。
しかしさえの病は重かった。当時の名医曲直瀬道三も匙を投げた。
だが明家はあきらめず懸命に看病をしていた。悪寒を訴えた時は裸で抱きしめ、手足の冷感を訴えた時はずっと手足を温めるよう愛撫した。嘔吐物を自力で吐けない時は明家が口で吸って排出した。下の世話だけは八重や養女のお福に任せたが、あとは明家が全部やった。
さえの体を愛撫し『早くお前を抱きたい』『寝顔を見ているのが好きだ』と優しい言葉をかける明家。
さえは良人に申し訳なくてたまらなかった。看病を強いることではなく側室を二人持ったごときで良人を疑ったことが。苦悶はするが意識は失わない。愛情一杯に看病してくれる良人の姿にさえはどんなに嬉しかっただろう。
良人は天下人に近しい男となろうと側室を持とうと自分への愛情に一点の曇りもなかった。疑った自分の頭を『馬鹿馬鹿』とこづきたいほどだ。
毎朝、さえの髪を梳き、そして化粧もさせていた明家。しかし最初は要領を得ず口紅が頬まで行ってしまう事もしばしば。逆にそれが笑いを生みさえの心も和んだ。明家は化粧の仕方を侍女の千枝に教えてもらった。
「そう、殿様上手ですよ。きれいな御台様がいっそう綺麗に!」
「そなたの教え方がいいんだよ。…ん?」
「どうされました?」
明家は千枝の手を握った。
「お、お殿様」
「手荒れがひどいな…」
「いえ、何のこれしき」
「そうか…。さえの寝巻きやおしめをいつも洗ってくれているのだな…。感謝する千枝、そして」
明家はさえの侍女たちに頭を垂れた。
「「もったいのうございます」」
「誰かある」
小姓を呼んだ。
「お呼びですか」
「城の備蓄庫に皮膚病の塗り薬がある。これに」
「はっ!」
やがて小姓が塗り薬の入った箱を持ってきた。塗り薬を取り出した明家。少しにおいがキツい。
「においがキツい塗り薬だな、こいつは効きそうだ、ほら千枝、手を出してくれ」
「え?」
「塗ってやる」
「そ、そんな自分で」
「いいからいいから」
明家は千枝の手を取り、優しく薬を塗った。
「俺一人でさえを看病しているのではない。八重、お福、すず、そしてそなたら、本当にありがたいと思っている」
明家に握られている手が熱い。胸が高鳴る。他の侍女がうらやましそうにジーと千枝を見ている。今の明家はさえへの看病疲れもあってか髪もボサボサで無精ひげも伸ばし放題で少し汗くさい。
だがそれでさえ明家の男ぶりを上げる要素に見える千枝。
「も、もったいのうございます」
「お、お殿様…」
千枝殿だけズルい、そう言いたげな顔で侍女が明家に言った。
「なんだ?」
「私たちにも…」
「もちろん、塗らせてほしい」
「本当ですか!やったぁ!」
と、子供のようにはしゃぐさえの侍女たちだった。
さえは蒲団の中でクスリと笑った。明家は柴田家に仕える女たちにも大変マメであったと言われている。堺や京に行った時にはさえや側室、娘たちに土産を買ってくるのは無論、各々の侍女たちにも買ってきたと云う記録が残っている。
嫁に行き後れの下女の縁談にも心砕いたと云うから、おそらく当時の殿様と呼ばれる男の中で一番女にマメだったのではなかろうか。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
やがてさえの大病も治った。安土城の奥は平穏な日々を取り戻した。だがそんなある日、千枝がさえに呼び出された。
千枝がさえのもとに行くと、千枝とあまり仲の良くない侍女がさえの隣にいた。仲の良くない侍女の名は美津と言った。さえの快癒後に異動で安土の奥に務めるようになったいわば新参者の侍女だった。
そしてさえの前に座ろうとした千枝は凍りついた。自分の帳面がさえの前にあったからだった。
(美津…!あなたって人は!)
「御台様、この帳面読みました?」
「いいえ」
「ならば、見てくださいこの中身!恐れ多くもお殿様への恋文が綴られています」
「……」
「『一夜でいいから抱かれたい』なんて書いています。ああ恥じらいのない女は困りますね!」
悔しく、恥ずかしく、そしていたたまれず、千枝は懐中刀を抜いて自分に刺そうとした。その手に勢いよく手ぬぐいが叩きつけられた。さえの横にいた側室すずが手拭を伸ばして懐中刀を叩き落しのだ。
「イツ…」
「はやまってはなりません」
「すず、ここを頼みます。美津、隣の部屋に」
「はい」
さえは美津を連れて隣室へと行った。
(悔しい…!いかに私が嫌いだからってこんな真似するなんて!)
「何か、美津とやらに怨まれることを?」
「いいえ、彼女の父が私の父を嫌っているのです。ご承知の通り私の父は元北ノ庄の不正役人です。彼女の父は賄賂を取らなかった清廉な役人だったのですが…」
「…なるほど、貴女の父上は今では商人司の次席。美津の父上は兵糧の管理方。自分は賄賂を取らなかったのに出世に後れを取った。それが悔しいと」
「…昔は隣の長屋で仲も良かったのに…いつの間にか娘同士も不仲になって」
「どうして賄賂を取った方が結果出世する…と云う怒りですか。くだらぬ嫉妬もいいところ。その歪んだ心が娘にも伝染してしまったようですね。兵糧の管理方とて柴田家には欠かせぬ重要な務め、それを軽視しているからかつての隣人に後れをとるのです。与えられた仕事を懸命に取り組み結果を出せば、必ず殿は認めて昇進させます」
柴田家は織田家同様、生まれや身分、過去や年齢も関係ない実力勝負である。美津の父の思うのはすずの言うとおり逆恨みとも云えよう。
「美津、残念ですが貴女は働く場所を間違えたようです。再び異動を命じます」
「え、ええ!何故ですか!」
「柴田家の女子は十二歳になると各お城や重臣の屋敷に奉公に出て行儀見習いをしなければならないことは知っていますね。当家の姫たちとて例外ではない殿の決めた女子の養育です。そこで学問や働く術、妻や母となる教育を受けます。貴女のお父上が『当家でもう十分仕込みました』と述べたので人事の者が最初から奥務めとしたようですが、残念ながら貴女には当家の行儀が全然身についていなっていなかったようです。もっとも厳しいと言われている弾正殿(奥村助右衛門)の姫路城に行き、徹底して学んできなさい。貴女に安土城の奥の務めは十年早い」
どこの大名家でも奥は殿様の『後宮』と思われがちであるが、柴田家は例外だった。明家は商人司の稼いだ金銀と、領民の血税で安穏と贅沢に暮らすことなど妻や娘にも許さない君主だった。
戦没者、負傷者の家族への弔意金などの分配の決済。隠居した将兵への慰労金の決済。孤児の養育と、その養子先を探すこと。内政や軍務で親が留守になる時に子を預かること。心療館の経営、女医候補生の選抜など他に数え上げればきりがないほどに奥には仕事が委ねられていた。日本最大勢力大名の奥なのに華やかさなど欠片もない。柴田家の裏方を支える仕事場であるのだ。
正室も側室も、それらに仕える侍女たちも時に柴田家の大金も動かす重要な役割を当てられていたのである。
無論給金もそれ相応にある。しかし失敗の時には、さえとて明家に罰を受けるし、働きの悪い侍女は問答無用で解雇された。それほどの厳しさだったのである。
だが、これが一つの家中の連帯感を持たせていた。明家は当時としては珍しく女子への教育に熱心だった。吉村直賢を教官にあてて、算盤と帳面の技を学ばせている。ゆえに自分たちも夫におんぶに抱っこではなく働いているのだ、と云う自負を培うことができた。だからその自負を持たない者に奥を預かるさえは厳しい。
「良いですか、殿は『閥』を絶対に許さない方です。貴女と千枝の不和とて一つの火種なのです。殿の望むのは『融和』、あなたはその意味が分かっていません。やりなおしなさい。手配はしておきます」
「あ、あの…!」
「それとお父上に伝えなさい。兵糧の管理方とて柴田家の重職。けして軽く見られるなかれ。殿はまっとうできると見ているから貴女の父上をその任につけています。与えられたお仕事に命を賭けなさい。さすれば殿は必ず認めます」
「……」
「美津、挽回しなさい。待っていますよ」
そう言うとさえは部屋から出て行った。美津はこの時に初めて自分の所業を恥じた。そして明家が妻だからと云う理由でさえを奥の責任者としているのではないと分かった。良人に甘えているだけと思っていたが大間違いだった。
「挽回しよう…必ず。父上も私も!」
「さ、この帳面しまいなさい。もう人の目に着くところに置いていちゃ駄目ですよ」
「御台様…」
クスッとさえは笑って言った。
「まあ容貌は良い方ですから、他の女子に好意をもたれるのも仕方ないと結婚当時から分かっていました。私とて最初は殿のあまりの立派な顔立ちに惹かれたのですから」
「が、外見だけではございません。確かにお殿様は眉目秀麗の美男子ですが、何より女子を大切にして下さいます。お側にいるだけでときめいて…。かつ先の殿様の御台様を思う心に…千枝は心を奪われました」
「こらこら、そんなことを正妻に言うものではないですよ」
「は、はい!申し訳ございません!」
「千枝、貴女はいくつになりました?」
「十七です」
「貴女はとてもしっかり者です。私が虎殿に無礼な態度を執った時、毅然と私に間違っていると述べましたね。我が夫は閥を許さない。何より融和を尊ぶお方。今しがた美津に貴女からの受け売りを言ってきました」
「御台様…」
「そんなしっかり者の貴女を殿はちゃんと見ていたようです。殿が良き嫁ぎ先を見つけてくれましたよ」
「え…?」
「複雑な心境かもしれませんが、どうしますか?少し間を置きますか?」
千枝は首を振った。
「私もいつまでも叶わぬ恋に憧れを抱く気はございません。図らずも今回のことで踏ん切りがつきました。父母もそろそろ嫁にと考えているようですし、お殿様の勧める縁談に従います」
「確か与太之助殿には子が貴女しかいないはず。婿養子は考えていないと?」
「はい、父は商将と云う士分に取り立てられましたが一代で終わるつもりのようです。武家として存続する気はないと。然るべきところへ嫁ぎ、その家の者となれと。自分たちの老後はお殿様が面倒見てくれるゆえ心配に及ばない、そう申しました」
「そうですか、では嫁ぎ先を教えましょう」
「はい」
「千枝、貴女は仁科信貞殿に嫁ぎなさい」
「分かりました」
仁科信貞、兄の仁科信基は後に明家から武田家の名跡を継ぐよう命じられ、後武田家当主となる武田信基である。その弟の彼は仁科家の当主となる。千枝は仁科家に嫁ぎ信貞を支える賢夫人となる。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
関ヶ原の戦い、徳川旧領進攻戦にも兄と共に武功を立てた信貞には仁科家ゆかりの地である高遠城八万石が与えられた。仁科家は大名として再興されたのだ。
その感謝の意を夫婦揃って明家に述べに行った時だった。
「千枝、与太之助が二代目の商人司の頭領となった」
「父上が…!」
「良かったなあ千枝!」
妻に祝福を述べる信貞。
「はい殿!千枝は嬉しゅうございます」
「しかし与太之助はそんなに長く続ける気はないようだ。まあ備中(直賢)とそんなに歳も変わらないしな。商人司創設者の面々たちも老いてきた。与太之助は初代から次代の若い者への橋渡しとなりたいと言っていた。隠居後はこの大坂で丁重に遇するゆえ、そなたは安心して信貞への内助に励め」
「はい!」
「殿、ゆくゆく義父母は高遠にお招きしたいと存じます。それがしには父母がもうおりませぬゆえ、妻の父母に孝養を尽くしたいと存じます」
「殿…。大好きにございます!」
かつての主君さえと同じようなことを言っている千枝。
「そうか、与太之助や志乃も喜ぶであろう。どうだ千枝、俺の選んだ婿はすごいだろう」
「はい、よくこの私を信貞様の妻にしてくれました!」
妻の言葉に赤面する信貞だった。
柴田明家の天下統一後に発生した『日欧の役』『日清の役』にも信貞は従軍し、兄の武田信基、そして柴田明家を助けた。
また仁科家は明家から、ある特別な主命を受けている。
明家の槍の師である諏訪勝右衛門頼清の旧領は高遠にある。橋本郡八百石、そこが勝右衛門の旧領だった。
仁科家はその地に勝右衛門とその妻お花の廟を建てることを命じられていた。
柴田家から資金は渡されるが廟の建立については仁科家に一任されている。
君主の師の廟を建てることを任された。信貞がどれだけ明家から信頼されていたか分かる。
父盛信の忠臣であった勝右衛門の廟を建てることは信貞にも異存なく、見事な廟を建立し勝右衛門の妻が愛したと云う桜の木をたくさん植えたのだ。その廟は『清花院』と名づけられた。頼清とお花の名を合わせたのである。
その落成の時は明家も高遠に訪れ、以来毎年参拝を欠かさない。
現在も高遠は桜の美観で有名であるが、このおりに信貞が多くの桜の木を城と城下町に植えた名残なのである。
やがて柴田明家は隠居して大御所となり、江戸城に入った。
時が経ち彼も老境に至り、もはや参拝は最後となるだろうと老躯をおして桜が満開の清花院に行き、師の勝右衛門に最後のお目通りと告げた。
『師と言えば、父と同じ。貴方はその父を殺した!必ずその報いを受けましょうぞ!』
勝右衛門の妻お花の言葉は今でも耳に残っている。お花の墓に明家は言った。
「…報いは冥府にて受けましょう。お花様」
明家の髷を結う紐はお花が作ったもの。十本贈られたが、まだ一本残っていた。作られてから六十年以上は経つのに、まだ明家の髷を結っている。お花は武田家でも紐作りの名人だった。髷を結う紐に触れ、そして勝右衛門夫妻に合掌する明家。
『もう私は許していますよ。竜之介殿』
ギョッとした明家。墓がしゃべった。だが静かな微笑を浮かべた尼僧が墓の後から出てきた。
「千枝か…」
「はい、驚きましたか?」
「当たり前だ。年寄りを脅かすなよ。心の臓が止まったらどうするのだ」
仁科信貞はすでに亡くなっており、彼と千枝の息子である信清が当主となっている。千枝は落飾し、この廟の名である清花院と名乗ることが明家から許されていた。
「今日お越しになると聞いていたので、ちょっと驚かせようと待っていました」
「ははは、しかし嬉しい一言だったよ」
「は?」
「実際には許されてはいないであろうが…何か本当にお花様が言ってくれたようでな」
「いいえ、きっとお花様はお殿様を許していると思います。冥府でお会いしたならば、きっと笑顔で出迎えてくれます」
「え?」
「だってお殿様は武田家と仁科家を再興されて下さいましたし、こうして供養を毎年欠かしません。多少頑固な女だって『そろそろ許してやろう』と思いますよ」
「そ、そうかな…」
「何より、良人の弟子が戦のない世を作ったのですから」
フッと笑った明家。千枝に頭を垂れた。
「ありがとう千枝」
参拝を終えて境内を千枝と歩く明家。桜吹雪が舞散る中、何とも絵になっている男と女であった。
「そうですか、こたびを最後の参拝と」
「うん、儂もいつの間にか七十六だ。高遠までは遠いからな」
「ではご位牌を江戸にお持ちあれば良いかと」
「なるほど…!どうして今まで気付かなかったんだろうな儂は!」
笑いあう二人。
「でも、だからこそ千枝は毎年お殿様にお会いできました」
「そうだな…。儂も毎年千枝と会えるのは楽しみだったよ…」
「本当ですか?」
「本当だよ。歳を取るたびにいい女になっていきよって」
「お殿様も歳を取るたび、その美男に磨きがかかっていきました」
「ありがとうよ」
明家は髷を結っていた紐を解いて千枝に渡した。
「これはお花様の作られた最後の紐では?」
「そなたに預ける。儂が身罷ったらお花様の墓前に置いてほしい」
「お殿様…」
「冷えてきた。そろそろ帰るよ。千枝ともこれが最後となるであろう」
「…失礼します」
「え?」
そういうと千枝は明家の胸に体を寄せた。
「千枝…」
「最後ならば…かつての恋を叶えさせていただきます…」
「……」
「お慕いしておりました…」
「…ありがとう」
優しく抱き寄せた明家。これが明家と千枝、今生の別れだった。
そして一年後、柴田明家没すの知らせを聞いた千枝。愛妻のさえと同時に天に召されたと云う。
千枝は明家の願いどおり、お花の墓前に長年明家の髷を結っていた紐を供えた。
「もし…まだお殿様を許していないのなら、何とぞお許しを。笑顔で出迎えてあげてください!」
合掌して祈る千枝。
“心得ています。我ら夫婦、竜之介殿を褒めてあげます。よくやったと”
幻聴なのか、それとも千枝の願望が生み出した声だったのか、どちらにせよ千枝の瞳からは涙がポロポロと落ちていった。
そして翌年、千枝は子供たちに看取られ安らかに逝った。彼女の亡骸は清花院に丁重に弔われた。そして諏訪勝右衛門夫妻の墓と同様、今でも献花が途絶えることはない。そして高遠の桜は春に咲き誇る。
本編を読んで下されると分かりますが、この健気で可愛い千枝ちゃん、あの藤堂高虎に硬い木箱をぶん投げたりしています。可愛いけれど、勇ましい女の子です。