天地燃ゆ   作:越路遼介

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外伝さえ 弐【運命の出会い】

 東尋坊のほど近くの港町、ここに勝家一行は宿を取っていた。さえはそこで気がついた。ずいぶんと眠ったようだ。

「ここは…」

 着物が違うものに変わっていることを気付いた。

「やだ、私って裸にされたの…」

「気がついたようですね」

 東尋坊で見た貴婦人、お市が部屋に入ってきた。さえはペコリと頭を垂れた。

「悪いと思ったけれど着物を変えたわ。大丈夫よ、殿は見ていないから」

「あ、ありがとうございます」

「着物は洗って乾かしているわ」

 そう言いながら布団の横に座ったお市。

「貴女は朝倉氏の娘ね?着物に家紋がありました」

「は、はい…」

「それで殿を見て怯えたのね…。無理もないわね」

「……」

 

 しばらくして勝家も部屋に来た。

「おう、たっぷり眠って元気が出たようだな」

「は、はい、ありがとうございます」

「風呂が沸いている。入るがいい」

 その言葉に甘えて、さえは風呂に入った後、勝家とお市と食事をとった。食べっぷりがすごい。よほど腹が減っていたようだ。食べ終わった後、さえは勝家とお市に丁寧にお辞儀をし、

「身投げしようとした我が身の命を助けて下されたばかりか、一飯とお風呂、そして温かい寝床、本当にありがとうございます」

「もう死なないか」

「はい、空腹と疲労のせいで死の誘惑に負けましたが、もう大丈夫です。御恩は一生忘れません」

「忘れて良い、大したことはしておらん」

 ぶっきらぼうに返す勝家。

「そなたが朝倉氏と云うのは聞いた。父の名前は?」

「……」

「どうした?」

「私の父は…朝倉景鏡にございます…」

「なに?」

「朝倉景鏡…」

 

 さえは腹を括って本当のことを言った。恩人に嘘はつけない、そう思ったからだ。

“あの裏切り者の娘か”

 そう罵られたうえ、この場から放り出されることも半ば覚悟していた。しかし勝家、

「そうか、苦労したであろうな…」

「まことに…」

 お市も頷く。意外な反応に驚くさえ。

「父上の援軍に行かなかった織田が憎いか」

「……」

「そう思っていような。こうして柴田の当主が物見遊山に東尋坊を訪れていたのだから援軍に行く余力はあったはず、そう見ていよう」

「そ、それは…」

「確かに北ノ庄から大野に援軍に行くゆとりはあった。だがすでに景鏡が当主として責務を果たしていないことは儂の耳に届いておった。裏切りの自責の念、民たちの罵声、大殿の冷遇、それでそなたの父上は焼き切れてしまったと見えるな」

「…はい」

「しかし、それを噛み破り、生きていかねばならぬのが戦国武将じゃ。どうであれ、焼き切れて心を壊したことそのものがすでに敗北なのだ。景鏡から援軍要請そのものが来なかったこともあるが、何より…」

「何より…?」

「かような末路となったのも自業自得、そう思った」

 

 涙を浮かべるさえだった。今ならば分かる。やはり父は裏切り者なのだ。たとえ自分にとっては大好きな父でも。

「とにかく北ノ庄に来るがいい。この乱世、そなたのような身寄りのない娘が生きていくには女郎しかないが、それも哀れであるからな」

「…はい、お世話になります」

(父上を見殺しにした織田に命を救われるなんて…)

 勝家の鬼瓦のような顔を見つめるさえ。

(鬼、閻魔とも言われる方が一片の情けで私を助けるだろうか…。もしかすると私を後に手篭めにするためなのかもしれない。しかし生きていくには仕方がないかもしれない。一度父の言葉に背いて死を選んだ身、怖いものなどないもの)

 

 かくして、さえは北ノ庄城に行きお市に仕えることになった。しかしさえは今まで姫育ち。侍女の仕事なんてまるで分からない。気も利かず失敗ばかり。お市の娘たちにも『あんたって鈍くさい』と言われた。

 しかし挫けなかった。もはや朝倉宿老の姫と云う気位など捨てた。自分に行くところはここしかないんだと。たとえ後、勝家に手篭めにされたってかまうものか、一度死んだ身、こうなれば父の最後の言葉通り、とことん生きてやる、そう思っていたのだ。

 

 失敗ばかりでやる気ばかり空回りしているさえを見かねてか、一人の女がさえに徹底して仕事を教えた。香と云う女で金森長近の正室でもある。

「いい、さえ。お茶を出すにも決まりがあるのよ。こないだ貴女は奥方様に片手で茶器を出したでしょう」

「は、はい。大変なお叱りを受けました」

「お茶は両手で出すの。仏の顔も三度、同じ失敗を繰り返してはお城勤めを解かれてしまうわ」

「すいません」

「障子の開け方、出迎えの作法、他を数えればきりがないほどなっていません。私が仕込みますゆえ、学びなさい」

「はい、お願いいたします」

 

 姫育ちのさえには香の指導は厳しいものだった。後年に柴田家武将の正室同士として付き合いも生じるさえと香だが、この縁ゆえかさえは香に頭が上がらなかったと云う。付きっきりで礼儀作法と仕事を仕込め、これはお市が香に命じたことであった。香にとってはさえを一人前にすることが主命ゆえ容赦ない。誤っていれば竹の棒が手の甲に飛んできた。

 時にあまりの厳しさに影で泣いたが、この厳しさがあればこそ、さえは『お姫様』から脱却できたのだ。一通り礼儀作法を覚えると、今度は手料理を教わった。後に彼女の良人になる男が『日ノ本一の料理上手の女房』と周囲に自慢するほどに至る腕前はこの時に会得したのだろう。

 さえは十五歳にもなると立派なお市の侍女となっていた。お市も安心して奥向きの仕事も任せられるようになり、これならいつ嫁に出してもよい、そう思っていたころだった。

 

 さえが城下町に出て、お市からの用事を済ませていると…。

「けっひひひ、柴田殿にお仕えしている娘さんかい?」

 一人の老婆がさえを見て言った。不気味な笑いである。

「え、ええ…。そうですが」

「うん、その美貌なら織田の大殿も…」

「え?」

「けっひひひ、いや何でもないよ」

「…?」

 その変な老婆が気になったか、お市に報告したさえ。

「同じ女なのに、とてもいやらしい目を感じました。頭の上から足のつま先まで何か値踏みをしているかのようで」

「…とうとう、この城下にまで」

「は?」

「さえ、私と一緒に殿に目通りを」

「は、はい!」

 

 さえは勝家にも同様に報告した。勝家は眉間にしわ寄せて答えた。

「大殿が安土の奥に、唐土の後宮のようなものを作ろうとしているらしい」

「後宮…」

「酒池肉林よ、さえもその一人に選ばれたらしいの」

「そんな、冗談じゃありません!!」

 

 信長は朝廷に自分の権威を見せ付けるために古代中国の後宮のようなものを安土城に作ろうとしたのである。丹羽長秀に安土城の普請を命じると信長は目先の利く老女を集め、自分の女の好みをつぶさに聞かせたうえ、自分の勢力内の地で美女集めをしてこいと命じた。信長の気に入る美女を連れ帰れば、当然のことながら褒美も多い。老女たちはその密命を喜んで受けて、さながら隠密のように織田領に散った。

 自分の領内で若い娘の誘拐が多発していると聞いても、実はそれは信長の女集めと知っていた各々の領主は手出しできない。だが柴田勝家は違った。

 

「城下にまで至っているとなれば、支城や点在する町や村にも手は及んでいよう。娘が行方不明になったと云う話は届いている」

「殿、妹として兄のかような恥知らず、捨て置けません」

「儂もだ。何としてもやめていただかねば。これより天下を取られる大殿が酒池肉林などあってはならん」

 すぐに勝家は兵を派遣し、国内で美女を物色している老婆たちを見つけて捕えさせた。すると老婆たちは

「信長様の密命じゃ」

 悪ぶれる様子も無く言い放った。しかも

「一家臣の分際で信長様の直命を受けた儂の仕事を邪魔するとは何事じゃ」

 逆に居直り勝家を責めたのである。激怒した勝家は

「大殿がそんな無慈悲をなさるはずがない。お前は大殿の名をかたったばかりか、我が領内の宝というべき娘たちを食い物にする鬼ババアじゃ!」

 と、即座に斬り捨てた。

 

 そして前田利家に命じて領内の廃寺で軟禁されていた娘たちを助け出したのである。それからの勝家の行動は素早い。老婆を処刑し、娘たちを解放したと信長が知る前に信長を訪れ、先に老女を処罰した経緯を報告して、こう述べた。

「大殿の御名を汚す老女は許せませぬので、それがしが斬り捨てましたが、改めて老女の処分の指示を伺いたく参上しました」

 指示と云っても、もはや老女は斬られた後で信長にはどうしようもない。今さら老女を許せと言っても何にもならない。やむなく信長は

「その仕置き神妙である、大儀」

 と勝家を労った。柴田勝家の断固たる処断がなければ、さえは信長の酒池肉林の中に連れられていたと云うことになる。

 この勝家の処断により、信長は越前の国だけ美女集めが出来なかったのである。さえは勝家を誤解していたと恥じた。いつか手篭めにされるかもしれない、何て失礼なことを考えていたのか。あの時の勝家にはさえに対して何の邪心もなく、本心から自分を哀れと思い城に連れ帰ってくれたのだと。いっそう柴田家に忠勤励むことを誓うさえだった。

 

 やがて、後宮計画は瓦解した。信長の妻の帰蝶(濃姫)と、妹のお市が頑強に反対したと伝えられている。娘たちは織田家から金を与えられ故郷に送り返された。その段取りをしたのも勝家である。

 信長には妻のお市と共に正室帰蝶を抱き込み、勝家が後宮作りを頓挫させたと映った。勝家の武将としての才能は信頼していても、自分の望みを妨害したとして信長は勝家の生真面目さを疎んじた。それを覚悟のうえで行った勝家。今は針の先ほどの失敗も出来ないと感じていた。

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 そんな時、領内で一向宗門徒が蜂起した。この討伐に失敗するわけにはいかない。勝家は急ぎ出陣。さえも出陣を見送る。

 しかし門徒の手は北ノ庄の城下町にもおよび、突如軍列に襲いかかった。たちまち城下は大混乱、さえも身を守るため急ぎ城に戻ろうとしたが

「父上!父上!」

 道すがら、たまたま居合わせた場所に僧侶姿の父を腕に抱いている少年がいた。どうやら門徒の撃った鉄砲の玉に当たったらしい。すでに死んでいた。

 

「お気の毒に…」

 少年はさえを見た。お互いが運命の出会いであったとは知らない。

「この近くに寺はありますか」

「ええ、ここから西にすぐ…」

「そうですか、少し父を頼みます」

「え?」

 刀の鯉口を切った。

「あ、あなた、まさか?」

 刀を抜いて門徒の中に走っていった少年。止める間もなかった。

「なんて無茶な…」

 父を討たれた無念は分かる。しかし単身で門徒たちの中に突貫するなんて。さえは無事を祈りつつも、少年から預かった亡骸を見た。

 

「これも何かの縁、丁重に弔わせていただきます」

 亡骸に手を合わせ、そして近くにいた者たちと協力して僧侶を寺へと運んだ。ほどなく先ほどの少年もやってきた。

「良かった、ご無事だったのですね」

「ええ、なんとか」

「その少女は?」

 少年は一人の少女を抱きあげていた。

「門徒でしたが、それがしの前で殺されました。のざらしも気の毒と思い…」

 切なそうに静かに笑みを浮かべる少年に胸が締め付けられるさえ。なんだろう、この気持ち。

「父をここまで運んで下さり、礼の言葉もございません」

「いえ、困った時はお互い様ですから」

 二つの亡骸に合掌する少年。さえも手を合わせた。そして少年の横顔をチラと見る。

(なんて立派な顔立ちをされているのだろう…)

 

 その後、簡単ではあるが少年の父の葬儀が行われた。さえは何か立ち去ることができず、読経を聞く少年の背中を見つめていた。何か離れたくない。そんな感じがした。少年の持つ雰囲気と云おうか、惹かれるものを感じた。胸が高鳴る。

(この気持ち、何なのかな…)

 

 やがて葬儀も終わり、少年は父の位牌を僧侶から受け取って寺の本堂を後にした。さえが終わるまでいてくれたことに気付いた少年。丁寧に頭を垂れた。

「立派なお父様だったのですね」

「え?」

「あなたを見れば分かります」

「ありがとう、父も貴女の言葉を聞いて喜んでおります。あ、失礼しました。それがしの名前は水沢隆広と申します。後ほどお礼に伺いたいので、よければお名前を」

「いえお礼なんて」

「いや、そういうわけには」

「私の名前はさえ。さえと申します。ではこれで!」

「あ、さえ殿!」

 さえは隆広の前から走り去った。

「さえ殿か、いい名前だ。美しいし、何より心が優しい。男と生まれたからには彼女のような女子を妻にしたいものだ…」

 

 走り去って後、さえは少し後悔した。もう少し一緒にいたかった。でも何か恥ずかしくて思わず名前だけ言って立ち去ってしまった。もう二度と会えないかもしれないのに…。

「水沢隆広様…。またお会いしたい…」

 

 

 さて、この翌日にお市は勝家に呼ばれた。

「殿、なにか」

「なぜ黙っていた」

「は?」

「儂との間に子がいることを…」

「な……ッ!!」

「水沢隆家殿の書…」

 勝家は先刻訪れた水沢隆広が持ってきた書をお市に見せようと懐から出した。

 お市はひったくるように書を取った。

「すべて書かれてあった。お市そなたは儂との逢瀬で子を胎内に宿し…」

 お市には何も聞こえていなかった。隆家からの書にはすべて書かれてあった。生まれたばかりの赤子を帰蝶とお市から預かり、無事に元服までお育てしたので、お返しすると。

 お市は感涙しながら隆家の書に何度も頭を垂れた。感謝しても感謝しても足りない。あの日、生まれたばかりの赤子を立派に育ててくれた。

 涙を拭いたお市は先に勝家が自分に何か言いかけていたのを思い出した。

 

「殿、なにか?」

「いや、もうよい」

 目の前のお市を見て、その喜びようは伺える。今まで隠していたことを改めて聞く気も失せた。

「隆家殿は先日に亡くなったらしい」

「なんですって…!」

「城下で門徒の撃った鉄砲の流れ弾が運悪く…」

「なんてこと、これから御恩を返さなければと思っていたのに…!」

「城下に弔われたと聞く。後日墓参に伺おう…」

「はい…」

「隆家殿は水沢隆広と名づけたらしい」

「はい、立派な名前です」

「だがお市、隆広に母の名乗りは許さぬ」

「…心得ています。兄の信長に知られたら…」

「儂も父として名乗らぬ」

「…はい」

「今に名乗る日も来よう。辛抱せよ」

「分かりました。で、隆広はいま」

「足軽組頭として召し抱えた。柴田の若殿ではなく、あいつには下っ端武将からやってもらう。才覚なくば頭角も現さず、隆家殿の才を譲り受けておれば黙っていても世に出よう」

「殿」

「ん?」

「さえを、隆広の使用人に」

「なぬ?」

「隆広の禄の管理と食事に伴う健康管理を務めてもらうのです。さえは朝倉滅亡と父の死、艱難辛苦を味わっているゆえ、同年の娘たちよりずっと器量がございます。そして城に来てからも指導のかいあって申し分ない娘と成長しています。それゆえ」

「馬鹿なことを言うな。使用人には男をつけさせる。同年の若い娘と一つ屋根の下で暮らせば自然と」

「それでいいではありませんか」

「え?」

「私はさえこそ我が息子の妻になってもらいたいと思うのです」

「……」

「それとも朝倉景鏡の娘では嫌だと?」

「いや、それは隆広が判断することだ」

「その通りです」

「よかろう、ではお市、そのへんの人事はやっておいてくれ」

「承知しました」

 

 さえはお市に呼ばれた。

「同年の殿方にお仕えせよと?」

「そうです」

「……」

「嫌ですか?」

「一つ屋根の下で暮らせば…」

「そうですね。ありえます」

「そんな…!」

「ですが立場を利用して関係を迫る卑怯者ではありません。それは言いきれます」

「なぜです?」

「お父上がそういう方でした。女子を大切にすることを幼少のころから叩きこまれているはずです」

「……」

「たとえ、そういうことに至っても、それは貴女も同意のうえのこととなりましょう」

「そ、そんな…」

 さえは顔を赤めた。

「あえて先入観を持たせないため、これ以上は語りません。名前もその方から直接聞くが良いでしょう」

「奥方様…」

「貴方と同年でありながら、仕官当日に足軽組頭となったのです。彼に対する当家の期待が分かると思います。だから、さえも新たな主に影日向よく仕えるのですよ」

「はい、分かりました」

 

 さえはお市の顔から、とても拒否は出来ない君命と思い、素直に命令を受けた。

 しかし新たな主君が自分から見て三流ならば即座に見捨てて城に戻るつもりでもいた。さえはその日のうちに荷物をまとめて新たな主人の屋敷に向かった。まだ誰もいなかった。

 組頭とはいえ、足軽より少しマシな家と云う様相だ。主を失って二ヶ月くらい経っている家。さえは主人を迎えるため大急ぎで掃除した。それも目処がついたころには夕刻になっていた。

「そろそろやってくるころかしら」

 夕餉のおかずとして買っていた魚を焼きだした。すると玄関口に

「あのう…」

 帰ってきたと思ったさえは迎えに出た。三つ指をたてて座り、新たな主人に平伏した。

「お待ちしておりました、今日よりこの家でご奉公いたします…」

「あああッ!」

「えッ!?」

「さ、さえ殿!?」

 顔を上げたさえは驚いた。

「み、水沢様?」

 こうしてさえは後に伴侶となる水沢隆広、やがて天下人となる柴田明家と出会ったのである。

 

 その日から隆広とさえの一つ屋根の下の生活が始まった。

 さえは嬉しい。先日に会って以来思慕していた隆広が主君となったのだ。さえの仕事は隆広の褒禄の管理、食事に伴う健康管理、とにかく隆広の身の回りの世話全般と言える。

 かつて朝倉宿老のお姫様であったさえが柴田家の足軽組頭に仕える。心ない者なら没落の極みと笑うかもしれないが、すでにお姫様から脱却していたさえはそんなこと感じない。むしろこの縁に大喜びしていた。

 

 さて、朝に隆広は北ノ庄城に出仕、家の掃除と隆広の衣服の繕いなどをしていると

「ごめん」

 城から使いが来た。

「はい」

「城の勘定方にございます。水沢殿の要望により千五百貫、置いていきます」

「せ…ッ!?」

「水沢殿は東の城壁の修築工事を任命されました。それでは」

 さえがあんぐりとしている間に勘定方は去っていった。厳重に戸締りをしてさえは城壁に向かった。隆広は壊れた城壁の前でウロウロしていた。

「隆広様―ッ!」

「あ、さえ殿」

「今、お城から使者が来られて、当家に千五百貫を置いていきました。何があったのです?」

「実は…」

 

 隆広は城壁工事を担当するまでの経緯をさえに説明した。どうやら柴田勝豊と佐久間盛政に挑発されて引き受けてしまったようだ。さえは憤然としたが、隆広は別に焦ってはいない。さえは使いを頼まれた。五十貫使い、この場に酒と料理を山と買ってきてほしいと。これがさえにとっては初めての隆広からの主命と云える。

 

 家に戻って五十貫と云う大金を握り市場へと駆けた。目ざとく値切れるものは値切り、どんどん料理と酒を買いこむさえ。市場を取り仕切る源吾郎と云う男に会った。

「娘さん、これは貴女一人で持って行けまい。これだけ買ってくれたのだから我らが運ぶが、どこに持っていけば」

“それだけ買えば市場の者が運んでくれる”

 隆広の言う通りになった。さえは城壁まで運んでくれと要望。市場の者は運んでくれた。

 

「娘さん、こんなに買ってどうするのだ?」

 と、同じく源吾郎。

「私の主人が宴会をするようなのです」

「宴会?城壁で?」

「はい、ああここでいいです。桟敷をひいて料理とお酒を」

 

 城壁に着くや、いそいそと準備をしていくさえ。市場の者もついでだから手伝った。そこに隆広が職人を連れてやってきた。さえが出迎える。

「職人のみなさん!お待ちしていました。たんと食べて飲んで下さい!」

 

 隆広が雇った職人たちは大喜びで膳についた。楽しそうな宴が始まるのを羨ましそうに見つめていた市場の者に貴方たちもどうぞ、と誘う隆広。自分たちで食材を仕入れながら、中々それを自分たちで食べられないほどに貧しかった市場の商人たちも大喜び、宴に入った。

 歌い、踊り、職人や商人たちの女房や子供も来て大いに盛り上がった。

「美味しい…。これがお酒なのね…」

 

 さえはこの時初めて酒を飲んだ。一人の商人が特技である三味線を披露し、さえも一緒になって踊った。こんな楽しいの初めて。宴が一段落すると隆広が講談を始めた。

 隆広はこの時まだ確立していなかった文化である講談が得意であった。一斗樽の蓋に扇子を叩いて調子を取り、勇ましく語りだしたのは『朝倉宗滴公武勇伝』である。

 

 隆広は美声でもあったと言われているが、聴衆がウットリするほどのいい声で『朝倉宗滴公武勇伝』を講談していく。それは城壁工事の重要性を職人たちに分かりやすく説明する意味合いを持っていた。さえには別の意味合いもあった。誇りとする先祖、朝倉宗滴の武勇伝。

「隆広様…」

「ほら、若奥さん、大丈夫かい?」

 市場の女が酔ったさえを心配して声をかけた。

「わ、若奥さん!?いやーん、もーッ!飲んで飲んで!」

 隆広の妻と間違えられたことが心から嬉しいさえだった。

 

 そして隆広は見事、城壁工事を成し遂げた。名将水沢隆広が歴史に登場した工事である。そしてその陰には当時まだ使用人であったさえの働きもあったのである。

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 その後、隆広は大聖寺城の戦いも経て足軽大将に昇進した。お市が言った『期待のほどが知れましょう』と云う言葉は本当なのだとさえは思った。

 内政と軍務に齢十五で目覚ましい働きをして、早や足軽大将である。さえはこの昇進を嬉しいと思いつつも不安だった。築城工事や大聖寺城の戦いにおける手柄、勝家がゆくゆくは養子にするとも言っている。十五歳独身、娘を嫁にと言ってくる者が多かった。しかし隆広は『まだ修行の身ですから』と断っていた。だが十五と云えばもう妻を娶ってもおかしくはない。さえは

(隆広様はどんな女子を妻とするのだろう。妻を娶れば、使用人の私は必要とされないかもしれない。そんなの嫌だ…)

 そう思うと布団の中で涙が出てきた。

 

 さえは隆広に誠心誠意尽くした。足軽大将に出世はしているが生活はそんなに裕福でもない。さえが知恵を絞ってやりくりしていた。隆広は算盤も達者であったが、家の運営はみんなさえに任せて、必要がある時にさえから金をもらっていた。

 だから隆広とさえは結婚前からおしどり夫婦になる基盤を築いていたと言える。さえは自分が食べられなくても隆広には魚や鶏肉を出した。隆広はいつも半分をさえの膳に自然に渡す。

「いえ私は」

「さえ殿も栄養をつけなければ。食事に主従はありません。美味しいものは一緒に食べた方がなお美味しいものですよ」

 

 食事はいつも美味しそうに食べてくれるので作りがいもあった。何より思いやりがあって優しい。この日ノ本で使用人の女にここまで優しくしてくれる方がいるだろうか。お市は『女子を大切にすることを幼少から叩きこまれているはず』と言っていたが想像以上だ。本当に大切にしてくれる。嬉しい。

 しかし最近は隆広に『さえ殿』と呼ばれると何か悲しくなった。さえと呼び捨てにしてほしい…そう思っていた。

 

 隆広の態度は余所余所しかった。常に自分に丁寧な言葉を使い、名前も敬称をつけて呼ぶ。仕事ばかりで自分には優しい言葉もかけてくれない。放っておかれている。もっと隆広様と一緒にいたいのに…。

 さえは隆広がいつでも自分の寝床に訪れてきてもいいように就寝前は必ず湯に浸かっていた。無論、好意を抱いているとはいえ簡単に身を委ねる気はない。あくまで万一に備えてである。

 しかし隆広がさえの寝床を訪れることはなかった。ホッとするやら残念やら。

 

 さえは恋をしていた。さえも当年十五歳、少女ならば淡い恋を抱くもの。その相手は隆広である。毎日隆広のことばかり考える。仕事で家を空けるときは、いっそその現場に行きお世話がしたいと思った。任地では他の女子と親しくしているのではないか、そう思うと胸が張り裂けそうだった。

 

 そんなころ、隆広が九頭竜川支流の治水と灌漑を終えて帰ってきた。大仕事を終えたのだから、しばらくはゆっくりできるかも、と期待していたがあっさり砕かれた。

「安土に行きます」

 と、ぶっきらぼうに言った。刀の大小をさえに渡し、着物の帯を緩める隆広。

「あ、安土に?」

 さえのことなど見ていない。

「殿の使いです。三日後に経ちます」

「……」

 

(私の目を見て言ってよ!)

 私の気持なんか知りもしないで。貴方にとって私なんかどうでもいいんだ。ついに我慢の限界に達したさえは今まで見せなかった拗ねた顔となった。露骨にふてくされた声を発する。

「では路銀の準備をしておきます」

(もう知らない、馬鹿)

 と、隆広の前から立ち去ろうとした時だった。

「あ、さえ殿」

「なんですかあ?」

 誰が聞いても怒っていると分かる声だ。

「お、お話があるのですが」

「忙しいのですけど」

「大事な話なんです。聞いていただけますか」

「…はい」

 さえは隆広の部屋に入り、その前に座った。

「お話とは」

 

 隆広を見ようともせず横を向いているさえ。隆広は間を取るためわざとらしい咳払いをしているが、一呼吸して切り出した。

「さえ殿、いや…」

「は?」

「さえ」

「…!?は、はい」

(初めて呼び捨てに…)

 隆広の顔が真っ赤になってきた。さえの目をやっとの思いで見つめている。

「さえ、俺は…」

「……?」

「そ、そ、そなたが好きだ。初めて城下で会った時からずっと好きだった。心からそなたに惚れているのだ」

「……!」

「つ、妻にしたい!俺と夫婦になってくれ!」

「た、隆広様…」

「なんの縁かは分からなかったけれど、気がついたらさえとは主従関係となっていた。そなたがただの町娘なら、とっくに求愛し妻にと願ったであろうが、どういう巡り合わせか偶然にも主従になってしまった。毎夜そなたの寝所に行きたいのをこらえるのに必死だった。何か立場を利用してそなたを求めているようだったから…だから常にそなたに余所余所しく敬語を使い、自分を戒めていたのだ…」

「……」

「だけど、もう堪えられない。どこに行ってもそなたのことで頭が一杯になってしまう。妻にしたい。一生そなたの笑顔を見ていきたい。そなたの声を聞いていたい」

 

 さえは驚いた。そして嬉しかった。今までの余所余所しさは私を大事に思えばこそのことだったのかと知ったからである。何より、密かに思慕していた人が私をこれほどまでに好いていてくれたことが。

(嬉しい…!)

 

 しかし、さえには秘められたことがある。朝倉景鏡の娘ということだ。裏切り者と呼ばれる父。その娘など誰がもらってくれる。お市は言った。父君の名前は秘事とした方が良い。だけど己が良人となる者には必ず伝えなさい、と。

 

 不安だった。この秘事を知れば隆広様はどう思うだろう。私は他人がどう言おうと父を愛し、誇りとしている。だが世間の評価は厳しく景鏡はこの越前でひどく蔑まされていた。無理もない。返り忠を打ち主君を殺し、その後は自滅して果てた。『卑怯にして暗愚』とまで言われ、人々は容赦なく死者に鞭打つ。父の悪評を聞くたびに泣きたくなったさえ。

 

 今まで自分が朝倉景鏡の娘と言ったことはない。勝家とお市だけだ。自分を仕込んでくれた香にさえ言っていない。女房が朝倉景鏡の娘と織田信長に知られたら隆広様の出世は絶望的となるだろう。しかし、隠しているわけにはいかない。もし父のことを知って私への求婚を解消されたとしてもそれはそれ。隆広様を恨むまい、狭量とは思うまい。そう意を決し、さえは言った。

 

「嬉しゅうございます…。でも私の父のことを知れば、父のことを知ってしまっても隆広様は私を妻にしてくれますか?」

「さえのお父上…?」

「私の父は…朝倉景鏡です」

「な…ッ!?」

「ご存知の通り…主殺しの…裏切り者です!」

「……」

「父は未来永劫に渡り…裏切り者と呼ばれるでしょう。その娘の私でもよいのですか?もし織田の大殿に女房が朝倉景鏡の娘とでも知られたら!隆広様の出世は絶望的です!私は裏切り者の娘なんです!」

 

「だけど、さえにとっては立派なお父上だったのだろう?」

「え?」

「さえを見れば分かるよ」

 かつて自分が隆広に言った言葉。それを隆広はニコリと笑って返した。

「隆広様…」

「さえ、景鏡殿の墓は確かなかったな」

「はい…」

「これからも、俺の禄をうまくやりくりして金を貯めてくれ。二人で景鏡殿の立派なお墓を作ろう」

「は…い…」

 

 さえの目から涙がポロポロと落ちた。心から嬉しかった。求婚してくれたこと。父の名を聞いても何の心変わりもしなかったこと。そしてお墓を作ろうという隆広の優しさが。さえは水沢隆広の妻となった。十五歳同士の夫婦だった。

 

 初夜は恥ずかしかった。自分がこんなに恥ずかしがり屋とは知らなかった。着物を脱がされ胸が露わになった時はたまらず灯りを消してほしいと頼んでしまった。さえは幸せを感じた。この時代、身分の高い低い関係なく、純潔を好きでもない男に差し出す女はいかばかりか。しかしさえは心から愛する良人に捧げられるのだ。隆広と一つになった時、涙が一滴落ちた。

 

 戦国時代五指、いや最たる愛妻家と呼ばれた水沢隆広。時に周囲が目のやり場に困り果てるほどにさえとイチャイチャする。隆広を愛してやまないさえもその愛情に応える。後年に二人の長男である柴田勝明が『神々しいほどの馬鹿夫婦』と苦笑して述懐するほどに仲が良い二人だった。

 

 お市の侍女になって以来、毎日仕事で精いっぱいで男というのを意識したことはないが、あの日隆広を見て以来、初めて男に恋慕と云う情を抱いた。それが良人となった。そして無上に自分を大切にしてくれる。戦国の女としてこれほどに幸せなことはない。そう彼女自身が思ったように、過酷な運命に弄ばれた戦国時代の女の中でもっとも幸せであったのが、このさえであったかもしれない。良人に無上に愛されて大切にされ、そしてファーストレディーへとなるのであるから。


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